心の置き場所は?
「二年前に事故でね……」
「……、お悔み申し上げます」
予想していた答えだった。珍しく
「あはは、それ自体には心の整理も付いているし良いんだ。ただね、その子が好きだったんだ、
酷く穏やかな声だった。
あまりに穏やかすぎて逆に現実感が消え去るほどの穏やかさ。
「どうして僕じゃいけなかったのかって今でも思うんだ。何もあんないい子があんなに早くに逝ってしまうことはないんじゃないかってね」
深い慈しみの表情があった。
自分の命を差し出しても惜しくないと、変われるならば変わってあげたかったと、直接的な言葉にはせずともそう言いたいことが伝わって来る。
「……っ、」
今自分が言えるような一般論を口にしたところで目の前にいる
それでも彼にこのまま言葉を紡がせて良いモノかどうかは判断がつけられなかった。
一人語りに近い言葉と感情の洪水の中で彼が何か良くない答えを見つけてしまう可能性が見えてしまった。いやもしかすると彼はもう本当は答えそのものは出してしまっているのかもしれない。それをもう一度確かめるために敢えてこうして言葉にしているというのならば自分で自分の心を切り刻むに等しい行為だろう。
「僕の家には結構沢山、
途切れ途切れになりながら、それでもつらつらと言葉が流れてくるたびに穏やかな眼差しにくっきりと影が指す。それでもその眼差しはなお穏やかさを失わない。
きっとその記憶はよほど温かで、よほど優しく、よほど大切な記憶なのだろう。暗闇の中に一筋差し込む僅かな光のように。
「家に帰るのも苦しいのなら、少し羽を伸ばせるようなどこかにでも出かけてみてはどうですか?」
「旅行……。旅行かぁ……」
「例えば……、山にハイキングにいくとかどうですか?」
「ハイキングかぁ……、正直いい思い出はないなぁ。姪が他界したのはハイキングの山道で少しのはぐれたのが原因なんだ。山道から少し外れたところでひき逃げに合ってね……」
「っ……、」
向井の心の一番触れてはいけない部分に不用意に触れてしまったという実感があった。そこを踏んだ以上は今更ごめんなさいと頭を下げても手遅れだ。大人しく彼の感情の奔流による言葉の洪水に付き合うしかない。
しかし本来向井の方もそんなことに今名前を知ったばかりの相手を巻き込みたいと思っているわけではない。ただ、だとしても、彼自身にさえ止める術がない。不用意に切れた感情の堰はそう簡単に戻らない。
「四人組で丁度君たちくらいの年齢の子たちだったよ、飲酒運転もしているときに何かにぶつかってしまったから怖くなって逃げてしまったってそういう言い訳だったかな。でも姪は、
ほとんど息継ぎの間もなく止めどなく溢れるようにそこまで言い切ると、しぼむように息を吐きだして、それからまた一呼吸おいてから言葉を続けていく。
「いや、分かっているんだよ。人間気が動転していると何をしでかすかなんてわかったモノじゃないし、平気で整合性の取れないことをするし、他人の見えない悪意を探すようなことをするのは心に鬼を宿らせるだけだって。
明らかにグチャグチャだった。
「だって……、
一度何とかケリを付けたはずの感情の行き場が決壊してしまったとしか言えない。
「僕はこれから一体どうすれば良いですかね……」
穏やかな表情でぼやけるような笑みを浮かべながらその男は縋るような声色でそんな一言を絞り出した。
切実な言葉。
今にもぽっきりと心が折れてしまいそうな中で、それでも何とか折り合いを付けようともがき苦しんでいる。
ただ明白な答えなんて他の誰かに出せるわけはない。
どんな言葉を並べても、どんな感情を上乗せしても、安っぽい同情ではきっと何のなぐさめにだってなりはしない。
だから――、
「俺にはあなたの姪御さんが一体どんな人だったのかは分かりません。だからあなたが死ぬべきじゃない人だったと思ったことを否定することも、肯定することも出来ない。そもそも俺はあなたのことだって碌に知りもしないのだから。でも俺は龍という存在についてなら少しばかり知っています、幾人か知り合いがいますので。別にすごい数の龍と会ったことがあるなんて言えないですけれど、でも俺が知っている龍という存在は何というか……、誰も彼も博愛主義的な考え方をしていました」
思ったことと知っていることを素直に、真摯に、吐き出す。
ミルクも砂糖も入っていないオリジナルブレンドのコーヒーを一口、口に含んで、飲み下す。それからまた言葉を続けていく。
「僕の知っている龍は本当にみんな博愛精神が強いので、一度直接聞いたことがあるんですよ。その時の言葉を要約すると、『ただ小さいモノが好き』というようなことと、それから『私たちの死には大いなる意味が生まれてしまう。だからなるべく何者かの恨みを買いたくはないのだ』というようなことでした。ニュアンスとしてはもう少し含みのある感じではありましたけれど」
「……、彼女はきっと自分を殺した相手のことも赦すだろうからあなたも赦せ、ですか?」
「アハハ、無理ですよそんなことを言うのは。あなたの苦しみはあなただけのモノだから、そこに俺が何かを言い挟む余地なんてないです。ただ亡くなった彼女のことを少しでも長く、少しでも多くの人が偲んでくれることがきっと一番の供養になるってそう思うんです。そして死者を偲ぶことは生きていなければ出来ないことなので、ショックを受けたとしても、感情が乾燥してしまったとしても、生きてさえいるのであれば彼女のことを偲んであげられるから」
「……、酷い言い草だ」
「かもしれません。俺には今辛い人に頑張れとも生きてればいいことあるよとも言う勇気がないんです。苦手なんですよ、人のことを励ますのって」
弱った心に付け込んで縋る先を与えることで自分が誰かに救われたという錯覚を植え付けることは出来るかもしれない。命の恩人や心の支えとしての崇拝対象として誰かの心の上に君臨出来るかもしれない。
だけれど彼にはそれを選べない。
そもそも始めから自分の言葉で誰かを救えるなんて思っていない。それでも危うい人をそのまま放っておけるわけもない。それはどっちつかずで、ふらふらと芯のないただのゆらぎのような感情としか言えない何か。
結局人は自分で自分を救わなければいけない。誰かに影響されて救われたと感じたとしても、実際はただその人が一人でに自分で自分を救っている。
「……、でも気休めや誤魔化しのためのなぐさめよりは少しだけ心に響いた気がする。ありがとう」
相変わらず向井の笑みには元気が足りていないが、それでも先ほどまでよりは幾分かの生気が滲みだしていた。
「……、実はあなたのことを気にかけていたのは俺より
彼の言葉に軽く会釈をして応えた
「えぇ? あっ、あぁ。もしかして、僕が君たちのことを美人局か宗教関係の何かだと警戒するのを嫌ったのかい?」
すんと澄ました表情でちびちびカフェオレに口を付けている
「んんー? そういえばそもそもなんで君たちは僕がとても、あー、精神的に参っているって分かったんだい? そんなに今にも死にそうなほど露骨だったかな?」
「実は私には弱っている人を感知するセンサーが内臓されています」
澄ました顔でコーヒーカップを両掌で挟み込みながらしれっと言った。
向井も
「あー、笑った方がいい?」
「ふむ。面白くなかったですか……。渾身のジョークだったのですけれど、困りましたね」
「面白いとか面白くないとかじゃなくって、ただただ分かり辛い……」
「フフフフ。君のお姉さんは立ち振る舞いに似合わずお茶目なところがあるみたいだね?」
から笑いをしながら溜息を吐きだす
「きょ、恐縮です……」
相変わらず澄ました表情でチビチビとコーヒーに少しずつ口を付けている
「そういえば君たちはこんな時期に何だって街中をうろついていたんだい? 学生……、という訳でもないのだろう? それとも僕と同じで今日は有休を取ってしまったくちなのかい?」
「えぇと……、俺たちは……」
「あぁ失礼。僕の方は名刺を持っているから渡しておこう」
ゴソゴソと鞄の中から小さな名刺ケースを取り出してそこから二枚の名刺を引き抜き、
名刺にはヒイラギ製薬営業部所属、
「ご丁寧にどうも。……、それなら俺の方も」
名刺を受け取った
「君みたいな若い子が今時名刺持ってるなんて珍しいね……。ん、『龍の生態を研究するチャンネル運営』って……、は? えぇ?? 本当かい?」
向井の反応を見て、
「……、もしかして見なかったことにした方がいいかい?」
ツーテンポほどの沈黙の後に向井が首を捻る。
龍の生態を研究するチャンネルとは某大手動画SNSでシェア数二〇〇万人を達成した人気コンテンツで、六年目を迎えた現在は動画投稿が止まっている。
「い、いえ。別に俺自身秘密にしていたいという訳でもないのでお気になさらず」
「あれ? でもそういえばあのチャンネルって確かここ三か月位新規動画の投稿が止まっていたような……?」
「実は就職が決まったので動画の投稿活動を縮小することにしまして……」
「あぁ、なるほど……。
「今年で二二になりますね」
「あのチャンネルって確か今年六周年とかじゃなかったっけ?」
「お遊びで紙芝居動画を作ってみたかったっていうのが一番最初のきっかけなので」
「いやーすごいなぁ。高校生の時からああいう動画コンテンツを自分で作れるなんて……」
「あはは、動画自体のクオリティで言えば俺のチャンネルはそんなに高い方ではないですよ」
他の伸びている投稿者、配信者の動画と比べれば自分の作った動画が荒く詰め切れていないなと感じることは多々あった。それを解消するセンスやアイディアが都合よく降ってくるわけもないため、結局ここ数年で完全に納得のいった出来の動画を作れたことはなかったが。
「なんていうのかな……。僕は君の動画から、君が一生懸命龍という存在を他の人たちに伝え広めたいという思いを受け取ったような気になった、とでも言えばいいかな」
ゆっくりとした言葉だった。丁寧で、短いセンテンスで絞り出されるゆっくりとした言葉。
当時の感情を思い出すのに時間をかけていたのか、あるいは当時の感覚を言語化するのにたっぷりと時間をかけたのか、どちらかなのは本人だけが知るところだが、とかくじんわりと染み入るようなゆっくりとした言葉であった。
「……、生の声でそういう風に言ってもらえると自分がやってきたことにも意味があったんだなって実感できて嬉しいものなんですね。ありがとうございます」
「なんだい、それ? 動画のコメント欄にも色々好意的な意見も合ったでしょ?」
「実は……、肯定的であれ、否定的であれ、自分の投稿した動画にコメントが付くという事実に気後れを感じてしまって……、だから途中からそういうエゴサとか感想を漁るとかそういうことをするのは止めてしまったんです」
「なるほど……? でも僕が見た限りでは好意的なコメントの方が多かったよ?」
「どういえばいいんですかね……? 一番単純に言うと……、数の力が怖くなって見れなくなってしまったかなぁ。なんていうか沢山の人の声があることそのものが怖かったんですよ」
「でもコメントの管理したり既読マーク付けたりしてたよね」
チビチビとカフェオレに口を付けていた彼女は紙ナプキンで軽く唇を拭って、そのあと数回上下の唇の感触を確かめるように口を動かしてから、しかし表面上の変化は薄いままで小さく頷く。
「その辺りの諸業務は私がやっていました。でも多分あなたが思っているよりも暴言やら何やらはずっと少なかったと思いますが……」
「あー、なるほどね?」
あまりにも涼しい
「あぁそうだ。身バレしちゃったのでせっかくですから短期的な生きる目標になりそうなことを一つだけ言ってもいいですか?」
「それは僕が聞いてもいいことなのかい?」
「コンプライアンス上詳しいことは話せないんですけれど、一週間後にちょっと大きめで多分驚くようなお知らせがあるんですってことだけ」
「コンプライアンスは大事だからね……。でも……、一週間かぁ、分かった。その日までは何とか頑張ってみることにするよ」
今苦しんでいる人に未来を見据えろというのは難しい。希望があるかどうかも分からない先のことなんて考える余裕もない。本来であれば長くて二日か、あるいは三日、その程度の期間の内に何かその人の興味を引くことを約束する。そのくらいのことをしたい。が、今相対している
「楽しみにしておいてください」
そんな危うさがあるからこそ、約束を交わさざるを得ないと思ってしまった。その約束が目の前の男を生に立たせる楔になると完全に信じられるわけではないが、それでも何もしないよりは多少なりともマシなはずだから。
別れ際にプライベート用の連絡先も交換し、二人は店を出てまたバス停とは違う方向へと歩いていく
「これで大丈夫なのですか? 私は今少し心配なのですが……」
「あの人がどうなるかなんて俺にだって分からないよ。ただ少なくとも部外者で他人の俺たちが出来る限りのことはした、と思う」
「まあそれはそうですね」
「それより、流石にちょっと遅れすぎたから俺たちも急ごう」
「開始早々に首切りされることはないでしょうけれど、お小言の一つや二つや三つくらいは覚悟しておいた方がいいかもしれません」
「うへぇ……」
そして二人はもう一度バスに乗りなおして目的地へと向かっていく。
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