雑木林の中で?

 現在時刻は二四時を少し回った頃合い。


 薄暗い雑木林の中でシャクシャクという足音が響く。


 竜胆町一七番地、外れの広い雑木林。


「……、思ったよりも随分と寒い……。四月としてはちょっと寒すぎるんじゃないのこれ……?」


 奈也人ななとは昼間に着ていたえんじ色のスーツの上から黒いダッフルコートを羽織っているというのにも関わらず頬や指先に刺すような冷気が染みて、僅かな痛みを感じさせられていた。


 体感気温は大体四から六度といったところで、実際の気温としては八度程度ということになる。


 からりと乾燥した空気が冷たい夜風をさらに冷ややかに感じさせているのだろう。


 家の近くのホームセンターで買ってきた大きめの大型懐中電灯だけが仄かにじんわりと指先に熱を伝えてくれる。


「ちょっと高いかと思ったけど、高いだけあって光量がスゲーなぁ……」


 周りには電灯の一本だってないのだが、奈也人ななとの手にした大容量懐中電灯のお陰で辺り一面真っ暗で頼みの綱は月明りのみみたいな状況には陥っていなかった。


 備えあれば憂いなしというべきだ、それとも転ばぬ先の杖というべきか、判断に迷うが少なくとも一寸先は闇であることもまた事実なので、ある程度の警戒はしてしかるべきなのだろう。


「でもこんだけ暗いとやっぱり、ちょっと怖いな……。しっかり調べるにもこう暗いと俺の方が目だって仕方ないだろうし、どうなんだろうな……?」


 ちなみに独り言が多いのは夜闇と寒さによる心細さを紛らわすための苦肉の策である。


 寒くて暗い真夜中という事実だけで、割とメンタルはゴリゴリ削れて無駄な想像力を働かせがちになってしまう。そしてそういうイヤな想像を頭の中から追い払うには適当に独り言でも垂れ流しているのが手っ取り早い。だから決して奈也人ななとに夜になると独り言が多くなる癖があるというわけではない。


 ただしこの場所が真っ暗闇の雑木林の只中だということには一切変わりはないのでイヤな想像力からあまり目を逸らし過ぎるとそれはそれで事故の元になりかねないというのが難しいところではある。


 そう例えば絶賛狩りの真っ最中の蛇の胴体を強か踏みつけてしまうなどという事故が起こったり……。


「ぐにゃって、ぐにゃって、したよな、今。それにぶちょっとも聞こえた気が……」


 明らかに腐葉土と枯れ枝の混ざった地面とは感触の違うモノを踏みつけてしまって、恐る恐る懐中電灯の光を真下に向ける。


 それはヘビのような生き物ではなかった。


 もっと小さくて丸く、人間の体重で上から踏みつけたら口から簡単に内臓が飛び出してしまう生き物。


 恐らくはヒキガエルの仲間。


 ただその体は妙に大きかった。


 普通のヒキガエルが大体一〇センチちょっと程度であるのに対して、奈也人ななとの足元で口から内臓を吐きだしてペチャンコに潰れているそれは明らかに大きさが二〇センチを超えている。


 何より辺りが暗いとは言えども野生動物が簡単に普通に歩いている人間の足に踏みつぶされるようなことは普通ない。「もしかして俺がやっちゃった……?」


 しかし時期が時期だ。


 冬眠から覚めたは良いモノのまだちょっと気温が低くて身体が上手く動かせていなかったために、逃げ遅れてそのまま奈也人ななとに踏みつぶされてしまったという可能性も十分に考えられる。


「ご、ごめんよ……」


 懐中電灯を引っ掛けたまま軽く手を合わせて冥福を祈るくらいしか出来ることもない。


 一度深呼吸を挟んで、気を取り直してまた雑木林の中をゆっくり恐る恐る進んでいく。


 今度は不用意に何かを踏まないように足元にも注意を払いながら。


 少し進んではちらりちらりと足元を確かめる。


 ちらりと足元を確かめるたびに先ほど暗闇の中で見た潰れたカエルの映像がフラッシュバックしてしまう。


 奈也人ななとは特別カエルが好きという訳ではない。ただ、それでもカやハエなんかを殺すのとは訳が違った。


 まず大きさだ。


 手のひら大の大きさの生き物を殺すというのは人によってはそれだけで強烈な忌避感が生じる。


 カやハムシ何かは平然とパチンと叩ける人は多いだろう。だけれどこれが大型のガやゴキブリになると途端に殺せなくなるという人は少なくない。それと同じだ。


 そして大型の虫たちと比べるとカエルはかなりしっかりと内臓がある。


 肺や心臓が口から飛び出して、破裂した腹側部からは別の臓器が血液と共にまろびだしている。


 人によってはなんてことないと思うかもしれない。


 奈也人ななと自身真昼間であれば恐らくはそこまで引き摺るほどのモノには感じなかっただろう。


 だけれど、この凍える春先の夜闇の雑木林の中という状況においてそれは思考の毒と化す。


 夜闇の中にぽつんと一人という状況の中で感じていたそこはかとない不安感に潰れたカエルの死体という明確な形が与えられるとどうなるか?


 漠然とした不安感に一度明確な形が与えられることにって連想ゲームのように次から次へと不安に別の形が肉付けされていってしまう。


 木の陰から急によく分からない鳥が襲ってくるかもしれない。


 地面を這いまわっていた大型のヘビが……、カエルの死体のニオイにつられたオオスズメバチが……、コウモリの群れが……、小さなクモの群れが足元からびっしりと……。


「ナイナイナイナイナイナイ」


 自らの想像に顔を引きつらせながらもそれを振り払うようにぶんぶんと頭を動かした。


 ガサリ、シャクリと地面が鳴った。


 その音が自らの僅かな重心移動を発端として発せられたモノだとは理解できている。


 理解できているのだが、同時に足元から何かがゾゾゾっと昇ってくるイメージを振り払いきることも出来なかった。


「……っ、」


 思わず息を呑む。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫」


 今度は足元を確認せずに歩き出す。


 こんな妄想に取りつかれて、動けなくなってしまうのは甚だよろしくない。


「そう、そうだ。月、月でも見よう……」


 見上げた空はどんよりと曇っていた。


 全く全然月の光なんて見えやしなかった。


 溜息を吐きだし、肩を落として、独りぼっちで雑木林の中を進んでいく。


 しばらく進むと懐中電灯の光が何か白っぽいものを映し出した。


 よくよく見てみればそれは明りのついたプレハブ小屋だった。


「噂の正体はコレかな……?」


 恐らく二階建てであろう簡素なプレハブ小屋。もしかしたら中には簡易トイレさえないかもしれない。


 今のところ特に中から異音がするようなこともない。


 懐中電灯片手にぐるりと建物の周りを一回りしてみても、特に何か変わったことが起きているような気配はなかった。


(もしかして単なる物置小屋だったりして……?)


 そんなことを思った矢先の出来事。


 白い板のようなドアがガチャリと音を立てて内側から開かれた。


「ふ、フフフ、まっ、眩しっ……!?」


「えっ、あぁごめんなさい」


 カツンっという足音と共に中から現れたのは男だった。レンズの大きな眼鏡を掛けたやせぎすの男。


 その男には見覚えがあった。


「えぇっと、確か……。長雨ながさめさんでしたっけ? どうしてこんなところに……?」


 直接当たっていた懐中電灯の光を少し逸らしながら記憶から目の前の男の名前を引っ張り出す。


「ん? どうしてワタシの名前を知って……? って、たしか君は警察の……、脇差わきざし君だったっけ?」


 懐中電灯の光に少しばかり目を焼かれたのか、頻りに瞬きをしながら長雨ながさめが首を捻る。


「いえ、太刀上たちかみです……」


「すまないね、ワタシこう見えて人の名前とか覚えるのが苦手でね……」


 どちらかというとこの人が人の名前をすぐに覚えるタイプの人間だった場合の方がギャップがあるなぁなどと考えつつも、言葉と態度には出さないように気を付けつつ、「あはは」と軽く笑って誤魔化した。


「先ほどの質問に戻ろうか。なんでこんなところにと言われても、この雑木林は一応ワタシの私有地ということになっているからね、フフ、フフフ、ふふふふ。勝手に入るななんて狭量なことは言わないけれどね……、でも、君がなんでこんなところにいるかも教えて貰えるかい? ふふ、フフフ、フフフフ」


「えっ、そうなんですか!? これは失礼しました。実は、この辺り夜になると何かのうめき声らしきものが聞こえてくるという噂が立っているみたいなので、俺はその見回りに」


「なるほど、見回り。ふふ、フフフ、フフフフ。それは偉いね、でも一人でかい? こんな夜中に一人っていうのは少し不用心なんじゃないかな……? ワタシとしては別に不法投棄とかされない限りはここに誰が入ってきていても特別拒まないていうスタンスだからね、フフ、ふふふ、フフフフ」


「不用心という言葉には返す言葉もないですね……。にしても、この小屋は一体なんでこんなところに……?」


「自宅においておくにはちょっと大きいモノとかをしまっておくための倉庫のようなモノだよ、フフ、ふふふ」


「じゃあ今日はその備品か何かの整理をしていたという感じですか?」


「ふ、ふふふ、そうだよ。一旦中を確認していくかい? せっかく警察として見回りに来てくれたのだし、ワタシもコレクションをちょっと自慢してみたりしたいしね、ふふ、フフフ」


「……、それはちょっと遠慮させて貰います……」


 奈也人ななとはかじかむ手を温めるためか懐中電灯を握っている手とは反対側の手をコートのポケットへと入れながら一歩後退る。


 どう考えてもこんな時間からコレクションの自慢話を聞いていたらきっと夜が明けてしまうに違いない。


「そうかい? そりゃあ、残念だよ、ふふ、フフフ、ふふ」


 言葉通り残念そうな様子で首を横に振って、それから――、


「でも、ダメだよ。君だけはこのままただで帰すわけにもいかない」


 すっと含み笑いが抜け落ちた声色でそう言った。


 同時にくたびれた白衣の内側に手を突っ込む。


 分かりやすい外面上の変化はなかった。だけれど、明確に一瞬前と一瞬後では違う。


 それはつま先から膝ふとももに掛けての重心位置の違いという形でもあるし、下腹部に力が入ることで呼吸のリズムの変化という形でもあるし、緊張し肩から二の腕周りの筋肉の強張りという形でもあった。


 一つ一つは微細で、一見するだけでは違いなんて全く分からないような差異。


 だけれど全身のあらゆる箇所の変化が同時に起こることで一つ一つの違いに気が付くことが出来なかったとしても個人の身体全体としては、明確な変化を感じ取ることが出来てしまう。


 きっとそれが雰囲気の変化、纏う空気感の変化というモノなのだろう。


「なにをっ、言っているんですか? 冗談は止めてくださいよ、怖いじゃないですか……」


 カチャリと音が鳴った。


 長雨ながさめが白衣の懐から手を引き抜き、握り込んだモノを奈也人ななとへと突き付けた音。


 それは黒くて夜闇の中で明確な形は分からなかった。だけれどそれが何であるのかは確信をもって理解ができる。


 だのに、そんなものを握りしめて突き付けてきているというのに、目の前にいる長雨ながさめという男の表情かおは怯えているようにしか見えなかった。


 泣きたいのはこっちの方だ、と悪態をついてやりたくなったけれど、そんなことをしたところで意味なんか全くない。


 だから奈也人ななとは手にしていた懐中電灯をブンッと振り回して、その眩い光を長雨ながさめの顔面に向ける。


「……ッ!!」


 目が眩み、銃口が奈也人ななとの額から外れる。


 同時にタンッッ!! と乾いた音が響いた。


 バタバタと足音が森の中に響く。


「……、くそっ外したか……」


 真っ暗闇の雑木林の中で唐突に鬼ごっこが始まった。

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