君が手を差し伸べる、たったそれだけのこと

月井 忠

私に必要だったもの

「あっ」

 おじさんの肩が当たった。


 私はよろけて膝をつく。


「痛っ」

 見るとパンストは破け、膝から血が出ている。


「てめえ! どこ見て歩いてるんだ!」

 上から怒声が振ってきた。


 ぶつかってきたおじさんは顔を真っ赤にしている。


 ショックだった。


 こんなに怒られたことは今までない。

 駅のホームには人が大勢いるのに、誰も助けてくれない。


 私は座ったまま何も言わず、おじさんの怒りが収まるのをじっと待った。


 やっとのことで、おじさんはぶつぶつ言いながら去っていく。


 私は擦りむいた膝をじっと見つめた。

 もういいと思った。


「あの、これ」

 優しい声が聞こえた。


 顔の整った高校生ぐらいの青年だった。

 昔、推していたアイドルの顔が浮かんだ。


 差し出す手にはハンカチがある。


「あ、どうも」

 手に取ると、ハンカチには派手な色使いのキャラが描かれていた。


「ち、違いますよ」

 青年は顔を真っ赤にした。


「妹のものです……もう使わないので」

 目を背ける。


 使うのはもったいない気がした。


 電車が到着する。


「それじゃ」

 青年は背中を見せた。


「ちょっと、待って」

 私はよろよろと立ち上がる。


 青年は電車に乗り、ドアが閉まった。


 ハンカチを返しそこねた。




 結局、私は電車に乗らなかった。


 体調が悪いと言って、会社をズル休みした。

 初めてのことだった。




 家に帰って膝の手当をする。


 何もやることがなかった。

 でも、心地よかった。


 自分は空っぽなのだと思うけど、気持ちは満たされていた。


 青年の優しい声はまだ響いている。


 棚の奥からコーヒーメーカーを引っ張り出す。

 昔はこうしてよくコーヒーを淹れていた。


 香りが漂う。


 冬の匂いと言えばこれだった。


 ソファに座ってコーヒーを堪能する。


 テレビをつけた。


 昼のニュースの時間帯だった。

 事件があったようで、どのチャンネルも同じ内容だった。


 駅の近くで誰かが刺されたらしい。

 現場を撮った画像が映し出される。


 私はハッとした。


 ぼかしが入っているけど、あの青年に背格好が似ている。


 私は携帯で動画サイトを検索する。


 現場で撮られた動画が出てきた。


 地面に倒れ、取っ組み合う二人の姿があった。

 青年と私にぶつかってきたおじさんだった。


 あの時、青年はおじさんを尾行していたんだ。


 バッグから派手なハンカチを取り出す。


 青年は妹のもので、もう使わないと言っていた。


 このハンカチを持ち歩いていたことにも意味があると思う。


 おじさんを襲った理由がこれに隠されている。


 ハンカチをバッグに戻して、身支度をする。


 私の証言だけでは、たぶん何も変わらない。

 だけど、少しでも青年の力になりたかった。


 私は救われた。

 今度は救う番だ。


 テーブルの上に目が行く。


 ストックしていた大量の睡眠薬をつかむと、ゴミ箱に投げ入れる。


 今の私にはいらないものだから。

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