3、 ――2002年 9月22日

 花瓶に挿したヒガンバナが急に色を失ったのは、およそ一週間後のことだった。

 満月の翌日だった。その頃には私は夢から覚め、何だか怖くなってしまっていた。

 その日は日曜日で、ヒガンバナが枯れていることに気づいた私は、仕事に行かないでと母に縋った。けれどその理由を説明することはできず、結局私は部屋に1人残された。

 いっそヒガンバナを捨ててしまおうかと思った。けれど、それでお兄さんとの約束が消えるわけではない。それにまだ、私はお兄さんのことが好きだった。

 大丈夫。お兄さんは幽霊なんかじゃない。

 本人はそう言うけど、あんなに優しい彼が、幽霊であるはずがないと自分に言い聞かせた。彼は一緒にお話してくれて、私をアパートまで送ってくれた。幽霊はもっと怖いもののはずだ。お兄さんの言う《迎えに行く》とは、きっと《遊びに行く》ということなのだろうと思い直した。

 そんなことばかり1日中考えて、そうしているうちにいつの間にか日は沈み、眠らなければならない時間になった。

 何もない1日だった。明日からまた幼稚園に行き、友達と遊ぶ。

 あの日のように、窓の外を見たりはしなかった。私は布団にくるまって丸くなると、時計が秒針を刻む音を聞きながら、安心してすぐに眠ってしまった。


 ――不思議な夢を見た。

 まるで色鉛筆画のような世界だった。空は白く、何時(なんじ)かは分からない。目の前には見たこともないような大きな木があって、傘のように生い茂る常緑の葉っぱが揺れる。

 木の向こうで、誰かがうたっている。透き通るような、高い声で。


 しんしんと あかいなみだを ながす子よ

 なかないで 

 なみだをおはなに ながしましょう

 あかいおはなを もつ子らよ

 むかえにいくよ むかえにいくよ


 はっと私は目を覚ました。

 真っ暗で何も見えない。それは、私が布団に潜り込んでいるからだ。布団の隙間からひんやりとした空気が流れ込んできて、さっきまでこんなに寒かっただろうかと疑問に思う。 

 今は何時だろう。母はもう帰ってきているのだろうかと、私は布団から頭を出した。

 目の前に、すらっと白い足が見えた。

 寝ぼけたまま、何度かまばたきをする。寝室がほの暗かったので、私は母が立っているのだと思った。けれど、それは違うと分かった時、全身からサァッと血の気が引いた。

 本当に怖い時は、声も出ないのだと知った。

 悲鳴をあげたつもりだったけれど、私は掠れた息だけを漏らして布団から飛び起きた。何も考えられない頭で、腰を抜かしたように後ずさると、背中をぴったりと壁につけて震える。

 立っていたのは女性だった。母よりも若く見えるその女性は、ヒガンバナのように真っ赤なワンピースのドレスを着ていた。手足は細く、生気がない。私を真っ直ぐ見据えるその瞳だけが、魂を宿しているようにゆらゆら揺らめいていた。

「あなたが、満ちゃん?」

 穏やかな声だったけれど、私は返事をすることが出来ない。

生ぬるい風がぶわっと寝室に入ってきて、芥子(からし)色のカーテンが大きくたなびいた。私は窓が開いていることに気づいて、外の様子に違和感を覚えた。

 煌々と照りつける橙色、誰かが談笑する声、混ざり合う十色(といろ)の音。

 やっとの思いで動けるようになった私は、勢いに任せてカーテンを一気に開け放ち、戦慄した。

 お寺の墓場に、数え切れないほどたくさんの人がいた。いや、人ではない。

 酒を酌み交わす、角(つの)の生えた赤い男と、腕にたくさんの目がついた女。

 その横でごうごうと眠る、頭の大きな老爺。

 桜の木の下で駆け回る1つ目の子ども。その後ろを、しっぽが2つに分かれた猫が追う。

 近くでは、カラスの羽を生やした青年が琵琶を奏で、それを聴く顔がない人々が彼の前に堵列(とれつ)をなす。空中を漂う細長い布きれには顔がある。

 そこだけ切り取られたように真っ黒な夜空に、ぽっかりと不気味に浮かんだ丸い月の中では、兎がお餅をついていた。

 桜の木と木を結んだ紐に提灯(ちょうちん)をぶら下げ、彼らはまるで宴でもしているかのようだった。賑やかに笑い、酒を呑み、陽気な歌をうたっていた。

「友達が増えるんだよ」と、朧(おぼろ)に揺れる火の玉をたずさえて、頭の後ろに口がある女の子が言った。

 墓地には真っ赤なヒガンバナがまるで河のように狂い咲き、植え込みを隔てた道の方にもぽつぽつと赤い花が咲いている。

 私はアパートの下に、片方しか車輪のない牛車が止まっているのを見つけた。車輪は火の輪みたいに燃え盛っていて、どうして他の部屋の人たちは気づかないのだろうと思う。

「満」

 後ろから声がした。慈しむようなその声が、誰のものか分かってしまった私はゆっくりと振り返る。女性の隣で、お兄さんがにんまりと笑って立っていた。

「迎えに来たよ、満。一緒に行こ?」

 お兄さんの両目は金色に煌めいている。それはまるで地上の月で、暗い部屋の中、彼の白い肌さえ艶かしく発光しているように見えた。これまでは一緒にいると安心できたはずのお兄さんは、この瞬間私にとって恐怖の対象でしかなくなった。

 頭は打ち付けられたようにガンガンと痛み、冷たいものが喉元までせり上がってきて、私はそれを吐き出すように力いっぱい叫んだ。

「お母さん! お母さん!!」

 私は駆け出した。キッチンには、母がいるかもしれない。寝室とキッチンをつなぐこのふすまを開ければ、きっと母が助けてくれると信じた。

「――お母さん!」

 お兄さんとすれ違い、私はふすまに手を伸ばす。そうして私の手が届く前にふすまは開き、眩しい光の中で母が不思議そうな顔をしていた。

 私は母に抱きついた。「満?」と母は私の顔を覗く。母にはお兄さんたちの姿が見えていないのだと分かって、私はぼろぼろと涙をこぼした。

 母は私の肩にそっと手を置くと、両ひざを床につけてしゃがんだ。私は母の胸に顔をうずめる。そうしていると母の温もりを全身に感じ、お兄さんたちのことも見ずに済んだ。

 嗚咽を漏らしながら、私は必死に母に助けを求める。

「こわい! こわいよお! おばけがいっぱいいるの! みちる、つれていかれちゃうよ! お母さん、たすけて……!」

 何度も、何度も、お母さんと呼んだ。私には、それがもうずっと久しぶりのことのように思えて。

 私の背中を、母がぽんぽんと優しく叩いた。それからぎゅっと抱きしめてくれて、私の耳元で、まるで子守唄をうたうように囁いた。

「満。大丈夫、連れて行かれたりしない」

「お母さん……」

 父と別れ、なくなってしまったと思っていた母の愛は。

 私が信じられなかっただけで、本当はいつだってすぐ傍にあったのだろうと、人ならざる者が蔓延(はびこ)る夜に心の底から思えた。

「……やっぱり満は、こっちに来ないんだね」

 後ろから、お兄さんの声が聞こえた。とても寂しそうな声だったけれど、私はまだ怖くて、母の胸から顔をあげることが出来ない。

「それでいいんだよ、満。僕も、約束を破ったことがあるんだ。……生まれてくるって約束したのに」

「……えっ?」

 私は振り返った。そこにはもう、お兄さんはいなかった。お兄さんも、隣にいた女性も、確かにそこにいたという温度さえ残さずに。

 妖怪たちの宴も、いつの間にか消えていた。虚しくぱたぱたとひらめくカーテンの向こうには、キラキラと輝く星々と、十六夜(いざよい)の月が静かに佇んでいるだけだ。

 やがて月は翳り、私が泣き止む頃には、花瓶に挿していたはずのヒガンバナもなくなっていた。

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