1話 『違反者には厳罰を課すべきか』
――
病院のベッドの上で、まだ幼い俺に向けて父はそう言った。
はい、お父さん。と頷く俺の頭を、父は優しく撫でてくれた。
――私は、正しくないことをした。
滲み出すような父の声。後悔しているのか、恥じているのか……それとも懺悔しているのか。当時の俺にはよく分からなかった。
そもそも、父が正しくないことをするということ自体が、俺には信じられないこと。
バカが付くほどの真面目を絵に描いたような父。警察官として二十年以上も勤め、悪に屈さず町の平和を守り続けてきた父は、俺にとって誰よりも尊敬すべき、正義の象徴だった。
そんな父の人生が、たった一度の過ちで大きく狂った。
――間違っていると分かっていたのに、見過ごしてしまった。自分に嘘をついてしまった。
傷つき失われた父のキャリア。自罰的に働くようになった父に伸し掛かった心労、過労……あれほど快活だった父は数年で病床に臥せった。
幼い俺にできたのは……そんな父が懸命に俺に託そうとしてくれている『何か』を、息子としてしっかりと受け止めることだけだった。
――いいか丞。お前は正しく生きなさい。
繰り返し、父は俺にそう言った。
――何が正しいのかは自分で決めるんだ。人の言葉ではなく、自分の気持ちを信じなさい。そしてそれを貫くんだ。私のように……人の言葉に踊らされ、信念を折ってはいけない。
はい、お父さん。……だから、
――お父さんも自分を許してあげて。
その言葉が父に届いたのかは、今となっては分からない。
だがそれから数か月後にこの世を去った父の顔は、今までの張り詰めたものではなく、心なしか穏やかだった。
俺の中学入学を見届けた、その翌月。
――ほのかに夏の気配の香る、暖かな日だった。
◆
こういう暖かな日は風紀委員の出番だ。
風紀委員の腕章をつけた
「――そこの男子、シャツはズボンの中に入れろ」
指を差された下級生の男子が慌てて身だしなみを整える。
それを確認すると丞は再び歩を進めて周囲を見回す。
季節は春。昴ヶ咲高校は数日前から制服の移行期間に入り、生徒が各々でその日に適した制服を選択して登校する。
加えて今日はなかなかの日照り。こういう日は生徒の服装が乱れやすい。
特に午前中に体育の授業があったクラスなどはそれが顕著だ。
「――そこの女子、ちょっと」
前を歩いてきた女生徒二人組を呼び止める。隣のクラスの同級生だった。
「ネクタイはどうした」
丞が言うと、指摘された女子が、あっ……とバツが悪そうに視線を逸らした。昴ヶ咲高校は女生徒もネクタイの着用が義務付けられているが、この女生徒はノーネクタイだった。
「あの、午前中に体育があって、そのときに……って感じ?」
「どういう感じだ」
「……つけるの忘れちゃった、みたいな。別によくない? 今日暑いしさ」
「関係ない。ネクタイを着用せず廊下を歩くのは校則違反だ。今すぐ教室に戻れ」
「……はいはい、分かりましたようっさいなあ」
「――君も。少しいいか?」
「え、私も?」
もう一人の女生徒が目を丸くする。彼女はしっかりとネクタイを着用していたが、丞が注目したのは彼女の手首だった。
女生徒の右手首に何かが装着されていた。
「それは?」
「あ、これはミサンガだよ」
「ミサンガ……」
しばし思案する丞。校則では、基本的にアクセサリー類の装着は禁止されている。
ピアス、指輪、ネックレス。そしてブレスレットなどだ。
そんな中、ミサンガはやや面倒な位置づけにある。
『アクセサリーの用途としてでなければ着用してもよい』ということになっているのだ。奇妙な話だが、おそらく過去にこの件で学校と揉めた学生でもいたのだろう。
では肝心の用途はどうやって確認するかというと……なんと口頭での聴取が主となっている。
「このミサンガの用途は?」
「えっと……そう、願掛け! 友達と一緒に始めたんだー」
と、言うに決まっている。
こんな問答はややバカバカしいと感じる丞ではあったが、
「――なら問題ありません。ブレスレットと見間違えて呼び止めてしまいました。失礼しました」
丞の気持ちは関係ない。校則がそういう建付けになっている以上、それで納得するしかない。
――なぜなら、それは間違いなく『正しいこと』なのだから。
「相変わらずお巡りさんの事情聴取みたいだねー」
「もういいでしょ? 行こっ」
丞を煙たそうに横目で見やりながら去っていく女生徒達。
こういう扱いを受けるのは丞にとってはすっかり慣れたものだ。
気を取り直して周囲を見回す。まだまだ校則に違反している生徒は大勢いそうだった。
「――そこの男子生徒」
違反を見つけた途端、反射的に声をかける丞。
「あん?」
二人組だった。片方はざっと見て問題はなさそうだが、もう片方は一目見て一発アウトだった。
赤いネクタイ。どちらも三年生だ。サイドを刈り上げた明るい金髪に、野卑な目つき。見るからに不良でございますと憚らない雰囲気だ。
後ろ姿から指摘したのは彼が上履きを踵で履き潰していたからだが、正面を向いてみれば他にもツッコミどころが満載のいで立ちだった。
昴ヶ咲高校はそれなりに偏差値の高い高校だが、それでもこういう学生は一定の割合でいる。
「なんか用?」
「ちっ、風紀委員かよ……俺ら急いでんだけど」
「上履きはちゃんと履いてください」
「るせえなぁ……おら、これで文句ねえだろ」
乱暴に上履きを履き直す。
素直に従ってくれたのはありがたいが、問題は他にもある。
「第二ボタンは閉めてください。開けていいのは第一ボタンまでです」
「うぜえ。無理だから。今日暑すぎ」
「気温は関係ありません。閉めてください」
「あ? てめえ下級生だろ。誰に口きいてんだ?」
「年齢も関係ありません。風紀委員なんで。今週は服装改善週間です」
「うぜえって! なんで俺にだけ言うんだよ。他の奴にも言えよ、差別かよ。あ?」
「他の人にも言ってます。この昼休みだけであなたでもう六人目です」
「チッ、お前ちょっとマジで調子乗ってんじゃ……」
「まあまあいいじゃん。とりま今だけ閉めてりゃさ。な?」
もう一人の男子生徒に諭され、金髪の男子は忌々しそうに第二ボタンに手をかけた。
丞と別れた途端に再びボタンを外すと公言しているも同然だが、それは取り締まりようがない。
「色シャツも禁止ですよ」
閉めようとしている第二ボタンから覗くインナーシャツを見遣りながら言う。
真っ赤な生地のシャツは普通にカッターシャツから透けていたので最初から気づいていたが、せっかくなのでこのタイミングで指摘した。
「あ? じゃあこいつはどうなんだよ」
金髪男子が隣の男子生徒を指差す。確かに彼も模様付きのシャツを着用していた。
「柄シャツは生地が白であれば、過度なものでなければ許可されています。あなたは生地が赤なので違反です」
「は? 過度とか誰がどうやって判断すんだよ」
今俺がやってるだろ。……と思わず出そうになる声を呑みこむ。
「とにかく、違反しています。すぐに服装を改善してください」
「ああもう! うぜえっつってんだろが!」
苛立った金髪男子が、ドン、と丞の肩を突き飛ばす。
……いや、突き飛ばすつもりだった。
軽く突いてやればこの融通の利かないガリ勉風紀委員は情けなくふらついて、それから怯えたように逃げていくだろうと金髪男子は予想した。
――だが実際に金髪男子が感じたのは、まるで石壁を押したかのような感触。
丞は不意に突き飛ばされたにも関わらずその場から一歩もたじろぐことなく、堂々と直立しながら金髪男子の手首をぐいと鷲掴みにした。
「――なんですか、この手は?」
陽光を反射した眼鏡がギラリと光り、そこから覗く鋭い目つきが金髪男子を睨んでいた。
予想外の反撃に面食らう金髪学生。後ずさろうとするが丞の握力が思いのほか強く下がれない。
急に緊張感を増した空気にたじろぐ二人。
下級生だからと侮っていたが、丞の目はその程度のことでは決して退かないと告げていた。
「……は、離せよ!」
乱暴に丞の手を振りほどくと、金髪男子は慌てて第二ボタンを閉めた。
「シ、シャツはもうどうしようもねえから、明日から気を付ける。それでいいだろ」
「体操服は?」
「ねえよ。今日体育ねえし」
「……」
「ほ、ほんとにねえんだって!」
これ以上は言っても仕方ない。「分かりました」と言うと、二人の男子生徒は苦々しげにそこから去ろうとした。
「すみません、あと一つ」
「ああ?」
まだあんのかよ、とうんざりした様子で振り返る金髪男子。
その左耳を注視すると、ピアスのものとおぼしき孔が二つ開いている。丞はそれがずっと気になっていた。
無論、昴ヶ咲高校ではピアスは禁止だ。今はつけていないが、指摘するべきか一瞬迷う。
「――」
目線を下に下げる。
金髪男子の左ポケットが、不自然に四角く盛り上がっている。薄着だからか余計に目立つそれが、ピアスケースかどうかは判断がつかない。
警察官さながらに持ち物検査をして改めれば、全て明らかになることだが……。
「――いえ、なんでもありません。失礼しました」
だが今回は不問にした。
あれがピアスの孔だったとしても、今つけていないのなら指摘する必要はないだろう。
ひょっとすると既に誰かから指摘されて、心を入れ替えて生活している最中かもしれない。
あるいはピアスの孔ではなく、何かの怪我で残った傷跡かもしれない。
そうであったなら、ここでつけてもいないピアスを指摘するのは彼を傷つけてしまうかもしれない。
不確かなデータやソースで他者の心を傷つけるのは、丞の信念に反する。
「チッ、なんだよ。もう文句ねえんだな?」
「はい。すみませんでした」
自分が間違っていたと思えば一言謝れば済む話。気を取り直して見回りを続けようとした時、
「――いいや、駄目だな」
日差しに焼かれた廊下に、巨大な氷を突き刺すような声が抜けた。
ゲッ! と顔を青くする金髪男子。その視線の先、丞の背後から足音が近づいてきた。
「音姫先輩……」
氷のような水色の姫カット。度の強い楕円眼鏡から覗く、刃物のような鋭い眼光。それを長身の彼女が有すると、さながら頭上から放たれたナイフを連想させる。
「な、なんだよ音姫……なんか用かよ」
丞に見せていた高圧的な態度はどこへやら。金髪男子だけでなく、もう一人の男子生徒まで、音姫美弥子の登場によって先程までの勢いを急速に冷却されてしまっていた。
彼らの目には一様に、緊張と怯えの気配が窺えた。
「袖上、やるなら徹底的にやれ」
そう言うと美弥子は何の遠慮もなく金髪男子のズボンの左ポケットに手を突っ込んだ。
「は!? お、おいなにやって――やめろ!」
慌てて止めようとするが、咄嗟のことで混乱している二秒ほどの間に、美弥子は既に仕事を終えていた。
ポケットから手を引き抜くと、
「これはなんだ?」
手の中で四角いプラスチックのケースを転がしながら、美弥子が金髪男子を睨みつけた。
開けると、中には確かに小さな赤いピアスが入っていた。
「そ、それは……」
「アクセサリーの着用は校則で禁止されているのは当然知っているな?」
「つ、つけてねえだろ!」
「持ち込みも禁止だ。――これはお前の担任に渡しておく。放課後に反省文を書いてから帰宅するように」
「は!? ほ、放課後は……!」
「違反者に温情はかけん。用事があるならさっさと済ませることだな」
有無を言わせない美弥子の圧に押され、金髪男子は悔しそうに顔を歪ませた。
「うぜえんだよこの冷血女!」
「お、おいもう行こうぜ」
もう一人の男子生徒に促され、二人は美弥子から逃げるように去っていった。
「……相変わらず、容赦ないですね音姫先輩」
一連のやり取りを見守った丞は、毎度のことながら彼女の苛烈なやり方には舌を巻く想いだった。
感嘆する部分もあるが、やや強硬すぎるともいつも思っていた。
「君もピアスには気づいていたんだろ?」
「どうでしょう……確証はなかったです。先輩はどうしてポケットにピアスを持っていると分かったんですか?」
「私だって確証はなかったさ。だが、違っていたなら一言謝ればいいだけだ」
「……」
こういう考え方は共感できる。
が……何故か彼女とはいつも決定的に自分と噛み合わないと感じる瞬間が多々あった。
それが丞には不思議だった。
「覗き見は趣味が悪いと分かっているが、見物させてもらっていた。途中まではよかったんだが、最後で甘さが出たな」
「今つけていないのなら問題ないと判断しただけです。持ち込みは確かに校則違反ですが、何も反省文を書かせるほどとは……」
「だから甘いと言うんだ君は。奴は今日の放課後、恋人と『コミガヤデパート』でデートする予定だったんだ。楽しそうに話しているのを聞いた。つまり今つけていなくとも放課後つけるつもりだったのさ。そもそも、身に着けるつもりもないアクセサリーなど持ち歩くはずがない。フッ、鞄にでも隠していればいいものを馬鹿な男だ」
「……」
恋人、と聞いて丞は無意識に亜久里のことを考えてしまった。
事前に予定を立て、楽しみにしていた放課後のデート。少しでもお洒落をしようと、中に色シャツを着たり、放課後になったらつけようと浮かれてピアスを持ち歩いたり。
以前はそういう者達をどこか冷ややかに見ていた丞だが、今は少しだけあの金髪男子の気持ちが理解できた。擁護はしないが……理解はできた。
だがそれを音姫美弥子は許さなかった。
彼女は放課後にデートがあることを知っていた上で、あの男子生徒に放課後の居残りを命じた。それが何よりも重い罰だと知っていたから。
……これが、彼女が『氷姫』などと陰で呼ばれる理由だ。
丞すらたじろがせるほどの規律の鬼。無慈悲な審判者。
彼女は校則などの規律に違反した者に一切容赦しないことで有名だった。
あるときは生徒に高圧的ないびりを行っていた体育教師を徹底的に論破して、休職にまで追い込んだという戦績を誇っている。
生徒教師問わず、学校中の人間から恐れられている。
そんな中、丞と美弥子は例外的に友好的な関係を築いていた。
「袖上、君には期待しているんだ。君なら私が卒業した後でも、この学校の規律を守っていけるだろう。上級生に凄まれても気丈に立ち向かっていたのは見事だったな」
「別に大したことじゃないです。凄まれたからって怯んでるようじゃ警察官なんて務まりませんから」
「良き警官は町民から好かれ、その何倍も嫌われる。――だったか?」
「はい」
それはかつて丞が、丞の父から教わった言葉だ。
それを美弥子にも教えると、彼女はそれをいたく気に入ったようだった。
「君にも私にも、強く共感できる言葉だな。だからこそ、君には私の後を継いでほしいと思っているんだが……生徒会長の件、考えてくれたか?」
「いえ、俺は風紀委員で十分ですよ」
「惜しいな。君なら十分素質はあるんだが……もし気が変わって立候補する気になればいつでも声をかけてくれ。私が君を推薦しよう」
そう気にかけてくれる美弥子からは、丞への純粋な信頼の念を感じ取れた。
「……ありがとうございます」
それにぎこちない愛想笑いで返す丞。
同じく風紀を守る者同士、美弥子は以前から丞を気にかけてくれていた。
丞も、やり方はともかく美弥子の正義を貫こうとする姿勢は尊敬していたし、共感できる部分も多くあった。
なのに何故丞が彼女にここまで気まずい思いを抱いているかというと……。
「あ、丞じゃん。おつ~。なにしてんの?」
まさにその悩みの種。
丞の恋人、
「ああ、もしかしてアレ? 服装チェックウイークってやつ?」
「ああ。でもそろそろ昼休みも終わりだし切り上げるところだ」
「マ? じゃあ一緒に教室まで戻ろうよ。――こんなのと話してないでさ」
途端に刺々しくなる亜久里の言葉。
横目で美弥子をねめつける様子に、丞は改めて頭を抱えたくなった。
「こんなの、とは私のことか?」
「当たり前じゃん。他に誰がいんの?」
「亜久里……音姫先輩は上級生だ。せめてその言葉遣いだけでも……」
「気にするな袖上。端からこいつに常識的な感性など期待していない」
「は? てか人の彼氏とあんまベタベタ喋んないでくれる? そっちの方がヒジョーシキでしょ」
今にも殴り合いでも始めかねない険悪な雰囲気に、さしもの丞も迂闊に動けず立ち尽くしていた。
……そう、この二人はかねてから、周囲の人間が怖がって逃げていくほどの犬猿の仲なのである。
お互いに相手への嫌悪感を隠そうともせず、顔を突き合わせればこんな具合にバチバチに攻撃しあっていた。
「彼とは他生徒への服装指導中に偶然会って雑談していただけだ。そんなことまでお前にとやかく言われる筋合いはないな」
「だったらもう用は済んだでしょ? さっさとどっか行けば?」
「他に指導対象の生徒がいなければそうさせてもらうさ」
そう言いながら、美弥子の視線は亜久里の服装へ注がれ始めた。
二人の会話を見守りながら、実は丞も亜久里の服装をくまなくチェックしていた。
丞や美弥子とは真逆の、今風のギャルを地で行く亜久里。その制服の着こなしは一見すると派手だ。すぐにでも、美弥子どころか丞から指導が入ってもおかしくないように見えるが……。
美弥子の視線に気づいた亜久里が、楽しそうにニヤリと笑う。
「お? うちも服装チェックすんの? いいよ、やれば?」
美弥子を挑発する余裕すら見せる亜久里。
「……」
美弥子のナイフのような眼光に射抜かれながら、亜久里は一歩も退かずに堂々と自分の制服を見せつける。
指摘があればすぐに入るはずだが、美弥子の視線は亜久里の制服をゆっくりと滑っていく。
つられて丞も亜久里の服装を見ていくと、その視線に気づいた亜久里の表情が一気に緩む。
「ちょっともぉ~、丞にまでそんな見られると照れるっつーの!」
美弥子の時とは別人のように甘ったるい声。
照れると言いながら勝手に読者モデルのようにポーズを決め始める亜久里。
くるりと回った際にスカートがめくれて、丞は一瞬ドキリとする。
亜久里はセーターを腰に巻いており、後ろから見るとスカートの見える範囲が極端に狭い。
一見スカートを短くしているように見えるが、スカート自体は弄っていない。セーターのせいでそう錯覚してしまうだけだ。セーターの腰巻きも校則には違反していない。
「じゃーん! どどーん! ばっきゅーん!」
自分で効果音を付けながら、次々とポーズを変えて楽しそうに丞に披露する。
その度に丞は「俺の彼女可愛いなあ……」と内心でデレデレしてしまうのだが、すぐ傍に美弥子がいたので表には出さないよう努めた。
「動くな、チェックできない」
「は? 知らないし。てかいつまでジロジロ見てんの? シッシッ」
手を振って美弥子を追い払おうとする亜久里。
その指先、正確には長く整形された爪が日光を受けてギラついた光を反射している。
明らかに他の生徒と違う光り方をしているが――これも校則違反ではない。
マニキュアや付け爪は禁止されているが、爪を磨いて光らせることは禁止されていないのだ。よってこれも指導できない。
ノリノリでポーズを取り続ける亜久里。周囲の生徒がチラチラと横目で見物している中、人目も気にせず丞に投げキッスまでし始める始末。
その間も二人は亜久里の服装にしっかりと目を通していく。
金髪をサイドテールにまとめている派手なシュシュ。ポーズを取るたびに割としっかり目に香ってくる香水。……いずれも校則違反ではない。
唯一指導できそうなのは少しダラッと垂れたネクタイくらいだが、これも絶妙なライン。
普通に生活していればこれくらいは垂れてくるだろう、許容範囲内だろう、そう思わせるギリギリを攻めている。
丞や美弥子と違って明らかに制服を着崩しているように見える。見えるが……指導はできない。
ここまでくると規律を守りながらオシャレを楽しもうとするその執念に感嘆すら覚える。
「どーよ。ケチつけれますかと。しょっぴけますかと」
得意げに勝利の笑みを浮かべる亜久里。
実際、美弥子は亜久里の服装を指導できないようだった。
「……君の入れ知恵か?」
美弥子がジト目を丞に向ける。
「入れ知恵というか……はは」
「うちの彼ピに絡むのやめてくんない!? マジキモい! 普通に丞にいろいろ教えてもらっただけだし!」
亜久里の言う通り、丞と付き合いたての頃は亜久里の服装はもっと乱れていた。
実際丞が直々に指導したこともある。だが交際を開始してから何度もこういうやり取りを繰り返した結果、ついに亜久里は美弥子の服装チェックをクリアする着こなし術をマスターしたのだった。
「……それは?」
美弥子の鋭い視線が、亜久里の左ポケットに向けられる。
丞も注視すると、少し青い紐のようなものが垂れていた。
何かの装飾品や、学校に持ち込みが許可されていない小物の可能性はある。
……よく気づいたな。美弥子の執念にも似た目ざとさに、丞は重く息を吐いた。
「え、これ?」
だがそんな美弥子の追求にも亜久里は動じない。
ポケットから取り出したものを堂々と見せると、それは神社などで見かけるお守りだった。
ただ普通のものではなく、形が猫をモチーフにしており、上部に耳がつけられ、中央には簡単な顔が刺繍されていた。
「ただのお守りだけど。なんか文句あんの? なに、これ校則違反なわけ?」
「……確認しただけだ。校則は違反していないことが当たり前なんだ。そんなことで勝ち誇った気になっているなら、普段の素行も知れるな」
「ふーんだ。負け惜しみはそれで終わり? ならさっさと消えてくれる? うちは今からラブラブな彼氏とおしゃべりするんで。あんたは一人で寂しく眼鏡でも拭いてれば?」
「ふん、ラブラブねえ。その割にこの前の昼休みも随分大騒ぎだったそうだが」
うぐっ、と声を詰まらせる亜久里。丞もバツが悪そうに視線を逸らした。
「喧嘩するほど、とも言うが、程々にな。でないと――本当に喧嘩別れするかもしれないぞ」
そう言い残して、美弥子は不機嫌そうな顔でその場から去っていった。
美弥子を見事に撃退した亜久里ではあったが、その表情は浮かない。
彼女が最後に言い残した言葉が、亜久里と丞、どちらにも重く伸し掛かっていた。
「……俺たちが」
「……別れる?」
いつかの昼休みの再来……いや、いつもの日常の繰り返しか。
二人は縫い付けられたように動きを止め、気温とは無関係の汗がダラダラと頬を滑っていく。
――別れるなんて絶対に嫌だ!
声に出さずとも、二人の表情はそう叫んでいた。
好みも性格も正反対の二人。そんな二人の数少ない共通点。
それは、恋愛においてどちらも極度の心配性だということである。
なまじしょっちゅうレスバを繰り広げているだけあって、いつか相手に嫌われて捨てられるのでは、なんていう不安は後を絶たない。
「……亜久里」
恐る恐る先に切り出したのは丞だった。
「放課後、どこか買い物でもいかないか?」
「行く! 絶対行く!」
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