10話 熱心なアンチ
「
「頼まれていたプリントを持ってきました」
「ん? ああ、これか……いや、別に今じゃなくてもよかったんだぞ? 職員室の俺の机にでも置いておいてくれれば……」
「ああ、そう言われればそうですね。うっかりしてました。面談中にお邪魔してすみません。――ところで、大きな声が廊下まで聞こえていましたが、何かあったんですか?」
丞がちらりと亜久里の方へ視線を向けるのを感じ、亜久里は咄嗟に顔を伏せた。
みっともなく泣き腫らした顔を、この男にだけは見られたくなかった。
「いや、別に大したことじゃないんだ。乾の進路についてちょっとな」
「先生、彼は?」
俊が尋ねると、丞は両親に向かって自己紹介した。
「初めまして。袖上丞と申します。亜久里さんのクラスメイトです」
「ああこれはどうも。いつも娘と仲良くしてくれてありがとうね」
「こちらこそ。亜久里さんとは――いつも忌憚のない意見を言い合うような仲です」
「お二方、こちらの袖上君は成績優秀で、将来は警察官を目指している優等生なんですよ」
「ほう! 警察官! それはまた立派なことだ」
俊と明里は、それを待っていたとばかりにはしゃぎだした。
「公務員。安定した収入。社会的な地位。全くもって素晴らしい目標だ。そうだ、君からもうちの娘にアドバイスをしてやってくれんかね」
「そうね。亜久里ちゃんも、私達よりも歳の近い子の意見の方が受け入れやすいかもしれないし」
「アドバイス、と言いますと?」
「ああ、実はな袖上……」
――もうやめてよ……。
盛り上がる周囲の熱に比べて、亜久里の心はどんどんと沈んでいった。
もう十分ボコボコにしたじゃん。なんでまだいじめるの?
そいつは、うちのこと嫌いなの。仲良くなんてないの。
いっつもうちのこと否定して、バカにしてくる最低な奴なの。
そんな奴まで引き込んで、一緒になってまだうちのこと攻撃すんの?
酷いよ……なんでそこまですんの……?
「――なるほど。なんとなく話は分かりました」
担任からざっくりとした説明を受けた丞は、顎元に手を当てながら、
「ちなみに、皆さんが考える『安定した職業』というのはどういったものですか?」
そう尋ねると、担任と両親は互いに顔を見合わせた。
「そりゃあ公務員だ、もちろん。君が目指してる警察官だって公務員だろう」
「なるほど。確かに公務員は収入という点では安定しているかもしれませんね」
「その通り。安定第一。それでこそ将来の不安も、」
「――ただ、将来不安がない仕事かと言われると、少し微妙ですね」
丞の言葉に、揚々と相槌を打っていた父の言葉が止まる。
「警察官の仕事は激務だと聞きます。僕の父も警察官だったのですが、拘束時間は長く、休みを取るのも一苦労とよく言っていました。突然の呼び出しがあれば食事中でも駆け付けないといけないとか。父もよく仮眠室で寝泊まりして、三日も家に帰ってこない、なんてこともありましたね」
「そ、そうなのか。まあ大変そうな仕事だとは思うが」
「そう考えると、収入は確かに安定していますが、肉体的、精神的に安定した仕事かというと議論の余地が残ります。不規則な生活を十年や二十年続けた結果、心や健康を害してしまい休職……そんなことになれば、それは安定とは程遠い」
「うむ……だがまあ、それはごく一部だろう?」
「そうかもしれません。具体的な数字は僕も知りませんが――ただ、警察官だった僕の父は、過労により三年ほど前に他界しました」
その言葉に、丞以外の者達は皆言葉を失った。
気まずそうに閉口する大人達を気にも留めず、丞は続ける。
「先生はどうですか? 教師も公務員ですよね。教職は安定した仕事ですか?」
「え? いやぁ……まあ、どうだろうな……はは。安定の定義によるかもしれないなそれは」
丞が話題を振ると、担任は眉を歪ませて言葉を濁らせた。
その様子だけで、両親にも担任の答えは察せられた。
「公務員の安定神話も、もしかすると古い時代の話なのかもしれませんね。激務を例に出すなら、医者や看護師もそうかもしれません。大手メーカーも大規模なリストラや倒産のニュースを見かけますし、最近は銀行ですら先行きは怪しいと聞きます。――ちなみに今軽く調べてみたのですが、日本人の平均年収はここ三十年でどんどん下がっているようです」
丞がスマホを三人に見えるように机に置く。
そこには政府が発表している日本人の平均年収、そして中央値の推移を示したグラフが表示されていた。
それによると、確かにその数値は下降傾向を表しているように見えた。
「確か日本はサラリーマン……つまり雇用者の比率が8割を大きく超えていたと思いますので、その賃金自体が下降傾向にあると考えると、会社に就職したから将来も安泰、とはなりにくい時代かもしれません」
「ま、待ちなさい君。そんなことを言い出したら、安定した仕事なんてないということになるじゃないか」
「無いとは言いませんが、そもそも、安定を最重要に考えることが時代にそぐわないのかもしれません。それより、時代が変わっても、世界情勢が変わっても、自分の力でお金を稼いでいく能力や知識を身に着けること。それこそが本当の安定した人生に繋がる、と僕は思います」
淀みなく、すらすらと流れる丞の論理。
それを聞きながら、亜久里は今まで感じたことのないような、不思議な興奮を覚えていた。
……凄い。
素直にそう感じた。先程まであれほど亜久里を苦しめた大人達を、三人まとめて完全に言いくるめている。
『子供だから』と一蹴できない重みが丞の言葉にはあった。
「――MeTubeも、きっとそんな力の一つです」
え、と亜久里が伏せていた顔を上げる。
泣き腫らした顔を丞に見せたくないとずっと顔を逸らしていたが、丞はそんな亜久里を見つめながら、至って真剣な表情で続けた。
「国や企業に寄らず、自分の力で何か価値を生み出して報酬を得る。こういう力は今の時代、豊かな将来を作る上でとても重要な能力だと思いますよ」
「いや、だが……そんなよく分からん……いかがわしいもので生計なんて立てられるのかね?」
「MeTube一本となると厳しいかもしれませんね。だから多くの場合、副業としてやっている人がほとんどのようです」
「でも、お仕事しながら副業でそういう活動って、とても大変なんじゃありませんか? それこそ、過労で身体を壊しちゃうんじゃ……」
「確かに、大人になってから、働きながら一からMeTubeを始めて収益を得るところまで持っていくのは難しいでしょう。それを継続させることも。――だからこそ、子供の内からそういう経験を積んでおくことには、大きな意義があると僕は思います」
「だが袖上、何も高校生の内からしなくてもいいんじゃないか? 学生の内は学業に専念して、大学に進学してから好きなことに打ち込んでも遅くはないだろう」
「それは例えば部活動にも同じことが言えませんか? 勉学だけでなく文化的な活動にも触れておくことを重要視するからこそ、学校は部活動を支援しているはずです」
「それは……まあそうかもしれないが」
「むしろ、時間にも体力にも余裕があり、失敗してもやり直せる学生の内にこそ、チャレンジする価値がある。そんな考え方もあるでしょう。――そういう観点で考えるなら、」
そこで丞は言葉を区切り、じっと亜久里の目を見つめた。
親でなく、教師でなく、丞は亜久里に向けて……
「――僕は、亜久里さんは間違っていないと思います」
君は間違っていない、と。そう優しく背中を押して賛同した。
「――」
丞の言葉……その頼もしさに、亜久里の胸の内にドクンと燃えるような何かが沸き上がる。
暗く沈み込んでいた心に光が差し込まれたような、そんな暖かさを感じた。
その光を仰ぎ見るように、亜久里はぼんやりとした顔で丞の顔を見上げていた。
「ただし」
そこで丞は小さく鼻を鳴らして、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「だからと言って高一の今の時期から、進学を選択肢から外すのはやりすぎでしょうね。それに……この成績は学生としていかがなものかと。部活動もあくまで学業との両立が前提です」
丞は机の上に並べられている、亜久里の成績表を見遣りながら言った。
もう勉強はしなくていいと短絡的に考えていた亜久里は、今学期の中間テストと期末テストのどちらもで、学年最下位付近の点数を叩き出していた。中には赤点科目もある。
うぐっ、と亜久里が唸る。
いつもならここからレスバにでも発展するところだが、不思議と今はそんなに嫌な気持ちにならなかった。
「じゃあ袖上、お前は結局どうするのが一番いいと思うんだ?」
「普通に、ご両親と亜久里さんの意見の間を取ればいいと思います」
「間というと? MeTubeをやりながら大学に進学するという意味か?」
違います、と丞は否定する。
それでは結局、進学したくないという亜久里の希望が満たされていない。
「亜久里さんのMeTube活動に、猶予期間を設けるというのはどうでしょう」
「猶予期間?」
「例えば、二年の三学期末……それまでに、ご両親を納得させるだけの成果をあげる。その成果の度合いに応じて、亜久里さんが専業のMeTuberになるかどうかを判断する」
「成果に満足できなければ、三年生からは進学に向けて受験勉強に集中する、ということか」
「当然、進学の可能性を残しておくために定期テストでは最低限の点数は取っておいた方がいいでしょう。これならどちらの可能性も残したまま、どちらの希望も叶えるチャンスがある」
「だ、だが君……その肝心の成果とやらはどうやって判断するんだね。私達にはMeTubeのことなんて分からんぞ」
「一緒に勉強してあげてください。娘さんがどういう活動をしているのか見守りながら」
亜久里に散々勉強しろと連呼した手前、そう言われると俊は弱いようで「むぅ……」と小さく唸った。
一方で母の明里は丞の言葉にいたく納得した様子で、何度か静かに頷いていた。
「では……どうでしょうお二方。そういうことで」
担任が両親に確認を取ると、両親は続いて亜久里の方を向いた。
亜久里が小さく頷くと、両親も互いに顔を見合わせて同じように頷いた。
「――僕もまだまだ若輩の身です。知った風に生意気なことを語ってしまい申し訳ございませんでした。僕の微力が少しでもお役に立てば幸いです。――では、失礼いたします」
丞はさらりとそう言い放つと、すっと頭を下げてからドアに向かって歩き出した。
その去り際、一瞬だけ亜久里と目が合った。
だが互いに何も言うことなく、丞は教室のドアを開けて出て行った。
「あ……」
彼に言いたいことがいくつもあるような気がした。
だが何を言いたいのか考えている内に、丞は足早にこの場から去ってしまった。
あと数秒迷えば、次に彼に会うのは夏休み明けの二学期になるだろう。
そう考えたとき、
「――待って!」
体が勝手に動き出していた。
椅子から立ち上がり、急いで教室を出る。
背後から呼び止められる声が聞こえたが、亜久里は気にせずに廊下を走った。
「待って、袖上君!」
丞はすぐに見つかった。
何事もなかったかのように廊下を歩いており、亜久里が呼び止めると素直に立ち止まって振り向いた。
荒く息づく呼吸を整えながら、亜久里は丞の傍まで駆け寄った。
「どうした?」
今までと同じ、そっけない丞の口調。
その声一つで亜久里も察する。
彼は別に、亜久里のことなど好きではない。むしろ嫌っている。それは今も変わっていない。
だからこそ、亜久里はどうしても聞いておきたかった。
「……なんで、うちのこと庇ったの?」
ありがとうより、今までごめんより、何よりもまず言いたいことはそれだった。
「俺は自分が正しいと思うことをしただけだ」
「あんたの言う正しいことって何? なんでうちを庇うことが正しいことなの?」
その問いかけに、丞はしばし返答に迷う素振りを見せた。
答えがあった上での行動なら即答できるはずだが、丞は明らかに今返答を模索しているように見えた。
「……努力は否定されるべきじゃないって思った。それだけだ」
「……なにそれ。てかあんた、前にうちのチャンネルの悪口言ってたじゃん」
今日まで繰り返してきたレスバの中に、亜久里のMeTubeチャンネルに関するテーマも取り上げられたことがあった。
その時も確かに、亜久里と丞は意見がぶつかり合った。
「言ったが、別に努力を否定したわけじゃない」
「MeTubeなんかやるだけ無駄だって言ったじゃん」
「言ってない。専業でやるのは難しいって言ったんだ」
「うちのチャンネルなんか伸びるわけないって言ったじゃん」
「言ってない。特徴がないって言ったんだ。……まあその延長上で『今のままやっても伸びにくい』とは言ったけど」
「うちのチャンネル面白くないって言ったじゃん」
「それは言った。実際面白くないと思ったから」
「うちの――」
そこでハッと言葉を止める。
今、こんなことが言いたいんじゃない。本当はもっと、別のことが伝えたいはずなのに。
何故か彼を前にするとムキになってしまう。どうしてもレスバをしてしまう。
そんな自分が……亜久里は生まれて初めて少しだけ嫌いになった。
「――てか、あれ? え?」
そこでふと、亜久里はとある事実に気が付く。
「てかあんたさ……うちの配信、見てんの?」
さっきの会話でそれらしいことを言っていたように聞こえた。
いや、同じ趣旨のことはもっと以前から言っていたはずだが、何故か亜久里の中で丞は亜久里の配信など見ていないに決まっているという思い込みがされていた。
亜久里の配信時間はまちまちだが、長いと三時間以上も喋っていることがある。
毎日のようにレスバしている嫌いな相手が長時間喋っているだけの配信など、好き好んで見るわけがない。そういう固定観念があった。
だが丞はむしろ心外だとばかりに顔を歪めた。
「何を今更……当たり前だろ」
そう言って、少しスマホを操作してから亜久里に見せた。
そこにはMeTubeアプリの画面が表示されており、丞の動画の閲覧履歴が並んでいた。
――その中に、亜久里の配信のアーカイブがいくつも残っていた。
なんなら、丞は亜久里のチャンネルを登録までしていた。
まだ300人しかいない登録者の内の一人が、目の前の男子生徒だった。
「……見て、たんだ。うちのこと」
「当然だろ。見もせずにどうやって批判なんてできるんだ。俺はちゃんとお前の配信を見た上で、面白くないって言ってるんだ」
冷静に考えれば酷いことを言われているのだが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
いや、むしろ逆。何度説明してもMeTubeのことを全く理解してくれなかった父などは、きっと亜久里の配信など一度も見てくれていないだろう。
見たこともないのにイメージと偏見だけで悪いものだと決めつける。そういう人と身近に接していた亜久里にとって、丞の信念はとても眩しいものに見えた。
要するに丞は、亜久里をレスバで論破するために亜久里の配信を見ているのだ。
嫌いな相手の、面白くないと感じる配信を、レスバで負けないよう発言に説得力を持たせるために追いかける。
――つまり、熱心な亜久里のアンチなのだ。
そういう相手だからこそ、時として深い理解者にも成り得るのだと、亜久里は初めて知った。
実際、丞は亜久里の努力は認めてくれていた。
クオリティや好み、将来の展望の甘さなどはレスバになったが、亜久里が本気で取り組んでいるということだけは、誰にも否定させなかった。
「あんた、うちのこと嫌いなんでしょ?」
「――正直言うと、嫌いだ。でも俺は、嫌いだから論破したかったわけじゃない。嫌いだからって、その人の努力が否定されていいとも思わない。……嫌いな相手だって、困っていたら助けたいって思うさ」
「……別に困ってなかったし」
そっぽを向いて唇を尖らせる亜久里。
もちろんあの時困っていたが、それを認めるのは悔しかったので誤魔化した。
「でも泣いてたろ?」
何気なく呟いた丞のその言葉に、亜久里は目を見開いた。
直観的に、丞の行動理由を全て把握できた気がした。
――女の子が泣いていたから助けた。
それだけなのだ。
丞はうっかり面談中の教室にプリントを届けに入ったわけでもなく、偶然親や担任から進路相談を持ち掛けられたから適当に答えたわけでもなかった。
多分、偶然は一つだけ。
担任の教師に頼まれていたプリントを、職員室に届けようと歩いていたら、教室の前を通りかかった。
そのとき、亜久里と大人達が大声で口論するのが聞こえたのだろう。
盗み聞きしたのは興味本位か、それとも日頃レスバを仕掛けてくる目障りな女子生徒が、大人達に怒られているのをいい気味だと思ったのか。
そして風向きが変わり、亜久里のレスバはどんどん劣勢に追い込まれていく。
その光景が丞にどう映ったのかは分からない。
だが……
――誰か助けて。
だが丞は教室の扉を開けた。
誰にも聞こえなかったはずの亜久里の悲痛な叫びに、応えずにはいられなかった。
親や教師を非難するためではない。論破するためではない。
ただ亜久里の思いに、努力に、少しだけ寄り添ってあげてください、と。そう伝えるために。
「……丞。人を、助ける……って意味なんだよね」
「そうだ。覚えてくれたか?」
二人の始まりはそこからだった。
相手の名前を読み間違えて、レスバになって、嫌い合った。
だがその関係も、今日この時から少しずつ、変わり始めようとしていた。
「……うん、覚えた。――もう、絶対忘れない」
そう言って、亜久里は泣き腫らした目をくしゃっと細めて笑った。
それは亜久里が丞に向けて送った、初めての心からの笑顔だった。
廊下に差し込む夕日に照らされて。
あるいはドクンドクンと高鳴る胸の鼓動の、その熱さに当てられて。
誰としたどんなレスバのときよりも、そのときの彼女の顔は、燃えるように真っ赤だった。
第2章 嫌いだから論破したい 完
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