Ⅷ. 光を追って、光に燃ゆ

 瞳を閉じきってはいたが、わたしの意識は確かにはっきりとしていた。

 しかし、閉じられた瞼越しに感じる木漏れ日の柔い温もりに、だんだんと意識が溶けてゆくような感覚に襲われる。

 温もりがわたしを溶かして、木漏れ日の金糸で編んだ繭で包んで——さなぎにしてゆく。

 わたしはすぐに確信した。いよいよ、己は死を迎えるのだと。

 まさか、こんなにも死というモノは穏やかで気持ちがいいものなのか。かつて、少女の頃に感じた入水の時の心地よさと重なって、久方ぶりに抱いた懐かしさのような、少しだけ苦いような──そんな形容しがたい感情が、じんわりと滲む。

 わたしはその心地よさに流されるまま、身を任せようとした。


『クソ馬鹿死に損ないの根暗お嬢さん』


 誰かの、揶揄うような低い声が遠くから聴こえた。

 いいえ、違う。誰かなどではない——〝彼〟だ。

 微かに聴こえた遠い声の、たった一言だけで。途端にいくつもの激情が、穏やかに凪いだ心を突き刺して、ずたずたに切り裂いてゆく。

 失くしてしまったと思っていた記憶が——〝彼〟が。堰を切った濁流のように己の中で湧き上がり、鮮やかに甦って、溢れ出てくる。


『ほら、いつまでもぶすくれてんなよ。水飲め、クソ馬鹿死にたがりお嬢さん』


 吸い飲みをわたしの頬に押し付けてくる彼の手。

 そうだ。彼の手は白雪のように白くて、分厚くて大きくて、傷だらけで——冷え性で、ちょっぴり冷たい。


『ぶはあっ! ——残念だったな? また死に損なった。俺のおかげで』


 何度目かの入水。黒い水の中からわたしの両脇を下から掴み、赤ん坊を抱き上げるかのような姿勢でこちらを見上げてくる、彼の濡れた顔。

 そうだった。彼の髪は柔らかくて、陽の光みたいな金色で——瞳には自由な大空の青を宿していた。

 わたしを天に向かって抱き上げる腕は太くて、逞しくて。いつも青あざだらけで血の赤が滲んでいるのだ。


『ふはっ。おい、あれ見てみろ。お嬢さん』


 彼の笑い声は、いつも噴き出すような声で。そして眉間に微かに皺を寄せて、くしゃっと笑うのだ。


『死にたい? ……っは。俺はてめえみたいな奴が一番嫌いだ』

『……っはあ……ああクソ! てめえ、いい加減にしろ! 何度死にゃあ気が済むんだ!? この阿婆擦れ!』

『見てわからんのか? ……今、虫の居所が悪い。……何しに来た、クソ女』

『はあ? おいおいおい……なぜ、お前が泣く』

『お前の兄上殿からお守りを預かったんだよ。おら、もっと死んで見せろ、クソ馬鹿自殺志願者。鬱憤晴らしにお前を生かして、思う存分嫌がらせしてやる』

『俺に読み書きやら——他にも、いろいろ教えてくれ、根暗お嬢さま。どうせ、一日中死ぬことばっか考えてんだから暇だろ』

『へー。勉強も禁じられてんのに、屋敷中の本を隠れて読み漁っただけでそこまでの知識を……。やっぱ頭いいんだな。クソ馬鹿お嬢さんのくせに』

『おい暴れんな! 今日は死に損なったんだ。潔く明日まで生きろ、お嬢さん』

『っはあああ……こんの、クソ馬鹿……死ぬほど探した。お嬢さん』

『お嬢さん』


 わたしを呼ぶ、世界で最も鮮やかな彼と共に。

 目から、鼻から、口から、全身から。烈しい炎の水が溢れ出て、わたしを死へといざなう蛹の繭を燃やしてゆく。


「白く、青く、赤く。金糸の如き触角——ははは! まるで蝶のような身体だ。標本にでもすべきかな?」


 また記憶の濁流が流れてきた。一瞬過ったのは、彼の死体とそれを愉快そうに眺める父と兄の姿。

 彼の死体は、形容するならば〝地獄〟そのものだった。土気色の身体の全身に、隈なく赤と黒と青がひしめき合い、四肢と首はあらぬ方向へとねじ曲がっていた。

 父と兄はそんな彼の死体を見て、〝蝶〟のようだと嗤っていた。

 世界で一番醜悪な男たちの顔を思い出すと、わたしの激情が——憤怒と憎悪と悔恨の煮詰まった黒い感情が地獄の業火よりも烈しく渦巻いて、さらに繭を焼いてゆく。


『な、見てくれお嬢さん』


 父と兄の姿が通り過ぎると、また彼が鮮やかに蘇った。

 わたしの手を取り、指で拙く文字を書く彼の姿。わたしの名前を書いて見せて、やはり世界で一番眩しい顔で笑う、彼の姿。


『お前の名前』


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 奪ってしまって、ごめんなさい。止められなくて、ごめんなさい。

 あなたは邪魔者なんかじゃなかった。いつもそばにいてくれて、ありがとう。

 いつも、いつも。何度も、わたしなんかをすくいあげてくれて、ありがとう。

 わたしの名前を、書いてくれてありがとう。


『俺を惜しんでくれる奴に囲まれて、誰かの中で生き続けながら死んでやる』


 そうだ。あなたはそうやって生きてゆくべきだった。

 それなのに、もうあなたを知るのはわたししかいない。

 あなたの冷たい手の温もりも、ぶっきらぼうな声も、笑い顔も——わたしが死ねば、全て失われてしまう。

 死ぬわけにはいかない。わたしが死ねば、彼も死んでしまう。忘れ去られてしまう。それだけはあってはならない。

 ああ、嫌だ。彼を忘れたくない。死にたくない。


 わたしは、自身を覆ってゆく死の繭を必死に燃やし続けた。

 心地のいい死に抗って、どんなに苦しくても、熱くても、痛くても。彼を忘れてしまう恐怖と絶望に比べれば、何ともなかった。

 しかし、わたしは次第に激情の業火ごと光の繭の中に包められ、蛹となってしまう。

 それでも、死ぬわけにはいかなかった。死の安らぎなど、わたしは絶対に受け入れられない。

 彼を忘れてしまうくらいなら、わたしは——


『ふは。ずっと、死にたかったんじゃないのか? ……文字とお前の世界。教えてくれてありがとな——〝シエル天国の君〟』


 百二十年歩んできた、人としての生。

 その最後の妄想は、早死にした彼——〝アンフェール地獄の君〟の皮肉だった。

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