第15話 恋に恋して甘い味 1

 架空歴四八六年六月


 准将に昇進し無事に自分の部隊を持つことになった時、ジークハルトもフェリックスに倣って記念金貨を五枚作ってもらった。


 両親と、フェリックス、そしてエミリアへ、報告と感謝の意味を込めて贈ると、皆とても喜んでくれた。


 父とフェリックスは我が事のように大喜びで、とっておきの酒を開けてくれた。母とエミリアは、少し出世スピードを落としてはどうかと心配そうに言われたものの、手作りのケーキでそれぞれお祝いしてくれた。


 さて、手元に残った金貨は二枚。


 どちらも化粧箱に入れられて、いま、ジークハルトの目の前に置かれている。

 一枚は自分用として、もう一枚は、もう渡す相手は決まっている。


 受け取ってくれるだろうか、と少し不安になっていると、嬉しそうにグラスを傾けていたフェリックスの眉間に皺が寄った。


「それ」


「はい?」


「その一枚。まさか、あの男に渡すんじゃないだろうな」


 フェリックスの指摘に、ぎくりと肩が震えてしまう。言葉に詰まっていると、フェリックスはますます不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「深入りするのも大概にしておけよ、ジークハルト。お前があの男に肩入れしているせいで不名誉な噂付きで軍内に知れ渡っていることを、お前も知っているだろう」


「……はい」


 根も歯もない、とは言い難いから、尚のことフェリックスとしては面倒なのだろう。


 現在「ジークハルト・ワーグナー准将は男狂いだ」というシンプルな悪口が、いらない尾ひれと背びれがついて、悠々と軍部内を泳ぎ回っているのである。


 どうもツェツィーリアと共にホテルへ入るところを、反フェリックス派の人間に数回見られていたようで、そこからじわじわと話が広がり、ジークハルト本人の耳に届く頃には、もはや修復不可能なところまできてしまっていた。


 ここでもし、この記念金貨を身につけたツェツィーリアを誰かに見られてしまったら。


 それこそ、鬼の首を取ったように、フェリックス退陣の向きが強くなってしまうだろう。フェリックスを失墜させたい人間たちは、ジークハルトなど本来はどうでもよく、フェリックスさえ目の前から消えてくれさえすれば良い。そこに、ツェツィーリアの存在はうってつけであった、というだけだった。


 これでもしたとえツェツィーリアを買ったことすら無かったとしても、彼らは何かしらの手でジークハルトのスキャンダルを作ってきただろう。

 直接手を下せないなら周りから、とでも言いたいのだろうか。


「……向こうが、彼にどう接触するかも分かりません」


「ジークハルト」


「ツェツィーリアには注意するよう、よくよく言ってあります。ですが、軍人でもなく貴族でもない彼に、奴らはきっと手段を選ばないでしょう。それに対抗できる術を、彼は持っていません」


 コネもなく、金も持っておらず、階級としては最下層の人間に対して、貴族の多い反フェリックス派が何をするのか。少し考えただけでも恐ろしい。


 不名誉な噂を断つよりも先に、ツェツィーリア本人の身に危険が及んでしまったらと思うと。いてもたってもいられない。

 身元保証として、コネとして、この金貨が役に立つのなら。ついて回る不名誉な噂など、些事だ。


「フェリックス様の金貨は返してもらう予定です。代わりに、私のを」


「それで奴らに新しい餌を撒くことになっても、か?」


「はい。倫理など考えてもいない人間たちです。罪のない一人の一般人など、奴らにとっては埃よりも軽い存在でしょう。この金貨一枚で彼の命が救われるなら、それで良いと考えています」


 フェリックスの目をまっすぐ見つめたジークハルトに、フェリックスからは何も返事はなかった。

 長い沈黙の後、好きにしろ、とだけ言ったフェリックスに、ジークハルトは心から感謝を述べた。


 翌日の夕方、軍服から私服へ着替えたジークハルトはさっそく繁華街へ向かった。


 太陽の橋で捕まえたツェツィーリアを連れて、行き慣れたバルへ入る。奥の席に座ってあれこれと注文したあと、そわそわと店内を見回していたツェツィーリアの名を静かに呼んだ。


「ツェツィーリア」


「なぁに?」


「今日は、ちょっと大事な話があるんだ。聞いてくれる?」


「大事な話? ……いいよ」


 緊張した面持ちを更に強ばらせて、ツェツィーリアは大人しく料理を待った。ワインが運ばれてきて、この店自慢のアラカルトがテーブルに並んだところで、ジークハルトはようやく口を開いた。


「実は、ツェツィーリアとのことが周囲にバレてしまったみたいなんだ」


「……知ってる」


「え?」


「お客さんから何度も聞かれたよ。俺の名前を知った途端に怖い顔して『お前がジークハルト・ワーグナー准将のイロか?』って」


 聞き方が野蛮にも程がある。自然と眉間に皺が寄る。

 噂の概要を知っていたレオン曰く、あの噂が出回ったのはちょうどゲーラス公爵の自殺があった頃からのようで、それまで奴らがツェツィーリアに一度も接触しないわけがなかった。


 ごめん、と謝ると、キョトンと首を傾げられる。


「なんでヴェルトが謝るの?」


「だって、そんな変な噂に、ツェツィーリアを巻き込んでしまった」


「ヴェルトが謝る必要ないよ」


「どうして?」


 自分のせいでツェツィーリアの周囲を嗅ぎ回る人間が増えて、鬱陶しいだろうに。


 だがツェツィーリアは本当に気にしていないようだった。白ワインを飲んで、真っ赤な舌でワインで濡れた唇をゆっくりと舐めた。妙に艶かしいその仕草に、どきりとジークハルトの心臓が跳ねる。


「だって俺、"ワーグナー准将"なんて人、知らないもん」


「え?」


 あっけらかんと、ツェツィーリアは言ってのけた。

 フェリックスとの会話を間近で聞かれていたし、部下から通信が入った時なども近くにいたことがあったので、まさかこちらの本名を知らないと返事が来るとは思っていなかった。

 呆気に取られているジークハルトに、ツェツィーリアは手酌でワインを注いで、くるくるとグラスを揺らした。


「外見の特徴とか言われたけど、俺が知ってる"赤毛の軍人さん"はヴェルトであって、その准将さんじゃないもの。だから、知らないって言った。ヴェルトが謝る必要はないの。わかった?」


 そう言って、ツェツィーリアは悪い顔をして笑う。笑った彼の顔を見て、ジークハルトはようやく彼の言葉を理解した。


「……ありがとう、ツェツィーリア」


「ううん。全然。むしろ、なんで今度はお礼を言われなきゃいけないの?今日のヴェルト、なんか変」


 それと、とツェツィーリアは続ける。


「お礼っていうなら、今日はいっぱい美味しいワインが飲みたいなぁ」


「え? ……ふふ、分かった。好きに飲んでいいよ」


「ほんとに? やったぁ! ……あ、でも俺、ワインの名前読めないや……」


 数秒前の元気さはどこへやら。シュンとテンションの下がったツェツィーリアの代わりに、ジークハルトがメニュー表を開く。


「じゃあ、ぼくが選んであげる。ご希望は?」


「白。甘くないやつ」


「かしこまりました、ご主人さま」


「えーなにそれ。ふふふ、えーっと、良きにはからえ?」


 幸せな時間だと、ジークハルトは思う。同時に、このツェツィーリアという男を初めて怖いと感じた。


 ツェツィーリアは、全てを知っている。


 帝国軍内部でジークハルトがどういう立場にいるのか。そして、派閥闘争の詳細までも、おそらく彼は素知らぬフリをしながらも、全て把握しているのだろう。


 それを確信したのは、知らぬ存ぜぬを通していると言ったあとに、


「緑髪の軍人さんに聞かれた時は、知ってるって言っといたよ」


と報告してきたのだ。


 危うくワインを吹き出すところであったが、落ち着いて深呼吸してから詳細を聞いてみると、やはり聞き間違いではなかったらしい。


「すごく明るい、緑髪の軍人さん。たぶんヴェルトも知ってる人」


「……ああ、うん……まさか、その人にも買われたの?」


 実は女性との派手な噂が絶えないレオンだったが、まさか男性まで彼の手の内だったのだろうか。元々ジークハルトもツェツィーリアと会うまでは男性と関係を持つだなんて考えたこともなかったから、ジークハルトと同様特殊な例かもしれない。


 だがどうもレオンに関しては事情が違うようで、ツェツィーリアは首を横に振った。


「ううん、違うよ。太陽の橋で夜が来るのを待ってたら、その人が車の中から話しかけてきてね。ジークハルト准将を知ってるか?って聞かれたから、知ってるよって答えた。そしたら、そうかって言ってすぐどっか行っちゃった」


 つまんないの、と拗ねて見せたものの、ツェツィーリアはやはりその怪しい軍人が何者なのかを理解している様子で、おかしそうに笑っただけで終わった。


 どこまでを知っていて、何を知らないのか。


 聞くのが怖い。


 ツェツィーリアの紫水晶のような瞳の奥に秘めた知識量も、ジークハルトが踏み込んでいい領域ではないのだろう。文字が読めないと言って避けてはいるが、彼はそれなりの学があるように思う。どこでその知識を得て、本当の彼はどこにあるのか。


「ツェツィーリア」


「ん? なに?」


 彼の本名を知りたい。


 どこの誰で、何者なのかを知りたい。


 口から出そうになった欲求を慌てて飲み込んで、ジークハルトは「なんでもない」と笑うに留めた。


 テーブルの上がワイングラスのみになった頃に記念金貨を渡すと、ツェツィーリアはむず痒そうに笑ったあと「おめでとう」と言ってくれた。


「ありがとう、ジルケ」


「でもいいの? またこんなのもらっちゃって」


「うん。今度はぼくの金貨が、ジルケを守るよ」


 ジークハルトの言葉に、ツェツィーリアはまたむず痒そうに笑って、首からネックレスを引っ張り出した。そこにぶら下がっている金貨を外して、ジークハルトのものに付け直す。金貨をペンダントトップに簡単にできるアタッチメントがあるだなんて、知らなかった。


「ヴェルト、こっちの金貨は返せばいい?」


「うん。ごめんね」


「ううん、大丈夫。じゃあ今日からは、ずっとヴェルトと一緒だね」


 ツェツィーリアは、こうしていちいち男が喜ぶことを言う。リップサービスなのだろうが、ジークハルトはそれを咎めずに受け流した。


 受け取ったフェリックスの記念金貨は随分と擦り切れていて、フェリックスの部隊章も薄れてしまっている。それだけ肌身離さず持ち歩いていてくれたのか、とジークハルトの胸は温かくなるばかりだ。


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