草太、加納の事務所で仕事する

「おいユリア、本当に行くのか?」


 草太が尋ねると、ユリアは首を縦に振った。その目には、絶対に付いて行くぞ……とでも言いたげな、強い意思が感じられる。




 草太とユリアは今、停車した軽トラックの中にいる。まだ昼日中で、窓からは陽射しが入ってきていた。

 これから草太は、仕事に行くことになっていた。それも、流九市の裏社会を仕切る大物・加納春彦の事務所のトイレ掃除をしなくてはならない。正直、あまり気は進まないのだ。


 草太が経営する便利屋『何でも屋草ちゃん』は週に三回、加納の事務所のトイレ掃除をする契約になっている。なぜ週三回なのかは不明だ。たまに加納にケツを撫でられたりするが、基本的には楽な仕事である。しかも、金払いはいい。裏社会の大物である加納が、草太のような人間に仕事を依頼する理由は不明だが、ありがたいのは確かである。

 加納の思惑はさておき、そんな場所にユリアを連れて行ったら、いったいどうなることだろう。少なくとも、ボディーガードの木俣は確実に怒る。

 しかし、ユリアも草太とは離れたくないらしい。こんな時にこそ美桜が来てくれればいいのだが、あいにく彼女は眠っている。

 そう、美桜はニートにありがちな昼夜逆転の生活を送っているのだ。ここに来る前、念のため電話をかけてみた。しかし、出る気配がない。間違いなく熟睡している。

 結局、草太は悩みに悩んだ挙げ句にユリアを連れて来ることにした。いざとなれば、土下座でもすれば何とかなるだろう……などと淡い期待を抱きながら。


「ユリア、これから行く所には、とっても怖いおじさんがふたりもいるんだぞ。本当に大丈夫か? このトラックの中で待っていてもいいんだけど」


 もう一度、草太は聞いてみる。ユリアの気が変わってくれればいいが、と期待していた。

 しかし、ユリアの決意は堅いらしい。白く可愛らしいコートを着た姿で口を真一文字に結び、首を横に振る。


「じゃあ、俺の仕事を手伝うんだな?」


 草太の言葉に、ユリアはうんと頷く。

 思わず、ため息を吐く。これでは仕方ない。一か八かだ。




「どうも、『何でも屋草ちゃん』ですぅ。トイレ掃除に来ましたけど」


 言いながら、草太はドアを開け恐る恐る事務所に入って行く。そのとたん、いきなり襟首を掴まれた。

 次の瞬間、軽々と持ち上げられ、宙に浮かされる。目の前には、木俣の岩のごとき顔があった。


「おい草太、てめえはあちこちで加納さんの名前を出してるらしいな」


 低い声で、木俣は凄んだ。草太は恐怖のあまり縮み上がる。確かに、ホームレスの黒崎を助けるため加納の名前を使わせてもらったことはあった。しかし、そんな話がもう伝わっているとは。


「い、いえ、あちこちで出してるってわけじゃ……」


 言いかけた草太だが、そのとたんにブンブン揺さぶられた。木俣の腕力は、本当に人間離れしている。まるでサイボーグのようだ。


「嘘つくんじゃねえよ。俺は聞いてるんだ──」


 不意に、木俣の言葉が止まった。その冷酷そのものの顔つきが、みるみるうちに変化していく。何とも表現のしようのない表情を浮かべながら、木俣は下を向いた。

 つられて、草太も下を向く。そのとたん、彼の口から心臓が飛び出そうになった。

 ユリアが、木俣の大木のような太い足に抱きついていたのだ──


「お、おい草太! こ、こ、この娘は誰だ!」


 普段なら、ヤクザもビビって避けて通る迫力の木俣であるが……今の彼は、想定外の事態を前にして完全に混乱していた。いつも自信たっぷりで、クールなポーカーフェイスの彼が完全に狼狽えているのだ。

 自身の、膝くらいまでしかない少女に。


「す、すみません。実は、この娘は知り合いから預かってまして……」


 木俣に片手で吊り上げられた状態で、草太はペコペコ頭を下げた。すると、恐ろしい表情で睨まれる。


「んだと? どういうことだ? てめえは、職場にガキを連れて来るのか?」


 そう言って、ちらりと下を見た木俣。だが、そのとたんに口を開けたまま硬直してしまった。草太も、思わず顔を歪める。

 なんとユリアは、その場で床に両膝を着いていたのだ。両手を胸のところで組み、涙を浮かべながら木俣を見つめている。その姿は、神に祈りを捧げるシスターそのものだ。

 ユリアは今、草太の解放を願って木俣という大魔神に祈りを捧げる巫女と化していた……。

 そんなユリアを見て呆然となっている木俣、困惑する草太、そして祈りを捧げるポーズのまま固まっているユリア。三者三様のまま時間が流れる。


 だが、その三すくみ状態に乱入してきた者がいた。


「やあ草太くん、可愛いお嬢さんだね。君、名前は何て言うの?」


 言うまでもなく、加納である。彫りの深い端正な顔に、爽やかな笑みを浮かべてしゃがみこむ。大抵の女は、この笑顔だけでノックアウト出来るだろう。

 しかし、ユリアには通じていなかった。まだ幼いためか、あるいは別のタイプが好みなのか。いずれかは不明だが、今のユリアは「困ったなあ」とでも言いたげな表情で、手を組んだまま首を傾げる。


「あ、あのう、実はユリアは、口がきけないんですよ……」


 木俣に吊るされたまま、草太は恐る恐る口を挟む。すると、木俣の表情が僅かに歪んだ。何てことを言うんだ、とでも言いたげな表情で加納を睨む。

 だが、加納は平然としていた。


「そうか、君はユリアちゃんというんだね。心配しなくていいよ。この木俣のおじさんは、顔は怖いがとってもいい人なんだ。こう見えて、草太お兄ちゃんとも仲良しなんだよ」


 言いながら、加納は顔を上げる。


「そうだろ、木俣?」


 直後、木俣は異様な速さで動いた。草太を下ろすと同時に、その丸太のように太い腕を回して、草太と肩を組む。

 さらに下を向き、ユリアに向かいニッコリと笑う。だが、すぐ隣にいる草太は、恐ろしさのあまり生きた心地がしなかった。木俣の笑顔は、下手なホラー映画に登場するモンスターなど比較にならない怖さである。

 しかし、ユリアは違った感想を抱いたらしい。涙を浮かべていた表情が一変し、安堵の笑みを浮かべる。

 ヤクザも避けて通る、岩を擬人化させたような顔の大男がニコニコ笑いながら幼女を見つめている。これが町中だったら、間違いなく通報されている光景だろう。


「ユリアちゃん、向こうで一緒にテレビ観ようか」


 そう言って、加納は立ち上がった。だが、ユリアは困ったような表情で草太の顔を見つめる。仕事の手伝いをしなくていいの? と言っているのだろう。

 草太は、ニッコリと笑ってみせた。


「ユリア、大丈夫だよ。仕事が終わるまで、加納さんと一緒にテレビを観てなさい」


 すると、ユリアは嬉しそうに頷く。加納とともにソファーに座り、テレビを見始めた。

 その直後、草太は肩のあたりを掴まれた。

 次の瞬間、僧帽筋に激痛が走る──


「コラ、調子に乗るんじゃねえぞ。今回だけは、特別に見逃してやる。だが、忘れるな。加納さんのためなら何でもやる、って言ってるガキは大勢いるんだ。自分だけが特別だ、なんて思って図に乗るなよ。あまり調子に乗ってるとな、俺がお前を殺す」


 耳元で囁いたのは、言うまでもなく木俣である。僧帽筋を掴まれ、草太は顔をしかめながらもウンウンと頷く。

 それにしても、化け物みたいな握力だ。この男は、本当に人間なのだろうか。未来の世界で開発された人型ロボットなのでは……などとバカなことを考えていた時、ユリアがこちらを見た。

 そのとたん、木俣はパッと手を離した。と同時に、ユリアに向かいニッコリと笑う。だが見れば見るほど、怖い笑顔である。草太は、凄まれている時よりも恐怖を感じた。




「あ、加納さん。掃除、終わりました」


 やがて掃除を終えた草太は、リビングへと出て来た。すると、ユリアは嬉しそうに草太のそばに走っていく。


「お疲れ様。草太くん、料金はいつもと同じように振り込んでおくからね」


 言いながら、加納は草太の肩をポンポンと叩いた。


「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げる草太。すると、加納が彼の手に何かを握らせた。何かと思ったら、小さく畳まれた一万円札が二枚だ。


「あ、あのう、これは……」


「ユリアちゃんに、美味しいものでも食べさせてあげてくれたまえ」


 そう言うと、加納はしゃがみこんだ。微笑みながら、ユリアの顔を見つめる。


「ユリアちゃん、また遊ぼうね。今日は、魚みたいな顔のおじさんと下らない話をしたんだ。疲れちゃったよ。だけど、君が来てくれたお陰で癒されたよ」


 その言葉に対し、ユリアは小首を傾げてみせる。訳が分からない、とでも言いたげな表情だ。その仕草は可愛らしく、見ている草太も微笑んだ。

 加納もまた、微笑みながらユリアの頭を撫でる。


「困ったもんだよね、本当に。君は、あんなアホな大人になっちゃ駄目だ。素敵なレディになるんだよ」


 ヤクザもビビる裏社会の大物に、素敵なレディになれと言われてもなあ……などと思いながら、草太は木俣の方に視線を移す。

 そのとたん、背筋に冷たいものが走った。木俣もまた、ニコニコしながら二人を見ている。だが、木俣の笑顔は何度見ても怖い。岩と同化している怪物が、これから始まる殺戮の喜びにうち震えているようにしか見えないのだ。

 あまりのおぞましさに震えながらも、草太は声をかける。


「加納さん、色々とありがとうございました。では、そろそろ失礼します」




 帰り道、草太は軽トラックを運転しながらユリアを横目で見た。ユリアは楽しそうに、人の行き交う外の風景を見ている。運転中の草太に、つまらないちょっかいを出したりはしない。

 本当に、いい娘だな……と思いつつ、草太は車を慎重に走らせる。事故はもちろん、急ブレーキをかけてユリアを驚かせたくないからだ。

 二人の乗った軽トラックは、のんびりと進んで行った。


 ユリアとの生活は、本当に楽しいものだ。草太は久しぶりに、幸せな気分を味わっていた。

 ただし、ひとつだけ不安なことがあった。今まで、中田の携帯に何度も電話をかけたのだが……毎回、電源が入っていないことだ。





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