外れた矢

 体を洗い終え、僕と素矢子は湯船の中で向かい合う形になっていた。


 彼女の裸を見ても何とも思わないが、別に見たいわけではない。ただ、背中合わせでは逃げられる可能性がある。


 それに素矢子は恥じらいもなくこちらを向いてくる。

 ここで僕が背を向けるのは逃げだ。


 諦めだ。


 ということで、向かい合うことになっているのだが、納得いかないのは素矢子が体をすぼめるどころか、堂々と脚を延ばしている点だ。


 体育座りの僕の膝を足掛けにして、優雅に風呂を満喫しておられる。


「わざとなのだろうか、足裏を見せてくる辺りに性格の悪さが出ている。さっき、僕をあれだけ気持ち良くした足をまじまじと見せつけられると、あれだけ搾り取られたというのに股間が……」

「モノローグを捏造するな」


 後、シャワーシーンを省いたのは描写できないような濡れ場があったからじゃない。


 僕は性欲が枯れているから、濡れ場は起こり得ない。


 普通に体を洗わされて、僕の体を足で洗われただけだ。


 中々な屈辱だったが、僕が後悔に呑まれていない時点で、彼女の軽快な足捌きは描写するに値しない。


 無意味だ。


「言うわね。まぁ、事実だけれど。しかし、ここまで祷君の性欲が枯れているとは思わなかった。あれだけ上栫さん好き好きだから、ただ鈍っているだけだと思っていたのに。やっぱり、あなたの持論通り、愛欲と性欲は違うってことかしら――」


「素矢子は、男として生まれたかったんじゃないか?」


「――――」


 素矢子は目を真ん丸にした。


 当たっていたようだ。始めに、仮定の過程ではなく、核心を突きに行くのは相当な賭けだった。はぐらかされたら不利状況になるし、そもそも違っている可能性も……


「っ!」


 僕の膝に置いてあった素矢子の脚が伸びてきて、顔を蹴られた。最初からほとんど伸び切っていたこともあって、痛みはない。


 僕は読心術を使えないので仮定するしかないが、今すぐ僕を殺したいはずだ。自分の一番奥底にあったものを言い当てられたのだ。誰だってそうなる。


 しかし、彼女が僕を殺す意味はない。彼女――いや、宇宙情報体の目的には僕が必要だ。結局、タイムマシンで殺す前に戻さなければいけない。


 その面倒を背負ってまで実行するほどの殺意はなかったようで、素矢子は足裏を僕の頬に着けたまま、不快そうにこちらを睨むだけだった。


「苛つくわ」


 素矢子は言った。


「いつも内心では木次って呼んでたくせに、素矢子って呼ぶから変だなとは思ってたのよ――祷君もいい性格してるわね。さぁ、その結論に……いえ、ふふっ、仮定に至る過程を教えてくれるかしら?」


 一瞬取り乱したが、他人のモノローグを馬鹿にするくらいには回復しているようだ。さすがのメンタルだ。


「まず降旗先輩、与、上栫さんが立てた仮定、『祖父が自殺したことを後悔している説』、『犯罪者家族のレッテルを消したい説』、『死んだことを後悔している説』、後は『後悔と報酬は必ずしも関係してない説』を聞いて、『家族が欲しい説』を考えた」

「ええ、そこまで看破されることは覚悟していたし、はぐらかすつもりでいたわよ。あなたの読むだけで吐き気がするマイナス思考なら、たどり着けると信じていたわ」


 ぐうの音も出ない。


 この案は上栫さんも考えたそうだが、提案にすら至らなかった、言わばボツ案だ。


 そもそも家族を渇望してやまない与からこの案が出てこない時点で、この案には致命的な欠点があった。


 悪徳宗教の教祖と宗教に呑まれた母の子供であることを――虐待下にあることを望むはずがない。


 それに木次素矢子には家族がいた。


 祖父母である。


 故に、三人は誰もこの案を口に出さなかった。


 与ならたどり着けたんじゃないかと思ったが、他人の心情には疎いのか、それとも過去がないことが関係しているのか。


 ともかく、僕はこの欠点を覆せる仮定を立てた。


 もし、祖父母にも虐待されていたら?


 預けられたという文面を見るだけで、両親の虐待から解放されたように思えてしまうが、むしろ、宗教にのめり込んでいる娘が結婚もせずに生んだ子供を、可愛がれるわけがないのでは?


 確かに、そんな仮定を立てる奴がプラス思考なわけがない。


「そうでもないんじゃない? 子供嫌いって意外と多いわよ? 血は争えないのか、私も子供は嫌いよ」

「じゃあ何で僕はなじられたんだ……?」

「なじりたいからに決まってるでしょう? それはともかく、降旗さんは悪意を許さない割に悪意に鈍いし、入交与は虐待されたくせに家族という存在を神格化しているし、上栫さんは子供好きだから、祖父母まで愛らしい女の子を虐待するとは考えなかった。彼女、いろんな人を見て、調べ尽くしてきたくせに全然影響を受けないのよね」


 確かに、田舎町に引きこもっていた僕はともかく、多くの人を見てきた彼女には様々な手札があるはずなのに。


 まぁ、初めて見たときから芯のある女性だとは思っていたし、彼女の好きなところでもある。


「恥ずかしくなるようなモノローグをしないでくれる? 教えてあげると、彼女、必要のない情報は忘れられるのよね。自分の芯を忘れずに。そうでもしないとしらみつぶしなんて慣行できないでしょう? 人間を細部まで調べるなんて、『意識の泉』に近づくのと同じようなものだから――ああ、ちなみに後悔の才能があるのに、大切な情報を忘れる糞が知り合いにいるのだけれど」

「そんな奴の話はどうでもよくて、僕の案があってるんじゃないかってことになったんだけど、引っかかるところがあったんだ」

「提案したくせに」

「そう。提案したくせに。家族って言っても、色々あるだろ? 父、母、兄弟姉妹、祖父母、結婚相手だって家族だし、子供も。与みたいにとにかく家族が欲しいにしても、ここを詰めないと交渉のしようがない」


 さっき素矢子が言っていたように、はぐらかされて終わってしまう。


「ここで、素矢子の後悔について仮定してきた『五人』の中で、僕が唯一知っていることが役に立った」


 木次素矢子は『素矢子』という名前が嫌いということ。


「実を言うと僕、素矢子って名前は結構好きだったんだ」

「ええ、知ってる。祷君の数ある嫌いなところの一つよ」


 まぁ、この点に関しては、知らなかったとはいえ、彼女に罵られて然るべきである。


 無知は罪。


 だが、言わせてほしい。


 まさか、男が産まれて欲しかったからって、娘に『外れた矢』なんて名前を付けるなんて思わない。


「素矢の意味を知って、僕は素矢子が親を求めたと仮定した」

「あら? そんな名前を付けられたのだから、親なんかいらないと思うんじゃない?」

「そんな名前を付けられたからこそ、そんな名前を付けられなかった世界を望んだ。それに、親が欲しかったと仮定すると色々腑に落ちたんだよね。名前呼びを強要するところとか。僕のことを嫌いなところとか」


 彼女の言い分では、名前呼びは相手への嫌がらせ。僕への恨みは、環境に恵まれたことで後悔しなかったこと。


 親を欲していると仮定すると、名前呼びを強要するのは、家族に名前を呼んでもらえなかったから。僕を恨むのは両親に恵まれているから、と考えられる。


「それはさすがに後付けじゃない……とは、言えないのよね。実際そうだったわけだから。後付けではなくて伏線になってる」


 素矢子は不快感を隠すつもりもなく、とんとんと僕の膝の上に踵を落として、リズムを刻む。


「……家族が欲しかったなら、何を後悔するのか? 素矢子が家族を得られるとするのならば、男に生まれてくるしかなかったんじゃないかと思った」

「正解。それなら、上栫さんとのプレイも伏線に――」


 前に立てた仮定が外れていた――というよりは、半分正解だった形だ。


 宇宙情報体は『確定事象』と戦わず、素矢子は『確定事象』と思われる自身の性別と戦っていた。


「素矢子は、女として生まれてきたことを後悔した。宇宙情報体の誘いに乗ったのは、もしかしたら自分が男として生まれた並行世界があるかもしれないと思ったから――と、ここまではいいんだけど」

「満点回答よ。悔しいけれど」

「いや、違う。これだけ聞きたい。素矢子が得た、宇宙情報体からの報酬。あるのかないのか、あるとしたら何なのか。選択肢が多すぎて仮定のしようがなかった」

「ええ、いいわよ。一番の秘密を看破されたんだもの。もうやけくそ。って言っても、別に大したものでもないわ。ただ、必要だったってだけ。私は宇宙情報体に、一人で生きるための手伝いをしてもらった」


 なるほど。たどり着こうと思えば、たどり着けたかもしれない。


 幼年期に身寄りをなくしたというのに、児童養護施設に入っていない点は確かに不可解だ。


 悔しいわ、だ。


「金策を教えてもらって、後は金で解決よ。子供が自分より頭のいいこと言って、自分の年収より大きな金を払って見逃せと言って来たら、大抵の大人は黙るわ……で?」


 ふてぶてしく、素矢子は言った。

 さっき、自分でやけくそと言ってはいたが、そうは見えない。


 今の情報は教えても問題ないから教えただけ――むしろ余裕に満ちた行為だ。


 内心を看破され、完全に形成が傾いた態度とは思えないが、傾いただけでは彼女は崩れない。


 そして、僕はこれから、そんな素矢子を崩さなければいけない。


 彼女に親を紹介しなければいけない。


「無理よ。無理。犯罪者家族の他人を――というか殺人を犯した私を、心から子供として受け入れられる人間なんていない」

「何で断言できる?」

「あら? さすが祷君、そんなことも忘れちゃったの? 私には読心が……」

「そのとき考えていることしかわからないのに、本心がわかった気でいるの?」

「……あら、それっぽいこと言うわね。確かに、刹那の思考を切り取って、本心とするのは間違ってる。でも私が犯罪者家族と聞いたら、人殺しだって聞いたら、誰だって嫌悪を抱くわ。その時点で不合格よ。私は根に持つタイプなの。そもそも簡単に親を用意することなんて……」

「できたから言ってるんだよ」

「――苛つくわ」


 そろそろ時間だ。

 あまり待たせるわけにもいかない。


 ……それに、上栫さんに混浴がばれたら、色々言われる。


「そろそろ上がろう、素矢子」

「……ええ。ところで祷君」


 苛ついていたらしい素矢子が、にやりと笑って立ち上がった。


 そして彼女が放った一矢は、僕の急所を射抜く。


 いや、この表現だと彼女の笑みにときめいたようだが、そうではなく。


「着替えは私の服でいいかしら?」

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