後悔
「上栫速歌という名前の人間は、日本にはいなかったです」
午後十一時三十分。
与は言った。
「いたのかもしれないですが、少なくとも、今生きてはいないです。戸籍を偽装していない限り、ですが」
オカルト的なアプローチを得意とする与だが、今回はシンプルにハッキングで調べてくれたようだ。与は意外とパソコンに強くない。タイムリミットとといい、中々に無理をさせた。
「そうか。ありがとう」
踵を返すと、
「……因果お兄ちゃん、死んじゃ嫌です」
与は小声でそう言って、袖を掴んできた。
帰ろうとしただけで死んじゃ嫌とは、今の僕はどんなに酷い顔をしているのだろう?
「大丈夫。また会える」
「……じゃあ、明日、来てくださいです。今度は絶対、見つけてみせますです」
「わかった」
天才が見せた覚悟の眼差しに、何も考えずに返事をして、逃げるように与の家を出る。
「っ!」
走る。走る。
肺は破裂しそうな何かで溢れていて、脳の血管が焼き切れそうで、周りの音は何も聞こえなくて、踏み出す脚には力が入って、自然とスピードが上がる。
息をしたい。
だけど今、口を開いてしまったら、多分、決壊する。
どこか、何もないところに行かないと。
幸い、与の家は田畑が近かった。僕は見渡す限りの田畑のど真ん中まで、ふらつきながらもたどり着いた。
体を支える必要はもうない。世界が回って、そのまま四月の田植えを待つ、カラカラの田んぼに転がり落ちる。
「はぁ……はぁ……」
口が開いた。
せき止めていたものが――枯れたはずの感情が、噴出する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 明日なんか、ない!」
喉が枯れるまで叫ぶと、次は目から涙が溢れてきた。
「うえぇ、お、お願いします……」
そして、嗚咽交じりに声が漏れた。
みっともない祈りだった。
でも、もう祈ることくらいしかできないんだ。
次、目覚めたとき、布団の中が温かいことを祈るしかない。
後、何分だろう?
そのとき、ふと、脳裏をよぎった。
もし、ループがこれで終わったら?
彼女はループが終わるのなら、自分がどうなってもいいと言っていた。
彼女がもし僕の知らないところで、ループの解決法を知って、それを自己犠牲によって達成したのだとしたら?
そこで、辺りが凍えるような寒さであることに気づいた。体が震え始める。「お願いします」と漏れ続ける口ががちがちと歯を鳴らす。
怖い。
ループが終わってしまうのが、怖い。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ! 痛い、痛いぃ……」
恐怖を自覚してからは、体の内を虫に食われているようだった。
それこそ、芋虫のように田んぼの中をのたうち回る。
まだか? まだ十二時にはならないのか!?
頼む、頼むから早く……早くループしてくれ! お願いだから、あの温かい布団に戻してくれ! いや、最悪、あの凍えるような布団でも構わない。ループが続いているのなら、まだ可能性はある!
とにかく、早く! 早く!
こんなにも時間が経つのが遅いと感じたことは、百万と数百万日で初めてだ。我慢できない。スマホで時間を確認――いや、もしかして、もう過ぎたのか?
ループが、終わったのか?
スマホの画面に〇が並んでいることを想像した瞬間、ポケットに伸びた手が固まった。
手だけではない。はちきれんばかりの動悸も、死にたくなるような不快感も、痛みも、全てがなかったかのように、霧散した。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
もし、本当にループが終わったのだとしたら?
だとしたら、僕はこれから死ぬまで、こんな感情に苛まれて生きていかなければならないのか?
そんなの、百万と数百万のループよりも惨い。
耐えられそうにない。
――ああ。
こんなことなら、ありがとうって言っておけばよかった。
いや、そもそも。
こんなことなら、上栫さんのこ――
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