「元々は美しかったそうです」


 螺旋階段の入り口にもたれかかった降旗先輩が、囁くように言った。


 僕は階段に、燃え尽きたボクサーのごとく座っている。上栫さんもさすがに耐え難かったようで、僕の膝に頭を置いて寝転んでいる。


 とてつもなく恥ずかしい格好なのは理解できるが、彼女の小さな頭を退ける気力すら残ってない。


「と言っても、降旗家が降旗家になる前のこと――何なら西暦よりも前のこと、と書かれていますが」

「はぁ……早すぎるな」

「……な、何が?」

「人類が、穢れるの」


 上栫さんはいつも以上に抑揚なく言った。

 個人的には、人間に綺麗だった瞬間があるのが意外だ。


「――わたしは、綺麗な『泉』を見てみたい」


 降旗先輩は言った。

 聞いた上栫さんが、僕の膝の上から先輩を睨み上げる。


「それは不可能だ。お前が善を尽くし、人を導いたとしても。一度濁った白は、もう黒くなるしかない」

「上栫さん、それは……」

「そうですね。無理です」


 あっけらかんと、先輩は言った。


「だからこれは夢、なんですよ」


 僕だけではなく、大抵の人々は降旗先輩に叶えられない願いなどないと思うだろう。それだけ、彼女の才覚は別格だ。


 だけど、人間は手の届かないものを求める。


 夢を見る。


 個人の域を大きく逸脱した夢を抱いた彼女の笑顔に、僕はうつむくことしかできない。


 泉を汚してしまって、ごめんなさい。


 あなたの夢を邪魔して、ごめんなさい。


 その後、降旗家にて、信じられないくらい豪勢な食事を堪能し、僕と上栫さんは帰路に着いていた。


 夜の橋上を吹き荒ぶ風は、本来なら耐え難いもののはずなのに、むしろ温かく感じた。『意識の泉』の冷たさが頭に残っているのだろう。


 今なら、橋の下を流れる川だって遊泳できそうだ。


「動機には十分すぎる夢だな」


 細身の体にこれでもかと料理を詰め込んでいた上栫さんが、平然と言った――わかっている。


 先輩が時間遡行の犯人だとしても、何ら不思議ではない。


 時間遡行をするに至る動機。

 そして、果てしない数の時間遡行に耐えうる精神。


 適性は十二分にある。


「でも、やっぱり先輩は違う――」

「違う。祷、私たちは推理しているわけじゃない。仮定することも、推測する必要はない。祷に言わせれば無意味だ」

「……まぁ、そうだけど」


 結局、調べられるだけ調べ尽くすのだ。このループ下で仮定や推測が必要になるのは、妥協したときか、二十四時間の限界が来たときだけだ。


「探りたくないんだろう? どれだけ好きなんだ」

「…………」


 ぐうの音も出ない。


「もし降旗明星が犯人だったら、祷はどうなってしまうんだろうな。楽しみだよ」


 上栫さんは心なしか、声を弾ませた。前に一度見せてくれた、身体年齢相応の可愛

らしい上栫さんはどこへしまったというのか。


 どんどん、サディスティックな部分が露になっている。


「……先輩が犯人かどうかは置いておいて、『アレ』、見てみてどう思った?」


 時間遡行とは関係ない話だが、聞いておかないと『アレ』を見たことを後悔しそうだ。


「まぁ、あんなものだろう? 人の中身なんて――ああ、そうか」


 上栫さんは何でもないように答えた後、何かに気づいたような声を上げた。


「人間なんてループに捕らえられていればいい。そう心変わりすると思ったのか?」

「……まぁ、そんな感じ」

「祷、甘く見てもらっては困るぞ。私はたくさんの人間をしらみつぶしてきたんだ」

「あ」


 失念していた。

 人間の汚さに辟易していて、どうしてしらみつぶしなんて苦行を為せるだろうか。


「人間がどれだけ汚かろうと、私が守りたいものの輝きは確かだと思うから」


 その言葉はまさしく主人公のもので。

 僕が諦めるようなことには決してならないだろうと、確信できる言葉だった。


 この感銘まで悟られたら赤面ものだ、話題を変えよう。


「そういえば最後、何話してたの?」


 帰る直前、降旗先輩は上栫さんだけを呼び止め、何か話をしていた。


「秘密だ」

「何でさ」

「じゃあ、スリーサイズだ」

「あのタイミングでスリーサイズ教える女がいるか――いや、先輩ならあるいは?」

「89、59、83だ」

「適当言わないでよ。先輩のストッキングに包まれた尻はもう少し大きい」

「…………」


 眠そうな目で睨まれる――失言だった。


「そ、それで、後はどうするの? 残り三時間くらいだけど」


 上栫さんはこんなとき、残り時間で情報が手に入りそうなら動くし、厳しいようなら、次の二十四時間のスケジュールを詰めると言っていた。


 上栫さんは口元を手で覆って、足を止めた。


「そうだな……祷は帰っていいぞ。私はもう少し、降旗家を張ってみる」


 正直、そうしてもらいたい。だけど、中途半端に逃げたら、余計に苦しくなるような気がする。


「いや、僕もやるよ」

「祷、勘違いしてないか?」

「……何を?」

「私は祷に気を遣って、帰れと言っているわけじゃない」


 上栫さんは一度、降旗家の方角へ踵を返してから、こちらに振り返ってこう言った。


「祷に女子の家を覗かせるわけにも、盗聴させるわけにもいかないだろう。この変態さんめ」

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