心の置き場所は?


「二年前に事故でね……」


「……、お悔み申し上げます」


 予想していた答えだった。珍しく溌希はづきの眉間がピクリと動く。致命的な言葉選びをしたと思ったのだろうか。


「あはは、それ自体には心の整理も付いているし良いんだ。ただね、その子が好きだったんだ、守莉まもりちゃんのこと。それがきっかけで僕も彼女のことを好きになったんだよね。でもなんでなんだろうね。僕が知っている奈菜樹ななきも、守莉まもりちゃんもいい子だったんだ。まだまだこれからってときに……」


 酷く穏やかな声だった。


 あまりに穏やかすぎて逆に現実感が消え去るほどの穏やかさ。


「どうして僕じゃいけなかったのかって今でも思うんだ。何もあんないい子があんなに早くに逝ってしまうことはないんじゃないかってね」


 深い慈しみの表情があった。


 自分の命を差し出しても惜しくないと、変われるならば変わってあげたかったと、直接的な言葉にはせずともそう言いたいことが伝わって来る。


「……っ、」


 奈也人ななとは何かを言おうとして、軽く喉を鳴らして言葉をひっこめる。


 今自分が言えるような一般論を口にしたところで目の前にいる向井むかい寿彦としひこには何のなぐさめにもならないと直感したからだ。


 それでも彼にこのまま言葉を紡がせて良いモノかどうかは判断がつけられなかった。


 一人語りに近い言葉と感情の洪水の中で彼が何か良くない答えを見つけてしまう可能性が見えてしまった。いやもしかすると彼はもう本当は答えそのものは出してしまっているのかもしれない。それをもう一度確かめるために敢えてこうして言葉にしているというのならば自分で自分の心を切り刻むに等しい行為だろう。


「僕の家には結構沢山、守莉まもりちゃんのグッズがあるんですよ。どれもこれも姪っ子との思い出がある。一回ひどく落ち込んだ時に全部処分してしまおうかとも思ったんですけれど、何とか思い直して思い出と一緒に生きようって思ったんですよ……。それでこの二年間何とか頑張って来たんですけれど、流石に今は少し苦しくってね……」


 途切れ途切れになりながら、それでもつらつらと言葉が流れてくるたびに穏やかな眼差しにくっきりと影が指す。それでもその眼差しはなお穏やかさを失わない。


 きっとその記憶はよほど温かで、よほど優しく、よほど大切な記憶なのだろう。暗闇の中に一筋差し込む僅かな光のように。


「家に帰るのも苦しいのなら、少し羽を伸ばせるようなどこかにでも出かけてみてはどうですか?」


「旅行……。旅行かぁ……」


「例えば……、山にハイキングにいくとかどうですか?」


「ハイキングかぁ……、正直いい思い出はないなぁ。姪が他界したのはハイキングの山道で少しのはぐれたのが原因なんだ。山道から少し外れたところでひき逃げに合ってね……」


「っ……、」


 向井の心の一番触れてはいけない部分に不用意に触れてしまったという実感があった。そこを踏んだ以上は今更ごめんなさいと頭を下げても手遅れだ。大人しく彼の感情の奔流による言葉の洪水に付き合うしかない。


 しかし本来向井の方もそんなことに今名前を知ったばかりの相手を巻き込みたいと思っているわけではない。ただ、だとしても、彼自身にさえ止める術がない。不用意に切れた感情の堰はそう簡単に戻らない。


「四人組で丁度君たちくらいの年齢の子たちだったよ、飲酒運転もしているときに何かにぶつかってしまったから怖くなって逃げてしまったってそういう言い訳だったかな。でも姪は、奈菜樹ななきは……、三回轢かれた形跡があってね。まず最初に正面からぶつかったのが一度、そのまま倒れた奈菜樹ななきを下敷きにして、バックで戻ったときにもう一度乗り上げて、それからまた前に進む時にもう一度……。僕にはとてもじゃないけど怖くなってしまったからそのまま逃げたなんて言い分信じられなくってね……。人を轢く感覚を楽しんでいたんじゃないかって、入念に確かめたかったんじゃないかって……」


 ほとんど息継ぎの間もなく止めどなく溢れるようにそこまで言い切ると、しぼむように息を吐きだして、それからまた一呼吸おいてから言葉を続けていく。


「いや、分かっているんだよ。人間気が動転していると何をしでかすかなんてわかったモノじゃないし、平気で整合性の取れないことをするし、他人の見えない悪意を探すようなことをするのは心に鬼を宿らせるだけだって。奈菜樹ななきは優しい子だったから、きっと僕に人のことを恨んで生きて欲しいなんて言わないだろうってことも……。でも、だとしても、そういうことが頭を過ぎるし、そんな世界で僕が一生懸命生きたところで何になるんだろうって」


 明らかにグチャグチャだった。


「だって……、奈菜樹ななきだって守莉まもりちゃんだってあんな風に殺されてしかるべきな人ではなかった!! 僕だったら良かった!! こんな何にもない、大事なモノも、大事にしたい未来も、夢も希望もないおっさんの命くらいだったら、いくらでも……!! いくらでも売り払って良かったのに……!! なんで……、なんであの子たちが、あんな辛い目に合わなくちゃいけないんだ……。そんな謂れないはずなのに……」


 一度何とかケリを付けたはずの感情の行き場が決壊してしまったとしか言えない。


「僕はこれから一体どうすれば良いですかね……」


 穏やかな表情でぼやけるような笑みを浮かべながらその男は縋るような声色でそんな一言を絞り出した。


 切実な言葉。


 今にもぽっきりと心が折れてしまいそうな中で、それでも何とか折り合いを付けようともがき苦しんでいる。


 ただ明白な答えなんて他の誰かに出せるわけはない。


 どんな言葉を並べても、どんな感情を上乗せしても、安っぽい同情ではきっと何のなぐさめにだってなりはしない。


 だから――、


「俺にはあなたの姪御さんが一体どんな人だったのかは分かりません。だからあなたが死ぬべきじゃない人だったと思ったことを否定することも、肯定することも出来ない。そもそも俺はあなたのことだって碌に知りもしないのだから。でも俺は龍という存在についてなら少しばかり知っています、幾人か知り合いがいますので。別にすごい数の龍と会ったことがあるなんて言えないですけれど、でも俺が知っている龍という存在は何というか……、誰も彼も博愛主義的な考え方をしていました」


 思ったことと知っていることを素直に、真摯に、吐き出す。


 ミルクも砂糖も入っていないオリジナルブレンドのコーヒーを一口、口に含んで、飲み下す。それからまた言葉を続けていく。


「僕の知っている龍は本当にみんな博愛精神が強いので、一度直接聞いたことがあるんですよ。その時の言葉を要約すると、『ただ小さいモノが好き』というようなことと、それから『私たちの死には大いなる意味が生まれてしまう。だからなるべく何者かの恨みを買いたくはないのだ』というようなことでした。ニュアンスとしてはもう少し含みのある感じではありましたけれど」


 奈也人ななとはちらりと溌希はづきに視線を投げてみるも、やや不思議そうに小首をかしげながらカフェオレを口に含んでいる真っ最中だった。


「……、彼女はきっと自分を殺した相手のことも赦すだろうからあなたも赦せ、ですか?」


「アハハ、無理ですよそんなことを言うのは。あなたの苦しみはあなただけのモノだから、そこに俺が何かを言い挟む余地なんてないです。ただ亡くなった彼女のことを少しでも長く、少しでも多くの人が偲んでくれることがきっと一番の供養になるってそう思うんです。そして死者を偲ぶことは生きていなければ出来ないことなので、ショックを受けたとしても、感情が乾燥してしまったとしても、生きてさえいるのであれば彼女のことを偲んであげられるから」


「……、酷い言い草だ」


「かもしれません。俺には今辛い人に頑張れとも生きてればいいことあるよとも言う勇気がないんです。苦手なんですよ、人のことを励ますのって」


 奈也人ななとは少し力なくただ首を横に振ってみせる。


 弱った心に付け込んで縋る先を与えることで自分が誰かに救われたという錯覚を植え付けることは出来るかもしれない。命の恩人や心の支えとしての崇拝対象として誰かの心の上に君臨出来るかもしれない。


 だけれど彼にはそれを選べない。


 そもそも始めから自分の言葉で誰かを救えるなんて思っていない。それでも危うい人をそのまま放っておけるわけもない。それはどっちつかずで、ふらふらと芯のないただのゆらぎのような感情としか言えない何か。


 結局人は自分で自分を救わなければいけない。誰かに影響されて救われたと感じたとしても、実際はただその人が一人でに自分で自分を救っている。


「……、でも気休めや誤魔化しのためのなぐさめよりは少しだけ心に響いた気がする。ありがとう」


 相変わらず向井の笑みには元気が足りていないが、それでも先ほどまでよりは幾分かの生気が滲みだしていた。


「……、実はあなたのことを気にかけていたのは俺より溌希はづきさんのほうなので……」


 彼の言葉に軽く会釈をして応えた奈也人ななとが、少し悩んでから言葉を付け足す。


「えぇ? あっ、あぁ。もしかして、僕が君たちのことを美人局か宗教関係の何かだと警戒するのを嫌ったのかい?」


 すんと澄ました表情でちびちびカフェオレに口を付けている溌希はづきの方へと視線を向けながら向井が軽く首を捻り、続ける。


「んんー? そういえばそもそもなんで君たちは僕がとても、あー、精神的に参っているって分かったんだい? そんなに今にも死にそうなほど露骨だったかな?」


「実は私には弱っている人を感知するセンサーが内臓されています」


 澄ました顔でコーヒーカップを両掌で挟み込みながらしれっと言った。


 向井も奈也人ななとも回答に窮する。


「あー、笑った方がいい?」


「ふむ。面白くなかったですか……。渾身のジョークだったのですけれど、困りましたね」


「面白いとか面白くないとかじゃなくって、ただただ分かり辛い……」


「フフフフ。君のお姉さんは立ち振る舞いに似合わずお茶目なところがあるみたいだね?」


 から笑いをしながら溜息を吐きだす奈也人ななとに、ふっと軽く息を吐きだすように弱々しい笑いを零す向井むかい


「きょ、恐縮です……」


 相変わらず澄ました表情でチビチビとコーヒーに少しずつ口を付けている溌希はづきを置いておいて奈也人ななとが軽く頭を下げる。


「そういえば君たちはこんな時期に何だって街中をうろついていたんだい? 学生……、という訳でもないのだろう? それとも僕と同じで今日は有休を取ってしまったくちなのかい?」


「えぇと……、俺たちは……」


「あぁ失礼。僕の方は名刺を持っているから渡しておこう」


 ゴソゴソと鞄の中から小さな名刺ケースを取り出してそこから二枚の名刺を引き抜き、奈也人ななと溌希はづきに向けて机の上にそれぞれ差し出す。


 名刺にはヒイラギ製薬営業部所属、向井むかい寿彦としひこと名前と共に分かりやすい肩書が付けてある。


「ご丁寧にどうも。……、それなら俺の方も」


 名刺を受け取った奈也人ななとは自分の持っている鞄から真緑色の名刺ケースを取り出すとそこから一枚名刺を取り出し、すっと向井に差し出した。


「君みたいな若い子が今時名刺持ってるなんて珍しいね……。ん、『龍の生態を研究するチャンネル運営』って……、は? えぇ?? 本当かい?」


 向井の反応を見て、奈也人ななとは思わず「あっ」と小さく声を漏らす。


「……、もしかして見なかったことにした方がいいかい?」


 ツーテンポほどの沈黙の後に向井が首を捻る。


 龍の生態を研究するチャンネルとは某大手動画SNSでシェア数二〇〇万人を達成した人気コンテンツで、六年目を迎えた現在は動画投稿が止まっている。


「い、いえ。別に俺自身秘密にしていたいという訳でもないのでお気になさらず」


「あれ? でもそういえばあのチャンネルって確かここ三か月位新規動画の投稿が止まっていたような……?」


「実は就職が決まったので動画の投稿活動を縮小することにしまして……」


「あぁ、なるほど……。奈也人ななと君って今いくつなんだい?」


「今年で二二になりますね」


「あのチャンネルって確か今年六周年とかじゃなかったっけ?」


「お遊びで紙芝居動画を作ってみたかったっていうのが一番最初のきっかけなので」


「いやーすごいなぁ。高校生の時からああいう動画コンテンツを自分で作れるなんて……」


「あはは、動画自体のクオリティで言えば俺のチャンネルはそんなに高い方ではないですよ」


 奈也人ななとは少し大げさに両手と首を横に振る。


 他の伸びている投稿者、配信者の動画と比べれば自分の作った動画が荒く詰め切れていないなと感じることは多々あった。それを解消するセンスやアイディアが都合よく降ってくるわけもないため、結局ここ数年で完全に納得のいった出来の動画を作れたことはなかったが。


「なんていうのかな……。僕は君の動画から、君が一生懸命龍という存在を他の人たちに伝え広めたいという思いを受け取ったような気になった、とでも言えばいいかな」


 ゆっくりとした言葉だった。丁寧で、短いセンテンスで絞り出されるゆっくりとした言葉。


 当時の感情を思い出すのに時間をかけていたのか、あるいは当時の感覚を言語化するのにたっぷりと時間をかけたのか、どちらかなのは本人だけが知るところだが、とかくじんわりと染み入るようなゆっくりとした言葉であった。


「……、生の声でそういう風に言ってもらえると自分がやってきたことにも意味があったんだなって実感できて嬉しいものなんですね。ありがとうございます」


「なんだい、それ? 動画のコメント欄にも色々好意的な意見も合ったでしょ?」


「実は……、肯定的であれ、否定的であれ、自分の投稿した動画にコメントが付くという事実に気後れを感じてしまって……、だから途中からそういうエゴサとか感想を漁るとかそういうことをするのは止めてしまったんです」


「なるほど……? でも僕が見た限りでは好意的なコメントの方が多かったよ?」


「どういえばいいんですかね……? 一番単純に言うと……、数の力が怖くなって見れなくなってしまったかなぁ。なんていうか沢山の人の声があることそのものが怖かったんですよ」


「でもコメントの管理したり既読マーク付けたりしてたよね」


 奈也人ななとの視線がすぅっと溌希はづきへと流れていく。


 チビチビとカフェオレに口を付けていた彼女は紙ナプキンで軽く唇を拭って、そのあと数回上下の唇の感触を確かめるように口を動かしてから、しかし表面上の変化は薄いままで小さく頷く。


「その辺りの諸業務は私がやっていました。でも多分あなたが思っているよりも暴言やら何やらはずっと少なかったと思いますが……」


「あー、なるほどね?」


 あまりにも涼しい表情かおで言うものだから、向井にも色々と察することが出来た。要するに、太刀上たちかみ溌希はづきはそういうことが向いている性分で太刀上たちかみ奈也人ななとはそういうことに向いていない性分なのだ。


「あぁそうだ。身バレしちゃったのでせっかくですから短期的な生きる目標になりそうなことを一つだけ言ってもいいですか?」


「それは僕が聞いてもいいことなのかい?」


「コンプライアンス上詳しいことは話せないんですけれど、一週間後にちょっと大きめで多分驚くようなお知らせがあるんですってことだけ」


「コンプライアンスは大事だからね……。でも……、一週間かぁ、分かった。その日までは何とか頑張ってみることにするよ」


 今苦しんでいる人に未来を見据えろというのは難しい。希望があるかどうかも分からない先のことなんて考える余裕もない。本来であれば長くて二日か、あるいは三日、その程度の期間の内に何かその人の興味を引くことを約束する。そのくらいのことをしたい。が、今相対している向井むかいという男は今にも死にそうではあるが同時に酷く落ち着いてもいる。その穏やかさは恐らく常軌を逸している。もし仮に奈也人ななとが同じ立場だった場合、こうも穏やかでいることは出来ないだろう。だからこそその穏やかさにはある種の恐怖感がつきまとっている。約束を交わしたその直後に目を離した瞬間にふらりと車の前に躍り出してしまいそうな危うさだ。


「楽しみにしておいてください」


 そんな危うさがあるからこそ、約束を交わさざるを得ないと思ってしまった。その約束が目の前の男を生に立たせる楔になると完全に信じられるわけではないが、それでも何もしないよりは多少なりともマシなはずだから。


 別れ際にプライベート用の連絡先も交換し、二人は店を出てまたバス停とは違う方向へと歩いていく向井むかいの背中を見送った。


「これで大丈夫なのですか? 私は今少し心配なのですが……」


「あの人がどうなるかなんて俺にだって分からないよ。ただ少なくとも部外者で他人の俺たちが出来る限りのことはした、と思う」


「まあそれはそうですね」


「それより、流石にちょっと遅れすぎたから俺たちも急ごう」


「開始早々に首切りされることはないでしょうけれど、お小言の一つや二つや三つくらいは覚悟しておいた方がいいかもしれません」


「うへぇ……」


 そして二人はもう一度バスに乗りなおして目的地へと向かっていく。

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