たった一つの……

 私はこの世界の人間を、前の世界の人間よりも美しいと評したが、実際、どうなのだろう?


 自分の心を黒く染める後悔という感情が存在しないから、そう感じただけなのではないだろうか?


 ただ、後悔や不安による悪はなくなっただろうし、反して衝動による悪は増えただろう。


 増えたというより、衝動による悪しかなくなっただろう。



 私は未だ見ぬ未来や、過ぎてしまったことに縛られる前の世界の人間のほうが愚か

しく、虚しく、みっともないと思うけれど、人によっては衝動を抑えない――抑えられないこの世界の人間のほうが情けないと言う人もいると思う。


 答えはない。


 だけれど、一定の指標がこの先に存在している。


『意識の泉』。


 人の深層心理の源である泉を見れば、世界から見て、どちらが美しいのかわかるはずだ。


 まぁ、見えない部分が美しいから、その存在は美しいのかと聞かれたら違うように思えるし、見えない部分が汚い存在を美しいと呼ぶかと聞かれても、首を傾げてしまう。


 そもそも美しいという概念は人の数だけ存在しているし、存在していてもいい概念だと私は――


「すみ歌ちゃん」

「…………」


 いけない。


 思考が乱された。前の世界のときもそうだったが、ここに近づくと、思考が敏感になって、普段なら気にしないようなところまで考え込んでしまう。


 となると、何となく『意識の泉』の状態が透けて見えた。


 今、私たちは森の中枢にぽっかりと開いた洞を、スマホで照らして進んでいる。うねりにうねっているが道なりで、前世界も地下にあったからという理由で突き進んでいたのだが、今の発作で確信を持てた。


「しかし、お前はこの世界でも平気なんだな」


 前の世界の降旗明星は毎晩見ていたそうだし、泉の管理者でもあった。

 彼女が平気なのはそれらの補正があってのことだと思ったのだが、単に精神が図太いだけなのかもしれない。


「平気ではないですよ。瞼を閉じる度に、悪の強い映像が流れるのは、さすがに面倒です」


 私とは違う影響を受けているようだが、面倒程度で済んでいる辺り、降旗明星と言ったところか。言葉遊びする余裕すらある。


 迫り来る集合無意識に、自意識を奪われないよう雑談していると、開けた場所に出た。


「…………」


 再び、悪性という悪性を人類史で煮込んだようなドブと相対することになるかと思っていただけに、面食らった。


 形状は前世界と変わらない。


 身心への影響も、前ほどではないが、しっかりと気持ち悪い。


 一番の差異は色だ。


 どう表現すればいいだろうか……この町を流れる川、この町じゃなくてもいい。その辺を流れている川。入ろうと思えば入れなくもないくらいの綺麗さだ。


 私の感性は正しかった――というより合っていたようだが、何だろう、中途半端というか、いっそ、もっと綺麗であってほしかった。


 本当に、あのどす黒い泉から、後悔やら時間やらを抜いただけ、みたいな色だ。


 そして驚いたのは、入ろうと思えばは入れなくもない色の泉に、本当に入っている女がいたことだ。


 天井から水が落ちてくる――あるいは上っていくことで形成されている水の柱、その中心に全裸で寝そべっている女がいる。


 ……生きていたか。私の仮定が正しいのなら、死んでいる可能性もなくはなかったが。


 というか、何やってるんだ。人間の深層心理を浴びるなんて、狂気の沙汰だ。


「ん?」


 女の首が、ぐりんとこちらを向いた。


「…………」


 じっとこちらを見て、何も言わない。

 このままでは話が進まないので、私から話しかける。


 嫌だけど。


「何をしているんだ、お前」

「……あなた上栫さん? ああ、そう。見違えたわね」


 木次素矢子は言って、跳ねあがるように体を起こした。


「これから最終決戦って顔つきで悪いけれど、終わりよ。詰んでる。宇宙情報体は神様じゃない。人間の動きに干渉するには、私を動かすしかない。上栫さんの出現を予期して、予め潰しておかなきゃいけなかった」


 裸体を晒しながら、一歩、一歩、こちらに進んでくる。体は濡れていない。


「あなた一人だったら、何とかできるかもしれない。でも、降旗さんは無理……何? やらないわよ。やらない。そんな化け物とやってたまるもんですか。階級が五階級上よ。私は心理戦できる相手にしか勝てないわ」

「よく喋るな。相変わらず」

「上栫さん相手だからよ。私って人見知りなのよ。だからほら、降旗さんとは喋っていないでしょう?」


 こちらに向かってきていた木次素矢子だが、くいっと方向転換。そのままどこかへ行ってくれないかと思ったが、進行方向の先に衣服が落ちている。


 一応、恥じらいはあるようだ。


「わたしは喋りたいですけどね」


 と、降旗明星。あわよくば、説得にシフトするつもりか、はたまた本心か。


「あら、私って祷、上栫コンビよりもちょろいから、すぐ惚れちゃうわよ? ああ、そう言われると降旗さん、タイプかもしれないわ」


 木次素矢子は戯言を吐きながら、衣服を着ていく。

 青色のシンプルなジャージだった。


 悔しいが、いい趣味をしている。


「戯言じゃないわよ。私ってマゾだから。年上にリードしてもらうのが理想なのよ」

「えげつない攻めだったがな」

「断腸の思いだったのだけれど」

「断ったのは私の腸だろう」

「忘れられないなら、サービスしてあげるわ。今からでもどう?」

「やめておく。一人の体ではないからな」


 正直、想定外だ。

 もちろん、彼女がジャージを着たことではなく。


 木次素矢子の言う通り、私は殴り合う気満々だった。


 何をどう考えても、降旗明星が負けるとは思えないのだが、木次素矢子ならあるいは? 


 そんな不気味さがこいつにはある。


 単に、自分を負かした相手だから、過剰に評価してしまっているだけかもしれないが。


 ジャージを着終わり、一歩、また一歩、こちらへ迫りながら、


「悔しいわ」


 木次素矢子は言う。


「今、必死に宇宙情報体が調べているのだけれど、面倒だから教えてくれない? どうして上栫さんはここにいるの? ここは、あなたが生まれていない世界なのに」

「ただ、悔しかっただけだよ。祷をあんな目に遭わせたことが」

「……杭を打ったのね。しかも、自分の魂を打ちつけた」


 言って、木次素矢子はうんざりしたように嘆息した。


「打った、というのは間違いだ。私はそんなに冷静じゃないし、今ほど感情の扱いに長けているわけじゃなかったしな」


 奇跡が起きた、という奴だ。


「祷君なら、さすがの主人公補正だ、なんてモノローグするでしょうね」


 祷、そんなことを思っていたのか。


 私が主人公かどうかはともかく、確かに主人公補正のような奇跡ではあった。


「まぁ、死者が抱いた後悔が、死者の魂を定着させちゃうのはよくあることよ。地縛霊ね。ただ、時間軸を超えても杭が外れないのは奇跡――いえ、上栫さんの後悔がそれだけ凄まじかったってことね。キャパは私と同じくらいなのに、悔しいわ」

「量より質ってことだろう」

「そう。質。これは宇宙情報体には理解できないらしいの。いえ、質の良し悪しは測れるのだけれど、ロジックよね。いい後悔と悪い後悔が生成される理由がわからないと言っていたわ」

「いい後悔なんてあるか」

「まったくよね」


 意見が合った。

 嬉しくはない。

 不快ですらある。


 そして、ようやく木次素矢子が目の前に到着した。

 さて、雑談はこのくらいにして、交渉を始めてもらおう。


「交渉……そうね。さすがにそこまで考えなしではないわよね」


 木次素矢子は早速、読心を使って先手を打ってきた。


「はい。わたしはあなたのことを救いたい」


 素早い反応で降旗明星が一歩、前に出た。ここまでくれば、私にできることは祈るだけだ。


「……あなた、本当に変わらないわね。心が眩しくて、目が潰れる」


 木次素矢子は懐かしむように、目を細める。


「あれ? 会ったことあるんですか?」

「あなた、頻繁に隣町まで出張にしに来るから。どの世界線でも自殺予備軍認定されてるわ」


 衝撃の事実だ。言われてみれば、ここまであからさまに病んでいる女を、降旗明星が放っておくわけがない――というか、人見知り云々は何だったんだ? むしろ顔見知りじゃないか。


「知ってる? 意味のない嘘って気持ちいいのよ?」


 ぶん殴りたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。交渉相手を殴るわけにはいかない。


「この世界では会わないようにしてたのよ」

「ええー、何でですかー?」


 元々、降旗明星は木次素矢子に好意的だったが、とてもにこやかに話す。


 そして、その好意は一方的ではないようで、


「私は降旗さんから夢を奪ったんだもの。上栫さんじゃないけれど、合わせる顔がないわよ」


 嘘か本当か、木次素矢子は、降旗明星と顔を合わせて言った。


 ――そうか、木次素矢子は宇宙情報体に『意識の泉』を売ったようなものなのか。


「優しいですね。すみ歌ちゃんと似て」

「あら嬉しい」

「…………」


 ノーコメントだ。


 しかし水と油。勇者と大魔王。聖女と痴女だというのに、どう関係性を保っていたのだろうか。


「誰が痴女よ。処女よ、私」

「破瓜してないだけで、二人仲良く穢れただろう、何を清純ぶってるんだ」


 そんなことはどうでもいい。もう与が来てしまうぞ。お別れ会の直後に再開するような気まずさだ。


「そんな上栫さんに朗報よ」


 ……さすがにわかった。


「必死に心を抑えている上栫さんはともかく、プレイ中の上栫さん並みにお漏らしな降旗さんの心から聞こえてくるのだけれど」


 こいつの朗報が、悲報であることくらい。


「あなたたちが立てた仮説たち、全部間違っているわ」


 わざわざ私の前に来て、わざわざ屈んで、わざわざ上目遣いで言ってきた。


 後悔はない。


 うっかり町中に降りてきた木次素矢子と遭遇したら終わりだし、あれ以上時間をかけても、真実にたどり着けたとは思わない。私が間違いの仮説をドヤ顔で言った後も議論は続けたが、やはり選択肢が多すぎる。


 しらみつぶしではなく、私の貧相な閃きに賭けるしかなかった。


「掠っているものもあるけれどね」


 木次素矢子はすっと立ち上がって、フィギュアスケートごとく、くるくる回りながら、私の周りを周回し始める。


「特に上栫さんがドヤ顔で言ったらしい、『生まれてきたことを後悔している説』。本当に褒めてあげたいわ。あなたの足りない想像力で、よく思いつけたわね。頭をナデナデしてあげたい。おっぱいやあそこじゃなくてね」

「うるさいぞ、痴女。こんなときくらい、シリアスでいろ」


 今はこんな口答えしかできない。


「故に、交渉は始まらない。あなたたちは、私が望むものがわからないのだから」

「教えてはくれませんかね? 要求してみるのはただですよ? 意外と、わたしたちに叶えられることかもしれません」


 降旗明星が言った。らしくない、責任感皆無の発言だ。そうするしかないとはいえ、私のせいでこんな発言をさせてしまったと思うと、後悔しそうになる。


 木次素矢子は華麗なターンと共に言う。


「縋って手に入れられるものなら、そうするのもいいかもしれないわね」


 それは降旗明星が感じた諦念から出た言葉なのか。回転中で、表情は見えなかった。


 しかし、要求してくれないとなると、いよいよ――と、そのとき、外へと続く洞のほうからエンジン音が響いた。


 与は無事に任務を果たしたようだ。


「ですですです!」


 与が洞の中から勢いよく与が飛び出してきた。両手で『改造折り畳み式自動車椅子』を押していて、車椅子には今回の作戦で最も重要な人物が乗せられている。


「お待たせです!」


 車椅子は地面をえぐりながらのブレーキで私の隣で止まり、操縦主の与はそっちはどうだったと言わんばかりに、こちらを凝視してくる。


 私は、首を横に振った。与は残念そうに唇を噛む。


「不快だわ」


 木次素矢子が言った。

 そして、そのままゆっくりと華麗なターンに移行する。


「もう二度と、顔を合わせなくていいと思ったのに……ねっ!」

「ふっ!」「っ!」


 回転そのまま、祷に向かって上段蹴りを放つ木次素矢子。あまりにも圧勝ムードを醸し出していたので、不意を突かれた。


 が、さすが降旗明星。私が上段蹴りに気づいたときにはもう祷の前に立っていた。


「すまない」

「わたしを信頼してくれていたということで」


 木次素矢子の脚を止めた降旗明星はそう言って、ウインクして見せた。


 そういうことにできれば、私はもう少し楽に生きられたのだが。


「残念。完全な詰みにできたのに」


 木次素矢子は全く残念ではなさそうに言って、脚を引いた。


「今の状況は詰んでいないということか? なら、頑張って打開策を考えないとな」

「白々しい。何を企んでいるかはわからないけれど、何かを企んでいることはわかるのよ」

「え?」「?」


 降旗明星、与、両名から困惑の声が漏れた。


「……まぁ、その通りだ。私には二人に言っていない策がある。言ってなかったのは、心の弱さだよ。私依存の策だし、そもそも成功する確率があるのかもわからない。できれば、仮定が当たっていてほしかった。秘策でもあり、苦肉の策だ」

「……珍しく、ペラペラ喋るわね」


 木次素矢子の言葉からいつもの余裕が消えた。

 ただ、私にも、そんな隙を突きに行く余裕はない。


「中々に情けない策だからな。装いたくもなるよ――いや、情けないのは策じゃなくて、これを最終手段にしていた私か」

「ふーん……」


 どうでもよさそうに鼻を鳴らした木次素矢子だが、表情に猜疑心が漏れ出ている。


「教えてあげてもいい。聞いてびっくりな妙手でもないし、聞かれて損するものでもない。奇襲でもないし、お前に阻止できるものでもない」


 さぁ、聞いて戸惑え、見て叱れ。

 これが私の、最終案。


「私はこれで、祷の『心』を修復しなければいけなくなった」

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