1122

 最悪のことは、続くものだ。

 杏希あき広起ひろき、それぞれの三回忌を行ったその夜、帰宅した菜摘なつみに母が言った。

 

「ねぇ菜摘、広起くんのことは残念で仕方がないけれど、あなたには幸せになって欲しいの。広起くんの死を乗り越えて、杏希の分も前を向いて生きて欲しい」

「……なんでそんなこと言うの」

「今日も依人よりひとくん、来てくれたわね。広起くんの親友だからって聞いてはいるけど、この二年間本当に菜摘の支えになってくれたのは彼よ」

「そんなこと、言われなくても分かってる」 

 

 菜摘はいらいらし始めていた。

 杏希と依人のことを知らない人が勘違いをするのは昼間の件で理解していた。

 だが、いろいろと許せなかった。

 

「本当に分かっているの? 私もお父さんも、正直驚くくらい見てきたのよ。依人くんがどんなに菜摘のことを大事に思って見守ってきたのか」 

 

 だから、違うと言うのに。何も分かっていないくせに。

 依人が否定するから、隠すから、今更誰にも話すのは止めたけれど、あれ・・は私にじゃない。杏希に向けられているものだ。

 私たちはただ崩れ落ちないように寄り添っているだけ。

 広起の死を乗り越えろ? じゃあお母さんは杏希の死も乗り越えるっていうの?

 広起の欠けた自分を誤魔化すために、杏希が遺した、杏希の生きた証を、奪い取って生きろと私に言うの?

 

「違う、分かってないのはみんなの方よ。依人は杏」

「いいの? 菜摘。あなたがこのまま依人くんに甘えたままでいるつもりでも、そんな風にずっと続いたりはしないのよ」

「え……?」

「依人くんにだって、依人くんの人生があるわ。菜摘に新しい人生を踏み出す気がないなら、依人くんだっていつかはあなたのそばから居なくなるかもしれないのよ。それでもいいの?」 

「依人が……居なくなる?」

「そうよ、大事な人なら、ちゃんと掴まえておかなくちゃ」

 

 二年前壊れ始めた菜摘の心は、完全に壊れ砕け散った。

 広起を失って、杏希を失って、かろうじて繋ぎ止めてくれていた依人も失う?

 そんなこと、無理だ。

 

 菜摘は依人にメッセージを送る。

『今から会いたい』

『いいよ、どこへ行けばいい』

 すぐ返事が返ってきた。一瞬考えてから菜摘は返事を打つ。

『依人の部屋 行ってもいい?』

 少し間があっただろうか、それでも依人からの返信は早かった。

『いいよ。いまどこ? 迎えに行こうか』

 

 その夜、依人の部屋を訪ねた菜摘は、初めて依人の前で声を出して泣いた。

 依人は何も聞かず、何も言わず、菜摘を抱き締めた。

 嗚咽混じりで、何を言っているか分からない菜摘の叫びを、依人はすべて理解していた。

 この二年、菜摘が依人に癒されたように、依人も菜摘の存在に癒されていたから。

 依人はすがりつく菜摘を優しく受け入れた。

 これが二人の偽物の結婚生活の始まり。

 

 

 レストランの暖かい空気は、二人の強張った心をとかすように染みた。

 依人も菜摘も、気がつけば三十歳になっていた。

 

「当店から、記念日のお二人へのプレゼントでございます」

 

 ソムリエは緑がかった薄い黄金色のシャンパンを注ぐと、二人の前に置いてからフロアを去った。

 グラスの中は微細な泡が絶えず立ち上ぼり、真珠の首飾りを作っていた。

 

「綺麗……」

 

 菜摘はなぜかあの夏を思い出していた。

 四人で過ごした輝く夏。シャボン玉と真珠。

 あの頃を思い出すと、胸の奥が温かくなる。

 

「料理はコースを頼んだんだっけ。飲み物はどうする? 悪酔いすると困るならノンアルコールにするけど」

「あ、ワイン頼もう? ピル飲むの止めたから酔っても大丈夫」

「止めたの? 体調良いんだ」

「……うん」

 

 目を伏せた菜摘の向こうから、またソムリエがメニューらしきものを持ってやって来た。

 コース料理の説明をされて、それから飲み物の注文を聞かれる。

 依人はソムリエと相談しながら白ワインのボトルを頼んだ。

 依人が視線を戻すと、菜摘は嬉しそうに微笑んでいた。

 その表情に自然と笑顔がこぼれて、依人の中でぐちゃぐちゃになっていた全てがすっと澄んだ。

 

「店からコースの予約まで、ありがとう。こういうのもいいな」

「うん」

「これからも毎年することにしようか、結婚記念日ディナー」 

「……うん」

 

 菜摘から結婚を提案されて、依人はごく自然なことのように入籍を決めた。

 愛がないのに結婚を強いてごめん、と泣く菜摘に、謝ることないよ、と依人は慰めた。

 俺はたぶんこの先も誰のことも好きにならないと思うから、菜摘のそばにいて菜摘が安心できるなら、悪くないよ。

 そう言って菜摘を抱き締めた依人の提案だった。

 入籍日は十一月二十二日にしよう、いい夫婦の日だろ? お互いの気持ちがどうであれ、俺たちはいい夫婦だよ。

 

 挙式はせず、入籍だけで済ませた。

 菜摘がそれでいいと言って、広起と使うはずだった指輪をそのまま結婚指輪にした。

 友人や知人、親戚にもお披露目せず、お互いの両親と、広起の両親にだけひっそりと報告した。

 結婚記念日も、今まで何もしてこなかった。

 毎年欠かさずすることと言えば、広起と杏希の命日の墓参りだけだ。

 

「来年七回忌だな」

「……そうだね」

 

 菜摘は動揺を隠すようにコースメニューに目を落とす。

 オードブルの欄を何度読んでも頭に入ってこない。

 なんでもいいから早く始まってくれれば良いのに。

 

 あの事故以降、いつでも菜摘は広起の一部・・・・・であった依人に広起を見ていた。

 だが、結婚して、依人と過ごす時間が増えると、彼は広起じゃなく依人という別の人間なんだと思い知る。

 現実は、菜摘を戸惑わせ、悲しませたけれど、真実をも見させてくれた。

 菜摘を癒しているのは広起の影じゃない、依人だ、と。

 菜摘の変化を依人は気づいているだろう。

 その後ろめたさから、依人との時間に浮かれている自分を責められているように感じてしまう。

 

「長いようで、あっという間だった。菜摘はどう感じているか分からないけど、俺は菜摘と結婚して、一緒に時を過ごせて、本当に感謝してる。毎日が楽しかったよ」

「……依人は、いつも優しいね……。感謝してるのは私だよ。私はずっと……」

 

 目を潤ませた菜摘は言葉をつまらせた。

 俯いたら涙がこぼれ出てしまいそうで、誤魔化すようにぎこちなく笑った。

 シャンパングラスへと伸ばした手を、依人の大きな手が掴んだ。

 優しく菜摘の手を撫でた後、依人の手は菜摘の手をシャンパングラスまで導く。

 

「……乾杯しようか。俺は広起の代わりにはなれなかったけど、菜摘のことをずっと大事に思ってる。こんな俺でいいなら、これからもずっと、ずっと、菜摘の笑顔をそばで見届けるよ」

「依人……」

 

 依人は菜摘の目をじっと見つめた。

 ちゃんと伝わるか自信がなかった。それだけ彼らの感情は複雑に絡み過ぎていたから。

 でも、自信のなさを理由にもう後悔はしたくない、と依人の気持ちは決まっていた。

 

「……愛してる、菜摘」

 

 依人の言葉が奈摘の耳に届いて、奈摘はゆっくりと深く目を閉じた。

 十一月二十二日の結婚記念日、二人は静かに杯を交わした。 

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1122ver.R アオイソラ @0aoisora0

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