心の在処

 例にもよって、例の公園にて。


 僕は上栫さんに、前の二月三日について説明することにした。


 もっとも、もう『前の』なんて断言することはできなくなってしまったのだが。

 もしかしたら、僕も前の二月三日にはいなかったかもしれないのだから。


「もう大丈夫か? 祷が甘えたいのなら、目を瞑るぞ」

「ありがとう。もう大丈夫」


 今日はベンチに座って会議をすることにした。

 

 こうして再会できたのだ、いつものランニング会議でもよかったのだが、もう走るのも億劫になるほど泣き疲れた。


 泣きつかせてもらった。


 それに、上栫さんお気に入りのジャージは僕が汚してしまった。上栫さんは、あのジャージじゃないと走りたくないらしい。


 まぁ、本当か嘘かは微妙なところだ。あれだけの優しさを見せられたら、僕に気を遣ってくれた可能性も高い。


「でも、やっぱりお姉さんだね」


 彼女の姉力は、僕の妹との会話の際に片りんを見せてはいたが、とんでもない甘やかしだった。


「祷は兄らしくない甘えっぷりだったな」

「……やめよう。この話はやめよう」


 思わず話題に出してしまったが、この話題は僕しか火傷しない。


「そんなことはないだろう? 私だってらしくなかった」


 確かに、今の上栫さんは彼女らしい抑揚のない声だが、今朝の声は慈愛に満ち満ちていた。だが、やっぱり甘やかすほうよりも、甘やかされるほうがダメージが大きい気がする。


「まぁ、しかし、安心したよ」

「……何が?」

「前に言った通り、祷は感情を表に出す癖に、泣かないし、笑わない。もしかしたら、ループのせいで『心』に異常をきたしているのではと思っていた。前に人の『心』の話はしただろう?」


 体には感情というエネルギーが流れていて、それを作るのが『心』、みたいな話だったか。


「生きていくだけなら、別に問題ない。むしろ、感情の起伏を小さくするのは、このループを過ごす最適解だ。だが、『心』は筋肉のように衰えていくと聞いたことがある。祷が諦めるのをやめたのなら、衰えた『心』は自分を傷つける。あれ? こんなに悲しいのに泣けない。こんなクソ野郎なのに怒れない。そんな認識とのギャップで、最悪、本当に『心』が壊れる」


「……『心』が壊れると、どうなるの?」

「半壊だったら情緒が不安定になる。全壊したら植物人間だな。祷に協力させておいて、そんな目に遭わせるわけにはいかないから気を張っていたのだが、よかったよ。祷はちゃんと泣けるし、笑える」


 あんな思いをしたのだ、手放しによかったとは言えない――と、思ったのだが、上栫さんのどことなく嬉しそうな顔を見るだけで、あの苦しみは必要経費だと思えた。


 忘れることには長けている。


「うん――これは言うか迷ったが、祷の『心』に気を遣うのは、降旗明星の頼みでもある」

「降旗先輩の?」

「降旗明星は祷の情緒が気になっていたらしい。二月二日とのギャップが大きすぎるから、『心』の病を疑っていたそうだ」


 そうだったのか。いつの間に、降旗先輩とそんなことを――と思ったが、そういえば、上栫さんと降旗先輩を初めて会わせた日、二人で何やら話していた気がする。


 あまり解明されていないとはいえ、『心』の源を守っている家系だ。その辺りには敏感なのかもしれない。彼女が人を助けられるのも、『心』が弱っている人間を見抜けるから、という可能性もある。


「何も感じなかった方がよかったか?」


 上栫さんは見透かしたように、そう言ってきた。


「……まだ、わからない」


 この質問は多分、死んでみないとわからない。


 ループ下での死ではなく、流れる時間の中で死ぬ瞬間にこそ、答えが出る質問だと思った。


「責任は取るよ」

「な、何の?」

「感情を取り戻させた責任。祷には絶対、後悔はさせないよ」

「…………」


 言って、上栫さんは微笑んだ。


 もう、自分に嘘はつけない。


 僕は、彼女の微笑みにときめいた。

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