第5話 一人で歩く道
彼女を思い出す。
笑った顔も、怒った顔も、拗ねたりへこんだりした顔も。声も。
ちょっとがさつな仕草も、コーヒーの好みのブレンドも、お気に入りの本のタイトルも。
全部、一瞬にして鮮明に思い出せるくらいはっきりと私の記憶の中に根付いている。
彼女と過ごした時間は、出会う前なんかより私をずっと生かしてくれた。もう、一人でいたくない。
それでも。
それでも。
私は「人を食べたことのある彼女」と今まで通り付き合っていけるのかな。
何にも知らずに笑っていた頃とは変わってしまった。
私は彼女が隠していた知られたくない秘密を知ってしまった。
昨日へは、もう、戻れない。
彼女の笑顔を思い出す。
私の中のある、とびっきりの彼女の笑顔を。
私のことが好きだと声に出されなくてもしっかり聴こえていた。
恋は盲目。それ故に、愛には目は要らず。
そんなの嘘だよ。彼女の目は私をしっかり見てくれた。その目で見て、その目で想いを伝えてくれた。
恋は盲目。だからそのままじゃダメなんだ。目を開いて、恋から覚めるから愛になる。
だから、愛はきっと盲目なんかじゃない。きっと、恋していた時よりもずっとずっと大切な人のことが見えてくる。見ることが、できる。
『彼女は私にとって何なんだろう』
彼女の声を聞いていたい。でも聞く耳持たず。壁の向こうの言葉は聞こえるはずがないと、最初から聞こうとしない。
どんな言葉を聞いたって、私の耳には彼女の秘密が覆い被さって壁になってしまう。
彼女が人食いだから。彼女は人食いだから。それが壁になって、きっと距離をおいてしまう。彼女が人を食べたという事実が、これから彼女が言ってくれるだろうどんなに甘い言葉をだって、これからの私の耳は聞こうとしないだろう。
彼女は、きっと、それに気づくだろう。
『私は彼女にとって何なんだろう』
悲しむかな。それとも、傷ついて泣いちゃうかな。
彼女はまた、好きになった人に裏切られるのかな。
私のせいで。私が彼女の近くに、隣に、内側にいきたいと思っちゃったから。彼女はまた辛い思いをするのかな。
私のせいで。
私は。
私は。
結局彼女とはそのまま友人を続けた。距離をおいて、ただの友人のままの関係を。
そして、大学卒業の日に私は彼女と離れた。
就職先も、乗る電車の時間も、連絡先も、さよならの挨拶さえも言わずに、姿を消した。
彼女を少しでも悲しませたくなかった。私はいつだって彼女の笑顔が一番好きだったから。だから、せめて最後まで普通の友人でいさせて欲しかった。
出会ったときに読んでいたあの小説はずっと鞄の中にあった。今までも。これからだって。
私の大切な人。初恋で最後の女性。
彼女には笑っていてほしい。彼女には彼女でいてほしい。
これ以上、秘密という罪を重ねないでいてほしい。
一緒にいたかった。この気持ちが彼女も同じだったらきっとまた彼女は恋人を口にする。だって一緒にいたいんだから。ひとつになりたいんだから。
ひとつになって、溶けて、蕩けて、理解して、理解されて、受け入れて、受け入れられて。
食べるということが彼女の好きという感情の表現なんだって、私には解っていた。でも、人食いは罪なの。やっちゃいけないことなの。
誰だって食べられるのは怖い。
どんなに好きでも食べちゃいけないんだよ。
私は何も言わずに彼女から離れた。
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