祷因果
僕――
ただ、付け加えるなら、僕はかける少女ではないし、並列世界を渡ることができるデバイスを持っているわけではないし、自称マッドサイエンティストでもない。惨劇のループに囚われているわけでもなければ、得体のしれない生物と契約した魔法少女でもない。
時間遡行の発生を理解できるだけの、ただの一般人である。
「行ってきます」
母と妹に見送られて家を出ると、またも刺されるような寒気に襲われた。
布団から出たときと同じく、暖房の効いた室内とのギャップで足が止まりかけるが、近所の家から元気いっぱいに飛び出してきた少年少女、散歩中の鼻息の荒い犬たちは、僕の心に幾らか活力をくれる――しつこいようだが、そんな風に思っていたのも随分と昔のことだ。
始めは、十分かそこらの時間遡行だったように思う。
小学生の頃だったか、授業の時間がやたら長く感じることがあり、試しに時計を見つめてみたところ、時計の針が巻き戻っていることに気がついた。
日に日に十五分、三十分と伸びていった時間遡行は最終的に、この二月三日をループするに至った。
今回が何回目のループかはわからない。百万回まで数えてみたが、意味がないことに気づいてやめた。
思えば、数えるのをやめた瞬間が、僕が諦めた瞬間だったかもしれない。
今はこうして老醜をさらしてしまっているが、必死にこの檻から抜け出そうと足掻いたときもあったのだ。
この世界はループを繰り返すごとに、少なからず変化が起きる。
例えば、前を歩く、僕と同じ高校の制服を着た女子。
スカートと艶のある黒髪ショートポニーを揺らしながら、随分と速足で進む彼女。
すっと伸びた背筋や四肢からは、後ろ姿ながら力強さを感じる。
肉体的ではなく、精神的なもの――生きることへの活力とでも言えばいいか、何か確固たる目的があるように見える。
まぁ、老人まがいの観察眼なので、気のせいかもしれないが。
ともかく、僕はこの少女を初めて見る。百万と、加えて何百万回かのループを経て、初めて。
このループは、完全な繰り返しではなく、変化する余地がある――心がざわつく。
まだ、ループを抜け出せる可能性があるのではないか?
捨てた感情が、後ろから追ってくる。だけど、振り返ってはいけない。
感情を持つということは、心を無防備にするということだ。
出口のない迷路において、防御を捨てることがどれだけ危険か。
活路を見いだせるのなら、ノーガード戦法もいいだろう。だが、捨て鉢になってノーガードにするのは自殺行為だ。
そして比喩ではなく、荒んだ心が最後に取らせる行動は本当の自殺行為。
僕はもう、故郷に流れる川に飛び込みたくはないし、妹が入ってくるだろう自室で首を吊りたくはないし、母が掃除してくれている浴槽で手首を切りたくはないし、正義の味方をしている先輩の手を躱して、学校の屋上から飛び降りたくはないし、なぜか懐いている天才発明家の発明品を自殺に使いたくはないし、見知らぬ誰かが運転する車に飛び込みたくはない。
だから僕は感情を代償に、心の防壁を手に入れた。
どうせ意味がないなら、何も感じないのが一番だ。
感情がなければ、時間の体感速度もだいぶ上がる。
後は、祈るだけだ。
どこかの誰かが時間遡行を行っているのだとしたら、早く目的を達成してくれますように。
もし、世界が意味も意思もなく時間遡行を起こしているのなら――どうか、魂に寿命がありますように。
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