事件の爪痕は?

 それから二人はバスに乗り込んで最後尾の一つ前の席に並んで収まる。


 通勤、通学時間からもすっかりと外れた昼下がりだからか、他の乗客は居なかった。


 そもそもバスのロータリーで座って待っていた時でさえ迷子の女の子以外には出会わなかった辺り当然と言えば当然であるのかもしれないが……。


 二人以外の乗客がないままでしばらく経ってようやく市営バスの扉が閉まって動き出した。


「……、緊張しているのですか?」


「そう見える?」


「今のあなたはガチガチですよ。多分心につられて体も委縮しています」


溌希はづきさんはいつもと変わらないね」


「わたしはあなたと違って緊張する理由もありませんからね」


「そう言い切れちゃうのはすごい強心臓だと思うよ」


「……、あなたも大概だと思いますけれどね。それに最初に緊張と言い出したのはわたしですけれど、実際には半々くらいでしょう?」


「そこまでは分からないよ。そんな自分の心情を割合で算出させられるほど俺は賢くないし」


「切り替えろ、とは言いませんけれどね。アレはわたしとしてもショッキングでしたし。ですが早々に折り合いはつけるべきですよ。こう言う言い方をするのは気に障るかもしれませんけれど、彼女とあなたは、恐らく決して交錯することはなかったのですから」


 その言葉が川柳瀬かわやなせ守莉まもりの件を指しているのは明白だ。冷たく現実的で、しかし優しさも内包される不器用な言葉。


「言いたいことは分かるし、溌希はづきさんが正しいことも分かっているんだけれどね……。それでも……、」


 意図を汲みつつ、そこに優しさや思いやりが隠れていることも理解しつつ、それでも感情の整理を上手く付けられない。自分の感情を完ぺきに自分でコントロールするというのは口で言うほど容易いことではない。


「これから出会う人と、これから直面するあなたのお仕事が多分無理やりにでも意識を外に向けてくれることを祈りましょうか」


「そんな現実逃避みたいな……」


「良いんですよ現実逃避で。いつだって人はそういう方法で前を向いて歩いてきたんですから」


「それはそうかもしれないけどさ……、」


 それ以上言葉は続かず二人は黙ってバスに揺られる。


 そのままお互いにしばらく無言で揺れに身を任せていたのだが溌希はづきが停車希望のブザーを先んじて鳴らした。


『次、止まりまーす』


「降りるのはこの次だけど……?」


 彼女の行動の意図が分からず、奈也人ななとは軽く首を捻った。


「外のあの人分かりますか? 少し様子がおかしいように見えます」


 溌希はづきの指さした先のバス停には二人の人物がいる。


 一人は目元にかなり深い隈を作った半笑いのジャージ姿の痩身の女性。一人はくたびれたスーツを纏ってため息を吐き出しながら頻りに膝を擦り合わせる中肉中背の中年男性。


 ただまだ距離が遠いため奈也人ななとからすれば服装から男女が判別できる程度にしか見えていない。


 だけれど、


「分かった。話、聞きに行こう」


 即決した。


 それだけ太刀上たちかみ溌希はづきのことを信頼している。


 奈也人ななとには分からないことを溌希はづきは一見しただけで理解することがある。それは天性の勘の鋭さがあると言えば良いのか、人の細かい動作や機微から息を吸うように心を覗き見ていると言えばいいのかは定かではない。


 ICカードを使ってさっとバスから降りる。


 入れ違いになるようにジャージ姿の細身の女性がバスへと乗り込む。


 中年男性の方はバス停に腰かけているというのに、目の前に停車したバスに対してほとんど無反応だった。


「あの、少し時間いいですか?」


 溌希はづきがくたびれたスーツを纏った中年男性に対してなるべく柔らかい声色を作るように努力をして声をかける。


「はい?」


 その男はぼんやりと定まらない視線で目の前に立っている溌希はづきを見つめる。


 しばらく彼女のことを見つめた後で、


「人違いではないでしょうか?」


 グレースケールな声で目を細めて感情の希薄な笑みを作り出す。


「あぅ……、えぇっと……」


 そのあまりの無力な微笑みに溌希は面食らって、言葉に詰まってしまった。


「すみません、急に声をかけてしまって……。その、あなたのカバンについているキーホルダーって、去年の夏のネットイベントの数量限定品ですよね。俺実はそのイベントのグッズ買えなくて悔しい思いをしたんですよ」


 怯んでしまった溌希はづきに変わって奈也人ななとが一歩前に出て会話を引き継ぐ。


 中年男性は言葉を聞いてから二拍ほどおいた後に、緩慢な動作でカバンを持ち上げて自分のキーホルダーを確認する。


「あぁ、よく知ってますね。……、良ければ差し上げましょうか?」


「そんなとんでもない!!」


「いえ、きっと今の僕が持っているよりも君みたいな人に持っていてもらった方がきっと喜ぶでしょうから」


 滲みだす泥濘でいねい暗澹あんたんさに、思わず喉元がひっくり返る錯覚がした。


 悪意や敵意が滲みだしているわけではない。何かに対して無差別な憎しみを向けているわけでもない。


 今あるモノも、今ない物も、過去にあったモノも、未来にあるかもしれないモノも、その全てを手放したがっているかのような、後ろ向きな決裂感。


 純然たる諦めにとても近い何某か。


 重症だと思った。同時にギリギリだとも思った。


 まだだ。


 まだ、最後の一線の向こう側を踏み越えてはいない。それがいつまで持つのかは分からないけれど……。


「その……、あなたのことを教えてくれませんか?」


 まともな感性が整っていたならば、急に男女の二人組にそんなことを言われたならば美人局を疑う状況に違いない。


 だけれど――、


「あはは、なんですかそれ? こういうのもある意味ではナンパと言うんですかね? 良いですよ、どうせ時間はありますから少しくらいはお付き合いしましょう」


 今の彼にはそんなことを疑う余裕さえないようすだった。いや、あるいは美人局に絡まれたと理解出来ているうえで自暴自棄気味に肯定したまであるのかもしれない。


「この辺りどこか落ち着けるところは……?」


「近くの喫茶店を知っているから案内しますよ」


 男は力なく笑うと重々しく腰を持ち上げて、感情の読めない弱々しい笑みを浮かべて二人のことを先導する。


 少し歩いた三人は古ぼけた赤い看板の小さな喫茶店のボックス席に腰を落ち着ける。


 注文した三人分のコーヒーが運ばれてくるのを待ってから、中年男性が真っ先に口を開く。


「でも良かったのかい? 君たちはデートか何かだろう? 僕みたいなのに声なんかかけてしまって」


 溌希はづきは添えられているミルクポットから限界ギリギリまでホットコーヒーにミルクを注ぎ、添えられているスティックシュガーを奈也人ななとの分まで自分のカップに澄ました顔で入れていた。


(ここで溌希はづきさんが方があなたの様子を案じて声をかけたがったんです、なんて言っても警戒心を無駄に煽るだけだよな……)


 何食わぬ顔でミルクたっぷりのコーヒーをちびちびと音を立てないように啜る溌希はづきをしり目に奈也人ななとは少しだけ思考していると、


「いいのです。こういうのはいつものことなので、もうすっかり慣れてしまいました」


 心を読んだかのように溌希はづきがしれっとした顔で、やや声に諦念を滲ませるながら答える。


 こういう場合は奈也人ななとがヘタに何かを言うよりは溌希はづきがやや残念そうな色を滲ませつつ受け答えをした方がそれっぽさが出るだろうという判断だった。


 答えのそれっぽさで疑念を抱かれる余地をなるべく減らしたいという思惑は示し合わせずとも二人の中で一致している。


「いつものことって……、あはは、それはそれで酷い話だ」


「そもそも私と奈也人ななとは恋仲ではなく姉弟ですのでデート云々は勘違いですけれどね」


「あぁ、そうだったのかい。勘違いをしてしまってすまなかったね。……、すまなかったで良いんだよね?」


「なんですかその確認……」


「顔立ちもあまり似ていないので、良く間違われますから、どうぞお気になさらずに」


 首を捻る中年男性に対して奈也人ななとは軽い苦笑いを浮かべ、溌希はづきはすまし顔のままで素っ気なく躱す。ただ言葉上は素っ気なくも声色自体はかなり柔らかいものだった。


「それで、お名前お伺いしても? ……、失礼先に俺たちから名乗るべきでしたね。俺は太刀上たちかみ奈也人ななとこっちは義姉の……」


太刀上たちかみ溌希はづきです」


 軽く会釈を交えながら二人は名乗る。


「へぇ……、ナナト君とハヅキさんか。うん、いい名前じゃないか……」


 何かを懐かしむように目を細めながら男がしみじみと呟く。


「……、あなたの知り合いに似た名前の方でもご存命ですか?」


 その言葉選びに深い意味も他意もなかった。だというのに、男は少し驚いたような表情を見せる。


「いや、その……、鋭いですね。あぁそうか、僕は向井むかい寿彦としひこ。見ての通りどこにでもいるその辺のおっさんだね、あはは」


 軽く付け加えられた笑いは明らかにから笑いのそれだった。


「実はね、僕には姪がいたんだ。その子の名前が奈菜樹ななきだったんだよ。ほら、君たちがナナト君とハヅキさんだろう? くっつけると奈菜樹ななきになるなと思ってしまってね」


「その子は……?」


 つぅっと背筋に氷を滑り込まされたような感覚を得ながらも奈也人ななとはその子について尋ねてみる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る