Ⅴ. うつつ

 彼が死んだ。が、死に損なった。——〝彼女〟は、そんな遥か遠い昔の記憶を辿る夢から、緩やかに目覚めた。


「明日の先生へのお見舞い、楽しみだね」

「うん! はやく先生に会いたい!」


 若葉のみずみずしい香りと共に。開け放たれた窓の外から、子どもたちの声が清涼なそよ風に乗って彼女のもとへと運ばれてくる。

 眠りから目覚めたばかりの彼女は、自身を〝先生〟と呼ぶ子どもたちのまろい声と風の音に、ぼんやりと耳を澄ませていた。

 不意に、窓の反対側にある扉の外から、古い木板の廊下を打つ踵の音が近づいてくる。踵の音が止むと控えめなノックが二度扉を叩いて、開かれた。

 部屋に入ってきたのは、十七、八くらいの年頃の女生徒であった。


「失礼いたします。せんせ……まあ、先生!? ——久々のお目覚めですね? ああ、ご調子が優れていらっしゃるようで本当に良かった!」


 女生徒が慌てて部屋の奥にある寝台へと駆け寄る。そこには、窓から差し込む淡い木漏れ日の中に今にも白く溶けだしてしまいそうな一人の老女——〝彼女〟がいた。

 窓の外の子どもたちの声に耳を傾けていた彼女は、女生徒を首だけ動かして振り返る。

 ここ数週間ほどの長い眠りについていた彼女は、やはりどこかぼんやりとしたままだった。


「……わたしが、誰かにものを教えたのは……〝彼〟が初めてだった」


 枯木のような細い指を持ち上げ、少女の如き仕草でけた頬にかかる真っ白な髪を払い除けながら。彼女は、虚ろな瞳を揺らしておもむろに語り始める。

 近頃の彼女は、いつもこのような様子だった。長い眠りについて、ようやく目が覚めたかと思えば——まったく同じことを、何度も何度も、繰り返し語り始める。

 老いた彼女は眠りから覚醒しても、未だから覚めることができていないのだ。


「! ……ええ。そうなのですね、先生。今日もお聞かせください、〝彼〟のお話を」


 女生徒は思わず濡れそうになった声を呑み込み、代わりに微笑んで見せると彼女に寄り添って、その深い皺の刻まれた小さな手を優しく握った。


「わたしは、彼から全てをもらった……誰かに教えを授けることができる喜び。世界と人を美しいと、愛おしいと思える心……それがあったから、わたしは生家を飛び出すことができた。学び舎を建て、子らの導き手と成れた」

「ええ、ええ。……先生の教えと学び舎は、私たちの希望であり、誇りです」


 彼女に、女生徒の言葉は届いていないのかもしれない。彼女はいつも、しわがれた声で唐突に嘆き始めるのだ。老いて濁りを帯びた赤い眼は焦点が定まっておらず、何を映しているのか、何か映っているのかすらわからなかった。

 彼女の独白には、ゆめうつつも判別がついていない。声にならぬ声が、しわがれた声では形にならなかった声が。彼女の中で少女の声と成して、老いた彼女を責め続けるのだ。

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