14話 『亜久里への処分は妥当か』

 翌日の昼休み。

 たすくは手に昼食用のパンが詰まったビニール袋を持ちながら、三年生の教室を訪ねていた。

 目当ての教室の前までくると、上級生相手でも物怖じせず近くの女子に声をかけた。


「音姫さん? ああ、あの人教室でお昼食べないから。今はいないよ」

「そうですか。ありがとうございます」


 礼を言うと丞は美弥子の教室から去る。

 続いて生徒会室を訪ねるが、そこにも美弥子はいなかった。

 生徒会の役員に話を聞くと、人混みが嫌いな美弥子は学食では滅多に昼食を採らないとのこと。

 丞と亜久里はよく屋上で昼食を採るが、美弥子と出くわしたことは一度もない。

 となると校内で昼食を採るのに適している場所は、中庭くらいだ。

 そう考え中庭に向かうが……予想に反しそこにも美弥子はいなかった。


「どこで食べてるんだ?」

 適当な空き教室で食べるくらいなら生徒会室を使うと思うが……まさかもう食べ終わってしまったのだろうか?

 そう考えて中庭をしばらくうろついていると、


 ――にゃー。うにゃー。――にゃにゃにゃー。


 と、謎の声が微かに聞こえてきた。

 猫の声にしては変わってるなと耳を澄ますと、


 ――どうしたのかにゃー。迷子かにゃー? うにゃにゃにゃー。可愛いにゃー。


 どうやら人間の声のようだった。

 物凄く甲高い猫撫で声。距離が離れているのか微かにしか聞こえないが、近くに誰かがいるようだった。


「なんだ……?」

 興味本位で声を辿っていく。

 中庭の奥、校舎の影になっている、学校の敷地の端付近まで近づいていく。

 シャリシャリと草を踏みながら歩いていくと、やがて猫撫で声は聞こえなくなった。

 だがおそらくこの辺だ、と丞が校舎の角から顔を覗かせると、


「あ、音姫先輩」

「ん? ああ、袖上か」


 探していた音姫美弥子が思いもよらずそこにいた。

 校舎の隅、ゴミ捨て場の近く。普通なら人が近寄らないような場所を歩いていた。


「先輩、今ここに誰かいませんでしたか?」

「ん? 誰か、とは?」

「いや、なんか猫みたいな声が聞こえて……まあいないならいいんですけど」

「猫? そういえば最近校内によく野良猫が紛れ込んでいるという報告があったが、それのことか?」

「……いえ、猫というか……」


 丞が聞いたのは猫ではなく、『猫みたいな喋り方をする謎の人物の声』だ。

 だが周囲を見回してもそれらしい人物の姿も、何なら猫の姿も見えない。

 ここに美弥子がいたのなら彼女にも聞こえたはずだが、そんな様子もない。

 丞の聞き違いか、それとも別の場所だったか。

 まあ別にどうでもいいことか、と丞は肩をすくめた。


「なんでもないです。気にしないでください。先輩はこんなところで何を?」

「最近、この辺でタバコの吸い殻が見つかったらしくてな。見回りだ」

「タバコ……このご時世にですか。うちの生徒ですか?」

「わからん。教員の可能性もある。校内に喫煙所がないからと、ここで隠れて吸っている者がいても不思議じゃない。――無論、どちらであれただでは済まさん。見つけ次第学校に報告し、必ず厳罰を下させてやる」


 凍てつくような声音で、まだ見ぬ違反者を睨みつける美弥子。


「相変わらず、違反者には容赦ないんですね」

「当然だ。生徒会長としても、一人の人間としても、秩序を乱すような輩は許せん」

「その気持ちは、俺も理解できるつもりです」


 素直な気持ちで丞はそう言った。

 過激さや徹底ぶりはさておき、正しさを尊び不正を憎む気持ちは、丞も美弥子に通じるものを持っていると思っていた。きっと美弥子もそうだろう。

 だからこの二人の関係は以前から良好だった。

 並の者なら美弥子とこうまで自然に話せないだろう。


「でも、昼休みくらいは休憩した方が身体のためですよ。どうです、一緒にお昼でも?」

 丞が手に持ったビニール袋を開いて美弥子に見せる。

 中にはいくつものパンが入っていた。

 明らかに一人では食べきれないような量が入っており、この申し出が偶然のものでないことは一目瞭然だった。


「せっかくだが、昼食はもう済ませてしまった」

「随分早いんですね。デザートはどうですか? プリンとかもありますよ」

「プリンか……普段は好きなんだが、この学校のプリンは甘すぎて苦手なんだ」

「甘いのはお嫌いですか? 抹茶プリンもあるんですが」


 袋から抹茶プリンを見せると、美弥子が驚いたように目を見開いた。


「それ……滅多に購買に並ばない奴だな。よく私の好物を調べたな」

 すると今度は丞が意外そうな表情を浮かべたあと笑った。


「これは……はは、俺の好物なんですよ。俺も甘いのは苦手なんですが、抹茶は好きで」

 丞はビニール袋からもう一つのプリンを取り出して見せた。こちらは普通のもので、亜久里の好物だ。

 本来はこっちが美弥子用で、抹茶プリンは自分用のつもりだった。


「……フッ。どうやら趣味が合うようだ。せっかくだ、好意に甘えさせてもらおうか」

 美弥子が楽しそうに微笑む。

 彼女がそんな風に誰かに笑顔を向けるなんて珍しいことだった。




 中庭に移動し、手近なベンチに並んで腰かける。

 丞が適当なパンを食べる横で、美弥子は美味しそうに抹茶プリンを楽しんでいた。

 周囲の生徒達が物珍しそうに二人を遠巻きに眺める。

 全校生徒から恐れられていると言っても過言ではない音姫美弥子が誰かと昼食を採ること自体注目に値するが、その相手が学内一の有名バカップルの片割れとあっては、否が応でも周囲の目を引いた。

 それを努めて気にしないよう、平静を装いながら、意を決して丞が切り出した。


「……いい天気ですね」

「前置きはいい。乾の件だろう?」

 お見通しか、まあそりゃそうか……と丞は苦笑した。


「先輩には迷惑な話かもしれませんが、少しお話させてもらえれば、と」

「君の頼みだからな、プリン分くらいは付き合ってやるさ。……ふん、昨日の話し合いに不満があるなら自分で言いにくればいいものを。優等生の彼氏に泣きついたか、情けない女だ」

「……亜久里に頼まれたわけじゃありません。今回はあくまで、俺が個人的にあなたと話し合いたいだけです」

「そうか。それは失礼」


 丞と目を合わさずに、前をじっと見つめながらプリンを食べる美弥子。

 昼休みも残り少ない。いや、美弥子はプリンを食べ終えたらベンチを立つかもしれない。

 彼女の言う通り、前置きを言っている場合ではなかった。

 単刀直入に、丞が聞きたいと思っていることからどんどん質問していくことにした。


「亜久里からいろいろ話を聞きました」

話だろ? 乾は自分に都合のいいように話を盛ったり歪曲させて伝える節がある。君にも身に覚えがあるんじゃないか?」

「……」


 確かに、亜久里はそういうことをしばしばする。

 誰しも多かれ少なかれやるだろうが、彼女の恋人として何度もレスバしてきた丞には身に覚えがありすぎた。


「では間違っていたら訂正してください。亜久里を含め、担任の先生も校長先生も、厳重注意で話がまとまろうとしていたところに、あなたが無理矢理レスバを仕掛けてきた。あなたとのレスバに敗れた亜久里は、停学か卒業までMeTubeチャンネル休止のどちらかを選べと迫られた。ここまでは合っていますか?」

「気になる表現はいくつかあったが、まあおおむね合っている」


 それが何か問題なのか? と美弥子の冷たい目線が丞を撫でる。

 そう、確かにそれ自体は問題行動というわけではない。

 だが丞には以前からどうしても気になっていたことがあった。


「……何故そこまで亜久里を目の敵にするんです? 彼女と過去に何かあったんですか?」

「他の違反者にも厳罰を課してきた。乾だけを目の敵にしているわけじゃない」

「……」

「ただ、乾は他の連中よりも負けん気が強いからな。私によく反抗してきた。私もそれに反論して、結果的に他の者よりも攻撃的な関係性になってしまっているかもしれんな」

「つまり亜久里に特別な悪感情を持っているから強く当たっているわけではないと? 個人的な感情は抜きにして、あくまで停学が妥当な処分だと考えているんですか?」


 丞の問いかけに、美弥子はフッと意地悪な笑みを浮かべた。


「この際だからハッキリ言っておくが、乾のことは普通に嫌いだぞ。人間性も気に食わんし、くだらん感情論でいちいち歯向かってくるのも目障りだった。だから――そうだな。強いて言えば、容赦なくやれたのは間違いない。良心は全く痛まなかった」


 美弥子に違反者への良心などというものがあるのか丞にはやや疑問だったが、彼女の語る理屈は丞にも理解できる部分が多かった。


「だから亜久里に重い罰を課した……でも、それだけが理由じゃないですよね?」

「というと?」

「失礼を承知で言わせてもらいますが、今回の一件は見せしめの意味もあるんじゃないですか? 他の生徒への抑止として」

「ないとは言わない。どんなことでも前例のない判決は初回が基準になる。私はそのハードルは高くした方がいいと考えている」

「それはという意味ですよね? つまり『妥当ではない』という意味になりませんか?」


「フッ、そうきたか。――『再発防止のため、他の生徒への抑止としての意味合いも込めて、普通よりも重い罰を課す』という部分まで含めて判断すれば、妥当だと考えている。生贄は悪か?」

「……少なくとも、フェアじゃない。同じ失敗をしても一人目と二人目で裁定が変わるなんて、教育の場で行われるべき審判じゃない」

「なら次の会議で乾がそう訴えればいい。そのための議論の場だ。私は私の思うように主張するだけだ」


「……先輩は、あくまで亜久里は厳罰に処されるべきだと? 今回の一件はそんなに大事だと思っていますか? 亜久里には悪気もなかったし、動画のチェック漏れも不可抗力な部分が大きかった。発覚後の対応も決して悪かったわけじゃない。それでも生贄として停学が適切だと思いますか?」

「結果的に、被害は小さく済んだかもしれない。だが個人が特定されていた可能性もあるし、もっとよくないものが映っていたかもしれない。もし学生証が映りこめば住所まで特定されかねない。そこから何らかの犯罪に巻き込まれる可能性も考えられる」

「……」


「そういった事態を、学校側がどれくらい本気で再発防止しようとしているのかが今問われている。注目されているのは乾の処分そのものではなく、それを通して見える学校側の問題意識だ」

「……見られているのは罰が重いかどうかじゃない。妥当かどうかです。再発防止は重罰の恐怖ではなく、生徒一人一人の意識を高めることで実現するべきです。それが教育の本質のはずです」


「それはその通り。ではまず手始めとして乾自身が反省という形で意識を高める必要があるな」

「亜久里は十分に反省しています」

「だが自分が痛みを被るのは嫌がった。停学が重すぎるというならMeTubeチャンネルの休止という代案も出したがそれも拒んだ。――君の言う『十分な反省』とは何を根拠にしている?」

「……」


 駄目だ……と、丞の胸中を冷えた諦観が満たしていく。

 このテーマで美弥子を論破できる気が全くしない。

 いや、おそらくどんなテーマであれ、美弥子は論者として丞よりも格上だ。


 入学してから、定期テストで学年三位未満を一度も取ったことがない才女。

 深い知識と、素早い頭の回転。相手の感情や思惑を見抜く洞察眼。議論の本質を見失わない冷静さ。それらを言語化し端的に伝える話術。全てが丞を上回っている。


 しかも……彼女はまだ


 丞が以前から親交のある間柄だから、ここまで丁寧に議論に付き合ってくれているのだ。

 普段の音姫美弥子のレスバは、もっと苛烈で容赦がない。

 美弥子の言う通り、彼女が厳罰を課してきたのは亜久里だけではない。多くの校則違反者が、このレスバを前に敗れ去ってきた。

 そんな彼女を論破するのは只事ではない。

 いや、それ以前に……丞は美弥子の主張に、心のどこかで賛同している自分を自覚していた。


「……その二つの処分は、どちらも亜久里にとっては同じくらい重いんです。せめて減罰にはできませんか? たとえば……休止期間を半年とか」

「そんな話は教師に言え。最終的なジャッジは彼らがすることだ。――だが、私は会議では卒業までを提案する。他の生徒にも私が妥当だと考える中で重い罰を課してきた。乾だけを減罰してやる義理はない」

「……それがあなたの正義なんですか? 処罰は重ければ重いほど正しいんですか?」

「……」


 この議論の中で、初めて美弥子が返答までに時間を空けた。

 眼鏡の奥から、鋭く細まった流し目が丞を射抜く。

 丞への返答に困ったというよりも、もっと別の感情で言葉を発することができなかったような様子だった。


「……不思議なものだな。君のような論理的な男が、恋人が絡むとこんなに支離滅裂になる。やはり不純異性交遊は学生には早いな」

「……どういう意味でしょう」

「今の質問に逆質問させてもらうが、乾の減罰を求める君の行動はなのか?」

「――ッ!」


〝――丞。お前は正しく生きなさい〟

 美弥子の言葉が、かつての父の言葉を丞に想起させた。


「私が違反者に厳罰を課すのは今に始まった話じゃない。それを不服に思うなら何故今まで君はこのことを話題に出さなかった? 君も何度も目にしてきただろう」

「……それ、は……」

「それは、君も本心では私と同じ気持ちだからだ。同じ価値観を持っているからだ。秩序を重んじ、違反者は容赦なく罰し、時には再発防止のため見せしめを吊るすことも、心のどこかで許容しているんだろう?」

「……」

「だが自分の大切な恋人がその対象になった途端、掌を返して減罰の直談判。――袖上、それはだろう。そういうのを、依怙贔屓えこひいきというんだ」

「……」


 あえて丞がさっき使った言葉をブーメランとして投げ返したのも、彼女なりの当てつけだ。

 この言葉で、丞はとうとう美弥子へ反論する気力すらも削がれてしまった。


「間違っていると自覚していることを主張し続けるレスバというのは疲れるものだ。水でも飲んで少し落ち着くといい」


 そんな丞の心労や、なんなら今無性に喉が渇いていることすら美弥子には筒抜けだった。

 丞は素直に、言われた通りペットボトルを開けて水を飲んだ。

 そうして丞が心を落ち着けて休んでいる間は、美弥子の独壇場だった。


「君は正しさを重んじる人間だったな。亡きお父様の意志を継いだのだろう? 立派だよ君は」

「……」

「だが君の最も大きな欠点は、『何が正しいか』を計る『自分』がないことだ。だから正しさを計るときにルールや規則を基準にする。君にとって『正しさ』とは、心の内から生じた感情ではなく、多くが外的なものだ。君は乾と口論する際にデータやソースをよく持ち出すそうだが、それもそういう性格に由来しているんだろう」

「…………」


 この時初めて、丞は音姫美弥子という人物を恐ろしく感じた。

 彼女の主張は完全に当たっていた。そしてそれは、丞にとって誰にも知られたくないコンプレックスの一つだった。

 正しく生きなさいと、大好きだった父に言われた。

 それを素直に聞き入れ、そのような生き方をすることに、丞はなんの躊躇いもなかった。


 ――だが、何が正しいのかがよく分からなかった。

 どう生きれば正しく生きたことになるのかが分からなかった。

 自分の中に正しさの答えがないなら、一般常識やルールに正しさを見出すしかない。

 その延長でソースやデータをよく持ち出すようになったというのも、まさしく美弥子の指摘通りだった。


 ――……これはつまりそういう理屈だ。

 民意を重んじると言えば聞こえはいいが、代わりに自分の主張がない。

 そんな自分を、丞は好きではなかった。

 誰にも打ち明けるつもりはなかったのに……美弥子はとっくにそんなことは見抜いていた。


「――私はそれを悪いとは思わない。むしろ君を高く評価しているのはそういうところだ」

 その上で、美弥子は丞のコンプレックスを肯定した。

 丞が意外そうに眼を見開く。


「その手の『正しさ』みたいな話を違反者に喋らせると、奴らは決まって訳の分からない持論を展開してくる。『俺にだけ注意するなんて不公平だ。他にもやってる奴がいるだろ』だの、『ルールが絶対正しいのか。ルールに死ねって書かれてたら死ぬのか』だの。高校生がだぞ?」

「……」

「誰に共感されなくとも、自分の世界だけの正しさを持ち出してきて……文字通り、話にならないんだよそういうのとは」

「……」


「君にも覚えがないか? 例えば君の恋人とレスバをしていて、君がどんなに論理的に話をしてもあの女は聞く耳を持たないだろう? 自分だけの感情論で正当性を主張する。違うか?」

「……」

「だから違反者に温情などかけるだけ無駄なんだ。逆に、君は自分の正しさを感情論で主張しない。所属する社会や集団のルールに照らし合わせようとする。なら時代が変わっても、ルールが変わっても、君はずっと『正しい側』だ。そう努める生き方を私は尊重する」

「……」


「――ただし、それは『裁く側』になっても同じでなければならない。自分の恋人だから贔屓するなどというのは、その規範から大きく逸脱する。わかるな?」

「…………そう、かもしれませんね」


 丞のその返答は、事実上の降伏宣言。

 美弥子の言葉に、丞は心の内で賛同してしまっていた。

 何もかも完全に図星。美弥子の言う通りだ。そんな彼女をどうやって論破できるというのか。


「そろそろ昼休みも終わりだ。君も教室に帰れ。プリン、ご馳走様」


 そう言うと美弥子はベンチから立ち上がり、空になったプリンの容器を持ってその場から立ち去った。

 美弥子が去った後も、丞はしばらくベンチから動けずにいた。

 ただじっと地面を見つめて、チャイムが鳴るまで、言葉にできない無力感に打ちひしがれていた。



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