草太、ようやく状況を理解する

「そろそろ、あの娘が来るのではないか?」


 黒崎の言葉に、草太は時計を見た。確かに、美桜が来てもおかしくはない時間である。


「ユリア、そろそろ美桜お姉ちゃんが来るぞ」


 草太が言うと、ユリアは彼を見上げてこくんと頷いた。さらに猫のカゲチヨも、にゃあと鳴く。わかっている、とでも言わんばかりの様子だ。

 その時、事務所のドアホンが鳴る。噂をすれば……という言葉の通り、夏目美桜が現れたらしい。


「美桜お姉ちゃん、来たみたいだぞ。今、連れて来るからな」


 草太は立ち上がり、事務所のドアを開ける。

 そこに立っていたのは、予想通り美桜である。いつもと同じく、帽子を被りサングラスをかけマスクを付けている。


「よう美桜ちゃん。今日も綺麗だね」


 ヘラヘラ笑いながら、歯の浮くようなセリフを吐いた。だが、美桜には全く通じていない。そもそも、サングラスとマスクを付けた姿を誉められて喜ぶ者はいないだろう。


「バカなこと言ってないで、さっさと表に出てください」


 冷ややかな表情で、言葉を返す。草太は何も言えず、黒崎と共に表へと出ていった。




「便利屋、あれも変わった娘だな」


 黒崎が呟くように言い、草太も同意の首肯をする。確かに美桜は変わり者だが、彼女がいてくれて助かったのも事実だ。特に最近では、その存在の大きさを強く感じている。

 その時、草太のスマホに着信があった。美桜にしては早いな……と思ったら、情報屋の名取淳一である。ようやく、中田に関する情報が入ったのだろうか。

 だが、名取の語る話は想定外のものであった。


(おい草太……お前、俺に隠してることがあんだろう?)


 電話に出るなり、名取はキツい口調で言ってきた。その言葉には、怒気が含まれているのが電話越しにも分かる。

 草太は思わず顔をしかめる。隠している、と言われれば……ユリアのこと以外には考えられない。

 だが、こうなっては仕方ない。


「へっ、隠してること? いったい何の話です?」


(はあ? おい、とぼけんじゃねえよ。お前、中田からユリアとかいうガキを預かったろうがぁ?)


「えっ? ああ、ユリアのことですか。すみません、中田さんに誰にも言うなって釘を刺されてたもんで……」


 すまなそうな声を出す。こうなったら、中田に責任を押しつけるしかないだろう。


(てめえが最初から正直に言ってればなぁ、話はもっと簡単に済んでたんだよ。いいか、中田はロシアからユリアを密入国させたんだよ。そのユリアって娘はな、ロシアのお偉いさんの隠し子らしいんだ)


「えっ……」


 そう言ったきり、草太は二の句が継げなかった。お偉いさんの隠し子、だと? そうなると、ユリアは……。


 唖然となる草太に、名取は語り続ける。


(しかもだ、そのロシアのお偉いさんが最近くたばったらしいんだよ。で、遺産の相続で揉めてるってわけだ。そのユリアって娘にも、相続する権利があるからな。そんなわけで、そいつはヤバいロシア人に命を狙われてんだよ)


「そ、そんな……」


(これはもう、堅気がどうこう出来る話じゃねえんだ。しかも、その遺族がロシア人マフィアを雇ったって話なんだよ。で、そいつらは既に日本に来てるらしい。前に、流九市で発砲事件があったろう……あれも実は、中田とロシア人マフィアが銃で撃ち合ったらしいぜ)


 名取は、なおも話し続ける。それに対し、草太は戸惑うばかりであった。こんな物騒な話は、さすがに町の便利屋の手には余る。

 だからといって、ここまで来た以上ユリアを放り出すわけにもいかない。

 沈黙する草太に対し、名取は喋り続けた。


(いいか、ロシア人たちはユリアを探してる。それに中田は今、ユリアの母親を連れて逃げてるらしいんだよ。あいつも、ロシア人に狙われてるんだ。お前は、とんでもない事件に首を突っ込んじまったんだよ。わかってんのか?)


 名取の言葉には、苛立ちと緊張とが感じられる。しかし、草太にはどうすればいいのか分からない。


「俺、どうすりゃあいいんですね……」


 気がつくと、そんな言葉を吐いていた。もっとも、草太としては藁にもすがりたい気持ちだったのだ。こんな事態になるとは、ほんの数日前は予想もしていなかった。


(どうすりゃあいい、って言われてもな……とにかく、しばらくはおとなしくしてろよ。お前は今、ユリアと一緒に事務所にいるんだろ?)


「えっ、はい」


(じゃあ、当分そこを動くな。また何かわかったら電話するから。くれぐれも、外出は控えろよ)


 そこで、電話は切れた。




 スマホの画面を見つめながら、草太はため息を吐いた。まさか、そんなことになっていたとは。


「おい便利屋、どうしたんだ?」


 隣にいる黒崎が、静かな口調で聞いてきた。草太は、地面を睨みながら口を開く。


「ユリアの素性が分かったんだよ。あいつ、ロシアのお偉いさんの隠し子だったらしい。つまりユリアの母親は、お偉いさんの愛人だったんだよ」


 言いながら、草太は黒崎の顔を見つめた。だが、彼の表情は冷静そのものである。何も変化していない。

 草太は溜息を吐き、さらに話を続けた。


「で、父親であるお偉いさんが最近くたばったんだ。後は、お決まりの相続争いさ。ユリアは今、ロシア人マフィアに命を狙われてるらしい……あいつには、遺産を一文たりとも渡したくないんだとよ」


 草太は、そこで笑ってみせる。だが、それは渇いた笑いだった。黒崎も何かを感じたらしく、下を向く。


「おっちゃん、信じられるか? ユリアは今、マフィアに命を狙われてんだぞ。普通なら、友だちと遊んだりテレビ観たり母ちゃんに甘えたりしてる歳なのによ。畜生、こんな素敵な話があるかよ。素敵すぎて泣けてくるぜ」


 言いながら、草太は唇を噛みしめ虚空を睨む。ユリアが哀れで仕方ない。一体、あの娘がどんな罪を犯したというのだ。まったく無関係の、大人の事情に巻き込まれ……挙げ句に命を狙われる、というのか。

 あんな、幼い子供が──


「おっちゃん、どうすればユリアを助けられるかな」


 虚ろな表情で、草太は呟くように言った。すると、黒崎が顔を上げる。


「便利屋、ひとつ確認しておきたい。ユリアは、中田とかいうヤクザが密入国させたんだな?」


「ああ、そうらしい」


「となると、警察に駆け込んだら、ユリアはロシアに強制送還されるな」


 黒崎の言葉に、草太は思わず顔をしかめる。


「そうしたら、ユリアはどうなるんだろうな?」


 虚ろな声で尋ねる草太。もっとも、その答えは分かりきっていたが。


「恐らくは、母親ともども消されるだろうな。わざわざ日本まで、マフィアを派遣するような連中だ。ロシアに戻されたら、飛んで火に入る夏の虫だ」


 答える黒崎の口調は、淡々としたものだった。その落ち着きぶりが、草太を苛立たせた。


「おっちゃん! あんたユリアが心配じゃねえのかよ!」


 怒気を含んだ声を発し、黒崎を睨みつける草太。しかし、黒崎は平然としている。すっと右手を上げ、草太の肩に触れた。


「まあ落ち着け。慌てたところで解決にはならん。大事なのは、お前がどう動くか……ではないのか?」


 黒崎の落ち着いた、力強い声。それを聞いているうちに、草太も少しずつ冷静さを取り戻してきた。


「あ、ああ」


「お前は、ユリアを取り巻く状況を知ってしまったわけだ。で、これからどうするのだ?」


 黒崎の問いに対し、草太は下を向いた。

 ややあって、顔を見上げる。


「こうなりゃあ、ユリアを守り抜いてやる。便利屋にも、意地ってものがあるんだよ。マフィアだか何だか知らねえが、ユリアを渡してたまるか」


「そうか。ならば俺も手を貸そう。こうなった以上、俺も無関係ではいられんからな」


 そう言って、笑みを浮かべる黒崎。その時、草太の中に一つの疑問が浮かぶ。


 この男は、なぜホームレスになったんだ?


「おっちゃん、あんたは何で──」


 草太が尋ねようとした時、スマホが着信を知らせる。言うまでもなく美桜だ。


(お、お風呂終わりましたから)


 スマホから聞こえる美桜の声は、以前よりもかなりマシになってきている。何度も電話をかけることで、慣れてきたのだろう。


「わかった。いつもありがとな。すぐ帰るよ」




 事務所に戻ると、ユリアはパジャマ姿で応接間に立っていた。その横では、美桜とカゲチヨがソファーに座っている。

 ユリアは得意気な表情で、美桜とカゲチヨに向かい正拳突きを披露している。その姿は可愛らしいが、美桜はちょっと複雑な表情を浮かべて見ていた。


「ユリア、カッコいいじゃないか。ただし、俺を殴らないでくれよ」


 草太の声を聞くと、ユリアはパッとそちらを向いた。満面の笑みを浮かべ、ビシッと右手を挙げる。草太はふと、ユリアは授業中でもこんな風に元気に手を挙げるのだろうか、などと考えた。もっとも、彼女は言葉で答えることが出来ないのだが……。


「草太さん、ユリアちゃんは見ての通り元気ですよ。では、私はこれで失礼します」


 そう言うと、美桜は立ち上がった。だが、草太は素早く彼女に近づく。


「なあ美桜ちゃん、たまには飯でも食っていきなよ。俺がご馳走するからさ」


 言いながら、草太はさりげなく目配せした。常人なら、彼の言わんとしていることを何となく察したであろう。

 だが悲しいかな、美桜は引きこもりのニートである。そういった場の空気を読むことに関しては、彼女は致命的と言えるくらい下手であった。


「結構です。私は帰りますので」


 そう言うと、美桜はすたすた歩いていく。草太は、慌てて彼女の腕を掴んだ。と同時に耳元で囁く。


「いいか、今後のことで大事な話があるんだ。頼むから、残って話を聞いてくれ。お前の力が必要なんだ」


 その言葉を聞き、美桜は怪訝そうな表情を浮かべる。だが草太の真剣な顔つきを見て、ようやく事態を察した。


「わ、やかりました。そういうことでしたら」




 やがて、夜になった。

 ユリアが寝静まったのを見計らい、草太は美桜にこれまでの経緯を説明する。美桜は黙ったまま、最後まで話を聞いてくれた。


「そういうことでしたか……」


 話を聞き終わると、美桜は複雑な表情を浮かべながら事務所の奥を見つめた。

 その視線の先には、ユリアがいる。奥の居住スペースで眠っているはずのユリアが……美桜は、真剣にユリアを心配してくれているのだ。

 考えてみれば、美桜もいきなり理不尽な目に遭い人生が変わってしまった人間である。本人の意思とは無関係に、運命としか言い様のない力で……だからこそ、ユリアを他人とは思えないのかもしれない。

 そんな彼女に、どうしても確かめなくてはならないことがある。


「わかったろ……ユリアは、ヤバい連中に狙われてるんだ。それで、お前はどうするんだ?」


「どうするんだ、とはどういう意味です?」


 美桜は、静かに聞き返す。


「いや、だから、ユリアはマフィアに狙われてんだよ。だから、お前も怖いと思うなら、もう来なくてもいいぞ──」


「その場合、誰がユリアちゃんをお風呂に入れるんですか?」


 冷静な口調で聞かれ、逆に草太の方が戸惑っていた。


「えっ? いや、その……お、俺が入れるしかないだろう」


「草太さんみたいな、いい加減な人には任せられません。第一、私も引き受けた以上は最後までやり遂げます。ここで引いたら、私はまた元の……」


 そこで、美桜は言葉を止めた。だが、草太には彼女が何を言わんとしているのか、何となく理解できる。ユリアが来たおかげで、美桜は変わった。

 いや、美桜だけではない。黒崎も、草太自身も。


「ところで便利屋、お前は今後どうする気だ?」


 沈黙を破り、不意に黒崎が聞いてきた。草太は、先ほどから考えていたことを口にする。


「ヤクザの中田が、ユリアの母親を連れて逃げ回ってるらしいんだよ。まずは中田、そして母親と合流する。次にユリアと母親を連れて、違う町に逃げるんだ。奴らも、いつかは諦めるだろ」


「その先はどうするんです? ふたりは普通の市民にはなれず、永遠に密入国者として生きるんですか? このままだと、ユリアちゃんは学校にも行けないんですよ」


 美桜の切実な問いに、答えたのは黒崎だった。


「ほとぼりが冷めたら、親子で難民申請をするという手がある。様々な理由により、国にいれば命の危険がある……そんな人間を受け入れる制度だ。認定さえ受けられれば、親子は日本で暮らせる。ユリアも学校に行ける」


「おっちゃん、その難民何とかは確実に通るのか?」


 草太の問いに対し、黒崎は首を横に振った。


「分からん。最悪の場合、偽造の身分証を作るしかないだろうな。裏の世界では、金さえ積めば精巧な偽の身分証明が手に入る。上手くすれば、この日本で違う人間として生きられるはずだ」


「本当ですか?」


 訝しげな表情で尋ねる美桜。


「ああ。裏社会の連中にとって、偽造の身分証というのは商売道具のひとつだ。ホームレスをやっていると、否応なしにそういった情報は入ってくる。ホームレスの中には、戸籍を売る者もいるからな」


「戸籍を、ですか?」


 目を丸くして尋ねる美桜に、黒崎は口元を歪めた。


「ああ。ホームレスは、売れるものは何でも売る。さらに、生きていくためには……あらゆる物を捨てていくのさ」


 そう言うと、黒崎は自嘲の笑みを浮かべた。

 その時、草太の頭にひとつの疑問が浮かぶ。


「おっちゃん、あんたも戸籍を売ったのか?」


「ちょっと、草太さん!」


 草太が尋ねるのと同時に、横から鋭い声を発した美桜。余計なことを聞くな、という意味を込めた言葉だろう。

 だが黒崎は、事も無げに答える。


「いや、残念ながら売ってはいないよ。戸籍と……空手だけは捨て去ることが出来なかった」


 黒崎のその言葉には、彼の複雑な感情がこもっているのが分かった。草太は首を振り、黒崎の顔をまじまじと見つめた。


「おっちゃん、それは違うぜ。あんたは、空手を捨てられなかったんじゃない。むしろ、空手はあんたの一部なんだよ。それに……ユリアに空手を教えていた時のあんたは、凄くいい顔してたぜ。やっぱり、あんたは今も空手家なんだよ」


 言いながら、草太は黒崎の肩に親しみを込めたパンチを食らわした。すると、黒崎はクスリと笑う。


「俺は、中田とかいうヤクザのことは何も知らない。だがな、そのヤクザがお前にユリアを預けた理由が、何となくわかってきた気がする」


「何だそりゃあ。どういう意味だよ?」


 草太の言葉を、黒崎は笑いながら受け流した。


「別に大した意味はない」





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