草太、ユリアを預かる

 その日、草太は事務所のドアホンに起こされた。

 眠い目をこすり時計を見ると、まだ朝の八時である。いつもは熟睡している時間帯だ。少なくとも、営業するには早い。にもかかわらず、ドアホンは止まることなく鳴り続けている。来訪者は、ボタンを連打しているらしい。

 腹が立ち、荒い声を出した。


「まだ開いてないよ。失せろ」


 だが、外にいる何者かは諦めない。今度は、ドアを乱暴に叩き始める。さらに、怒鳴り声も聞こえてきた──


「草太! 俺だ! さっさと開けねえと、このドア叩き壊すぞ!」


 この声には聞き覚えがある。非常に危険な人物なのだ。ドアを開けない訳にはいかない。さもないと、表に来ている者は本当にドアを壊しかねないのだ。草太は顔をしかめながら立ち上がり、玄関まで歩いた。


「あ、これはどうも中田さん。失礼しました」


 ドアを開け、ペコリと頭を下げる。

 次の瞬間、強烈な力で突き飛ばされた。草太は派手に吹っ飛び、床に尻餅をつく。


「いててて……何をするんですか?」


 顔をしかめながら、起き上がる。彼の目の前には、大柄で人相の悪い中年男が仁王立ちしていた。黒いスーツの上からでも充分に分かるガッチリした体格と曲がった鼻、五分刈りの頭、さらに野獣のごとき鋭い目付きの持ち主だ。


「おいコラ草太、お前に仕事を依頼しに来たんだ。引き受けなかったら、今すぐ殺す」


 中田は低い声で、凄むように言った。対する草太は愛想笑いを浮かべ、頷くしかない。

 この中田健介ナカタ ケンスケという男は、見たまんまのヤクザである。性格の方も、考えるより先に手が出るタイプの武闘派であり、若い頃はボクシング部だったらしい。草太としては、全く歓迎できない男なのだ。


「ユリア、こっちに来るんだ。ちゃんと挨拶しろ。これからは、草太お兄ちゃんの言う通りにするんだそ」


 中田は後ろを向いて、ぶっきらぼうな口調で言った。すると、彼の背後から白いコートを着た小さな子供が顔を出す。電柱に隠れて尾行している探偵のごとく、顔と体の半分だけを出して草太を見ていた。見た感じ、年齢は八歳から十歳くらいだろうか。


「この娘を、しばらく預かってくれ。名前はユリアだ。ほら、とりあえずの手付金をやるから」


 言いながら、中田はポケットに手を突っ込み、しわくちゃの紙幣を掴み出す。その紙幣を、草太の目の前に突き出した。


「今はこれで何とかしろ。足りない分は、後で払うから。それとな、ユリアは喋れないんだ。だから注意しろよ」


 有無を言わさぬ中田の態度に、草太は顔を引きつらせながら金を受け取った。いったい何事なのかは分からないが、もし嫌だと言ったらただでは済まないのは明白である。


「いいか、ユリアから絶対に目を離すな。外にも連れ出すんじゃねえ。もしもユリアの身に何かあったら、お前の頭の皮を剥いでやるからな」


 そう言うと、中田は焦ったような表情を浮かべ、キョロキョロ周りを見回しながら出て行った。




 中田が去って行った今、事務所にいるのは草太と少女のふたりきりである。

 彼は仕方なく、ユリアと呼ばれた少女を見てみた。髪は栗色で、肌は透き通るように白い。瞳は青く鼻は高く、はっきりした造りの顔である。まるで欧米人のような……だが、どこか東洋人の親しみやすさも兼ね備えていた。

 これはどうしたものだろうか。草太は、思わず首を捻る。ユリアといえば、かつて大ヒットした世紀末格闘マンガのヒロインの名前である。となると、日本人が名付け親なのだろうか。しかし断定は出来ない。何より、この顔立ちからして純粋な日本人とは思えない。恐らくは外国人、もしくは外国人と日本人のハーフであろう。

 そういえば、中田は言っていた……この少女は喋れない、と。喋れないのは仕方ないが、こちらの言葉は通じるのだろうか。外国人だとしたら、通じない可能性もある。

 もう一度首を捻りながら、ユリアを見つめる。しかし、ユリアは警戒心に満ちた表情で草太を見返してくるだけだ。

 ふたりの間に、何とも気まずい空気が流れている。仕方ないので、ヘラヘラ笑って見せた。だが、ユリアの方はニコリともしない。眉間に皺を寄せ、じっと草太を見つめている。いや、睨んでいるといった方が正確か。怪しい奴め、とでも言いたげな表情だ。

 確かに、今の草太は汚いジャージを着た寝癖だらけの姿である。怪しい奴、と言われても仕方ないだろう。

 草太とユリアは無言のまま、しばらく見つめ合っていた。




 しかし、両者の間の気まずい空気を破壊する救世主が現れる。

 突然、にゃあ……という可愛らしい声が聞こえた。草太が振り向くと、一匹の猫が後ろに来ている。白く肉付きのいい体に黒のブチ模様が付いており、尻尾は長い。丸い顔にまんまるの大きな瞳で、こちらを見つめている。


「おおカゲチヨ、帰ったのか」


 その言葉に、猫はにゃあと返事をした。草太は微笑みながら、ちらりとユリアの方を見てみる。

 ユリアは大きな瞳を輝かせ、まじまじとカゲチヨを見つめていた。先ほどの警戒心に満ちた表情は消え失せ、代わりに子供らしい顔つきになっている。


「ユリア、猫は好きか?」


 尋ねると、ユリアは首をぶんぶん振る……言うまでもなく縦に。ヘッドバンキングでもするかのような勢いで、首を振っている。

 草太は、思わず笑みを浮かべていた。これでふたつのことが分かった。まず、ユリアはこちらの言葉が理解できるということ。

 そして同居人、いや同居猫であるカゲチヨを気に入ってくれたということ。


 このカゲチヨは、五年前に草太が拾って来た猫だ。臆病なのか、事務所の中とその周囲を常にうろうろしており遠くに行こうとはしない。性格は人懐こく、事務所に来た客に対しても愛想がいい。

 今も、その人懐こさを存分に発揮している。恐れる様子もなく、のそのそとユリアの前に歩いてきた。尻を地面に着け、前足を揃えた姿勢で彼女を見上げている。お前は何者だ? とでも言わんばかりの様子だ。

 そんなカゲチヨに、ユリアは瞳を輝かせながら手を伸ばす。

 彼女の小さな手が、カゲチヨの頭に触れた。


「優しく撫でてやれよ。猫だって、痛くされるのは嫌なんだからな」


 草太の言葉に、ユリアは頷いた。小さな手がぎごちなく動き、カゲチヨの白黒の毛をそっと撫でていく。

 すると、カゲチヨの喉がゴロゴロ鳴り出した。さらに近づいていき、ユリアのそばで体を丸める。もっと撫でても構わんぞ、とでも言いたげな態度だ。

 ユリアの顔に、満面の笑みが浮かぶ。さらに手を動かし、カゲチヨの背中を優しく撫でた。

 そんな彼女を横目で見つつ、草太は中田から受け取ったしわくちゃの札をチェックしてみる。

 全て千円札だ。トータルで七千円。これは、何かの罰ゲームだろうか。


「おいおい、ガキのバイトじゃねえんだぜ……」


 思わず毒づいたが、実際ガキのバイトより安いだろう。これでは手付金にもならない。そもそも、この少女の食費は誰が払ってくれると言うのだろう。

 苦り切った表情でふと横に目をやると、幸せそうな顔のユリアがカゲチヨを撫でている。

 草太は溜息をついた。金がないからといって、今さら追い出す訳にもいかない。

 仕方ない。とりあえずは面倒を見るとしよう。




「こりゃ、困ったもんだね……」


 事務所のソファーに座り、草太は誰にともなく呟いた。

 その傍らでは、ユリアがテレビを観ている。いかにも興味深そうに、画面に登場する者たちをじっと眺めていた。

 カゲチヨは餌を食べた後、満足そうにユリアの隣で眠っている。飼い主である草太よりも、ユリアの方に懐いてしまったのかもしれない。

 テレビに夢中になっているユリアを横目で見ながら、草太は考えてみた。

 まずは、中田と連絡を取らないことには話にならない。ユリアに関し、もっと詳しい情報が必要なのだ。それに、どういった理由でユリアを預からねばならないのか、も。

 ここで問題なのは、草太が知っているのは中田の電話番号だけ……という事実である。基本的に裏社会の住人というのは、メールやLINEといった証拠の残りやすいものを嫌う。そのため、電話での連絡が主となりやすいのだ。

 中田もまた、メールやLINEでのやり取りを嫌っていた。したがって、彼との連絡手段は電話に限られている。だが問題なのは、電話だと中田との会話をユリアに聞かれてしまうということだ。

 正直、いたいけな少女に金の絡む話は聞かせたくない。草太は立ち上がると、ユリアに声をかけた。


「ユリアちゃん、俺ちょっと外に出てくるから。おとなしく待っててね」


 だが、直後のユリアの行動は想定外のものだった。彼女はすぐさま立ち上がり、草太のそばに走って来た。

 彼の手をしっかりと握り、何か言いたげな表情で見上げた。


「えっ、どうしたんだよ? 俺はちょっと外に出るだけだから。すぐに帰って来るよ」


 唖然とした表情で草太は言った。だが、ユリアは彼の手を握ったまま、じっと見上げている。絶対に離さないぞ、とでも言いたげな表情になっている。


「な、なあ、離してくれよ。これから大事な用事があるんだから」


 草太は、何とかユリアをなだめようとした。だが、ユリアは首を横に振った。ひとりにされるのが不安なのだろうか。


「い、いや、大丈夫だから。すぐ帰って来るからね」


 優しい口調で言いながら、さりげなくユリアの手を外そうとした。しかし、彼女は掴んだまま離そうとしない。

 困ったことになった、と複雑な表情を浮かべる草太。何があったのかは知らないが、この少女はひとりになりたくないらしい。

 となると、今の俺にはひとりで外出する自由すらないのか……そんなことを思いながらも、顔ではニッコリと笑って見せた。


「わかったよ、ユリア。お前をひとりにはしないから安心しろ」


 言いながら、ユリアの頭を撫でる。すると、少女はようやく手を離した。

 テレビ画面では、二本足で立つ猫のような奇怪な生き物と、カラス天狗のような妖怪が何やら親しげに語り合っている。

 草太には何が何だか分からないが、ユリアはとても楽しそうだ。二匹の奇妙な生き物のやり取りを、食い入るように見つめている。


(それは困りましたニャ、てんぐさん)


 テレビから、そんな声が聞こえてきて思わず苦笑する。今の、彼の心境を言い表しているかのごとき言葉だ。

 実際、草太も困っている。朝から、訳の分からない出来事が立て続けに起きているのだ。どう対応したものだろうか。




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