第19話 彼方に溶ける日
架空歴四八六年八月
水族館に行ってからというもの、ツェツィーリアは遠くに出かける楽しさを覚えたらしい。
あの日から幾度かツェツィーリアを買うことができたのだが、その度に水族館に行った時いかに楽しかったかを話してくれた。
「毛布みたいに大きなお魚は、なんていうの?」
「あれはマンタって言うんだ」
「マンタ! じゃあ、えっと、あの一番大きなお魚は?」
「あれはサメだよ」
文字が読めない彼は、水槽前にある説明文も読めないのだ。あの当時に教えてあげられたらよかったのだが、ツェツィーリアはテンションが上がりすぎて説明を聞くどころではなかったようだ。
彼らは哺乳類の動物で、魚ではないのだが、説明が長くなってしまうので訂正はしないでおく。
酒を飲みながら、あの時に見た動物や魚について質問を受け続けること三日。ようやく興奮が収まってきたころ、ツェツィーリアがぽつりと「今度は二人で行きたいな」と言い出した。
「そうだね」
「あの時は、護衛の人たちがいたから……今度はヴェルトと二人きりがいいな」
ソファに座るジークハルトの横に座って、ツェツィーリアが腕に絡みついてくる。彼の髪にキスをすると、ツェツィーリアから頬にキスを返された。
「じゃあ、どこに行きたい? ツェツィーリアの行きたいところに行こう」
「うーん……じゃあ、」
*****
真夏の海は、夕方になってからが心地よい。
車から降りたツェツィーリアは、ジークハルトを無視して砂浜に駆けて行った。
その後をのんびり追いかけていくと、帰る様子の海水浴客とすれ違う。皆、カラフルな水着に身を包んでいて、こうして洋服姿のまま波打ち際に立つ二人はやたら目立っていた。
昨晩ツェツィーリアに告げられたのは、ジークハルトの運転で海に行きたい、だった。ドライブしたい、海に行きたい。それがツェツィーリアの要望だった。車の運転はあまり慣れていないが、ツェツィーリアの希望なら全て叶えてやりたかった。
「海だー!」
両手を天に広げて、ツェツィーリアは楽しげに叫んだ。夕焼けに焼かれた海はキラキラと光を反射させていて、ツェツィーリアを包み込んでいるように見える。その姿に見惚れてしまっていると、ツェツィーリアがこちらに振り返ってほほ笑んだ。
「ヴェルト! 早く!」
「今行くよ」
サクサクと靴の裏で感じる砂浜。耳に心地よく馴染む波の音。
昼間は肌を突き刺すような日差しに照らされる海辺だが、この時間風も出てきて気持ちよかった。革靴の中に入ってきた砂も多少は我慢できる。
ツェツィーリアは靴を脱いで裸足になると、海水に足先を浸した。彼の靴は、ジーハルトが拾ってやる。男性にしては小さなその靴はかかとがかなり擦り減っていて、今度は靴を買ってやろうと勝手に決めた。
「わぁ、気持ちいい」
「それはよかった」
「ヴェルト入ろ? 気持ちいいよ」
車の中にタオルを置いてきてしまったので、それだけは丁重にお断りした。
「海、綺麗だね」
「うん。綺麗だ」
ツェツィーリアが、と付け加えると、ツェツィーリアは「なにそれ」と照れたように眉を顰めてこちらを見る。
「ちゃんと海見てよ。綺麗だよ」
ほら、と指を指されて、仕方なく海を見た。
母なる海は、静かに横たわっている。何もかもを飲み込んでいきそうな海は、実はジークハルトは苦手だった。父親が「悪いことをしたら海に放り込むぞ」なんて脅し文句を使っていたのを思い出して、少し背筋に悪寒が走った。
「ツェツィーリアは、海は好き?」
海に行きたいと言ったのはツェツィーリアだ。カニの時のように、実は嫌い、という可能性も加味しつつ聞いてみると、ツェツィーリアは少し考えたあと困ったように笑った。
「うーん、どうだろうね」
「嫌い?」
「どちらでもないかな。でも、夏になると無性に行きたくなる」
その気持ちは分かる。
茹るような暑さを凌ぎたくて、冷たい海かプールに飛び込みたくなるものだ。
海を撫でる風が、少し冷たくなってきた。
周囲に人はおらず、太陽は既に地平線の向こうに沈んでいて、徐々に星が光り輝き始めていた。
「ツェツィーリア、行こう」
「……うん。もう少し」
吹く風に髪を靡かせて、ツェツィーリアはジッと海を見つめていた。何を考えているのだろう。普段も本心を読むことは困難だったが、今が一番読み取ることが難しい。紫の瞳が細められ、風に服が靡くのも構わず、物思いに耽っている。
まるで、海に溶けていきそうだった。
ツェツィーリアの足元を濡らす海は砂を掻き、彼の足先を巻き込んでいく。
海には女神がいるという。彼女に気に入られたら最後、海底に引きずり込まれてしまうのだ。
そんな昔話が頭に過ぎり、気づけばジークハルトはツェツィーリアを抱き上げていた。
「ぅわっ! ヴェルト?」
「……そろそろ行こう。暗くなってきた」
普段街中にいると気づかないが、海は暗くなるのが早い気がする。そう言い訳をして、ツェツィーリアを横抱きにしたまま来た道を戻った。道中、ツェツィーリアは歩けると不満を呟いたが、下ろすわけにはいかなかった。
「ヴェルト、どうしたの? 突然、こんなことして」
「ちょっと、昔聞いた怖い話を思い出しちゃって」
「ふふっ、なにそれ。誰かに俺が連れて行かれそうだと思った?」
ビンゴである。
それが顔に出ていたのだろう。ツェツィーリアはプッと吹き出すと、ケタケタ笑い出してしまった。
「あはははっ、ヴェルト可愛い~!」
「それでいいよ、もう……」
「そんな拗ねないで。あはは、そっかそっか。じゃあ仕方ないね」
ツェツィーリアの腕がジークハルトの首元に絡み、重心が上がって抱きやすくなった。抱き上げられ慣れている、と言っては妙だが、彼がこの手のエスコートにやたら慣れているのは少し気になる部分ではある。
「ねぇ、この後はどうする?」
「うーん、どうしようか」
「そんなこと言って。どうせホテルに行きたいんでしょう?」
「……そんなことないよ」
たまにはホテルでの逢瀬は無しでもいいと思っているのだ、これでも。言っても信じてくれないだろうが。
案の定ツェツィーリアは「嘘だ」などと言っている。
これで、本当にホテルに行かずに帰ると言えば、残念そうな顔をするのはそちらだろうに。と、心の中で責任転嫁をして、ジークハルトはツェツィーリアを抱えたままスマートキーで車を開錠させた。
助手席にツェツィーリアを下ろし、タオルで彼の足を拭いてやろうと屈むと、全力で拒否をされてしまった。
「そんなホイホイしゃがんじゃ駄目だよ、ヴェルト。ヴェルトはもう、偉い人なんだから」
「どうして? させてくれてもいいじゃないか」
「駄目。絶対駄目。そういうのは、俺みたいなのがやる仕事なの」
そうは言っても、好きな相手には手をかけたいものだ。だが、どうしても駄目らしい。
「偉い人が革靴に皺を作るのは、プロポーズをする時だけって話、聞いたことないの? ハンカチを拾ったり、足を拭くために跪くのは従者がするものであって、偉い人はしないものなんだよ」
「へぇ。初めて知った」
その理論で行くならば、彼の足を拭いてあげたいと思う心は、そのプロポーズに匹敵するのではないだろうか。
だがツェツィーリアは頑なだった。
「そういうのは、大事な時に取っておきなよ。もったいないよ、こんなところで使うなんて」
「……分かった」
釈然としないが、嫌がられているなら仕方がない。
助手席のドアを閉めてやり、運転席に回ったジークハルトは、そのままエンジンをかけた。
*****
いつものホテルに到着して、慣れてしまった手つきでツインルームを手配してもらって手続きを行う。柱の影に隠れていたツェツィーリアを連れて部屋に行くまでに、ジークハルトは彼を抱き締めてキスを仕掛けた。
「ん、んぅ……こら、ヴェルト。まだ部屋に着いてないよ」
「うん。キスだけ」
「ん……ふふっ、そう言って止まらないじゃない、いつも」
確かに。
ぐう、と唸ってしまうと、ツェツィーリアはケタケタ笑って軽くキスを返してくれた。
「今日は駄目。シャワー浴びないと、二人とも砂だらけだよ」
それもそうだ。
だが、それとこれとは話が別である。
今日はなんだかツェツィーリアに拒否されてばっかりだ。
「そんな顔しないで。……俺だって、我慢してるんだから。ね?」
「……うん」
手のひらの上で転がされているのは、理解している。それすらも心地よいと感じてしまうのは、もはや末期だろうか?
ポン、と軽い音を立ててエレベーターが開いた。部屋に到着するまでの合間にも、抱き締めたり抱き返されたりと、触れあったまま進んだ。
ドアが開く間も惜しい。
本当なら、シャワーだって惜しいくらいなのだ。
「こぉら、ヴェルト。我慢してよ」
気づけば、部屋に入ったツェツィーリアをドアに押しつけていた。
苦言とも呼べない苦言は、キスで封じる。
嫌だと言う割にキスには応じてくれるのだから、分からない。
「ん、んぅ……ふ、ぁ、ぁっ……っ」
彼の咥内を嬲り、舌を絡め合う。ざらざらとした感触が心地よく、いつまでも追いかけたくなってしまう。
ドン、と胸を叩かれたので渋々解放してやると、ツェツィーリアの瞳はとろりと溶け出していて、荒い呼吸を繰り返す姿が非常に妖艶だった。
こくり、と無意識のうちに生唾を飲み込んでいた。
その反応に、ツェツィーリアが苦笑する。
「もう、待てもできないの?」
「うっ……ごめん」
好きな人が目の前にいるのだ。しかも、海に溶けていきそうな空気を纏っていた。
この世に留めて置きたくて、という理由を後付けして、彼のシャツ裾から手を差し入れながら、またキスを施した。
「んんっ、んぅ、ぅぁ……っ、ちょっと、ヴェルト、ここでするつもり?」
「ううん、そんなことないよ」
「ウソだ。絶対ウソ」
「心外だな。本当だよ」
これは本心だ。
ただ少し、制御が効かないだけで。
ツェツィーリアの唇を貪りながら、力の抜けてきた彼を支えるために両脚の間に太ももを割り入れていく。ぐっと上に持ち上げると、彼の熱をしっかりと感じ取った。
「ツェツィーリア、キス好き?」
「……好きじゃない」
本当だろうか?
それにしては、先ほどからキスをしながら腰が揺れてしまっている。
指摘はしないが、こちらの意図は伝わったのだろう。頬を染めたまま、ツェツィーリアは顔を逸らしてしまった。
あぁ、本当に愛しい。
「ひう、ぁあっ……! ン、ん……っ」
ググっと彼の熱に刺激を与えてやると、可愛らしい声が漏れ出した。それにクスリと笑って、彼の小さな身体を抱き締める。
「ツェツィーリア、ベッド行こう」
シャワーなんて浴びている暇はない。彼の放つ甘い香水の香りに頭が沸騰しそうだ。
こちらの熱も押し当ててそう告げると、ツェツィーリアがおずおずと頷いてくれた。
*****
「ぁあっ、あ、あっ! や、ンぅ、は、あ……っ!」
バチュバチュと鳴る水音は不快だが、これがツェツィーリアから響いていると思うと不思議と興奮する。
脳が蕩けるほどの愛撫を施すたび、己の剛直を後穴に突き刺すたびにツェツィーリアは可愛らしく、甘く啼いた。
何度も何度も抱いたのに、飽きる気配がない。
「やあ、ああッ!! ま、あ、いく、いっちゃ……ッ!!」
「イッていいよ、ジルケ」
自分の手で、どんどん気持ちよくなってほしい。
脳髄が溶け出してしまうくらい、気持ちよくなってほしい。
彼の頭の先からつま先まで愛撫して、このまま一つになってしまうくらい、身を委ねてほしい。
肉棒を突き刺している間はどうにも彼を気遣う余裕はないが、だが願いはいつでも一貫していた。
今日は後ろから、まるで獣のように彼の身体を貪った。
ツェツィーリアの身体を後ろから抱き締めて、バツバツと奥へ熱を叩きこむ。
「あ゛、あぁ゛あっ、や、やあ゛! きもち、だめ、もう……あっ、あ、あ゛、ぅあああっ」
「っ、くっ、あ……」
ギュウと痛いほど締め付けられて、ツェツィーリアが達する。
それに気づいていながら、ジークハルトは腰を動かすのを止めなかった。
達して、また気持ちよくなって、嬌声が溢れ出す。何度も何度も果てて、もっともっとジークハルトを欲してほしかった。
「ぁっ、あっ、だめ、いまイッて……っ゛、ぉ゛っ、あ゛、あああっ、!」
「もっと、気持ちよくなって、ツェツィーリア……」
こんなもの、エゴだと分かっている。
分かってはいるが、身体はそれを欲している。
「ひ、ぁあああッ、……ッ゛、あぁあっ! やぁ゛、またイく、イッちゃう……やら、あ゛、あっ! ~~~~っ゛!!」
「は、あ、あっ……」
今度こそ、ツェツィーリアの最奥でジークハルトは果てた。
ドクドクと流れ出る精液を奥の壁に擦り付けるように腰をゆるく動かすと、ツェツィーリアの身体がぴくぴく跳ねた。
ようやく彼の身体を解放してやると、くったりと力が抜けてシーツの波に溺れていった。
「ツェツィーリア、大丈夫?」
「……大丈夫じゃない……」
ここ最近になって、ツェツィーリアは自分の状態を素直に吐露するようになった。良いことだ。ジークハルトが満足気に「そうか」と言うと、彼のかかとがジークハルトの尻を打った。仕方がないので、彼の中から肉棒を抜く。多少の未練は、ツェツィーリアの背中にキスをすることで逃がした。
「あーあ……シャワー浴びずにやったから、ベッドが砂だらけだよ……」
「あー……」
やってしまった。そればっかりは申し訳ない。
ツインルームで良かった、なんて言いながら、ツェツィーリアがゆっくりと起き上がった。冷蔵庫から水を出して渡してあげる。
「今日は、ほんとにありがとね、ヴェルト」
「え?」
「俺のわがままに付き合ってもらっちゃった」
ベッドヘッドに身体を預けながら、ツェツィーリアがこちらを見上げてきた。
そんな彼の頭を撫でてやると、まるで猫のようにすり寄ってくる。
「そんなこと。お安い御用だよ」
「ふふ、ありがとう。でも、無理しないでね。俺のことは二の次でいいから」
なんてつれないことを言うのだろう。
彼のそばに座って抱き寄せると、腰にツェツィーリアの手が絡んだ。
「そんなこと言わないで。ツェツィーリアのことも第一に考えているよ」
「ほんと? お仕事第一なのかと思ってた」
「仕事も大事だけど、それとこれとを一緒にできないよ」
フェリックスのそばで仕事をすることの幸福と、ツェツィーリアと過ごす時間の幸福はイコールにできるはずがない。
だが、ツェツィーリアは「俺はいいの」と言うばかりだ。
「ヴェルトがお仕事頑張ってるの見てると、俺も頑張ろって気持ちになるから。だから、お仕事頑張ってね」
「……うん」
ツェツィーリアがそう言うのなら。
ジークハルトがぎこちなく頷くと、ツェツィーリアが少し満足そうに笑いかけてくれた。
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