連れ去られた先で?

(そろそろだろうと覚悟はしていたけど、全然見えなかった……。本当に人のことを痛めつけるのに慣れているんだな……)


 奈也人ななとの頬が鉄パイプの先端で打ち付けられたのだ。衝撃で口の中が切れて、血が出た。


 ただし、今の一発は明らかな籠手試し。


 前動作なく突然殴りつけ、相手の反応を見る。そのためだけに最適化された一撃。


 身構える隙を与えることもなく突然殴りつけることも出来るのだぞという見せしめのための一撃。


 ある程度の痛みであるならば、心構えさえあれば歯を食いしばって我慢することが出来るモノも少なくはない。しかしその心構えを作る隙を与えないほどの一撃を見舞われればどうなるか?


 純粋な格闘術とは関係のないただ無抵抗な人間の心を折るための技術であり、短時間で心構えが作れるモノの心を過度に疲弊させるための技術でもある。


 弱者を嬲るためだけに磨かれた技量とさえ言い換えることが出来る。


(なんて悪趣味な……)


 口内が切れて口の中に溜まった血をぺっと吐き出して、


「もう少し手加減してくれないと、俺の顔がボコボコに腫れあがって、屈辱の表情なのかただ顔が腫れてるだけなのかの区別が付けられなくなるぞ?」


 やはり声から怯えや震えは感じられないが、それはそれとして打てる手もない。


 バリツでも使えれば良かったのだが、生憎と奈也人ななとにそんな身体能力は備わっていない。というかこんな事態になることを想定して生きていた期間が存在していないので、護身のために身体を鍛えるという発想そのものが存在していなかった。


 一見あまりにも強烈な冷静さを発揮しているように見えるかもしれない。だが、実際には虚勢を張って、相手のペースを崩す、という一点のみに全精力を傾けているというだけの話でしかない。


 しかしそれでも、奈也人ななと自身の見立てとしてはこのままずるずる時間稼ぎを続けたところで事態が好転することは恐らくない。つまるところ奈也人ななとの尻の穴の貞操が守られる未来が訪れる可能性は限りなく低い。


「浅っせェ。ダメだぜェ、そんなんじゃ、全然浅っせェんだ。いいか、お坊ちゃん。人間ってのはな、本当の本当に逃げ場のない絶望の袋小路に追い込まれりゃなァ、どれだけ元が醜いツラしてようが、どんだけ顔面が腫れあがってようが、全身からビンビンに迸ってくるんだよ。限界ギリギリ、最後の最後、本当の本当に追い込みさえすりゃ、顔が見えてるか見えてないかなんてのは些細な違いにしかなんねェのよ!! 絶望に屈服するってのはなァ!! 本能なんだよ!! だからそうだなァ……テメェの顔面なんざボコボコのボコボコ、原型留めないくらいにボコされた後で死なないかどうかだけ心配してるこったなァ!?」


 両腕を広げて、脂の乗った恍惚的な声色による高らかな宣誓。


 例え鼻先がへし折れたとしても、例え歯が何本砕けたとしても、例え眼球が潰れたとしても、例え頬骨が陥没したとしても、手心を加える余地はなく、容赦する気も毛頭なく、散々サンドバッグにされたのちに命が残っていることだけを祈っていろ、とそういう宣言。


(ダメだ、まともな会話になんかなりやしない……!!)


 話が噛み合わないだとか、論点がズレているだとか、相互理解が難しいだとか、そういうレベルにはいない。


 ただただシンプルに話が通じない。


 それはある意味では当たり前のことではある。


 会話をする気のない相手と言葉を交わしたところで当然会話は成立せず、相手のことを微塵も理解する気がないのであればその相手と相互に理解し合うことは出来ない。


 いや話をする気がない、理解し合う気がない、ただそれだけで済むのならば事態はもっと楽だった。


 奈也人ななとの目の前で自分の言葉による想像で勝手に絶頂に至っているプリン頭のこの男は、会話や理解を拒絶しているどころか、ただ対象を破壊することのみに焦点をおいている。


 彼はきっと他者を、尊厳を破壊できる対象か否かでしか量ることが出来ないのだ。


 そういう相手とは普通真正面から相対してはいけない。ただ無意味に心を削り取られるだけに終始してしまうから。


 しかし逃げようにも逃げられない。


 だからこれは始めから最悪の結末が決まり切った状況だ。


「そういう話じゃない。俺が言いたいのは、もっと時間をかけてゆっくり慎重にやるべきだって話だよ」


 だけれど、奈也人ななとは一欠片の諦めさえもおくびにも出さずに、ただただひたすらに言葉を並べ立てる。


「アァ?? なんで俺がテメェに配慮しなけりゃならねぇんだァ?? アァ??」


「配慮しろとは言っていない。ただ、あんまり乱暴な方法で俺を絶望させようとするのであれば、多分アンタが思ってるよりも俺はあっさり死ぬってだけの話だよ」


「……、はぁ?」


「心が折れるよりも先に命の方が折れるって言ってる」


「あぁ?? アハハハッハハハッハ!! 面白いっ!! オマエ頭イカレてるぜぇ!! いいねェ!! じゃあちょっとチャレンジ精神出して行こうかァァァッァ!!」


 言葉と同時に鉄パイプが鋭く振り回されて、奈也人ななとの鼻先を軽く掠めた。そして直後に手首が返されることによって最初の軌道を逆回しするようになぞられて、もう一度鼻先を掠める。


 その間合いの見切り方は神業に近い領域のモノだった。こんな暗がりの中で正確に人間の頭部鼻先にギリギリぶつかる様に調整して鉄パイプを連続で二度振うなど、正確無比な技術がなければ成立させられない。


(……っ!! くぅ……ッ!!)


 たったの二度の鉄パイプの往復は、かなり強烈な効果をもたらす。一つは単純な痛みの蓄積、もう一つは暗闇で視界の中を金属出来て物体が高速で行き来することによる視覚的な恐怖。


 そのどちらも、人をその場に縛り付け、足元を竦ませるには十分な威力を誇っていた。


「おっいいねぇ、いいねぇ……!! やっぱり強がってても、身体は正直だぜぇ?? いいだろ、今の。最初に知覚できるレベルの痛みを植え付けて、それから神経の集まってる箇所と情報量の多い目の近くで恐怖を刷りこむんだ、こうすると、大体どんな奴でも戦意喪失するってもんでさァ!!」


 プリン頭の男は声を弾ませつつ、カンカンっと鉄パイプの先端で地面を叩きながら、またしても奈也人ななとへと顔を近づけていく。


「でも、テメェはまだみたいだナァ!! 少しは乗ってるが、まだまだ全然目に脅えが乗ってねぇモノナァ!!」


 そして吼えるように息を吐きだして、八つ当たりに電柱を蹴とばすような形で奈也人ななとの胸部へとケリを見舞った。


「ぐっ……、ぁぁ」


 硬い靴底から強烈な衝撃が胸部全体に広がり、一瞬息がつまる。


「はぁ……、はぁ……、はぁ……」


 無理やりに肺を圧迫されて空気を吐きださせられたために喘ぐように息が上がった。


 衝撃で後ろの鉄パイプに叩きつけられ、跳ね返る様に上半身が前方向に反発する。だが、後ろ手に枷を嵌められていることによって結局体はその場から動くことは出来ず、肩に強い負荷が掛かり、ミシリと痛みが走った。


 衝撃で真下に移動してしまった視線を元に戻そうと顔を上げたその瞬間、今度は完全に視界の外から側頭部に衝撃が走った。


 丁度顔を上げるそのタイミングで左のこめかみが殴打されたのだ。


 キーンと、耳鳴りが響き、視界が一瞬赤黒く染まる。


 流血の感触は無かった。ただ殴打された部分の感覚がぼやけていた。感覚がぼやけているのにも関わらず、痛みだけはジクジクと強烈に感じられる。打ち込まれた薬品による頭痛であるのか、それとも殴られた痛みであるのかはもう区別が付けられない。


 そこら中転げまわって、うずくまって泣きわめきたい気分でいっぱいだった。


 だけれど、生憎と一切の身動きは取れない。精々軽く身じろぎが出来る程度。


「おっ、いいねェ!! その虚勢がいつまで持つか、楽しみだぜェ!!」


 言葉と同時に、バゴンッとフルスイングで鉄パイプが叩きつけられる。


 額の真正面が鉄パイプと激突して派手に血を噴いた。直後にガンゴンッ!! と後頭部が真後ろの鉄パイプへと激突し、頭部の前後から更なる痛みに挟まれる。


「……っ!!」


 視界が真っ赤に染まってくわんくわんと大きく揺れる。


 単純な痛みよりも、額から伝わる血の感触と視界に広がる血の色合いの方がショックとしては大きかった。


 頭では額の出血は見た目の派手さと比較すると重症になることが少ないことは理解できている。


 だけれど、いざその派手な出血を見せつけられるとなると、想像を絶するものがあった。


 単純にたくさん血が出ているという事実そのもののが多大なる恐怖を煽りたてる。単純に多くの血を失うことへの恐怖感、抵抗感が湧いてきてしまう。それはほとんど生理反応に近いと言っていい。何せ人間は出血多量で死ぬのだから。


「おいおい。どしたんだー? もうすっかり身が強張ってきちゃったんじゃないのー? おっかしいなァ? 心が折れるより先に死ぬって言ってたのはどこの誰だっけー? それとも、一杯血が出てビビっちゃった?? 絆創膏でも貼ったげよっかァ?」


 奈也人ななとの髪をむんずと掴んで、プリン頭の男はまたしても顔を寄せ、煽る。


 その表情は喜び一色という感じだった。


 本当に一点の曇りもない満面の笑み、まるで卒業式の日に桜の木の下で憧れの先輩に思い切って告白して見たところ予想外にオーケーを貰った時の女学生のような飛び切りの満面の笑み。


 まさか鉄パイプで額をガツンとやられて派手に出血させてきた相手からそんな表情を向けられるとは想像もしていなかった。


 目元の引き釣りを抑えられない。ただこれを幸いと言っていいのかどうかは定かではないのだが……、幸い苦悶の表情との区別は全く付けられなかった。


 今目の前にいる男は一体何がそんなにうれしくてそんな表情を浮かべているのか?


 全く想像もつかない。ダークエネルギーがどこから来るのかとか、ブラックホールがどこに繋がっているのかとか、量子テレポーテーションが実現する場合行く前の自分と行った先の自分は本当に同一個体なのかとか、そのくらい理解の範疇を飛び超えていた。


 思わず未知の恐怖に顎が震えそうになる。


 理解の及ばないモノに恐怖を感じる。それは根源的なモノだ。


 どうしようもない。


 だけれど、今はそれに飲まれてはいけない。


 無理やりに歯を食いしばって、顎を引き、どうにか口角を持ち上げてみせる。


「だからもっと丁寧にやらないと結構簡単に死ぬって言ってるだろ」


 少しでも長く、少しでもゆっくりと痛めつけ続ける価値のある人間だと思わせ続けなければいけない。


 そうやって時間を稼ぐような一時しのぎを続けること以外に、今の奈也人ななとに出来ることはないのだから。


「おっ!! いいねェ……、いいねェ……!!」


 今度はキャバクラで若い子に褒められてデレデレしているおじさんのような表情だった。


「だ、け、ど、強がってるの、バレバレェェェッ!!」


「節穴過ぎてその目もはや見えてないのと同じなんじゃねーの?」


 心の中で想定していた返答とほぼドンピシャの言葉が返ってきたので、予め用意していた言葉を間髪入れずに叩き返す。


 直後に、ドゴォ!! と鉄パイプが振り上げられた。斜め下方向からカチ上げるように振り上げられたそれによって口の中の血と、額から流れる血とそれから鼻血、それらが捲り上げられるように飛沫となって飛び散る。


「分かった!! 分かったよォ!! オラッ!! どうだっ!! ゆっくりとっ!! じっくりとっ!! 時間をかけてっ!! ボロボロのボロ切れになるまでっ!! 痛めつけてやるから!! 覚悟しろっ!! オラッ!! どうだっ!! アァ?! アハハハッ!! なんだっ!! もうへばったかァ?! 無様だねェ!! あんだけ強がってたってのにヨォ!! アァ?!」


 一言いうごとに一度ずつ鉄パイプを叩きつける。顔面に、頭頂部に、肩に、腹に、太ももに、ふくらはぎに、そしてまた顔面に……。


 これほど滅多打ちという言葉が似あう光景も中々お目に掛れないだろう。


 腫れた皮膚の上からさらに鉄パイプでしこたま殴るものだから、耐えきれなくなった皮膚が破裂してあちこちから血が流れ出る。


 いつの間にやら奈也人ななとの着ているスーツは血でベチャベチャになっていた。


 笑いながら奈也人ななとのことを滅多打ちにしていたプリン頭の男はしばらくしてから我に返ったのかぴたりとその手を止め、再度彼の髪の毛を毟るように掴んで顔を持ち上げる。


「あぁ?? おーい、もしもーし。なんだ……、もしかして死んだかァ?」


 ぐったりとして身じろぎ一つしなくなっているが、幸いなことに僅かな呼吸音を聞くことが出来た。


 プリン頭の男は一旦考えるように顔を引き、無造作に奈也人ななとのスーツの内側へと手を忍ばせる。


 胸に手を当てると弱々しいがドクンドクンと心臓の鼓動が伝わってきた。


「息もまだちゃんとあるし、心臓も動いてる。しっかし、意識が飛んじまったのは面白くねーなァ」


 プリン頭の男が大きく溜息を吐きだして、ぽいっと鉄パイプを投げ捨てる。


 カランカランッと音が響いた。


「はァー、まっさか本当に心が折れる前に意識飛んじまうとは思わなかったぜェ……。こんなの痛めつけても面白くねェしなァ……。アァそうだ、尻穴に俺のモンぶち込んでやりゃ一発キツケになんだろ!! おっしゃっ!! いいねェ!!」


 口振りから察するに意識のない誰かの尻の穴に棒を突っ込んだ結果意識を取り戻されたような経験があるのだろう。


 カチャカチャとスラックスのベルトを外して、チャックをおろす。そのままスラックスとパンツをあっさりと脱ぎ捨てた。


「おお、夢中になり過ぎてて自分じゃ気が付いてなかったけど、見てくれよ、これヨォ!! オマエのあんまりにもなっさけないツラ見てたら、興奮してこんなになっちまってたみたいだぜェ!!」


 舌なめずりをしながらきゃっきゃっと笑う。


「って、意識飛んでんだから見てもらえねーじゃねーかよ、くそがァっ!!」


 かと思えば、いきなり鼻を慣らしながらキレだした。


「まあいい、ブチ犯してればそのうち目も覚めるってもんだろ」


 ギンギンにそそり立つナニを丸出しにしたままで、ぐったりと血まみれの奈也人ななとへと手を伸ばして――――、


「動くな、そこまでだ!! 暴行傷害及び公務執行妨害の現行犯で逮捕する」


 男の方に黒光りするものが付きつけられる番が来たらしかった。


「あぁ?」


 そんな間の抜けた声と同時に振り返れば、暗闇のはずのその場所に光が差し込んでいる。


 そしてその直後、メキィッ!! とショートブーツのつま先が男のこめかみに正確に突き刺さった。


「アァ!?」


溌希はづきさんっ!?」


 二つの声が重なる。


 地面に転がった男の背中をダンッ!! と足蹴にして、素早く懐から手錠を取り出してその腕にかける。


「現行犯で逮捕します」


 初めて手錠を扱うとは思えない鮮やかな手際だった。


「テメェ誰だ!! 外のモンはどうした!?」


「全員公務執行妨害で捕まえさせてもらった。後はお前だけだ」


「クソがァァッァァッァァ!!」


 下半身丸出しの男の絶叫が虚しく響く。

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