ユリア、黒崎と遊ぶ

「草太くん、聞いてるのかい?」


 加納の言葉に、草太はハッと我に返った。


「あっ、すみません。何でしょうか?」


 聞き返す草太。だが次の瞬間、彼は激しく後悔する。加納の表情が鋭くなったからだ。


「ほう、君は僕の言うことを聞いていなかったのかい。僕の言葉など、耳を傾けるのに値しないということかな?」


 加納の表情は氷より冷たく、その言葉は刃物なみに鋭い。さらに、木俣の手が草太の肩に触れる……草太は震えあがった。


「す、すみません! ユリアが今、どうしているか心配だったもので……」


 必死で、ペコペコ頭を下げる。すると、加納はクスリと笑った。


「フッ、まあいいさ。今、流九市にはロシア人がうろうろしているらしいよ。つまらないことで揉めたりしないよう、くれぐれも気をつけたまえ。では、また今度」


 そう言うと、加納はくるりと背を向け奥の部屋に入って行く。草太はホッと胸を撫で下ろし、早々に立ち去ろうとした。

 しかし、木俣の手は離れてくれない。彼の手は、草太の肩をガッチリと掴んだままなのだ。

 さらに、岩石のごとき厳つい顔が近づいて来る。

 直後、殺意のこもった囁き声が聞こえてきた。


「いいか、よく聞け。お前は今日、何も見ていないし何も聞いていない。わかったな?」


「へっ?」


 何を言われているのか分からず、草太は戸惑った。すると、木俣の手にさらに力がこもる。草太は痛みのあまり、小さく呻いた。このままだと、僧帽筋が潰れてしまうかもしれない。


「もう一度言うぞ。お前は今日、何も見ていないし何も聞いていない。わかったな?」


 またしても、鋭い声で囁く。その時、草太はようやく理解した。


「あ、あのウェディングドレスの話でしょうか──」


 その瞬間、木俣のもう片方の手が伸びる。草太の脇腹にペンチでつままれたかのような激痛が走った。思わず悲鳴をあげる。すると、加納が奥の部屋から顔を出した。


「おや草太くん、まだ居たのかい。何か用事でもあるの?」


 訝しげな表情を浮かべ、加納は聞いてきた。だが、木俣が即答する。


「いえ、大したことはありません。ちょっと今後の仕事について話し合ってたんです」


「なるほど。しっかりやってくれたまえ」


 納得したような表情でうんうんと頷くと、加納は奥の部屋に引っ込んでしまった。一方、木俣はまたしても囁く。


「いいか、その血の巡りの悪い頭に叩き込んでおけ。お前は今日、何も見ていないし何も聞いていない……同じことを、何度も言わせるな」


 そこで、ようやく解放される。草太は、即座にずらかった。




 その後、街を回りビラ配りをして自身の事務所に戻る。正直、今日はいつもの倍くらい疲れた気がする。加納が絡む仕事には気を遣うが、今回は特別だった。

 さらに草太は、ここ最近の一連の事件について考えてみた。まず、ロシア人が流九市内で発砲事件を起こした。その後、中田がユリアを預ける。しかも、その中田が行方不明になり……挙げ句、見知らぬ外国人たちに襲われた。

 自分たちを襲ったのは、やはりロシア人なのだろうか? そんなことを思いながら、草太は事務所のドアを開けた。


「ただいま」


 声をかけ、中に入って行く。すると、とんでもない光景が目に飛び込んで来る。

 黒崎とユリアが、事務所の中央でふたり並んで立っている。構えからして、空手の稽古をしているらしい。


「正拳中段突き、構え!」


 黒崎の野太い言葉に、ユリアは見よう見まねで構えている。本人はいたって真剣な表情だが、端から見ていると微笑ましい姿だ。


「始め! 一! 二! 三! 四! 五! 六! 七! 八! 九! 十!」


 黒崎の、気合いに満ちた号令が事務所内に響き渡る。それに合わせて、正拳突きを繰り出すユリア。黒崎もユリアも真剣そのものといった様子だ。草太が帰って来たことにすら、気づいていないらしい。

 この不思議な状況を前にどうしたらいいのか分からず、草太は困惑し辺りを見回した。

 ふとソファーの上を見ると、猫のカゲチヨがいる。カゲチヨはソファーにて寝そべり、長い尻尾を揺らしながら、悠然とした態度でふたりの動きを眺めていた。まるで、この道場の総師範である……とでも言わんばかりの態度だ。


「次は、さっき教えた手刀鎖骨降ろし打ちだぞ。構え!」


 黒崎の言葉に小さく頷き、ユリアはぎこちない動作で構える。


「始め! 一! 二! 三! 四! 五! 六! 七! 八! 九! 十!」


 今度は、黒崎の号令に合わせて手刀を振り降ろしていくユリア。本人は、熊をも一撃で倒すつもりで技を出しているのだろうが、その動きは可愛らしい。草太は微笑みながら、ユリアの動きを見ていた。

 すると、号令を終えた黒崎がこちらを向く。


「便利屋、お前も一緒にやるか?」


 真顔でそんなことを言ってきた。だいぶ前から、草太の存在には気づいていたようだ。さすがは空手家である。

 一方、ユリアはぱっとこちらを向いた。彼女は、草太の存在に今ようやく気づいたらしい。一瞬、驚いたように目が丸くなった。

 だが、すぐに上気した顔でニコッと笑う。次にビシッと右手を挙げた。ユリアなりの、お帰りなさいの挨拶である。さらに、カゲチヨも首だけをこちらに向け、にゃあと鳴いた。

 それにしても、我が事務所はいつから空手道場になったのだろうか……などと思いつつ、草太はユリアに近づき頭を撫でた。


「ただいま。ユリア、いい子にしてたか?」


 草太の言葉に、ユリアはうんうんと頷く。だが次の瞬間、いかめしい表情で構える。さらに、その場で正拳突きをし始めたのだ。習ったことを披露したいのだろうか。架空の敵めがけ正拳突きを打ち込むユリアに、草太は少し戸惑った。


「そ、そうか……黒崎のおじさんに、空手を教わってたのか」


 草太の言葉に、ユリアは動きを止めてうんうんと頷いた。その表情は、いかにも楽しそうである。幼い子供にとって、未知の動きを学ぶこと自体がひとつの遊びなのであろうか。


「ユリアは、なかなか筋がいいぞ。便利屋と違い、素直な性格をしているようだな」


 重々しい口調で、ユリアを評価する黒崎。すると、ユリアはニッコリと笑った。恐らく言葉の意味はわかっていないのだろうが、誉められたことは理解したようだ。

 もっとも、あまり暴力的になられても困るのだが。草太は念のため、釘を刺しておくことにした。


「おっちゃん、空手を教えるのはいいけどよう、あんまりヤバい技は教えないでくれよ」


「大丈夫だ。目潰しや金的蹴りといった危険な技は教えない」


 黒崎は、そんな恐ろしい言葉を吐いた。目潰しに金的蹴りだと? この男は、どんな恐ろしい技を知っているのだ……などと草太が戦慄を覚えている横で、黒崎はユリアの方を向いた。


「ユリア、明日は回し受けと前蹴りを教えてやる。毎日稽古すれば、お前は必ず強くなれる。少なくとも、この便利屋よりはな」


 黒崎の言葉に、ユリアは嬉しそうな表情で両手を挙げた。バンザイ、と言っているのであろう。草太としては、何とも微妙な心持ちである。強くなるのはいいが、強すぎて男の子にモテなくなってしまったら、どうするのだろうか。

 もっとも外で遊べないユリアにとって、空手を習うことは遊びと運動を兼ねた、いい時間の過ごし方であろう。


「ユリア、強くなっても俺を殴らないでくれよ」


 言いながら、草太はユリアの頭を撫でた。ユリアはこくんと頷き、草太の手を握りソファーへと導く。

 草太とユリアと黒崎、さらにカゲチヨ……三人と一匹は、仲良くソファーに腰掛けテレビを観始めた。







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