急転

「はぁ、はぁ、はぁ」


 僕は自宅のトイレへと倒れ込んだ。


「うっ、おぶぁ……げほっ、げほっ」


 みっともなく、便器に向け嘔吐する。


 止まらぬ動悸と相まって息ができない。便器にしがみついて、吐瀉物をまき散らさないようにするので精いっぱいだ。


「何で……」


 腹の中のものを全てを吐き切った後に出てきたのは、ずっと我慢していた言葉。


「何で……何で……」


『百万じゃすまないかもな』


 上栫さんはそう言った。


 ということは、上栫さんが体感したループは約百万――僕と数百万の差がある。


 言い間違い?


 そうであってほしい。


 ちゃんと数えていないだけ?


 そうであってほしい。


 でも、もし本当に百万のループしか体感していないとしたら?


 考えたくない。


 それでも、僕の頭は仮定を作ろうとする。


 だって、卑しくも納得してしまうのだ。


 彼女が諦めていないことにも。


 彼女が持つ過去の記憶が、僕よりも鮮明であることも。


 その感情の豊かさにも。


 ふざけるな。上栫さんは僕と同じだけのループを過ごしても、絶対に諦めないだろうし、大切な人のことを忘れることで逃げたりしないし、決して犯人を許さない。


 理解できるのに。


 僕は仮定を立てるために、そんな都合のいい憶測を前提に組み込もうとしている。


 そんな仮定を立てる暇があったら、もう少しこのループについて考えろ。


 前回の二月三日に上栫さんがいなかったように、上栫さんは並行世界の移動の影響を受けやすい体質で、僕とループの体感数がずれている。


 そうだ。今回立てた仮説を使えば、並行世界のルールについて何か……


 だが、少ないサンプルではあるが、上栫さんが消えたのは十一回目のループ。少なくとも、僕と上栫さんの差は三倍。十一分の一で上栫さんが消失するのなら、もっと差がついているはずだ。


 五十年前の基点とか、どうにか仮定を立ててみたいな。


 ならば、やっぱり上栫さんは……


「やめろっ!」


 駄目だ、頭を回すと並列的に、上栫さんに関する思考が回る。


 どうにかして、何も考えられないようにしないと。


 どうする? 寝るか? いや、眠りにつくまでに何をどう考えても、結論が出る。


「あー、あー」


 意味もなく声を出していないと、耐えられない。


 モノローグすらも、危うい。


 何も考えずに、声に出し続けろ。


「一瞬で思考を止める――考える暇もなく眠りにつく? 限界を超えた運動? 気絶するほどの強度の運動? 自殺! そうだ、死んでしまえば何も考えなくて――いや、そもそもこんなことは無駄なあがきで、いずれは認めなければいけない。でも、それでも僕はこの仮定を完成させたくはない。ああ、もう走れ、とにかく走れ。僕は今から自分の部屋へ向かって走る。階段を上る。滑って転ぶ。ああああああ、ふざけるなふざけるな。認めてしまいたい自分がいる。こんな奇行、もうやめにしたい。僕が彼女に言わなければいいだけだ。だがもし、自分で気づいてしまったら? 僕が気づいていて、黙っていることがばれたら? 嫌われる絶対に嫌われる。嫌だ、嫌だ、嫌われたくない。嫌われたくない。じゃあ言うのか? ふざけるな言えるわけないだろ! こんな葛藤している時点で僕はもう仮定を確定させてしまっているのかもしれないけれど、認めなければ確定じゃない。絶対に認めない。僕が口に出さない限り、絶対に認め」


「そうよ。上栫速歌は、並行世界の移動によって生まれた人間」


「…………は?」


 気がついたら僕はベッドの上に仰向けになっていて、その横に誰かが座っていた。


 僕の位置では後ろ姿しか見えない。セーラー服を着ていて、ベッドに着くほどの長髪、すらりとした体型。座る姿からは、まるで生気を感じない。


 前に与のことを、格好つけて幽霊のようだなんて表現したが、彼女のほうがその表現が似合う。


 誰だ?


 信用ならない僕の記憶ではあるが、彼女のような姿、声の知り合いはいない。いや、そもそも僕の部屋に不法侵入してくる女性なんて、上栫さん以外にあり得ない。与でさえ、玄関を通る。


 ――いや、そんなことよりも。


 この女はなぜ、僕が認められなかった仮定を……


「仮定じゃないわ。事実よ。紛れもない事実」

「何を……というか誰ですか?」

「悔しいわね」


 長髪の女性は言う。


「誰ですか、ね。本当に祷君、記憶力が寂しいのね。私としては、中々にサービスしてあげていたのだけれど――ううん、違う。悪いのは心。何でも忘れてしまえば楽になれると思ってる、その甘ったれた心」


 淡々と言っているようだが、上栫さんのそれとは違い、言葉に棘を感じる。


「棘と言うよりは、矢と言うべきかしら。まぁ、私は外れた矢なのだけれど」

「……?」

「はぁ……いいわ。その、類稀なる鈍感さに免じて、最後のサービス。んんっ」


 女性は咳ばらいをして、振り向いた。


「よっ!」


 先までの声色と、百八十度違う――いや、世界線そのものが違うかのような声色だった。


「因ちゃん! こうして因ちゃんの家に入れてもらうのは初めてだねー! いやー、入ったことある設定だったっけ? まぁ、いいやーたまやー第三の矢ーってね。私の弓矢は何本撃っても外れるけどねっ。あははっ」

「――――」


 弾けるような笑顔で、萌えるような声色で、言った。


「と、まぁ、祷君が苦手そうな幼馴染を演じてあげたわけだけれど、感想を聞かせてもらえる? ねぇ、今どんな気持ちかしら?」


 射るような笑顔で、枯れるような声色で、言った。


 木次素矢子は、そう言った。

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