第4幕第1話 妄執の龍皇子

1188年8月29日17時10分 

ゼダ パルム某所


「計画は順調のようだな。アリアス・レンセン排除には失敗した。だが、かわりにハサン・“フォレスト”の排除には成功した。トゥリーには初手としては上出来だろうと伝えたよ」

 晩夏の気温すら無関係な薄暗い地下アジトで“スレイ・シェリフィス”は残忍な笑みを浮かべる。

 スレイ・シェリフィス中尉の元副官「ハサン・レーグニッツ曹長」という人物は初めから居ない。

 ライザーに師事しているキース・フォレストの実弟ハサン・フォレスト。

 ゼダの国軍所属ではあったが元々はベリア出身。

 西エウロペアの事情に精通しており、外殻部隊エルミタージュ所属でゼダ国軍上等兵として雇い入れ、レーダー担当要員兼現地案内役としてイアン・フューリーが使い、アリアスを補佐させようとしていた。

 ルーマー騎士団からは“敵性ハイブリッド”の兄弟たちの弟であり、“スレイ・シェリフィス”たちルーマー派の誘いに応じなかった。

 ハイブリッド種にも二種類いた。

 ネームド、ネームレスの両人類の自然交配で誕生した福音としての彼等と、共生大国ルーシアで産み出された『人間兵器』たち。

 ハイブリッドでもブレインズと呼ばれる彼等幹部たちにもちゃんとした名前はなく、3を意味するトゥリーは狙撃による要人暗殺目的で西部戦線に潜り込んでいる。

 1を意味するアジン少将は東部戦線で総参謀タタール・リッテと共に傭兵騎士団エルミタージュのルーマーセルを指揮している。

 そして、2を意味するドゥヴァ准将がパルム潜入中のハイブリッドセルを束ねる“スレイ・シェリフィス”の副官だった。

「こちら側につかないハイブリッドは障害でしかありません。その意味でハサンはすみやかに排除すべきでした。勿論、総司令はアリアスを狙うよう指示していたでしょうが、弾除けとしてハサンを消せたのは確かに上出来です。本国のブレインズも上々の成果であろうと」

 ドゥヴァは冷徹な視線で“スレイ・シェリフィス”司令を見据えた。

 緒戦段階のゼダ西部における龍虫戦争は拍子抜けするほどエウロペアネームドにとり予測損害の範疇で

「ハサンの死はキースとアリアスへの警告となろう。取れる駒から取るというのが定石という意味で良い。そして分断作戦に参加しているエウロペア出身騎士たちは東征と同様にやはりこちらも“茶番”なのだと判断し、我々の計画に協力的になる。エウロペアネームドと暗黒大陸ネームレスとはやはり結託している。それを裏で仕組んでいるのがメリエルと称しているメロウ」

 切り崩され、今もベリアに駐屯するルーマー騎士団のベリア駐留軍と龍虫戦争参加を事実上拒否しているフェリオ各領騎士団は「ベリア半島を暗黒大陸のネームレスに差し出して、またしても和睦に持ち込むゼダの謀略なのだ」という話を信じる。

 “スレイ・シェリフィス”は13人委員会の計画がそうではないのだと知っていたが、逆に真の計画内容を知っているからこそ今は味方につけた彼等を完全に欺く必要があるのだとみなしていた。

 所詮番号でしかないエルミタージュブレインズは居なくなれば補充されるだけだ。

 4を意味するチィトゥイリは2年前のオラトリエス王国首都リヤドで「皇弟トリエル、剣皇カール暗殺作戦」に失敗してトリエルに殺され、すぐに補充されていた。

 ドゥヴァも二代目であり、先代ドゥヴァは女皇騎士団による《ブラムド・リンク強奪作戦》で艦橋から指揮を執っていて、エーベル・クラインのダガーで惨殺された。

「それよりチィトゥイリたちがバスランの攻略作戦を進言致しておりますが、如何なされますか?」

 新たなチィトゥイリは女性だった。

 8を意味するヴォースィミらとルーマーセルを動かしている。

 彼女たちはパルムを騒がせた頭越しの挑発に憤っていた。

「どの道、一度では攻略出来まい。だが、“あの女”を引き摺り出すには“贄”がいる。同胞や龍虫が無残に死んだとなれば、全面指揮を自分が執ると言い出すだろうさ。そうなれば『剣皇ディーン』も苦戦するだろう。西部戦線の戦況が苛烈になれば、ヤツとてこっそりフェリオに出向くことも出来なくなる。《剣皇機関》作戦とやらは厄介ではあるが、その顔触れは既に分かっているのだ。トリエルの始末はカイルが、ディーンとアリアスの始末はトゥリーが、最後に残ったトゥドゥールはロムドスがつける。その三人の一人でも喪失したならアリョーネも大人しくなどしていられまいさ」

 “スレイ”の計画ではアリョーネがパルムを留守にする間にロムドス・エリオネア中将がパルムにとって返して反政府クーデターを起こす。

 「メイヨール内戦」の真逆であり、東征軍が鉄道と飛空戦艦とでパルムを電撃的に掌握する。

 ゼダの中枢が落ちれば西部戦線は維持出来なくなる。

 そうなった場合、女皇アリョーネと剣皇ディーン・フェイルズ・スタームはどうするか?

 ディーンはカイルの子として抵抗を断念し、絶対防衛戦線を見限ってロムドスと呼応するか?

 それとも勝ち目がなくても意地として頑強に抵抗するだろうか?

(まっ、ディーン兄さんなら必ず後者を選ぶ。西部戦線を女皇アリョーネとトリエルかトゥドゥールに任せて剣皇騎士団でパルム奪還を図ろうとするだろうな)

 それが前の周期の「アイラスの戦い」の再現となる。

 だが、誰の支持も得られない。

 “スレイ・シェリフィス”が『剣皇ディーン』こそがゼダを侵略しに来たと吹聴すれば、パルム市民たちは本来なら「解放軍」である彼等を「侵略者」と詰る。

 ゼダで救国の英雄は《軍神》ロムドス・エリオネア中将とレジスタンスのリーダー“スレイ・シェリフィス”だと認知させる。

 ルーマー教団に籠絡されたルーマー騎士団のフェリオ全軍が剣皇カールのファルマスを陥落させ、剣皇ディーンと紋章騎士ルイスはロムドスが足止めする。

 兵站に問題のあるディーンたちにはパルム解放のために短期決戦する他に手がない。

 ロムドスたちはパルム市民たちを守るという名目で人質として長期戦の構えをとり、兵站に余裕のないディーンたちは焦る余りにミスを重ね、生じた隙をトゥリーが突く。

 “スレイ・シェリフィス”の計画はディーンたちが戦力的に優秀であればあるほど好都合だった。

 味方についてくれるならばよし、引き続き敵に回ったとしてもそもそも物量作戦で徹底的に疲弊させ、心を折る魂胆だ。

 もとよりメロウによる思想統制を明るみにし、自分たちが初めから欺かれているのだとエウロペア市民に訴えかける。

 ルーマー派に鞍替えしたほとんどの連中は自分たちが欺かれていたことを説かれて喜んで寝返った。

 あるいはエウロペアスカウトの傭兵騎士と同様に利に釣られた。

 エクセイル家が歴史を歪め、ネームレスと密かに結託してきた。

(人は滅びを望んでいる。その流れは誰であろうと止めることは出来ない。「滅日」は必ず訪れる。自分たちの、人の生とは所詮は人が死に絶えるまでの時間稼ぎと帳尻合わせなのだ)

 シンクレア・エクセリオンの第6の掟。

 《黒髪の冥王》と《嘆きの聖女》の変質。

 終末の白痴の悪魔誕生。

 もともと人には「絶望」しか用意されていないのだ。

 バスラン攻略に関してはドゥヴァたちが具体的な作戦計画を練り上げる。

 “スレイ・シェリフィス”は諸方面から情報が集まるこのアジトで諸々の進捗状況を確認した後、その手に取り戻した我が家へと帰るだけだった。

(フィンツは怖いね。怖いくらいに強かだ)

 パルムの表通りを歩く間、頭に浮かんだティベル・ハルトの言葉にフィンツ・スタームは悪辣とした笑みを浮かべた。

(なにも与えられなかったお前となにもかも奪われたボクが手を組んだ。どの道、ボクらには「絶望」しかないのだ。とても単純な話としては、アリアス・レンセンは大きな致命的なミスを犯した。お前の中にアイツの持っていた《白痴の悪魔》を作り出した強力な能力があり、名前と存在さえディーン兄さんに奪われた俺の絶望の深さを母さんも兄さんも理解出来なかった。正に格の違いを思い知らされたボクの絶望を分かってくれたのはオリンピアだけだ)

 “スレイ・シェリフィス”の名前と存在とをアリアス自身の失策により手中に収めた。

 もともと、偽ヴェルナール・シェリフィスの「スレイ・シェリフィス計画」とは元スレイ・シェリフィスたるアリアス・レンセンから、偽ヴェルナールが己の肉体を棄て、ティベル・ハルトの若い躯に魂を移し替え、その名とその座を奪い取ることであった。

 しかし、フィンツ・スタームは先回りしてティベル・ハルトの肉体に魂の情報を移し替えていた。

 一つの肉体にフィンツとティベルの二つの魂を同期させ、隙をついて殺した偽ヴェルナールの脳をナノ・マシン情報体として奪い取った。

 偽ヴェルナール・シェリフィスの正体とはエルミタージュブレインズの0を意味するノーリだった。

 女皇暦1152年に発生した《タッスル事件》において、ノーリは本物のゼダ外交官ヴェルナール・シェリフィスを殺害し、その顔と死者としての脳の情報を奪い取っていた。

 そうしてノーリは30年近くパルムで偽りのヴェルナール・シェリフィスとして暗躍を続けていた。

 外務省職員から元老院に入り、やがては元老院議長として権勢を恣にし、様々な陰謀を企ててきた。

 同志としてカイル・スタームやギルバート・エクセイルたちを密かに纏め上げ、オラトリエス国王アンドラスをも欺いた。

 《13人委員会》主導の対龍虫戦争国土強靱化計画が進む一方で、ノーリたちエルミタージュハイブリッドセルによるネームド切り崩し工作は推移していった。

 その後も続いたお互いの戦力の削り合いで、ノーリと女皇たちの知られざる戦いは続き、フィンツの家族や仲間たちは傷ついた。

 やがてはその血みどろの戦いの中に、フィンツは何一つ正義を見出せなくなっていた。

 兄ディーンとの絆を拠り所にして、フィンツはフィンツの護るべき者たちを護ろうと必死に戦ったが、唯一の希望だった婚約者のメルを喪失することになった。

 フィンツは義祖父ギルバートとマリアを誅殺して逐電し、密かにノーリの行動を追うことになり、皇都パルムドールに隠された深き闇を見ることになった。

 殺された筈のメルが何食わぬ顔で再び姿を現した。

 せめて護りたかった養父トワントもノーリの毒牙にかかった。

 パルムに潜入中のエルミタージュハイブリッドセルがエルシニエの女子学生の姿になりすまして、トワントの体内にナノ粒子をねじ込む様を見た。

 貧民街の片隅で生きる為、戦う為に暗殺に手を染めたフィンツは、結局のところ女皇の狗たち隠密機動もまた暗殺という業に手を染め、白の隠密機動ディーンも加担しているのだと知った。

 あくまでフィンツの戻るべき場所を用意しようという女皇アリョーネと兄ディーンの配慮に対し、フィンツはその優しさと愛を確認していた。

 だが、最早後戻りなど許されることではなくなっていた。

 そしてハイブリッドセルたちとの凄惨な戦いで体内にナノ粒子を打ち込まれたフィンツは己の死期を悟った。

 深手と喘息発作で明日をも知れぬ身となったフィンツを救ったのはティベル・ハルトだった。

 自身も住まう孤児院でティベルは不治の病を得たフィンツを保護してくれた。

 それは偶然とティベルの優しさが齎した奇跡なのだと感謝したが、ティベルとノーリの意外な繋がりを知ることになった。

 ノーリは龍虫戦争時にティベルを自身の新たな肉体として利用しようとしている。

 それならばとフィンツは己の肉体を棄てる決意をし、ティベルに自分の知る全てを語った。

 そうしてティベルとフィンツは一つの肉体に二つの魂を宿す存在となった。

 母や兄への決別宣言としてフィンツは棄てた肉体を女皇宮殿前に晒し、ずっと疑問だったローレンツ・カロリファルの真意を問い質した。

 ローレンツから彼の能力とその能力の齎したを聞いたフィンツはローレンツに自身の計画を打ち明けた。

 そして、ノーリを倒したフィンツは自身を苦しめ続けた偽ヴェルナール・シェリフィスの敗死に続く、ローレンツ・カロリファルの自死を演出した。

 ローレンツ・カロリファルの行き着いた先はフィンツしか知らない。

 同じネームド人類に裏切られ続けたフィンツとローレンツ。

 二人の出した結論は真逆ではあったが、フィンツはそれでいいと思っている。

 絶望の中に一筋の光明を見出そうというローレンツと、絶望の破壊者である《妄執の龍皇子》となったフィンツの辿る道はそれぞれに異なるが、結果的にはどちらかが勝ち、どちらかが負ける。

 その結果、この時代の勝者たらんとし、この時代の勝利をもって次のステージにおける優位を確立しようとしているルーシアのエルミタージュハイブリッドにはその目的を果たさせない。

 兄ディーンと弟フィンツのいずれかが勝者となる壮大な茶番劇の始まり。

 奪い合うことになるメリエルは今はディーンの手の内にある。

 だからこそ、横合いからしゃしゃり出てメリエルの補佐役になどなった《龍皇子》アリアスの事だけは許せないのだった。

 ティベルは兄アリアスを愛するが故に、この悪夢のような戦いから一刻も早く兄の純粋な魂を救い出すために暗殺計画を了承した。

 そして龍虫とネームレスの暗黒大陸からのが昨年末に始まった。

 フィンツの切り札は3枚。

 一つは《白痴の悪魔》たる龍皇。

 もう一つが《アリアドネの狂気》を引き起こした《天ノ御柱》オリンピア。

 そして、最後の一つが騎士と龍虫を愚弄する存在だ。

 今現在、アジンやドゥヴァたちは“スレイ・シェリフィス”を肉体を移し替えたノーリだと思い込んで総司令と称している。

 だが、ノーリは既に計画を刻みつけただけの記憶装置に成り下がり、フィンツ・スタームとティベル・ハルトの「復讐」と「ゲーム」に利用されるだけの存在に墜ちていた。

 ノーリはパルム地下にある天ノ御柱オリンピア・パルマスの存在を知らなかったが、真史知るフィンツは当然知っている。

 そしてティベル・ハルトの肉体を利用してフィンツはどう転んでも勝てる計画を立案した。

 その第一段階こそが「サンドイッチ作戦」。

 13人委員会の計画で「茶番」として行われる東征作戦を利用し、エウロペアの東西から絶対防衛戦線を粉砕するというものだ。

 ネームド人類防衛の要である西ゼダの《黃金の三角》を破壊する。

 「サンドイッチ作戦」における不確定要素はゼダの《軍神》ロムドス・エリオネア中将の出方だ。

(まぁ、アリョーネ母さんがカイル・スタームを誅殺したと思い込んでいる。トリエル・メイルは女皇騎士団内のカイル派をグエン、アルゴを除いて一掃したと思い込んでいる。それが誤りだと気付いた時にはもう手遅れだ)

 フィンツ・スタームは母アリョーネや義兄ディーンを侮ってなどいない。

 むしろその実力と冷静な判断力とを高く評価している。

 人の業と対峙し続けた《黒髪の冥王》ディーンと人の想いの受け皿だったオリンピアの巫女アリョーネ。

 なにしろかつては准騎士フィンツ・スタームとして女皇騎士団にいて、彼等と共に戦う側にいたのだ。

 安っぽくくだらない正義など掲げた偽善者たちの集まりではなく、冷酷非情な一騎当千の実力者たちの集まりであり、クシャナド・ファルケン子爵やアリオン・フェレメイフといった戦力も侮れない。

 かつては龍皇子だったというアリアス・レンセンとビルビット・ミラーたちについてもだ。

 幼馴染みだったナダル、マーニャ、紫苑たちも手強いし、ディーンの妹であるセリーナ・ラシールも相当厄介だ。

(皆、ボクの知っていた頃よりも一段も二段も強くなっている。そして誰より手強いのはメリエルだ)

 メリエルがずっと自分を捜し回っていたことも知っている。

 始祖女皇メロウと同期したことでフィンツが愛したメル・リーナはとんでもない怪物に生まれ変わっていた。

 「惑いの回廊」の仕掛け一つとっても実力の一端を理解している。

 だからこそ逆手に取れる。

 ヤツらの化けの皮を剥いで人外の魔物なのだと知らしめてやりさえすれば、人々の支持を喪失させて孤立に追い込み、焦りを呼び込める。

(女皇サーシャの贖罪の形である《嘆きの聖女》ルイス・ラファールはともかくとして、アリアスやメリエルはどの面さげてディーン兄さんと共に戦うというのだ?)

 フィンツはディーンの誠実さと優しさこそが最大の障害だと考えていて、その伴侶たるルイスの実力も相当なものだと考えていた。

 現に前の周期ではディーン不在であるにもかかわらず、ルイスたちは《白痴の悪魔》を倒している。

 油断など出来ないし、実際にルーマー派としてこちら側につけた連中など頼みにはならない。

 だからこそ、フィンツは難しい戦いを戦い抜くのだと決めた。

 それでもどうして敵に回そうと考えたのか?

(フィンツが今でも彼等を憎いと思っていないことが一番怖いよ)

 そういうティベル・ハルトが本当は一番怖い。

 兄たちを拒絶したのは憎いからではなく、やりきれないからだった。

(お前の兄アリアスが完全に覚醒すればルーマーブレインズなどものともしないだろう。龍皇女がアリアスに呼応すればこちらの足許は揺らぐ。だからこそボクはこんな茶番を仕掛けたことがなにより許せない。ここで勝とうともいずれは《白痴の悪魔》に蹂躙されるというのにエウロペアを護る?なにも知らない彼等には護られる価値などない。民衆の無知こそが最大の罪なのだ)

 無知な者たちがアリョーネを苦しめ、ディーンに苦闘させている。

 彼等に思い知らせてやりたい。

 何度も繰り返された悲劇の存在にも気付かず、爛熟の魔都に集って己の罪をも自覚しない。

 無知の罪。

 その無知と愚者たることを自覚しないエウロペアの民こそ地獄に堕ちるべきなのだ。

 フィンツは愛する家族だったギルバート・エクセイルとマリア・ハファスを誅殺したそのときに、自分の内側にあった正義に目覚めた。

 ギルバート・エクセイルがまず真史の中で成熟していったエウロペアの民の愚かさを識った。

 そうして弱者の弱さを徹底的に憎み踏みにじった。

 敢えて《聖典》を世に知らしめることで、敢えて愛する弟エドワードを苦しめることでギルバート・エクセイルは心の内に虚無を宿し、なにもかもを破壊しようとしていた。

 ギルバート・エクセイルは道を誤ったのだと彼を知る人々は思っている。

 しかし、ギルバートは皇室吟味役として新女皇家メロウィンの罪と身勝手を知っていて狂った。

 そうして狂ったギルバートをノーリは危険だと排除しようと試みた。

 一度はノーリたちと志を同じくしたというのに、ギルバート・エクセイルは己の未熟さやそれ以上に未熟なエウロペアの民衆を呪った。

 愛する全てを呪い、手荒く蹂躙し、虚無に呑み込まれていった。

(犯すべからざる者たちを犯した祖父の中にあった虚無をトワント父さんたちは少しも理解しようとしなかった。誰よりも罰して欲しかったじっちゃんの絶望の深さを少しも理解しようとしなかった)

 マリアを、ウルザを、そして女の身で最高学府にまで辿り着いた女性たちのにギルバートは絶望していたのだ。

 ギルバート・エクセイルは義孫フィンツの断罪に対して一切弁明しなかった。

 マリア・ハファスのまごころを、ウルザ・カロリファルの聡明さを愛し、理解しながらギルバート・エクセイルはあくまで男性として蹂躙した。

 父祖の代から家に仕え、幼少期からフィンツを知るマリアや、自身を失脚させたローレンツの妹だが、義娘むすめとして甲斐甲斐しくギルバートを世話していたウルザを手込めにした程の絶望。

 フィンツも早熟ながら男になっていたのでその絶望の意味を理解し、ギルバートを誅殺した。

 祖父を殺めたその手では最早、愛しきメルを抱きしめることも出来ない。

 自分を欺いてでもメルを抱くことすら出来なくなったとき、フィンツは復讐に全てを注ぐことしか出来なくなっていた。

 そんなフィンツでも、愛する義弟おとうととして接すると決め、その心に寄り添おうとしている兄ディーンを疎ましくなど思わなかった。

 義弟おとうとの名誉と存在を護ろうというディーンの愛情が、絶望に打ちひしがれたフィンツを狂気に奔らせてしまった。

(どちらでもいいんだ。ディーンにいさんが勝つかボクが勝つ。カイルおじさんか父さんが勝つ。母さんか母さんを喪失したオリンピアが勝つ。だが、紛い物のアリアスやメリエル、そしてエルミタージュハイブリッド共は戦いの中で一人残らず片付けてやる)

 フィンツを本当に愛してくれていたギルバートを殺めたことへの落とし前は、《妄執の龍皇子》となった自分たちがつけ、ルーシアなどという外道どもには辛酸以外は何一つ味合わせてなどやらない。

 結局、アリアスを選んだメリエルにも「紛い物の人形」としての絶望を突きつける。

(フィンツは怖いね。怖いくらいに純粋だよ。だからせめてボクが一緒に居てあげる。貧困というもの、未来にも明日の食べ物にも不安を抱くことを安易に考えている人たちをボクも許せないんだ)

 孤児院育ちのティベルは男の子たちが危険な日雇い労働に命をすり減らし、女の子がその身を売って生計を立てなければならない現実をよく知っていた。

 まっとうに生きたいと願っても結局は自分の子供さえ養いきれず、捨てた子がまた孤児院に送られて来る。

 名前などあっても意味などない。

 愛情を込めて呼ばれることがないのなら、ないのと一緒だったし、と呼ばれ、大人たちから小突かれ続け、そうして大人になる。

 その行為が連鎖する。

 自分がなんの為に生まれてきたかさえ考えるゆとりもない。

 だったら、パルムに住まう全ての者たちを道連れにしてやる。

 学のないティベルは学のあるフィンツを相棒にしたことで世の中の仕組みを理解していった。

 その逆に恵まれすぎていたフィンツはティベルのように恵まれない者たちの暗澹たる未来を知った。

 「スレイ・シェリフィス計画」を乗っ取った二人はパルムを飢餓地獄に変えようと目論んでいた。

 そして無辜の人々の怨嗟と苦しみとが巫女を喪失してまたも暴走するオリンピアを衝き動かす。

 闇夜が真の狂気を呼び覚まし、その矛先は何不自由ない生活を謳歌する人々から笑顔を奪い去る。

 すべての人々が希望を抱くことはないが、すべての人々に絶望を突きつけることは出来るのだと二人は考えていた。

「ただいま」

 シェリフィス家の門をくぐり、“スレイ・シェリフィス”は帰宅した。

「おかえりなさい、ティベル」

 アリシャ・シェリフィスが満面の笑みを讃えてティベルを出迎えてくれる。

(アリアス兄さんはこの家のなにが不満だったのだろう?フェルディナンド父さんもアリシャ母さんも本当に優しい人じゃないか)

 明日の食べ物にも事欠かない裕福な家庭で、アリアスは一人飢えと渇望とに苦しんでいた。

 アリシャもフェルディナンドも貧困を知らないからこそ、孤児院を慰問し、身寄りのない孤児たちに精一杯の援助と、身が立つようにという斡旋を可能な限りしてくれていたことをティベルはよく知っていた。

 偽善でなどない。

 偽善ではああも長く、辛抱強く続けられるものではない。

(でもわかるよ、アリアス兄さん。貴方はずっとに囚われていたも同じで、傲岸不遜な寄生虫だったノーリが憎かったんだよね。そうして自分がイケニエとなってでもなにか変えようともがいたんだね)

 ノーリの綿密で周到な計画がティベルの父ダリオとカルロスを廃人にし、その遺児たるアリアスとリチャードがそれぞれに苦しめられていた。

 あるいは聡明なアリアスの配慮が、新たな“スレイ・シェリフィス”となったティベル・ハルトを迎え入れるシェリフィス家を変えたのかも知れない。

(ノーリは唾棄すべき悪魔だった。「スレイ・シェリフィス計画」こそ悪魔の計画だった。本来ならボクもノーリに利用されて終わるところだった。助けてくれたフィンツには本当に感謝しているよ)

 ティベルはアリシャを昔からよく知っていた。

 敬虔なファーバ信徒のアリシャは無償奉仕で昼間は尼僧服姿で孤児院の世話係をずっと続けていた。

(けれど、フェルディナンド父さんには残酷過ぎて本当の事が言えない。本当は・・・)

 悪魔の所行というのは人の愛情を誤解させることであり、人の愛情を知らないノーリに出来たのはアリシャ、フェルディナンド、アリアスにお互いへの愛情を誤解させ、いがみ合わせることだった。

 アリシャとフェルディナンド夫婦の間に溝があるのは、実はノーリの仕業だ。

 「スレイ・シェリフィス計画」の第一段階としてノーリは実の娘ではないアリシャを不妊にし、最初の子を堕胎させた。

 自分たちの子を望めないのだと知ったアリシャの“絶望”は結果的に孤児院の子供たちやリチャード、アリアスに注がれた“愛情”となった。

 フェルディナンドは妻アリシャが自分にすら関心がなくなったと誤解し、元老院議員として13人委員会の計画実現に邁進していった。

 そして、同志ダリオの遺児アリアスを養子に迎えた。

 アリアスが「アリアス・シェリフィス」だったら話はまた違った。

 アリシャ・シェリフィスとアリアス、ティベル兄弟の母ミストリア・レンセンが公立貴族学校の学友であり、親友だったと知っていたら更に違っていた。

 はじめから実弟ティベルと共に迎え入れられていたなら、アリアスはシェリフィス家に感謝はしても恨んだりはしなかった。

 “スレイ”の名と共に過去や家族を捨てさせられたアリアスの怨念が、ノーリやフェルディナンド、アリシャに向けられた。

(ボクの目から見たなら、フェルディナンド父さんが帰らないことだけがこの家にとっての不幸だ。だけど、それって父さんが本当に母さんやボクの居るこの国の未来を見据えて必要だと思う信念があってのことだ)

 ライザーを喪失したフェルディナンド・シェリフィス議員はパルム革命に全精力を注いでいた。

 元老院内に味方が一人も居なくなり、するべき主張は諄い程してきた。

 だが、それでもこの国を変えることは出来なかった。

 最後の手段として、現状を変えようというレジスタンスたちと呼応し、ゼダ女皇国を打倒しようという方法に賭けていた。

 アリシャ・シェリフィスと笑いながら食事を摂る“スレイ・シェリフィス”はフェルディナンド・シェリフィスの帰宅は今宵も午前様になると察していた。

 貧困と不平等がまかり通り、既得権益者たちだけが我が世の春を謳歌するパルムの現実。

 その裏で進行する闇と闇との対決。

 アリアス・レンセンはそれをどうにか変えようと革命の闘士「スレイ・シェリフィス」として苦闘してきたのだ。

 その志は引き継ぐ。

 だが、アリアスには彼の望み通り「殉教者」「イケニエ」となって貰わねばならない。

 もともとは龍皇子アリアスの罪の形こそが爛熟の都パルムドールを作り出した元凶であり、天ノ御柱たるオリンピアに絶望と滅びの意志を植え付けたのだ。

 元はアリアスの私室だった自室に向かい窓の外を確認する。

 例の二人組が今宵も注意深く“スレイ・シェリフィス”の自室を監視している。

(フィンツ、彼等を排除しておく?)

 《妄執の龍皇子》の片割れとなったフィンツには軍警察の捜査員として実直なダリル・メイとマリス・ローランドの二人に対して冷淡にはなれなかった。

 二人は何処かティベルたちの父ダリオ・レンセンとその朋友カルロス・アイゼンを彷彿とさせる。

(いずれは彼等もボクになどかまけていられなくなる。それどころではなくなるからさ。本当の世界であったフランス革命の先にあったのは虚無だ。大陸皇帝ナポレオン・ボナパルトを生み出した虚無。力を信奉する者たちは力に呑まれていくだろうさ。それもまた真理であり、力の摂理などはボクたちの戦いに必要ではない。力無き者たちを統合する原理原則こそがボクらに必要な戦う手段であり、その狂気と狂奔とが人の道標たる《天ノ御柱》を衝き動かすんだ。なにも知らない事と、なにも知らぬままに絶望に呑み込まれる人の自意識の集合体がその手と想いで自らを滅ぼすことになる)

 どんなに残酷でどんなに理不尽であっても彼等は自身の系譜を知らなければならなかった。

 だのに知ろうと思わなかった。

 耳障りの良い偽典史に身を委ね、その上に繁栄を重ねてきた彼等に対して、フィンツは冷淡であり、冷酷な審判者であった。

 やがては顕在化して彼等を絶望の淵へと誘うオリンビアの御柱。

 足掻く者たる剣皇ディーンや女皇アリョーネは彼等とどう戦うというのだろう。

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