贄の見る夢
人の思考を喰らう魔物、と最初こそ敬遠されたものの、それ以上にジャラルが真人間になり真面目に馬の世話などをするようになった事などから、次第に受容する声が上がるようになった。
「労働って気持ち良いな!火神」
額に汗して馬を連れるまでになった彼に、周囲は寒気すらしていたが。
呼びかけられた火神は人の形をとっていた。小鳥に話しかけている自分が、傍から見ると何とも夢見る少女のようで嫌だ、とジャラルがごねたからだった。
「あまり真っ当な人間になられても困るのだがな」
呆れて細められるその黒い双眸は涼しく、憂いすら美しい。黄金の炎を体現するかの如き淡い金髪が、巻き布から溢れ落ちる。彫刻のような鷲鼻と白い肌は、すべてジャラルの願望を具現化したものだった。もっとも彼がなりたい顔だと思い浮かべたものを真似ているだけで、そうして欲しいと頼まれた訳ではない。
「はあ……それにしてもあんまり美男が横にいると腹が立つな。若い女たちを見ろよ、皆お前の事を見て顔を赤くしてる。俺の顔をそれにしてくれよ」
忌々しそうに傍らの神に呟く。
「その嫉妬心すらも贄となる」
火神が黒い瞳を細めると、ジャラルの頭から『女にモテたい』という願望が吹き消された。
「ふむ、少しエグ味のある甘さだな」
「人の煩悩の味を実況するな」
同じ動物同士、何か通ずるものがあるのだろうか、とジャラルは思ったが、動物扱いすると途端に何かしらを燃やそうとするだろう彼に何も言わなかった。
「なんか腹減ったな。お前は相変わらず飯食わねえの?」
頭の巻き布から零れる黒髪を押し込みながら、琥珀色の瞳が火神を見遣る。
「腹が減る、という概念はあるが、それは人の欲に対する渇望だ。故に我が人の食べ物を食して何かが満たされるという訳では無い」
特に残念という風でも無く、淡々と答える。確かにここひと月の間、火神が何かを口にする所は誰も見た事がなかった。
見た目はどこまでも人と同じだが、そういう所を見るにやはり自分たちとは決定的に異なる存在なのだ、と青年は再認識し、ひとり頷いた。
「お前の喰える煩悩って、どこまでなんだ」
「どこまで、とは」
「アレしたい、コレしたい、みたいな希望も煩悩なのか? 俺の大事な夢まで喰われちゃ敵わんからな。これはやらんぞ。俺のだ」
ジャラルの言葉に切れ長の瞳をいくらか彷徨わせ、火神は考える。
「考えたことはなかったが、お前の抱く女を抱きたい、乳を揉みたいなどといった
「そんなのほぼ生理現象だろ」
「我は僧たちの祈る炎の中で生まれた。奴らは己から湧く食欲・睡眠欲・性欲や金銭欲、怠惰、そして他に向ける怒りと妬み嫉みをわずかでも忌み嫌い、人として一切の我欲と汚い感情を捨てんと祈り込めていた。我の知る味はそれだけだ」
俺には到底無理な境地だ、とジャラルは
「はて、お前に夢などあったのか」
ジャラルが何かを言いかけると、遠くから少女が声を掛けた。
「おーい! ジャラル、火神」
小麦色の肌を朝焼けのように赤い衣装に包む彼女は、確かレイラといったか、と火神は思い出していた。集落の中でも小柄で幼い顔立ちをしているが、年頃の娘でジャラルの妹だと紹介されていた。レイラは長い裾を翻して二人に駆け寄る。
「ジャラル、真面目に働いてんじゃん」
「俺だってやるときゃやるんだぜ」
「火神がいないとすぐサボる癖に」
「うるせー」
痛いところを突かれたように顔を
「長老さまが呼んでるよ! はやくはやくー」
「おー、すぐ行く」
それだけ言ってレイラは走り去っていく。愛嬌といい、利発な娘だ、と火神がその背を見つめていると、ジャラルはぽつりと口を開いた。
「……俺は多分、あいつと結婚するんだ」
火神は小首を傾げる。
「あの娘は妹ではなかったか」
「妹みたいな奴だけど、両親は違う。俺たちは誰の子だろうと皆きょうだいとして暮らすんだ。一族の中で生きて、結婚して子供作って、一族の中で死ぬ。ずっとずっと昔から、俺たちはこの荒野でそうして生きてきた」
つまらなさそうに語る彼は、でも、と顔を上げる。琥珀色の瞳は力強く輝いていた。
「最近さ、それってつまんねえなって思うんだよな。この荒野の外の世界だって見てみたいし、見た事ねえような美味いもんだってあるかもしれないし、絶世の美女の乳や尻だって揉めるかもしれない」
話の後半に至るほど邪な気配を感じたが、火神は黙って聞いていることにした。
「いつかここを飛び出して、外の世界を旅するのが俺の夢なんだ。……だからこれは喰うなよ」
「……ふむ」
澄んだ瞳から、清々しい海風のような香りがした。その希望に満ちた願いは神の喰らうものではなかったが、もしそうであったとしても彼の言う通りそっとしておいてやろうと思った。
これからも一族に縛られ生きていくだろうジャラルにとって、それが到底叶うことのない願いだと、彼自身が一番よく知っていた。そしてそれに気付いた火神も、それ以上言葉を紡がなかった。
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