第18話 大敗退に期するのも時間のうち
架空歴四八六年七月
軍部が幅を利かせているとはいえ、帝国にも警察機構はある。ジョン・ドゥーチェは、その中の警護課に所属していた。
市民の安全確保にまい進するよりも要人警護の仕事が多いのだが、それが本当に大変だった。
わがまま放題の貴族連中に、居丈高な軍人ども。それらの相手をしなければならないのは、本当にしんどい。
今日も今日とて、要人警護の要請が入り、チーム全体に絶望の空気が流れていた。
「……それで、今日はどんな内容なんですか」
軍にいる友人からのタレコミでは、特に何か大きなイベントがあるわけではない。それだというのに、要人警護の依頼をしてくるとは、絶対にどうでもいい理由での呼び出しである。
行きたくないという強い意志を持ってジョンが班長に問うと、最近白髪の増えた班長は、顎髭を撫でながら唸った。
「水族館に行くそうだ」
「……はい?」
「水族館に、行くそうだ」
班長の言葉に、本当にめまいがしてきた。
*****
気乗りはしないが、仕事である。
移動ルートを確認して、車二台に分かれて待ち合わせ場所に移動した。
依頼者は、フィクティヴ帝国軍ジークハルト・ワーグナー准将。の、上司である、フェリックス・フォン・ビューロウ大将だった。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いのビューロウ大将からの依頼とあれば、行きたくない気持ちはあれど、行くしかない。行かなかった時、仕事にミスが発覚した時、自分たちの首は簡単に飛んでいくのである。
護衛対象は二人。まさか、ビューロウ大将も一緒なのだろうか、と資料に目を落とすが、護衛者の名前はワーグナー准将ひとりだった。名前が書けない人物が一緒とは、なかなか嫌な雰囲気を感じ取る。
「護衛者は二人。一人はジークハルト・ワーグナー准将。もう一人は……あー……ワーグナー准将と懇意にしている者、だそうだ」
つまり彼女か、と場の空気が一致した。
彼女とのデートに護衛だなんて。大げさにも程がある。
「はー……それで、先輩。そのワーグナー准将ってどんな人なんですか?」
「うーん、おれもあまり話は聞いたことないが、ビューロウ大将に大層目をかけられているらしい。幼馴染なんだとよ」
「へぇ、そうなんスか」
それはそれは。それにしたって、過保護すぎやしないか。
たしかに、上級将官になればそれなりに危ない目には合う。普段の仕事中での話なら、警備をつける意味はある。それでも、自分たちでやってくれという気持ちはあるが。なんのための軍部なのか分からないではないか。
「変な人じゃないといいんですけどねぇ」
「変なやつだろ。あのビューロウ大将と長年タッグ組んでるって時点で」
たしかに。
フェリックス・フォン・ビューロウ大将は、彗星の如く現れ、貴族優位の軍部の中であっという間に武勲を上げて出世してしまった時の人だ。
本人も貴族出身ながら、親の力を使わず平民と似たようなルートを辿って軍人になった変人で、彼に続けと野心溢れる若者が急増しているらしい。高校からそのまま就職した自分には分からない熱意だった。
そんな彼をサポートする役割を与えられているらしい今回の護衛対象は、いったいどんな人間なのか。ビューロウ大将がそばに据えているのだから、傲慢無礼な人間ではないとは思うが、人の本音は見下している相手にこそ出るものだ。ビューロウ大将相手にそんな態度を取るような馬鹿はそうそういない。
「もうすぐ着くぞ。気を引き締めろ」
運転席に座る先輩から声をかけられて、資料から顔を上げる。独身者用官舎として与えられているらしい、一軒家が見えてきた。あの一軒家は、めでたく准将に昇格したワーグナー准将へビューロウ大将からの贈り物なんだとか。どれだけ愛されているのだろうか。まさか彼は、ビューロウ大将と深い仲なのだろうか。それなら納得する。
到着した一軒家は、こじんまりとした、絵本から飛び出してきたような雰囲気の家だった。レンガ造りの壁に、青い屋根、周囲を背の低い塀で囲い、奥にきちんと手入れされた庭が見える。庭師も雇っているらしい。
門前に駐車後、班長が先に入り、インターフォンを鳴らした。
「はい」
そうして出てきたのは、背の高い男性だった。
ワインのような深紅の髪に、軍人らしい鍛えらえた身体。爽やかな印象を与える金色の瞳。第一印象から既に「いい人」のオーラが漂ってきていて、ジョンは思わず「おぉ」なんて呟いてしまった。
「ジークハルト・ワーグナー准将ですね。本日、護衛を担当いたします、ジミニー・ファングと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします。うちのビューロウのわがままに付き合っていただいて、本当に申し訳ありません」
「いえ。こちらも仕事ですから」
こんな仕事をしていると、こうして深々と頭を下げられることは初めてだった。こちらには横柄な態度を取っても構わないのに、ワーグナー准将は丁寧な挨拶と共に頭を下げてきた。それに困惑したのはこちら側で、班長が慌てて頭を上げるよう言う。
変な人、ではあるようだ。
ふと、彼の背後を見てみるが、誰かと一緒というわけではなさそうだ。
申し訳なさそうに眉を下げたワーグナー准将は、班長に「申し訳ありませんが、少し寄ってほしいところがあります」と言った。
資料にあった、第二の立ち寄り場所である。そこに彼女がいるのか、と溜め息が出そうになった。
「えぇ、お伺いしております。それでは参りましょう」
ワーグナー准将が前車に乗り、二台の車は静かに走り出した。
前を走る車を追いかけて、ヴェルダンディ中央からどんどん街の隅へと進んでいく。こんな辺鄙なところに住んでいる彼女とは、いったいどんな人物なのか。
そうして停まった先は、太陽の橋と呼ばれる橋の近くだった。そこでワーグナー准将が降り、同乗した班員二人も共に降りるのが見えた。先輩と自分も降りて班長のそばにいくと、ワーグナー准将は班員を伴って橋近くの公園に入っていくところだった。
「お待たせしました」
数分後、ワーグナー准将が戻ってきた。班員の顔を窺うと、なんとも妙な顔をしている。
そして、ワーグナー准将の後ろに誰かが着いているのがちらりと見えた。
「それでは、行きましょう」
「その前に、そちらさんはどなたですか?」
班長の声に、ワーグナー准将は困ったような顔をして身体を引いた。
彼の後ろにいたのは、一人の青年だった。
濃紺の髪に、少女のように大きな紫の瞳。玉のように白い肌、華奢な身体。右目の下にあるほくろが、やたらと色気を放っている。
青年は、柔らかな麻のシャツに、細いパンツ、かかとの低いパンプスを履いており、肩から大判のストールを羽織っていた。まるですぐにでも脱げるような、軽装。彼は、一般人ではない、とすぐに分かった。
「今回の、同行者です。行きましょう」
紹介は、たったそれだけだった。
ワーグナー准将の腕に絡んで、ジッとこちらを見つめる青年の背を押して、ワーグナー准将はさっさと車に乗り込んでしまった。彼らの後ろにいた班員たちを見ると、肩を竦められる。公園でも大した情報は得られなかったらしい。
「仕方ない。行くぞ」
「はい」
ちらりと車内を見ると、既に二人は二人の世界に入ってしまっているようで、何やらこそこそと話してはキャラキャラ笑っていた。
これは、なんだか先が思いやられる。
嫌な人ではなさそうだが、変な人ではあるようだ。
それにしても、こんなにも爽やかな人間が男を買うのか。そしてそれを、割とオープンにしていることに驚いた。こういった手合いは、隠そうと努力する人間が多いように思う。こんな真昼間から一緒にいる場面を見せることはない。
彼らの様子をジロジロ見ているわけにもいかず、ジョンも車に戻った。
*****
水族館に着くまでに得られたのは以下二点。
同行者の名前はツェツィーリアという。
そして、今回のこのデートはとある日の約束、とのことだった。
これらはワーグナー准将とツェツィーリアが話している声を、班員のインカムが拾ってきたものだ。今にもキスをし始めそうなほど甘い空気が伝わってきて、あっちの車じゃなくてよかったと思う。
こうして後ろから見ていても、二人は何やら顔を近づけて話しているのが見えた。彼女いない歴長めのジョンからしたら、羨ましいやら妬ましいやら、なんとも言い難い感情が沸き上がった。
特に渋滞もなく、すんなり水族館に到着する。
先に班員が車を出て、事前に話を通しておいた水族館のスタッフに声をかけに行き、その間にワーグナー准将が車を降りた。ジョンも彼のそばに着くが、周囲は特に高いビルなどもなく、平和そのものだった。
まるでレディーをエスコートするかのように、ワーグナー准将が車内に手を差し伸べ、それを取ったツェツィーリアが車を降りた。車を降りた途端、ジョンの視線に気づいたツェツィーリアは、さっとワーグナー准将の影に隠れてしまった。いったい自分が何をしたというのか。心外である。
が、今は文句を言っている場合ではない。
「こちらが本日のチケットです」
「ありがとうございます」
事前に用意していたチケットを渡すと、影に隠れていたツェツィーリアが顔を覗かせてパアッと顔を華やがせた。それを見てワーグナー准将も嬉しそうである。こちらは砂糖を吐きそうだった。
「水族館内、問題なしです」
「わかった。……ワーグナー准将、安全確認が取れました。行きましょう」
「はい。ツェツィーリア、行こう」
ワーグナー准将の声に、ツェツィーリアは手にしたチケットを大事そうに持ってこくりと頷いた。ジョンの前では頑なに話さないつもりらしい。いったい、本当に、自分が何をしたというのか。
そんな変な顔はしていないと思うのだが、と悩むジョンを置いて、二人はいそいそと水族館に向かっていったのだった。
*****
「今日は、ごめんね、ツェツィーリア」
貸し切りにされた水族館の中、ジークハルトはツェツィーリアに謝罪した。
別に貸し切りにするつもりもなかったし、何よりあんな仰々しい護衛をつけるつもりもなかった。
だが、フェリックスがそれを許してくれず、彼の圧に押される形でこんな大げさなデートになってしまったのだった。
公園で会った時も、車内でも、ツェツィーリアはどこか不機嫌そうであった。彼らが離れたのでそっと声をかけると、淡水魚をジッと見ていたツェツィーリアがこちらを見て少し溜め息をついた。
「ほんとだよ。まさかあんなにいっぱい人を連れてくるだなんて、思わなかった」
「……うん、そうだよね……」
少し怒った風に手を腰に当てるツェツィーリアだったが、すぐに「ふふっ」と笑う。
「でも、ありがとう。水族館って、来たことなかったんだよね、俺」
「それはよかった」
ツェツィーリアが喜んでくれるなら、よかった。
ほっと胸をなで下ろしていると、ツェツィーリアに手を握られた。ほんのり冷たい彼の手が心地よい。
「今日はめいいっぱい楽しもうね」
「うん。そうだね、ツェツィーリア」
その手を握り返して、水族館の中を歩く。ツェツィーリアは軽くスキップをしながら「あのお魚は何?」とか、「見てみて!」とか、とおおはしゃぎだった。
時折鬱陶しげに後方を見やるものの、大きな水槽を前にすると一変する。
キラキラと輝く彼の瞳に、うっかり見惚れてしまう。
タカアシガニの水槽の前でジッと熱心にカニを見つめるものだから、「カニ、好きなの?」と聞いてみると、非常に嫌そうな顔と共に「嫌い」と返ってきた時はさすがに返答に困った。
「あ! 見て、ヴェルト! イルカがいる!」
「本当だ」
水族館の建物内から、一部外に出ることができた。そこの水槽にはイルカたちが楽しそうに泳いでいて、ツェツィーリアの手が離れた。その手を追いかけるようについていくが、ツェツィーリアはイルカに夢中で、あっちにこっちにと忙しかった。
その姿を見ているだけで、心が休まる。
仕事の合間を縫って有給を申請しておいて本当によかった、と心から思った。
その結果が、後方の護衛たちなのだが、これはフェリックスなりの優しさであると信じることにした。
「ツェツィーリア、危ないよ」
「ねぇ、ヴェルト早く来て! イルカ、可愛いよ!」
あんなにはしゃいでいるツェツィーリアを見るのは初めてだ。本当に可愛らしい。
その日は時間が許すまで、たっぷりと水族館内を見て回り、気づいた時にはとっぷりと日が暮れていた。
途中、水族館の中にあったレストランで食事は摂ったものの、それ以外はほとんど歩き通しだった。ジークハルトや護衛たちは慣れているものの、ツェツィーリアはさすがに疲れた様子を見せていて、彼の手を引いて車に戻るとすぐにジークハルトに寄り掛かってきた。
人目がある場所でこうしてくっついてくるのは珍しい。
彼の顔を覗き見ると、うとうとと今にも目が閉じそうで、小さな頭を撫でてやる。
「ツェツィーリア、今日はどこに向かえばいい?」
彼の家はあの娼館ではあるものの、この車を伴って娼館に向かうわけにはいかない。自分の家か、それともホテルか、と考えていると、ツェツィーリアは「いい。帰る」と言い出した。
「送っていくよ。それか、せめてホテルに泊まっていってほしい」
「いい。大丈夫。公園まででいいから」
そうは言っても、眠そうな彼をそのままにはしておけない。
口調はしっかりしているが、いまだジークハルトの肩に寄り掛かっているツェツィーリアを見て、ジークハルトは運転を担当してくれている護衛に自宅の住所を告げた。
「……ヴェルト、ほんとに大丈夫だから」
「いいから。そんなにフラフラなのに、放っておけないよ」
走り出した車内で、ツェツィーリアはむぅと不機嫌そうに頬を膨らます。そんな顔をされても、ジークハルトの意思が変わることはない。
「でも……」
「ぼくは、あなたが心配なんだ。夜にあの通りをフラフラ歩いていたら危ないだろう?」
「なら、せめてお礼を……」
「駄目。お礼はいらないって、前にも言ったよね?」
ここでまた、”お礼”だ。前と同様、今にも寝そうな人間をどうこうしようなど、考えられない。胸を張って言える。の、だが、ツェツィーリアがクツクツ笑い出した。
「別に、いいよ。今日は本当に楽しかったし、あの時みたいに前後不覚ってわけじゃない。お礼は嫌っていうけど、今回のお礼はあの時とは理由が違うよ。俺が、したいの。だめ?」
「……ううん……」
ツェツィーリアがこちらを上目遣いで見上げてきて、こてりと小首を傾げる。困っていると、ツェツィーリアはジークハルトの手を取って己の肩に回すよう誘導してきた。
「……ツェツィーリア」
「ふふ。ヴェルト、顔真っ赤。かわいい」
普段と違って、今日は人の目があるのだから、顔も赤くなろうというものだ。
戸惑っている間に、するり、とツェツィーリアはジークハルトの手を彼の肩から腰、そして尻へと移動させていき、そしてゆったりと笑った。
スリスリと指の間を撫でられてしまうと、背筋に甘い痺れが走る。下唇をぺろりと舐める彼の姿を見てしまうと、もう駄目だった。やめさせなければ。こんな、人の目があるところで。
「こら、ツェツィーリア」
「これでも、だめ?」
「うぅ……」
駄目だ。翻弄されてはいけない。
頭ではちゃんとそう考えているものの、身体は正直である。ツェツィーリアの手が絡む己の手を見て、ツェツィーリアの赤い唇がゆっくりと弧を描くのを見て。
ジークハルトは、己の決心がぐらぐら揺らいで傾いでいくのを、自覚するのだった。
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