1、――2002年 9月14日

 コツン、と、窓に何かが当たったような音がした。

 特別蒸し暑い夜だった。真っ暗な寝室で、掛け布団を抱き枕のようにして眠っていた私はふと目を覚ました。

 多分、風で小石でも飛んできたのだろう。けれど、当時の私は何か気になったのか、のっそりと体を起こした。カーテンをそっと開いて窓の外を見る。街灯が明々と周りを照らし、墓地に並んだ何本もの桜の、ちょうど真ん中辺りの木からひらりと葉っぱが舞い落ちる様子まで、鮮明に見えた。

 葉っぱが落ちた先に、子どもがいた。一際大きな木に寄りかかるように座っているその子どもは、自分の正面に落ちてきたそれを手に取ると、月も出ていない不気味な紅(くれない)色の夜空に掲げ、眺めていた。

 今思えば、異様な子どもだった。伸ばした手は長細く、肌は白く、ゆらりと掴みどころのない空気をまとっている。目を逸らすと消えてしまいそうで、私はじっとその子どもを見つめた。

 歳(とし)までは分からず、性別も定かではない。けれど、なぜか私は、自分と同い年くらいだろうと思った。自分と同い年くらいの子が、こんな時間に、1人で何をしているのだろう。

 そう思った時、ふと、そういえば私も1人なのだと思い出した。母と2人暮らしの部屋に、1人。私は、母が〈おしごと〉に行っているのを知っていた。毎日遅くに帰ってくるので、毎日1人で先に眠る。

 壁に掛けてある時計に目を向けると、8時半だった。短い方の針が10(とお)を越えるまで母が帰ってこないことも、知っている。

 私はまだ桜の木の下に子どもがいることを確認して、カーテンを閉めた。

 きっとこの子どもは、人を、あるいは私だけを惹きつける、何かしらの力を秘めていたに違いない。

 でなければ私は、わざわざパジャマから服に着替え、鍵もかけずに部屋を抜け出すはずがなかった。もし大家さんや隣の人に見つかってしまったら、母に知られてこっぴどく叱られるのはまず間違いないのに。

 誰にも見つからないように、そろり、そろりとアパートの階段を下りる。空を見上げると、黒煙のような雲が星も月も隠していた。時折思い出したように強く吹きつける風は、蒸し暑さを幾分かましにしてくれた。

 こんな時間に1人で出かけたのは初めてで、私はかなり高揚していたように思う。   

 はやる気持ちを抑え、私はアパートの陰に隠れるように裏手に回る。音もなく、頭上を飛んでいた小さな蛾についていくと、ほどなく街灯の明かりの下に辿りついた。お寺の門は夜になると内側から閉められている。だから墓地に入るには、自分の身長ほどある植え込みを超えなければならない。

 けれど私は、植え込みと植え込みの間にちょうど良い隙間を見つけ、体をねじ込むようにして墓地に侵入した。比較的小さな墓地だけれど、突然目の前に広がった、誰が眠るとも知れない墓石(ぼせき)の列。そこだけがまるで蝕むような冷気を帯びているようで、私はぞわりと薄ら寒さを覚えた。

 桜の方に顔を向けると、子どもはまだそこにいた。目には見えない者のために作られたこの場所に、1人きりではないことに私はほっと安心する。

 近くで見ると、その子は男の子だったことが分かった。

 遠くからでも感じた神秘的な雰囲気は、なお一層感じられた。するりと白い肌は、日の光に一度も当たったことがないのではないかと思うほど。髪も、瞳も、全体的に色素が薄く、消えてしまいそうだと思ったのはこのせいだったのだろう。

 彼は10にもなっていなかったはずだけれど、まだランドセルも背負ったこともない私にとっては、とてもお兄さんに見えた。

 私がお兄さんに近づくと、薄茶色の目がこちらを見た。驚いたような様子はない。私が来ることを最初から知っていたかのような落ち着きで、ふっと彼の方から声をかけてきた。

「こんばんは。今日は月がきれいだね」

 女の子のような高い声だった。

 月なんて出ていない。そう思った時、ゆっくりと流れていた雲の切れ間から、真っ二つに割ったような半円の月が姿を現した。上弦の月というのだと、私は後(のち)に知った。

 私は少し驚いて、お兄さんの方をもう一度見た。

「だれ? どうしてここにいるの?」

 お兄さんは柔らかく微笑んだ。

「僕は幽霊だよ」

「うそだ。だってあしがあるよ」

「足がある幽霊だっているよ」

 私は信じなかった。幽霊とは例外なく恐ろしいものだと私は思っていた。不幸のうちに死に、命あるものを妬み、恨む、救われない魂。

 こんなにも優しい眼差しの彼が、幽霊だとは思えなかった。

「満(みちる)、幽霊は平気?」

 満、は私の名前だ。私はふるふると首を横に振った。まだ名乗っていないのに名前を呼ばれたことは、この時は何とも思わなかった。お兄さんは可笑(おか)しそうな顔で笑う。

「でも、1人でお墓に来られるんだね?」

「お兄さんがいるからへーきなの。それに、お母さんがゆーれいなんかいないって。みちるもそうおもうよ。だってみたことないもん」

 私がそう言うと、お兄さんは私の後ろにある桜の木を指差した。私は反射的に振り返ってその木を見る。

「あそこに何かいるの、見える?」

 私はじっと目を凝らして「なにもいないよ」と言った。本当にそこには何もいなかったのだけれど、お兄さんは喋り続けた。

「いるよ。風もないのに、葉っぱがゆらゆら揺れてるでしょ? いたずら好きの猫又が、木に登って遊んでいるんだ」

 お兄さんがそう言う間に、茶褐色に枯れた葉っぱが1枚、2枚、ひらりひらりと真下に落ちた。

「ねこ?」と私は首を傾げた。訳が分からず、桜の木ばかり見つめる私とは違い、お兄さんはどうやら腑に落ちたようだった。

「そっか、満は見えない人なんだね。あれ? でもそれじゃあ何で僕の姿が見えてるのかな? ……まぁいっか。おいで、満」

 お兄さんが私を手招きした。「隣に座って。一緒にお話しようよ」


 黒雲(くろくも)は去り、厳かな月の光が墓地を照らした。墓地の隅で、ぽつぽつと寂しげに咲くヒガンバナは、あと何日か経てば一帯を真っ赤に染め上げるだろう。

 私はお兄さんの隣に、ひざを抱えてしゃがみこんだ。お兄さんの隣にいると、少し前までの恐怖が嘘のようだ。彼は謎めいていたけど、不思議と私は心安らぐものを感じた。

 草むらから鈴虫の鳴き声が聞こえてきて、ここは生きる者の場所でもあるのだと知った。

「でも、ちょっと寂しいなぁ。満は本当に見えないんだね。もし見えたら僕の友達をいっぱい紹介できるのに。たとえば、そうだなぁ、あそこの墓石の辺りで駆け回ってる1つ目の子どもとか。あっちには僕のお母さんもいるよ」

 お兄さんの目線を辿っても、やっぱり私には何も見えない。

「お母さん?」

「うん。満にもいるでしょ?」

 私はこくりと頷いた。お兄さんは上機嫌になって話を続ける。

「僕のお母さんはね、すごく優しいんだ。毎日お話してくれるし、一緒に遊んでくれるから、友達と遊べない時だって寂しくないよ。ねぇ、満はお母さんのこと好き? 満はお母さんとどんなお話してるの?」

 お兄さんが私の顔を覗き込んできて、私は小さく首をかしげた。

「おはなしなんて、しないよ? だってお母さんは、みちるより〈おしごと〉っていうのがすきなんだもん。……あ、でも、まえはやさしかったんだよ。お父さんがいるときは、やさしかった」

 そう返事をする最中(さなか)の、息が詰まるような痛みが私の全てだった。幼い私は、なぜ母が〈おしごと〉をしているのか。〈おしごと〉が一体何なのかさえ、分かってはいなかったように思う。ただ後に、母はこの頃3つの仕事を掛け持ちしていたのだと知った。

「お父さん、いないの?」

「うん。〈りこん〉したから、お父さんもういないの」

 お兄さんには、〈りこん〉の意味がちゃんと分かっていたのだろうか。

私は淡々と答え「そっか」と、お兄さんも特に声音を暗くすることはなかった。

「じゃぁ、家でいつも1人?」

「うん。きょうも、お母さんが〈おしごと〉だから、ここにこれたんだよ。それに、ひとりでもぜんぜんひまじゃないよ。おえかきしたり、おべんきょーしたりしてるもん」

「お勉強って、楽しい?」

「ううん、たのしくない。でも、お母さんがやりなさいって。〈しょーらい〉のためだっていってた」

 私はそう言いながら、足元を跳ねていたコオロギをぱっと掴んで、お兄さんに見せた。

「……こおろぎ」

「怖がってるよ。放してあげて」

「ばいばい」

 そっと土の上に帰すと、コオロギは急いで遠くの方に跳ねていった。

「僕にはよく分からないなぁ。お母さんって、いつも一緒にいてくれるんじゃないの? いつでも優しくて、正しくて、僕たちのことを誰よりも愛してくれてる」

「あい?」私は首をかしげて、お兄さんの目をじっと見た。

「好きってことだよ、満」

 母とは、子どもを誰よりも愛するものだと。

 お兄さんの言っていることを理解したとき、それなら、私より〈おしごと〉が好きな私の母は、一体何なのだろうと思った。

「みちるのお母さんは、ほんとはお母さんじゃないのかなぁ」

「そうかもね」

 お兄さんの返事は早く、地面を見つめていた私は「えっ?」と顔をあげる。

「満がそう思うなら、そうかもしれない。僕は、お母さんのことは、本当にお母さんだと思っているんだ」

「……?」

「本当はね、僕には2人のお母さんがいるんだ。僕は幽霊だから、生きている時のお母さんと、今のお母さん。生きている時のお母さんも、優しかったんだよ。元気で生まれてきてねって、毎日声をかけてくれた。まだお腹の中にいた時の記憶だけど」

「……おぼえてるの?」

 私が目を丸くして尋ねると、お兄さんは「うん」と頷いて、その瞳に半円の月を宿した。

「僕はね、満。お母さんとの関係は、血がつながってるとかじゃないと思う。お母さんが僕を好きで、僕がお母さんを好きだってことなんじゃないかって思うんだ。だからもし、満のお母さんが満を好きじゃないなら、きっともうその人はお母さんじゃないよ」

 私には難しい話だった。ついていくのが精一杯で、ただ彼の、お母さんじゃない、という言葉だけがぐるぐると頭をめぐった。

 私を好きではないなら、母ではない。

 もしそうなら、きっと母ではないと、思ってしまった。

 その時がくればおのずと導き出される真実は、当然の幼さによって無いものとなり――だって母は、私を愛してはくれない、と。

「満は、今のお母さんが、お母さんのままがいい?」

 お兄さんが私に静かに尋ねて、私は少し潤んだ目を彼に向けた。

「……うん」

 お兄さんはにっこりと微笑んで、ふいに私の手を握った。彼は幽霊だと言ったけれど、すり抜けるようなことはなく、じんわりと柔らかな感触が私の掌(てのひら)を包み込む。

「なら、僕の今のお母さんが、お母さんになってくれた時のことを教えてあげる。……〈お母さん〉って、呼んだんだよ」

 私がよほど奇妙な顔をしていたのか、お兄さんはもう一度言った。

「お母さんって呼べばいいんだ。簡単でしょ?」

 お兄さんの両目から、スッと月の光が消えた。私は空を見上げる。どこからか再びやってきた黒雲が、墨(すみ)のように滲み、広がっていた。

 お兄さんも次いで空を見上げ、残念そうに笑う。

「月、隠れちゃったね。また出るかなぁ」

「……みちる、もうかえらなくちゃ」

 今は何時だろうと、急に不安になった。月が消え、夜がより深くなったせいかもしれない。母が仕事から帰ってくる前に、私は眠らなければならなかった。

 お兄さんが両手から力を抜き、私の手はするりと自然に彼の手を放(はな)れた。

「そうだね。1人で帰れる?」

 私は頷き、立ち上がる。お兄さんもゆっくりと立ち上がった。私は駆けていき、植え込みの向こうに側に行く前にもう一度振り返る。

 私はにこっと笑い「ばいばい」と手を振った。

 風が吹き、桜の葉が乾いた音を立てて揺れる。お兄さんはその下で栗色の髪をなびかせながら、まるで優しい母のように微笑んだ。

「またね、満。今日は話せて楽しかったよ。満のことをたくさん聞けて、嬉しかった」

 お兄さんとお別れした私は、彼とまた会えるかなんて分からないのだと気づいて、悲しくなった。

 誰にも見つかることなくアパートに帰る。母は帰ってきていなかった。私はパジャマに着替えると、母に悟られないように、慣れない手つきで服をたたんで元の場所に片付けた。

 布団に潜ると、ドクドクといつもより心臓が激しく動いていた。何事もなく部屋に帰ってこられた安心からか、あるいは母への背徳感も少しあったかもしれない。

 私はその夜、なかなか眠ることが出来なかった。

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