2、――2002年 9月16日

 同じ幼稚園に通う子どもの中では、私は比較的おとなしい方だったように思う。

 さくら組の教室で、私は自分の席に座り、絵本を読んでいた。まほうの手を持つ女の子のお話だった。

「みっちゃん」と、私は後ろから声をかけられた。

「かえったら、いっしょにあそぼ!」

 夏希(なつき)ちゃんという名前の、誰とでも仲良くなれるような女の子だった。

「だめ。お母さんに、おべんきょーしなさいっていわれてるの。〈しょーらい〉のためなんだって」

「ふーん」

 夏希ちゃんはもう私に興味をなくしたようで、別の友達のところに駆けていった。私は何だか無性に悔しくなって、すぐに夏希ちゃんの後(あと)を追う。

「やっぱり、みちるもいっしょにあそぶ!」

「いいよぉ」

 午後2時を過ぎた頃、母が幼稚園に迎えに来た。母が運転する車に乗り、アパートまでのおよそ5分の道のりも、母と会話することはなかった。仕事帰りで疲れている母が、無意識に険しい目をしていたのが、私はどうしようもなく怖かった。

 アパートに帰ると、母は「肉じゃが、温めて食べるのよ」と私に言い残して、再び別の仕事に行った。冷蔵庫を開けると、漆の器に盛られた肉じゃがと、ラップで包まれた小さなおにぎりが入っていた。肉じゃがは母が作ってくれたものではない。私は父がいた頃の、母の温かい手料理が恋しかった。

 勉強は放り出して、公園に遊びに行った。公園には夏希ちゃんと、泣き虫の裕子(ゆうこ)ちゃんがいた。私たちはブランコに乗って遊び、誰が1番高くまで漕げるかを競った。

 ギィ、ギィとブランコの音を立てながら、夏希ちゃんは私に言った。

「みっちゃんのふく、あんまりおしゃれじゃないね」

 意地悪などではなく、思ったことを素直に口に出したような言い方だった。実際、私の服はおしゃれではなく、男の子が着るような、白いシャツとズボンだった。

 私は服装に無頓着だった。母とそういう類の店に行くこともなく、ただ、一緒に選んだら楽しいのだろうなと思った。

 夏希ちゃんの言葉を特に気にすることもなく、私は座り漕ぎから立ち上がると、グンと一層力強くブランコを漕ぐ。

「このふくのほうが、ぶらんこのりやすいよ」

「あっ! ほんとだ!」と、夏希ちゃん。

「みっちゃん、たかーい」と、裕子ちゃんも感心したように、彼女特有の間延びした声をあげた。


 最初に帰ったのは裕子ちゃんだった。まだ日も暮れない頃、中学生くらいのお姉ちゃんが迎えに来て、まだ遊びたいと泣きながら手を引かれていった。

 鉄棒で、逆上がりの練習をした。やがて太陽が西に傾くと、夏希ちゃんのお母さんが迎えに来た。

 夏希ちゃんのお母さんは、私に小さなチョコレートをくれた。

「満ちゃんは、ママ迎えに来る?」

 私は頷いたけれど、嘘だった。優しい母を持つ夏希ちゃんに、みっちゃんのママは来ないんだ、と思われるのが何だか惨めで。

「ばいばい!」と、仲良く手を繋いで帰る夏希ちゃんの姿を、私はぽつんと影を伸ばして見送った。

 しばらくして、私は宵闇に向かって歩き始めた。東の空には、鱗のような形をした白い月が浮かんでいる。1人ぼっちで歩く時間は寂しくて、やっぱり部屋で勉強していれば良かったと後悔した。

 林と田んぼに挟まれた道は薄暗かった。田んぼはいつしかヒガンバナ畑に変わり、頃合いになったヒガンバナが真っ赤に咲き乱れている。

 自転車に乗った中学生の子たちとすれ違い、ちょうどひとけのなくなった時「満」と、誰かに後ろから声をかけられた。

 その穏やかな声は、以前の母に似ていて、私は母に呼ばれたのかと驚いて振り返る。

 けれどそこに母はおらず、2日前に墓地で出会ったお兄さんが佇んでいた。

「1人?」

 お兄さんに尋ねられ、私はこくりと頷いた。お兄さんは優しい微笑みを浮かべると「それじゃぁ一緒に帰ろう」と私に言った。


 お兄さんは私の隣を歩いた。私は自分の速さで歩いていたので、お兄さんが合わせてくれていたのだと思う。

 あの夜はお兄さんに質問されてばかりだったので、今度は私から彼に尋ねた。

「お兄さんのお母さんって、どんなひと?」

 お兄さんは1番星を仰いだ。

「そうだなぁ、優しくて……は、前も言ったよね。えーっと、いつも赤い服を着てて、それと……ふふ、ちょっと頼りないかな」

 お兄さんが笑いを漏らして、私は不思議に思った。

「……お母さんなのに?」

「頼りないっていうか、ちょっと抜けてる。よく転ぶし、牛車(ぎっしゃ)から落ちそうになるし、僕が見てなくちゃいけないんだ」

 知らない言葉もあったけれど、わりと危なっかしい人だということは分かった。

「……でも、やさしいんだよね」

「うん」

 にっこりと笑ったお兄さんは、とても幸せそうに見えた。

 夏希ちゃんには、優しい母がいる。裕子ちゃんにも。

 そしてお兄さんにも、私が会ったことのない優しい母がいるのだ。

「いいなぁ」と、私はいつの間にか呟いていた。そしてその瞬間、お兄さんはぴたりと歩みを止めた。

「……?」

 つられて私も立ち止まる。お兄さんはざわりと揺れるヒガンバナの群生を背に、薄茶色であるはずの両目を妖しく光る朱色に変えた。

「なら、一緒に来る?」

「えっ?」

 林を吹き抜ける風はうなり声のように。私は急に辺りが暗くなったような気がして、もうすでに太陽が山の尾根に沈みかけていたのだと気づいた。

「僕たちと暮らそうよ、満。僕のお母さんは、きっと満のことも愛してくれるよ。それに、仲間もみんないい人ばっかりだし、満と同じくらいの友達もたくさんいるから、毎日一緒に遊べるよ」

 じわり、じわりと太陽が沈んでいく。

 お兄さんの話が《普通ではない》ことくらい私にも分かった。しかし、それが却(かえ)って私を夢うつつの気分にさせたのかもしれない。

 遠い記憶になった、母と手をつないで歩いたこの道を。

 還らない記憶になった、父がいた頃の温かな家庭を。

 もう一度取り戻せるのなら、たとえ母が別の人になってもいいと、ひと時でも思ってしまったことが私にとって本当に哀しいことだった。

「……もう、さみしくない?」

「もちろん。みんな見た目が個性的だから、最初は怖いかもしれないけど、満ならきっとすぐに仲良くなれるよ」

「それならみちる、お兄さんといっしょにいく」

 私は夢を語るような口調だったけれど、お兄さんはとても嬉しそうに目を細めて笑った。

「本当!? じゃぁ、約束!」

 無邪気な声をあげながら、お兄さんはヒガンバナ畑に足を踏み入れる。近くに咲いていた一際真っ赤なヒガンバナにそっと手を触れ、そして根元から手折(たお)った。

 燃えるようなその1輪を、お兄さんは手を伸ばして私に差し出す。

「これを持っていて、満。この花が枯れた時、絶対迎えに行くから……」

 太陽は沈みきってしまった。

 私はヒガンバナを受け取ると、胸の前で握りしめる。その時ふと、私は風に乗って舞う金色(こんじき)の粒を見た。それは田んぼから飛んできたもみ殻だったけれど、やがてたくさんの粒がヒガンバナ畑にやってきて、西の空に残るわずかな夕焼けを頼りに煌めいた。

 月下(げっか)を揺らめく様子は、まるで火の粉が舞っているようにも見えて、私はその情景を心に収める。

 消えゆく夕焼けと、広がる宵闇。濃紺の空に星は瞬き、月は輝き始める。

 ヒガンバナの群生は炎、その上を飛ぶ赤とんぼは迷子みたいに右往左往し、全ての真ん中でお兄さんはにっこりと微笑んでいた。

 お兄さんは私をアパートまで送ってくれた。部屋に帰った私は、お兄さんにもらったヒガンバナを花瓶に挿し、玄関に置いた。

 色のない部屋の中で、そこだけが異様な鮮やかさをまとった。それは証のようなもので、このヒガンバナがある限り、私はお兄さんとの約束を胸に抱き続けた。

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