祈りを込めて
「与」
「はいです」
与から、祷が乗る車椅子を受け取る。
「バイバイだ、与」
「バイバイです、お姉ちゃん」
最後だ、頭を撫でてあげる。
気持ち良さそうに目を細める与が、可愛くて仕方がなかった。
「降旗明星、そいつを頼む」
「わかりました。一歩たりとも、近づけません」
降旗明星はびしっと敬礼した。どこまでも可憐な女だ。祷が惚れるのもわかる。
最後に、木次素矢子を一瞥する。
木次素矢子は、くいっと顎で泉のほうを指した。
「祷君によろしく」
余裕たっぷりの嫌みだ。正しい。先ほど失った余裕を取り戻したのは、決して間違いではない。
彼女には、もうやれることはないし、私の策の成功率を考えればなおのこと――というか、木次素矢子が時間のない世界を求めていないのなら、どちらに転んでもいいのか?
その点については、悔しいわ、だ。
「上栫さん、本当にツンデレなのね」
「は? 何を勝手に勘違いしてるんだ?」
ここに来て、読まれたくない本心を読まれた――いや、『彼女』が教えたのか。ま
ったく、私はあなたに強く出れないんだ、やめてくれ。
「ちなみに、私は祷君と二度と話したくないから、どちらかといえばあなたの失敗を望む。それに、無理だもの。祷君の杭は外れない」
木次素矢子は断言して見せる。
これは余裕でも、慢心でも、嫌がらせでもない。単なる事実だ。
私たちは祷ほど後悔できない。だからこそ、わかる。
自分たちの後悔の杭の深さを知っているから故に、祷の杭がどれだけ深く突き刺さっているのかが想像できる。
それでも、私はやらねばならない。
「木次素矢子、私は思うんだよ」
「……何を?」
「言葉遊びで杭なんて言っているけど、私はこの感情は付箋だと思う。栞でもいい」
「へぇ、その心は?」
「向き合っていきたい問題とすぐ向き合えるようにするために、人間は後悔するんだ」
木次素矢子は戯言を聞いたように、鼻で笑った。
「ふっ、それは……いくら何でもポジティブ過ぎるわよ。一般人はおろか、マイナス思考の権化みたいな祷君には無理」
「大丈夫だよ、祷は私と違って、約束を守る男だ――では、首を洗って待っておけ」
「ええ。向こうの私は血まみれだろうから、洗うなら全身洗うだろうけれど」
「好きにしろ……行こう、祷」
祷はごめんなさいと呟いた。了承とみなして、車椅子を押す。
泉に近づくにつれ、心音が大きくなる。肺が圧迫されているようで、息もままならない。
泉の影響か。世界が乗った天秤を傾けるプレッシャーか。
まぁ、どっちでもいい。
やるしかないんだ。
一歩、泉へと踏み入れる。
「っ!」
全神経が不快感を訴える。だいぶマシな色合いをしていたので、もしかして平気なのではと思っていたがそんなわけがなかった。
ただでさえ、耐え難い人間の深層心理――しかも、別世界の人間のものだ。以前、泉と対したときに感じた、逆流してくるような感覚はない。だが、自分との差異、認識とのズレで擦り減っていく。
心も、体も。
あの女、よくも平気な顔をして、こんなものを浴びていられた。私は無理だ、退路を断たれていなければ、多分、逃げ出している。
諦めている。
だが、どんなに汚らしい泉でも、祷と一緒なら平気だ。
実質、デートだ。
千切れそうになる意識。
実在していない水に、掬われそうになる脚。
いや、私の脚を掴むのはこの世界の人間か。もしかしたら、前の世界の人間も掴んでいるかもしれない。
ああそうだ、必死に止めてくれ。私は今から、人類史上最悪なことをする。
ただし、この悪行は人類史に残りはしない。後悔がなければ、時間がなければ、こんな悪行すらも積み上がらない。
後悔はしていない。
後悔を晴らすために後悔していては、それこそ終わらないループが始まる。
罪悪感はある。
私は、他人が自覚できない理不尽に遭うことを嫌悪し、ループの中を走ってきた。
私は許せない行為を、自分でやらなければいけない。
故に私の脚を掴むのは、私自身かもしれない。
なら、こうしよう。
私は多分、後悔を全て晴らさないと消えない。
そういう存在になってしまった。
人間にそんなことが可能なのかはわからない。最初からなかったことにしなければ、後悔を超越することは不可能なのかもしれない。
本当に、終わりのない時間を過ごすことになるかもしれない。
後悔の檻。
これが私という、一つの世界を消し、全人類に後悔を与える大罪人に課せられる罰。
うん、そう考えると足がすっと軽くなったような気がした。
あっという間に、泉の中心にある水柱の前にたどり着く。
誰のものでもない意識の濁流に、自我が流されそうになる。
そんな中、私を私たらしめてくれるのはやはり後悔で。
さっきは強がりでああ言ったが、やはり杭と呼ぶのが似合う。
車椅子を止め、祷の正面で片膝を着く。
ごめんなさい。
謝るのは私のほうだ。だから、謝らせてくれ。私の声を聞いてくれ。
祷の手を取る。
両手で包み込む。
あのときのように。
祈りを込めて。
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