第3話
津川に追われる琴葉は逃げようとも足が動かなかった。重々しく嫌な革靴の足音が、体を縛り付けているような感覚だ。普段なら後ろに向かって全力で走れば簡単に逃げられるはずなのだが、今はそうは行かない。まさに蛇に睨まれたカエルとでも言うべきだろうか。琴葉は自然と呼吸が荒くなる。
「どうした? 逃げないのか? それとも逃げられないのか。あんな口叩いてたのにな」
「逃げるわけには、行かないからなっ」
津川は不敵な笑みを浮かべ、琴葉の腕をガシッと掴む。強く、簡単には解けそうもない。
「離せっ!」
「離せと言われて離すわけがないだろ? それくらい犬でも分かるさ」
嫌味な津川と恐怖心を抱き動くことの出来ない自分自身に腹が立つ。津川の手を必至に振り払おうとするも、やはり逃れる事が出来ない。
狂気じみた目と腕を掴むその強さから、津川が本気で人を殺そうとしているのだという事が伝わってくる。これは決して悪い冗談などではない。
「友達を助けようとしたその勇気は褒めてやる。だが、自分が犠牲になるとはよっぽどの阿呆だな」
「お前程阿呆じゃないっ!!」
琴葉の問いに何も返さない津川。もはや私の声など耳に入っていないのだろうか。その目は稲妻のように鋭くもあり、どこか雨雲のようでもあった。目があったまま、吸い込まれそうな感覚に陥る。
ふと、ポッケに天体観測用の小さな懐中電灯が入っていた事を思い出した。これで何か出来るかだろうか。どうせなら最後まで抵抗してやりたい……。なのに――。何故だろう。手が震えて仕方無い。思えば、これまで自分から嘘に、足音に向き合った事などあっただろうか。これまでの出来事が後悔という波となって押し寄せる。
「その手にあるのは何だ?」
「あっ」
悩んでいるうちにすっかり懐中電灯を隠す事を忘れてしまっていた。津川は琴葉の持っていた懐中電灯を無理やり奪い取る。
「懐中電灯? こんなもので抵抗出来るとでも?」
「やめろっ!」
勢いよく投げ捨てられた懐中電灯は鋭く空気を切り、廊下の端へと追いやられてしまう。ガシャンという重い音をたてて、ただの金属の塊と化した。そこに光はない。今度こそ、なす術が無くなってしまった。
「夕方だ。まだ懐中電灯は必要ない」
「部活で使う物だ。投げるなよっ」
「部活? もう関係の無い事だろ」
「よくそんなこと言えるよな。まともに部活に来ないくせにっ」
「フッ、忙しいからな」
馬鹿にしたように笑う津川に言い返してやりたい。やり返してやりたい。ただ頭で思うだけで、口も腕も足も、自ら動こうとはしてくれない。
段々と近づく校長室。私はこのまま……。遂に津川はその扉をゆっくりと開けた。既に目が痛い。やはり部屋には何かが充満しているようだ。
「この夕立じゃあ誰も気がつかないだろうな。残念だよ。さよなら、琴葉さん」
“とんっ”と津川は琴葉の背中を押す。琴葉はその場に静かに倒れ込んだ。
「ぐっ、津川っ!!」
扉がギィと小さな音を立てて閉まる。意識も次第に遠のいていった。
ああ、どこかで音がする。幻聴だろうか。それでも遠くから「タッタッタ」と足音が聞こえてくる。夕立の音にもかき消す事のできない靴の音である。
“ドサッ”
何かが倒れた様な重い音が聞こえてくる。扉の外で何が起こったのだろう。そして、再びガチャッという扉の開いたような音がした。それ以降、琴葉の耳に音が届くことはなかった。
――それから少し経って――
目を開くと、明るい蛍光灯の光が目を突き刺した。ソファの上らしく、フカフカとした感触がある。ここはどこなのだろう。津川に押されて……。それから先の記憶が全くない。
起き上がり辺りを見渡すと、高そうな椅子やテーブルが並べられていた。壁には歴史を感じる色あせた集合写真が掛けられている。
「くだらない嘘でもついておくものですね」
ふと声のした方を向くと、見覚えのある姿がそこにはあった。
「こっ、校長先生……?」
「はい。校長の高橋です」
穏やかな校長先生の顔。どうやら私も先生も生きているらしい。そうか。ここは、校長室か。
「もしかして助けてくれたのって……」
「まあ、私の責任でもあるからね。それより琴葉さん。あの時嘘ついたでしょ?」
あの時――。あぁ、化学室の前で盗み聞きしていた時の会話か……。確かに落とし物をしてしまっと嘘をついたっけ。いつもは辿る側だったのに、今回は辿られたんだ。
「先生も、足音が聞こえるんですね」
「ええ。何十年も聞いてきました。流石にこの年になると耳も辛くてね。ごめんなさい。足音を消していたのは私だよ」
校長は机から万年筆を取り出してきた。わりと新しい物らしく、光沢を帯びている。
「嘘をつくと足音が刻まれる。だがね、その人の物を持ってその足音を辿ると、それが足音を吸い取ってくれるんだよ。これは津川先生から貸してもらったものだ」
万年筆を渡される。見た目以上に重く、万年筆からは振動が伝わってきた。足音が、本当にここに入っているのだ。
「これが足音の重さなんですね」
「そうです。同時に罪の重さでもあります」
校長先生は学校に広がる足音を毎日消していたらしい。鳴り響く騒音に耐えられなかったのだという。津川のしていた事はもちろん分かっていた。だが、大きな騒ぎにするのが嫌で、代わりに毎日足音を消したのだという。今までの違和感も、すべて校長先生によるものらしい。
「情けないだろう。せっかく足音が聞こえるのにね。でも、琴葉さんの姿を見て決めたんです。足音に、向き合ってやろうと」
「やっぱり、悩みは同じなんですね。あの、津川先生はどうするんですか」
「もちろん、厳正な処罰を受けてもらう。本当に申し訳無い。気がついたあの時にそうしていれば良かった」
静かに琴葉は首を横に振る。
「あれがあったから、私は足音に向き合えたんですよ。後悔はしていません」
「ありがとう。それはそうと、琴葉さんのお友達がずっと心配していましたよ」
「えっ」
校長先生が『どうぞ』と言うと、ガシャンと扉が勢い良く開き、咲花と小柴が駆け寄ってくる。咲花の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「あんな無茶一人でして、ほんっとに……」
「ごめん。確かに無茶だった」
「マジでやめろよ。大丈夫なん?」
「ありがとう。もう、全然大丈夫だからさ。ごめん」
――それから――
津川は教職解雇となり、静かにこの学校を去っていった。本来なら大きく報道されても良い事件なのだが、特殊な能力が関わっているということもあり、校長によって秘密裏に手続きは行われたらしい。だからといって全てが解決したわけではない。咲花はあの事をまだ少し引きずっているようである。真実を知っているのは、琴葉と校長先生だけだ。咲花と小柴にはもちろん足音のことを言うわけにはいかない。
「あの時はごめん……。私のせいで巻き込んじゃって、助けにも行けなかったし……」
「気にしなさんな。楽しく、残り半分しかない高校生活を楽しみましょうよ」
「やっぱり琴葉は優しいですな。これからもよろしくお願いします」
フフッと二人で笑う。二人の目の前には真っ青な空が広がっている。
今日も散歩をする。特に意味があるわけではない。いつの間にか事務室前に来ていた。やっぱり来てしまうのだなぁと思いながら、水槽を眺める。透き通った水槽には、きれいな金魚たちが優雅に泳いでいた。
「美しいですね」
「でしょ? 頑張って掃除したんですよ」
校長先生はニコニコと水槽を眺めている。鍋山さんもいつの間にか事務室から現れ、校長先生と楽しそうに話している。
「そういえば、新しい顧問は誰がいいかね?」
「校長先生がいいです。もちろん、嘘じゃあ無いですよ」
「分かっています。ふふふ。そういえば、これを渡し忘れてました」
「これ?」
渡されたのは、青色のピカピカとした小さな懐中電灯だ。以前の無機質な黒いものでは無かった。
「前の物は少々使えるような状態では無くなってしまったのでね」
「あっありがとうございます。大切に使わさせていただきます!」
――そして暗くなって――
星がぎゅうぎゅうに敷き詰められた空を眺めながら、忙しすぎた夏のはじめを思い起こす。
「流れ星見えた?」
「見えないなぁ。今日は流星群じゃなかったの?」
「そうだよ。おっかしいな」
静かな屋上。天文部のみんなと、咲花とリフレッシュがてら流星群の観測をすることにしたのだ。風が気持ちよく、絶好の日和である。
「せんせ〜い、何で見えないんでしょう?」
「もうすぐ見えますよ。あっ、ほら!」
「えっ、先生ずるいですよ!!」
一年生と校長先生が流れ星を見つけた数で競っている。なんて平和なのだろう。先生も楽しそうだ。
「咲花、小柴、私達も勝負しよっ!!」
「仕方ねぇなぁ」
「負けないぞっ!!」
まだまだ夏は続く。前はそれが憂鬱だったが、今は全くそうではない。
嬉しそうに望遠鏡を覗く先生。こんな時に悪い気もするが、つい、疑問に思っていた事を聞いてみたくなってしまう。
「先生、足音はあるべきですかね?」
「正直無いほうが嬉しいです。でも、聞こえることが今はちょっと楽しいのですよ」
ニコッと優しく笑い、再び一年生と流れ星探しを始める。無邪気な姿に思わずこちらまで笑顔になった。
足音は嘘をその空間に記憶する。辿ればその人に辿り着く。人を傷つける嘘は酷い音がする。優しい嘘は優しい、静かな音がする。嘘は嘘であるのに、音は全て違う。
これからも多くの足音に出会うだろう。辿った先に何があるのか、真実はどうであるのか。どんな足音も、自分自身で、これからは確かめていこう。
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