草太、土壇場で逆転する
「お、お前ら……何でここに来たんだ?」
草太は今の己の立場も忘れ、呆然とした表情で呟く。だが、それも当然だろう。この場所は、黒崎にも教えていないはずだった。
なのに、どうやってこの場所に辿り着いた?
その時、美桜が口を開いた。
「草太さん、お忘れですか……私が十年前、事故を予知したのを。私には、予知能力があるんです。この場所を見つけるくらい、簡単なんですよ」
そう言うと、寂しげに笑った。
草太にとって、これは完全に想定外である。まさか、美桜がこの場所を予知してしまうとは……。
だが、感心している場合ではないのだ。ユリアがこの倉庫に来てしまっては、何もかもおしまいである。最悪の事態に備えユリアだけは逃がすため、草太はたったひとりでここに来たのだ。
それなのに──
「美桜! 何でユリアを連れて来たんだ!」
「君は黙れ」
イワンの冷酷な声が響き渡る。草太は口を閉じたが、それは恐怖からではない。むしろ絶望からだった。これでは、何もかもが無駄になってしまう……。
「で、お嬢さん。君は何をしに来たのかな?」
からかうような口調で、イワンは尋ねる。その表情は、完全に勝利を確信していた。もっとも、それも当然だろう。何せ、これから探そうとしていたユリアが向こうから来てくれたのだ。
飛んで火に入る夏の虫、とはまさにこのことである。
しかし、美桜は落ち着き払っていた。
「あなた方と、話し合いに来ました」
「ほう、話し合いですか」
「そうです。皆さん、このユリアちゃんを見てあげて下さい」
そう言うと、美桜はユリアの方を向いた。
ユリアは真っ青な表情で、体を震わせている。よほど怖いのだろう……だが恐怖に耐え、少女はしっかりと立っていた。
次の瞬間、草太は愕然となった。ユリアは、両拳を挙げて構えてみせたのだ。体をぶるぶる震わせながらも、イワンたちに対し闘う姿勢を見せている。
こんな状況にもかかわらず、草太の全身を熱い想いが駆け巡っている。ユリアの姿は、あまりにもけなげであった……。
「ユリアちゃんは、あなたたちと対決し草太さんを救い出すために、ここに来たんです。こんな小さな子供が、恐怖に震えながらも懸命にあなた方と対峙しているんですよ……この姿、立派だとは思いませんか?」
淡々とした口調で語り続ける。だが、端で聞いている草太は頭が混乱してきた。美桜は、いったい何を考えているのだろう? そんなことを言ったところで、このロシア人たちが止まるはずがないのだ。
一方のイワンは、ご丁寧にも美桜の言葉をロシア語に翻訳しているらしい。彼の声が、倉庫内に響いていた。
ややあって、美桜が再び口を開く。
「あなたたちにも、人の心があるでしょう。ロシアに家族もいるでしょうし、ユリアちゃんと同じ年頃の娘さんがいる方もいるのではないでしょうか。ならば……このユリアちゃんの姿に免じて、草太さんとユリアちゃんたちを見逃してはいただけませんか?」
「申し訳ないですが、それは無理ですね」
冷ややかな口調で、イワンは言葉を返した。勝利を確信したがゆえの余裕だろうか……美桜とのやり取りを、むしろ楽しんでいるかのようにすら見える。
一方、美桜は悲しげな表情でイワンを見つめた。
「あなたは、何も感じないのですか? こんないたいけな少女が草太さんを助けるために、とてつもない恐怖に耐えながら、ここに来たんですよ。その勇気は、私はこの世の中で最も尊いものであると思います」
「あいにくですが、私はそうは思いません。これが、我々の仕事なんですよ。お嬢さん、あなたは何も分かっていない……我々は今まで、何人もの人間を殺してきました。今日、その殺してきた人数に新たに数人が加わるだけのことです」
そう言うと、イワンはにっこり微笑んだ。その言葉の裏にあるもの、それは……お前ら全員を殺す、という意味であるのは明白だった。
しかし、草太の中で急激に膨らんでいくものがあった。それは違和感だ。ユリアは足をガクガクさせながらも、懸命に立っている。この状況では、それは何らおかしいことではない。
問題なのは、その隣にいる黒崎の態度である。完全にリラックスしているのだ。例えるなら、孫とお化け屋敷に来た老人のように、ゆったりと構えている。
この恐怖は見せかけであり、自分たちは安全である……と確信しているかのようだった。
その時、美桜は寂しげな笑みを浮かべる。気の毒そうな視線を、イワンに向けた。
「あなた方は、暴力にしか敬意を払えない人間のようですね。それならば、私も暴力に頼らせていただきます」
言った後、美桜は右手を挙げた。すると、またしても扉が開く。
直後に入って来た者を見た瞬間、草太は驚愕の表情を浮かべる。
倉庫に乱入して来た者は、流九市の裏社会を仕切る男・加納春彦だったのだ。いつもと同じように、Tシャツにデニムパンツという姿で悠然と倉庫に入って来た。その美しい顔には、嬉しくて楽しくて仕方ない……とでも言いたげな表情を浮かべている。
そんな加納の横には、例によって木俣源治がいた。彼もまた、普段と同じ黒いスーツ姿である。ただし、普段と違う点もあった。両手で、黒光りする拳銃を構えているのだ。冷酷な瞳と銃口とをロシア人に向けながら、加納の横に立っている。
ロシア人たちの表情が、一瞬にして凍りついた。
「やあ、ロシアの皆さん。はじめまして、加納春彦です」
ニコニコしながら挨拶する加納。そのTシャツの胸には「
木俣に続いて、倉庫の中に続々と人が入って来たからだ。スタンガンを持った女子高生、バールを持った作業員風の青年、猟銃らしき物を構えたサラリーマン風の中年男、木刀を持った暴走族風の少年、さらには出勤前のキャバ嬢風の女までいる。
性別、年齢、職業……全てがバラバラな人間たちが、次々に入って来て倉庫内を埋め尽くし、ロシア人たちを囲んでいく。共通点はただひとつ。皆、ロシア人に敵意ある視線を向けている。そう、この全員が加納の手下なのだ──
一方、ロシア人たちは想定外の乱入者に対し、完全に怯んでいた。先ほどまでの余裕の表情は完全に消え失せ、代わりに恐怖が彼らを支配していた。
「さてロシア人の皆さん、話し合いといきましょうか。僕の提案するプランAは、皆さんが今すぐに流九市を立ち去りロシアに帰ることです。そして依頼人に、ユリアちゃんと母親を殺したと報告してください。それでおしまい、ご苦労さん……となるわけですよ」
言い終わると、加納はニヤリと笑った。すると、イワンが顔をしかめる。
「嫌だと言ったら、どうするんです」
その言葉は、マフィアとしての意地なのか。あるいは、この期に及んで少しでも自分たちに有利な形で幕引きをしたい……という意思の表れだろうか。
いずれにしても、加納の答えはにべもなかった。
「その場合、僕はプランBを実行しなくてはなりません。そうなると、あなた方はとっても嫌な気分を味わうことになります。早く殺してください、と泣いて頼むような目に遭うことになりますよ」
加納の美しい顔には、狂気めいた感情が浮かんでいる。見る者全てを、不安のドン底に落とし入れるかのような表情だ……草太は改めて、加納という人間の恐ろしさを知った気がした。
「僕はね、美学を持たない悪党というのが大嫌いなんですよ。今すぐ殺してやりたくなるくらいに、ね。しかし、今はユリアちゃんが同席しています。命だけは助けてあげますよ。さっさと引き上げてくれるなら……」
そう言うと、加納はじっとイワンを見つめる。その顔からは、表情が消え失せていた。まるで仮面のようである。
「しかしね、私としても依頼人を納得させるだけの証拠が必要なんだ──」
「そんな物、あなた方なら幾らでもでっち上げられるでしょう」
イワンの言葉を遮り、加納は冷たく言い放つ。すると、イワンの口元が歪んだ。
「ひとつだけ、約束してください。あの母子は、今後ロシアにいる者たちとは一切かかわらない、と」
「もちろん、そのつもりですよ」
加納は先ほどまでとは一転し、にこやかな表情で頷いた。
すると、イワンも笑みを浮かべる。ただし加納に比べると、かなり引きつった笑顔ではある。
「分かりました。では、我々はすぐに帰国し、依頼人にはその旨を伝えておきます。おふたりはもう安全ですよ……バカな考えを起こさない限りは」
そう言った後、イワンはロシア語で部下たちに指示をする。部下たちは無言のまま頷いた。
「では、失礼しますよ」
イワンの言葉と共に、ロシア人たちは次々に倉庫を出て行く。
最後に、イワンは加納に向かい頭を下げた。
「加納春彦さん、でしたね。あなたのことは、覚えておきます。いずれまた、お会いしましょう」
「それはそれは。僕はなるべくなら、あなたとは再会したくないですがね」
加納の言葉を聞き、イワンは苦笑しながら帰って行った。
ロシア人が消えたその場には、呆然とした表情の名取淳一が残されている。彼は今、何が起きたのかすら把握できていないらしい。
もっとも草太も、その存在すら忘れていたが。
「さて、君は非常にうっとおしいな。とりあえずは、外に出ていてもらおうか」
加納の冷たい声と同時に、周りを囲んでいた者たちが動いた。名取を捕まえ、手錠をかける。だが、名取は無言のままだった。恐怖のあまり、声すら出せないらしい。
それも当然だろう。名取は利益のため、草太たちを裏切りロシア人たちの側についた。しかし、まさか加納が動くとは予想していなかったのだろう。
さらに、名取は加納を完全に怒らせてしまったのだ。その報いを、これから受けることになる。
名取は結局、賭けに負けた。
「ちょっと、アンタたちどきなさいよ。これからVIPが通るんだから」
その時、いきなり聞こえてきた野太いオネエ言葉……草太がそちらを向くと、他の人より頭ひとつ分は高い大男が現れ、こちらに近づいて来る。もっとも、そんな人間は草太の知る限りひとりしかいない。
「ラ、ラジャさん?」
呆然となって呟く草太。そう、現れたのは流九市の名物ともいえる巨体のオネエ、ラジャだったのだ。
今のラジャは普段と違い、化粧をしていない。特大のTシャツとデニムパンツ姿で悠然と歩いている。倉庫内にいた者たちも、彼の姿を見るなり道を開けた。
そんな中を、ラジャはずんずん進んで行く。だが、美桜の前で立ち止まった。
「アンタ、凄いわね……アンタの言ってた場所に、どっちも隠れてたわよ。アンタ、本物の超能力者だったのね。今度は、アタシの恋愛運でも占ってもらおうかしら」
美桜にそう言いながら、後ろを向いた。すると、ラジャの開けた道を通り、ふたりの男女が進み出て来た。
片方は、見たこともない女性である。年齢は草太よりも、やや上だろうか。かなりやつれた表情をしてはいるが、整った顔立ちの美女であるのは分かる。
だが、草太は女の顔など見ている余裕がなかった。彼の視線は、もう片方の男に釘付けだったからだ。
「な、中田さん……」
呆然とした表情で、草太は呟く。そう、男は中田健介だったのだ。全ての騒動の発端となったヤクザ。その男が今、憔悴しきった様子で立っている。
だが、ユリアの反応は違っていた。その顔から、驚きのあまり表情が消える。
「ユ、ユリア……」
女が呟いた。と同時に、ユリアの顔がくしゃくしゃに歪む。
声にならない叫びを上げながら、ユリアは女に抱きついて行った――
「あ、あれって、もしかしてユリアの……」
呟く草太に、美桜が答える。
「そうです。ユリアちゃんのお母さんの真美さんです。よかった。本当によかった……」
言いながら、美桜は涙ぐんでいる。草太も、泣きそうになるのを必死でこらえていた。
その時、後ろから肩をポンと叩かれる。見ると木俣であった。
「草太、感動の再会の最中に悪いがな、まだ終わってねえんだ。ちょっと来てくれや。こいつの始末をどうするか、お前が決めろ」
木俣に連れられ、草太は外に出る。そこには、手錠をかけられた名取が座り込んでいた。周りを不気味な少年少女たちに囲まれ、今にも死にそうな顔つきで下を向いている。
もっとも、彼の命が風前の灯火であるのは間違いないのだ。
「草太、こいつはお前らを裏切ったんだ。こいつをどうするかは、特別にお前に決めさせてやる。死んで欲しいなら、俺がきっちり始末してやるよ。証拠も残さねえようにな」
木俣の声は冷酷そのものである。確かに彼なら、何のためらいも無く名取を殺すだろう。
その時、名取が顔を上げた。
「そ、草太! 頼む! 命だけは助けてくれ! お願いだ!」
普段の大物ぶった態度とは真逆の、惨めな姿である。草太は、そんな名取をじっと見つめた。
正直、今となっては彼に対する思い入れなどない。名取が自分を裏切ったという事実……それに対する言い訳など、何を言われても納得できないのだ。百万の美辞麗句を費やされても、許すことは出来ない。
この男が死んだとしても、当然の報いである。名取は、ユリアが死ぬことを承知でロシア人に売り渡そうとしていたのだから。
しかし、名取が死んだところで誰もビタ一文得しないのも、また事実である。
草太は、冷たい表情で名取を見下ろす。やがて、彼は口を開いた。
「命だけは助けてやる。その代わり、ユリアが成人するまで、死ぬ気で働いて養育費を払ってやれ」
草太の口から出たのは、そんな言葉だった。すると、名取の表情にも変化が生じる。
「ほ、本当か? 本当に、それでいいのか?」
そう言う名取の表情からは、こすっからい嫌な印象を受けた。この男は、自分が得するためなら何でもするタイプだ。草太やユリアのことも、この男にとってはロシア人に取り入るための道具のひとつに過ぎなかったのだろう。
名取淳一は、恐らく一生変わらない。これからも卑怯な小悪党として生き、あちこちの人間に迷惑をかけながら生きていくはずだ。
それでも、草太は名取を死なせる気にはなれなかった。
「いいだろう。こいつは今から、春彦さんの知り合いの社長が経営している会社に送り込む。そこで、ユリアが成人するまできっちり働かせてやるよ」
冷たい口調で、木俣は言った。次に彼は、名取の方を見る。
「おい、てめえはこれから地下に行く。法律の通じない世界で、監視されながら生活するんだ。そこで、てめえの罪を反省しろ」
やがて、一台の車が到着する。中から、スーツ姿の男が四人出てきた。明らかに堅気でない雰囲気である。四人は木俣に挨拶すると、名取を車に乗せ走り去って行った。
その車の後ろ姿を見ながら、草太は何とも言えない気分に襲われた。
もし名取がユリアと会い、触れ合っていたなら……それでも彼は、ユリアをロシア人に売ったのだろうか?
ユリアが他人でなくなったとしても、名取はユリアを見殺しにしたのだろうか?
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