草太、美桜に叱られる
この怪人の正式な名前は、
そんな美桜にとって、唯一の友人と呼べる存在が草太であった。中学校の時の同級生だった草太は、彼女のことを何かと気にかけている。美桜が引きこもりになった時も、週に一度は彼女の家に通っていたのだ。
もっとも、そこには彼なりの理由もある。美桜は、草太の命の恩人……いや、当時の
にもかかわらず、当時の同級生の中で今も美桜と付き合いがあるのは、草太だけであった。他の者は、今は彼女のことなど見向きもしない。それどころか、命の恩人である美桜を攻撃する者さえいたのだ。
美桜が引きこもりになるのも、無理からぬ話であった。また彼女の不審者のような格好も、仕方ないと思う部分はある。
それ以前に、草太の事務所まで歩いて来られたこと自体が、美桜にとって大きな進歩なのだ。
「事情は分かりました」
これまでのいきさつを話し終えた草太に、美桜は頷いた。既にサングラスとマスクを外し、素顔が露になっている。ユリアもようやく安心したのか、彼女のそばに来ていた。
「そうか。実はね、お前に頼みたいことがあるんだよ。ユリアを、風呂に入れてやってくれ」
「えっ、お風呂? なぜ私が?」
眉間に皺を寄せる美桜に、草太はペコペコ頭を下げる。
「だってさあ、俺とユリアが一緒に風呂入ったらまずいだろ。なあ、頼むよ」
「なぜですか? 何がまずいのです?」
「あのなあ、ユリアを俺に預けていったヤクザは、むちゃくちゃ怖い奴なんだよ。もし俺が、ユリアと一緒に風呂に入ってたなんて知られたら、頭の皮を剥がれるかもしれないんだよう」
いかにも哀れみを誘うような口調で言った後、草太はユリアの方を向いた。
「なあユリア、お前も美桜姉ちゃんとなら風呂に入れるだろ?」
すると、ユリアは美桜を見つめる。まるで、彼女の人格を見極めようとしているかのようだ。
美桜の方はというと、少女の汚れなき視線を感じ狼狽している様子だ。
ややあって、ユリアはこくんと頷く。すると、草太は勝ち誇った表情になった。
「ほら見ろ、ユリアもお前と入りたいって言ってるぞ。なあ、頼むよう。下手すると、中田は俺を殺すかもしれないんだ」
今度は表情を一変させ、いかにも哀れみを誘うような口調で言う。
もっとも、草太の言葉はまんざら大げさでもない。中田はヤクザではあるが、妙に真面目なところのある男だ。事実、中田の所属している士想会の会長は昔気質のヤクザであり、組で薬物を扱うことは禁止している。また彼自身も、昔気質の部分が色濃い。
ユリアの身に何かあったら、中田は本当に草太の頭の皮を剥ぎかねない。奴は、やる時はやる男なのだ。
ややあって、美桜は溜息を吐いた。
「わかりました。ただし、ひとつ条件があります」
「な、何だ? 俺に出来ることなら何でもするぞ」
「でしたら、私がユリアちゃんをお風呂に入れている間……草太さんは、外に出ていてください」
「えええ……」
草太はげんなりした。中学生や高校生の時ならいざ知らず、ふた。の入浴を覗くほど女に飢えていないのだが。
「嫌だというなら、引き受けません」
美桜の態度はにべもない。これは、うんと言うしかないだろう。
「わ、わかったよ。外に出てりゃいいんだろ」
「では、今すぐ外に出てください。ユリアちゃんがお風呂から上がったら、携帯に連絡しますので」
こうして、草太は事務所から追い出されてしまった。彼は仕方なく、ひとりで事務所の周辺を歩く。
その時、閃くものがあった。中田に電話をかけるなら、今がチャンスではないか。ユリアの前では、金の絡む話はしたくなかった。それゆえ、電話をかけそびれていたが……これで、ようやく中田と話が出来る。
草太はスマホを取り出し、中田の持つ携帯電話へと連絡してみる。だが、電源が入っていないらしい。何度かけても同じだった。
スマホの画面を見ながら、首を捻った。これは、どうすればいいのだろうか。
まずは、中田の居場所を知っていそうな人間と話してみよう。草太は、とある番号にかけてみた。
(おう草太じゃねえか、どうしたんだ?)
いかにもチンピラ、な感じの声がスマホから聞こえてきた。この声の主は
中田の行方を知っていそうな人物……と考えた時、真っ先に思い浮かんだのが、この男である。
「あのですね、ちょっと中田健介さんと連絡取りたいんですが……名取さんは御存知ないですか?」
(はあ? 中田? 中田健介って言ったら、士想会の中田だよなぁ?)
チンピラ特有の、語尾を微妙に伸ばす口調で聞いてきた。草太は、ちょっとだけ顔を引きつらせた。
「ええ、士想会の中田さんです。さっきから何度も電話かけてるんですけど、出ないんですよ」
(中田か……特に何も聞いてねえけどよぉ、あいつに何の用だ?)
またしても聞いてくる。中田のことを、ずっと呼び捨てにしているが……本人の前では完全に縮こまってしまう。名取は、そういう男である。
もっとも、下の者に対する面倒見は悪くない。実際、草太は中学から高校まで、なんやかんやで世話になっている。
そんな人物ではあるが、今はまだユリアのことを告げる気にはなれない。名取は色んな連中と付き合いがある。不用意にユリアのことを話したりしたら、彼女のことが他の連中に、どのような形で伝わるか分からないからだ。
「えっ、いやあ、中田さんはウチに仕事を頼むって話だったんですよ。でも、連絡が取れなくて困ってましてね」
(仕事ぉ? 何の仕事だよ?)
またまた聞いてくる。気になることがあると、しつこく嗅ぎ回る……これは、情報を売る人間にありがちな態度である。いわば職業病だろうか。
「それすらわからないんですよ。ウチみたいな零細企業は、ひとつの仕事の有無が明暗を分けますから。中田さんの仕事が無いとなると困るんですよ。いやキャンセルなら仕方ないんですが、そこだけでもはっきりさせてくれないと、後で因縁つけられても困りますし……」
草太は、ことさら哀れな声を出す。すると、スマホから笑い声が聞こえた。
(草太ぁ……おめえは本当にビビリだなぁ。まあ、中田のことは探してやるから安心しろや)
「えっ、本当ですか! ありがとうございます!」
今度は、いかにも嬉しそうな声を出した。
(まあ、俺に任せておけ。それにしてもよ、おめえは小さくまとまり過ぎなんだよ。俺に付いて来れば、もっと大きな世界を見せてやんのによ)
その後は、いつものように名取の自慢話が始まる。彼の機嫌を損ねる訳にもいかない草太は、適当に相づちを打ちながら話が終わるのを待っていた。
数分後、名取の自慢話からようやく解放され、思わず安堵のため息を吐く。後は、名取が中田を見つけてくれるのを待つだけだ。
実のところ、加納春彦に頼めば手っ取り早い話なのかもしれない。加納は、流九市の裏社会では知らぬ者のない男だ。中田を見つけられる可能性は、名取よりは確実に高い。
だが、その見返りに何を要求されることか。ひょっとしたら、一晩付き合えなどと言ってくるかもしれないのだ。
加納は、確かに超絶イケメンではある。しかし、草太にそっちの趣味は無いのだ。それだけは、ちょっと勘弁して欲しい……などと考えていた時、草太のスマホに着信があった。見ると事務所の電話番号である。美桜が、ユリアとの入浴という任務を終えたらしい。
「やあ美桜ちゃん、風呂いれてくれたかい?」
軽い調子の草太に対し、スマホから聞こえる声は微妙に裏返っていた。
(は、はい! おおお終わりました! す、すぐ来てください!)
思わず苦笑する。美桜は、電話での会話に慣れていない。そのため、たまに電話をかけると……緊張のためか、妙に裏返った声になる。
もっとも、彼女の過去に遭った出来事を考えれば、それも無理からぬ話なのだが。
「わかった。じゃ、今から帰るからね」
しかし、事務所に帰った草太を待っていたのは、腕組みをして睨みつけてくる美桜であった。
「草太さん、あなたはユリアちゃんに何を食べさせました?」
いきなり鋭い声で聞かれ、草太は困惑した。いったい何が起きたのだろうか。
「えっ、おにぎりとか、菓子パンとか食べさせたんだけど──」
「何を考えてるんですか! 育ち盛りの子供には、栄養のバランスを考えた、ちゃんとしたものを食べさせてください!」
怖い声で怒鳴られ、草太はたじたじとなる。思わず後ずさっていた。
「えっ……わ、わかったよう。次からは、もっとちゃんとしたものを食べさせるからさ──」
「本当ですね! 明日もチェックしに来ますよ! わかりましたね!」
「う、うん、わかった」
たじろぎながら、草太は頷いた。一方、美桜はサングラスとマスクを付け、野球帽を被る。プリプリ怒りながら、事務所を出ていってしまった。
「おいユリア、美桜お姉ちゃん怒ってたな。どうかしたのか?」
美桜が帰った後、ユリアに尋ねてみた。すると、少女は小首を傾げて難しい表情をして見せる。要するに、わからないという意思表示だろう。
「そうか。ところで、美桜お姉ちゃんは好きか?」
聞いてみると、ユリアはブンブンと首を振る……言うまでもなく縦に。
微笑みながら、少女の頭を撫でる。どうやら、ユリアは美桜を気に入ってくれたらしい。
「それは良かった。明日も、美桜お姉ちゃんは来るからな。風呂に入れてもらうんだぞ」
草太の言葉に、ユリアはニコニコしながら両手を挙げる。バンザイのジェスチャーのようだ。
その仕草を見て、笑みが浮かんだ。ユリアは本当に可愛い娘だ。ひょっとしたら、この少女との出会いが、美桜の母性本能を目覚めさせてしまったのかもしれない。
いずれにしても、美桜の存在はユリアにとってありがたいものだし、また草太としても彼女に来てもらえば助かる。
それに……ユリアとのふれあいが、美桜の傷だらけの心を癒してくれるかもしれない。
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