第3話 過ぎてしまった話①

彼女の家は四人家族だった。

彼女と、母親と、父親と、弟。

それはもうずっと前の話。過去形で言わなきゃいけない話。


彼女は昔から私の知っているようにレズビアン、恋愛対象が同性である女性だった。そして、偶然なのかはわからないけど、弟も同性愛者だったそうなの。

何となく似た者同士気づいたのね。彼女と弟は自分が「そう」だと伝え合って、互いに唯一の理解者になった。つまりね、他の誰にも話せなかったの。

不安で不安でたまらない道を歩き続けたんだろうな。彼女たちの世界は他のカップルとは違う色に見えていた。見えているだけならいいの。でも、それが「見えてしまう」と否定の色が混ざってしまったら立っていられない。

自分はおかしい。

自分は間違っている。

自分は変。

自分は、ビョウキ?

自分は、出来損ない? 人として。女として。男として。

足場はどんどん崩れていく。自分の信じた恋愛観が濁っていく。


だから彼女たちは決心してしまった。

味方を作ろう、と。両親にカミングアウトしよう、と。

きっと信じていたんだ。

大丈夫、何もおかしくない。ちょっと人と違うだけだよ。

彼女たちはただ、両親にそう言ってもらいたかっただけなの。


でもね。彼女たちの両親の世界の色は自分達の子供の世界と違っていた。父親と母親がいるってそういうことなんだよ。カレとカノジョの愛の形が娘と息子になった。

両親には子供たちの世界が理解できない。




「気持ち悪い」




父親と母親のどっちが言ったのかはわからない。もしかしたら二人とも言ったかもしれない。




家族っていうのは「好き」で選べるものじゃない。「好き」でも「嫌い」でもそれ以外でも、血を分けたっていう理由だけで縛り付けられる。そういうもの。

だからその繋がりを断ちたいなら、その命を絶つしか方法はない。

そう、それしか選べる道はない。


弟はそう思った。

自分がゲイであることと、それを受け入れてくれなかった世間と、子供の信じようとした心を殺した親を、憎んだ。

嫌で嫌で全部が嫌になって、彼は。

彼は。














彼は、




無言で台所へ向かった。


まな板の上に野菜と一緒に包丁が乗っていた。

研いだばかりでよく切れそうだった。

半分になったトマトが乗っていた。

赤かった。

赤くてどろりとしたものがそこから流れ出ていた。

これから自分の腹に入って溶けるんだろう。何となくそう思った。


彼は何も言わずに包丁を手に取った。

ずしりと、いつもより重く感じた。


後ろから騒がしい音が鳴っていた。

うるさかった。

目覚まし時計よりもうるさかった。

止めなくちゃいけないと思った。

すごくうるさかった。


彼は「うるさい何か」に包丁を突き立てた。

「うるさい何か」は二ついた。

どうでもよかったから、二つ壊した。


頭がぐちゃぐちゃだった。

頭を砕いた。

腹を裂いた。

中からはいろんなものが出てきた。赤くてどろりとしたものもそこから流れ出てきた。そこには彼が大切に思っていたはずのものは何もなかった。




頭の中はぐちゃぐちゃだった。きっと。

でも彼は両親のことが嫌いで嫌いで消してしまいたくなった。否定されたことが嫌で、悲しくて、何にも考えられなくなって、ただうるさい両親を、目の前から消した。


ただ、それだけだったんだと思う。




弟は逮捕された。




手を真っ赤に染めて、姉に連れられながら自首をした。




彼は泣きも笑いもしないで、ガラス越しに姉の声を聴き続けた。






不幸な話だった。

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