草太、とてもビビる
「ユリア、俺は仕事に行ってくるから、お前は黒崎のおじさんと留守番をしていてくれ」
午前十時、玄関に立った草太はふたりに声をかける。ユリアは悲しげな表情を浮かべながらも、こくんと頷いた。彼女の傍らには、黒崎が立っている。神妙な顔つきで、ユリアの手を握っていた。
今日の草太には、加納春彦の事務所のトイレ掃除という重大な仕事が待っているのだ。昨日、妙な不良外国人に襲われたが……仕事を休むわけにはいかない。
かといって、ユリアを連れて行くわけにもいかない。連中の目当てはユリアである。また外で襲撃を受けたら、守りきれる自信はない。
草太はユリアを黒崎に託し、ひとりで掃除に行くことにしたのだ。
「じゃあユリア、行ってくるからな。おとなしくしてるんだぞ」
そう言うと、草太は出かけようとした。その時、ユリアが驚きの行動に出る。彼の足に、いきなり抱きついて来たのだ。
「うえっ!? お、おい!?」
突然のことに、草太は思い切り動揺した。ユリアは、足をギュッと抱きしめている。
だが次の瞬間、ユリアは何事もなかったかのように離れる。ニコッと笑ったかと思うと、いつものようにビシッと右手を挙げる。ユリアなりの挨拶の仕草なのだ。
「お前、凄いな」
草太は思わず苦笑する。ユリアのこのオヤジ転がしの上手さは、計算によるものか、はたまた生まれついてのものだろうか……いずれにしても、彼女の将来がちょっとだけ不安である。
「失礼します。『何でも屋草ちゃん』です。掃除に来ました」
言いながら、草太は事務所のドアを開ける。加納春彦と言えば、流九市では泣く子も恐怖に打ち震える裏社会の大物なはずなのだが、事務所は妙にこじんまりとしている。余計な家具や調度品などは置かれていない。実にシンプルなものである。
加納という男の性格もまた、ある意味ではシンプルなものだ。若くして権力を手に入れた男に有りがちな横暴な振る舞いや傲慢な態度は無いが、代わりに常識らしきものも無い。完全に、独自の世界の空気感で生きているのである。
また、自身の眼鏡にかなった人間には、とても優しい。しかし草太は、加納の眼鏡の尺度がどこにあるかは、未だに理解できていないのだ。
「おい草太、真面目に働けよ。忘れるな、春彦さんのためならタダで働く……って言ってる奴は、いくらでもいるんだ」
いつもと同じ黒いスーツに身を包み、岩のような顔で草太を睨み、ドスの利いた声を出す木俣源治。草太は、お前こそ真面目に働け……などと心の中で言い返してはいるが、顔は微笑んでいる。
「は、はい、わかってます。真面目にやりますので、今日もよろしくお願いします」
ペコペコ頭を下げ、仕事の準備をする。その時、奥から加納が出てきた。こちらも、いつもと同じくTシャツにデニムパンツ姿である。Tシャツの胸に四字熟語が書かれているのも、いつも通りだ。
ちなみに今日は「酒池肉林」と書かれている。どういう基準で選んでいるのか、未だにわからない。
「やあ草太くん、今日もご苦労様だね。ところで、こないだ来た女の子……あれ、あの娘の名前なんて言ったっけ?」
言いながら、加納は首を捻る。すると、横にいた木俣が即答した。
「ユリアです」
「おお、そうだったそうだった。ユリアちゃん、だったね。彼女は元気かい?」
「 ええ、元気ですよ。今日は家で遊んでます」
笑みを浮かべながら、草太は答える。ひょっとしたら、加納はユリアのことを気に入ってくれたのだろうか。ならば、連れて来ても良かったかもしれない……などと思いながら、草太は仕事に取りかかる。
その時、ひとつの考えが頭に浮かんだ。昨日の出来事を加納に話し、協力を頼めないだろうか……というものだ。
加納ならば、この町で起きる大抵のことは対処できる。ユリアがどんなトラブルに巻き込まれているのかは分からない。だが、そもそも加納ならトラブルの原因について調べるのも簡単である。
そんな大物が動いてくれれば、よほどのことで無い限り全て丸く収まってくれるはずだ。
しかし、そうなると別の問題も生じる。加納ほどの人間を動かすとなると、確実にただではすまない。多額の金銭か、あるいは別の形か……いずれにしても、高くつくのは間違いないのだ。
しかも、加納には執事兼ボディーガードの木俣がいる。この木俣は、ただ体が大きいだけの武闘派ではない。頭のキレる参謀格としての顔も持っている。
筋金入りの変人で、さらに暴走しがちな加納の手綱を上手く握っているのが木俣なのだ。
そんなふたりを、この事件に巻き込んでしまったら……支払うべき代償は、果たしてどのくらいのものだろうか。草太には全く想像もつかない。
しかも、草太のみならずユリアまでが代償を支払わされるかもしれないのだ。あるいは、ユリアの親が。しょせん加納と木俣は、裏社会の住人なのである。
この件を加納に話すのは、今はやめておこう……草太は頭の中で考えを巡らせながらも、作業を続けていた。
やがて、草太はトイレ掃除を終えた。応接室に行くと、加納はつまらなさそうな表情で、テレビを観ながら木俣と会話している。
「木俣、このアイドルは結婚するのかい?」
ソファーに座り、テレビ画面を指差す加納。もっとも、その話題には欠片ほどの興味もなさそうだが。
「そのようですね。巷では色々と言われているようですが」
岩のような顔で返事をする木俣。こちらもまた、どうでもいい、とでも言いたげな表情だ。
「ほう、そうなのか。ところで、結婚とはそんなに楽しいものなのかね」
加納は突然、訳のわからないことを言い出した。横で聞いている草太は、思わず首を捻る。しかし、木俣の対応はクールであった。
「さあ、俺は結婚したことがないのでわかりませんね。興味もないです」
「まあ、それもそうだな。しかし僕は、世の女性たちが結婚式に憧れる気持ちは分からなくもないな。あのウェディングドレスという服だが、僕も一度は着てみたいものだよ」
さらにとんでもないことを言い出した。草太は、あまりの突飛な展開に目を白黒させる。しかし、受ける木俣はあくまでクールな姿勢を崩さない。
「あなたは男ですから、ウェディングドレスは着られませんが」
「それはまた、理不尽な話だな。僕は、是非とも着てみたいのだが……では木俣、君が着てみてくれるかい?」
加納は真顔で、そんなセリフを吐いた。草太の体はたちまち震え出す。恐怖ゆえではなく、おかしさのためである。身長百九十センチ、体重百二十キロの木俣にウェディングドレスを着せる……それは、罰ゲーム以外の何物でもないだろう。
しかし木俣は冷静であった。
「一応、俺も男ですので……ウェディングドレスは着られません。そもそも、着たくもないですが」
ふたりの話を聞き、草太は小刻みに肩を震わせていた。だが、加納と木俣は気づいていないらしい。なおも会話を続ける。
「それは残念だ。僕は、木俣のウェディングドレス姿を見てみたいんだがね」
そう言って、加納は笑みを浮かべる。本当に美しい顔だ。顔だけ見れば、さぞかし女にモテるはずなのだが……加納の訳のわからなさに付いて行ける女は、まずいないだろう。
「絶対に嫌です。俺は、ウェディングドレスなんか死んでも着たくありませんので」
そう言った直後、木俣の表情が僅かに変化した。岩のようないかつい顔が赤らみ、はにかむような表情が浮かぶ。
「し、しかし……あ、あ、あなたがどうしても着て欲しいと仰るのであるならば、き、着るのもやぶさかではないかと……」
照れたような木俣の言葉を聞いた瞬間、草太の自制心は限界を迎えた。我慢できずに、プッと吹き出してしまう。
直後の木俣の反応は、凄まじいものであった。振り向くと同時に、恐ろしい形相で草太を睨み付ける。
次の瞬間、草太の体は宙に浮いた。木俣に襟首を掴まれ、片手で持ち上げられたのだ──
「ぐぉら草太ぁ! いるならいるって言えやあぁ!」
神をも殺してしまいそうな形相で、草太に凄む木俣。その勢いは恐ろしいものであった。草太の心は、一瞬にして死の恐怖に支配される。
その時、加納が立ち上がった。笑みを浮かべながらふたりに近づき、木俣の尻をポンポンと叩く。
「まあまあ、そう怒らずに。草太くんも、僕たちの愛の語らいを邪魔しないよう、気を遣ってくれたんだろうし──」
「何が愛の語らいですか。そんなもん、俺はしてませんよ」
木俣は、低い声でしらを切る。この男、意外と往生際が悪いらしい……などと、吊るされながら考える草太。一方、加納は落ち着いたものだった。
「まあ、それならそれで構わないじゃないか。とりあえずは、降ろしてあげようよ」
その言葉に、木俣は不満そうな表情を浮かべながらも草太を降ろした。
文字通り地に足の着いた状態に、草太はホッとなった。
「あ、どうも……掃除の方が終わりましたので、そろそろ失礼を……」
「おお、そうだったのかい。今日もご苦労様。これからも、よろしく頼むよ」
言いながら、草太の手を握る加納。草太は先ほどまでトイレ掃除をしていたのに、加納は気にもせず彼の手を握る。一見すると潔癖症のような雰囲気ではあるが、何を触ろうと気にしないのが加納という男である。無神経なのか、はたまた大物ゆえか……などと草太が考えていると、不意に彼の表情が変わった。
「あっ、そういえば……発砲事件だけど、調べてみてくれたかな?」
その言葉を聞いた瞬間、草太の顔は一瞬にして青ざめた。そんな話など、すっかり忘れていたのだ。
だが、それも当然だろう。いきなりユリアを預かることになり、中田健介が姿を消し、さらには見知らぬ外国人たちに襲われた……草太の人生において、初めてのことばかりである。そもそも、発砲事件を調べる気など最初から無かったのだが。
「えっ、いやあ、あちこちの人に聞いてはみたんですが、誰も知らないって言ってましたね」
咄嗟にそんなセリフを吐いてごまかした。すると、加納はクスリと笑う。
「実はね、あの事件を起こしたのは外国人らしいんだよ」
「へえ、外国人がやったんですか」
ほとんど反射的に、草太は言葉を返した。だが、次の瞬間にハッとなる。外国人、ということは……もしや、ユリアと何か関係があるのだろうか。
「ああ、そうらしいんだよ。どうも、ロシア人の仕業みたいだ。この流九市の中でドンパチやらかすとは、困ったもんだね」
やれやれ、とでも言わんばかりの表情で加納は首を振った。
「あ、あのう……では、ロシア人が街中で銃を撃ったんですか?」
草太は、愛想笑いを浮かべながら尋ねた。もっとも、内心は穏やかではない。ロシア人、という単語は聞き逃せないのだ。
情報屋の名取淳一は言ったのだ……中田健介がロシアから女を密入国させた、と。それ以来、中田は行方不明だとも言っていた。
さらに昨日は、見知らぬ外国人四人に襲われた。黒崎がいなければ、ユリアは確実にさらわれていただろう。
そして今、流九市で起きた発砲事件についての話を聞かされた。犯人はロシア人だと加納は言っている。
ユリア、中田、密入国の女、四人の外国人、発砲事件を起こしたロシア人……これらは、どんな関係があるのだろうか。
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