第9話 暗い影
*****
面倒なパーティに、面倒な人間関係。
フェリックスは努めて壁の花になりながら、胸の内に溜まった濁気を吐き出した。
何が楽しくて敵視されている人間のパーティに来なければならないのか。皇帝が来られる、という一点さえなければ、軍服に袖は通さなかった。
近くを通ったボーイからグラスを受け取ったはいいものの、ユラユラと揺らすばかりで飲む気がしない。
噎せ返るような、酒とタバコの臭い。鼻が曲がりそうな、香水の臭い。醜い金と女を売買するかのような、憐れな会話たち。
そのどれもが嫌になって、フェリックスは目を閉じる。ああ、早く帰りたい。
「ビューロウ大将」
その時だった。
低い声がフェリックスの耳を撫でる。
名を呼ばれたからには返事をせざるを得ず、気だるげに名を呼ばれた方を見ると、そこには体格の良い老紳士が立っていた。
灰色の髪を後ろに撫で付け、貴族らしく上等な服に身を包んだその男は、フェリックスの厳しい態度にやわらかく笑った。
「元気そうだな。先日の皇帝謁見以来か」
「……ミュンヒハウゼン侯爵。お久しぶりです」
フェリックスの返事に、ミュンヒハウゼンはとうとう抑えきれなかったのか、ガハハと大口を開けて笑い出した。
背筋もしっかり伸びていて、豪快に笑い、まるで歴戦の猛者を彷彿とさせるこの男。名をヴィクトル・ヨハン・フォン・ミュンヒハウゼンと言い、軍人嫌いを公言して憚らない不思議な貴族だった。
軍役に就いたことは一度もなく、専ら投資と自身で営む商売だけで暮らしているらしい。私服を肥やしている様子もなく、六十代後半か七十代前半だと聞いたことがあるが、まったくそんな雰囲気を感じない。
そんな男が、ニヤリと口角を上げて整った顎髭を撫でた。
「ああ、いや、もうヘイムダル伯と呼ぶべきかな?」
「いいえ、おやめください。私には身に余る名です」
「そう言うな。こう見えても、俺のワガママを聞いてくれたことに感謝しているんだぜ、ビューロウ大将」
ミュンヒハウゼン侯爵とフェリックスとの仲は、なんとも不思議な縁だった。
軍人嫌いで、政治にも興味がなく、己の領地域を守ることにのみ全力を注ぐこのミュンヒハウゼンが、ある日突然皇帝陛下に謁見し、フェリックスに没落し跡取りを失ったヘイムダル家を継がせるよう進言したというのだ。
言い方はもう少し違ったそうだが、事実のみを端的に告げるなら、そうなる。
なぜ、ミュンヒハウゼン侯爵家とは縁もゆかりもないフェリックスを指名したのか、まったく分からない。
ヘイムダル家は皇帝の遠い親戚にあたるため、つまりフェリックスがこの家の家督を継ぐということは、皇帝との繋がりがより濃くなったということだ。
継ぐことになった理由を本人から聞いたことはなかったものの、結果的にフェリックスの軍内での立ち位置を大きく動かした形となった。感謝こそすれ邪険にしていい相手ではなかった。
小さく頭を下げると、ミュンヒハウゼンはヒラヒラと手を振る。
「ヘイムダルの爺さんたちには辛酸を舐めさせられ続けたが、さすがに断絶させるには惜しい。一応、多少なりは良い思い出もあるからな。馴染みの家が無くなることは、言い難い虚しさがある」
「ミュンヒハウゼン侯爵も、随分前に養子を迎えられたとお聞きしました」
ミュンヒハウゼン自身が子を成せない身体だというのは、暗黙の事実である。周囲からやんのやんのと、養子を取るようせっつかれていたものの、軍事思想が介入するのを警戒して、養子は絶対に取らないと宣言していた。
それが、どういう訳か、十年ほど前に急に養子を取った。まだまだ修行中の身だから、という理由で、いまだに養子の写真が世間に一枚も出回っていないのも、妙な具合だ。
いくらミュンヒハウゼンとはいえ、やはり「家」に執着心があるようだ、といくらかの好奇心を添えてみると、ミュンヒハウゼンは嫌そうな顔を隠しもしなかった。
「門閥貴族の連中を黙らせるには、そうするしか無かった。まぁ、その分こちらの要望通りの奴を選んだがな。やつらめ、俺が連れてきた倅を見て泡を吹いて倒れよったわ!」
ガハハ!と笑うミュンヒハウゼンは、してやったり、という気でいるのだろう。
その割に、今日のミュンヒハウゼンは奥方も連れず、その噂の養子も連れていない。絶好の見せびらかしの場であるだろうに。
フェリックスの視線が後方に向けられたのに気づいて、ミュンヒハウゼンはニッカリと笑った。まったくもって、貴族らしくない男だ。
「妻も倅も、ここには来ておらんよ。外の車に待たせている。エリーニュスなんぞに会わせる必要性を感じない」
「はぁ」
では、なぜミュンヒハウゼン自身はいるのだろう。疑問を瞬時に察知したミュンヒハウゼンは、爺にしてはやたら若いポーズを取ってウィンクまで投げて寄越した。
「お前さんが来ていると聞いたからな。ちょっと顔を出しに来ただけだ」
「わざわざそのようなお心遣いを……申し訳ありません」
「いやいや。そう簡単に下手に出るもんじゃないぞ。会えてよかった、ビューロウ大将。さて、エリーニュスには挨拶したし俺は帰る。今日は倅と久しぶりにディナーに行くんだ。お前さんもさっさと帰った方がいい。この家は臭くて敵わん」
「はい。そうさせていただきます」
こういうところは、フェリックスと意見が合う。貴族らしくない貴族の爺は、フェリックスの返事にまた豪快に笑って、足早に会場を去っていった。
やはり人と話すのは気が重い。ふぅ、と詰まりそうだった息を吐いて、窓の外へふと視線を移す。
夜の帳が下りた中、ミュンヒハウゼンを迎えに来た車が車寄せに入ってきた。その車にいそいそとミュンヒハウゼンが乗り込み、車は中央街へと向かっていった。
ちょうどフェリックスのいる窓下まで車が来た時に、窓から見えた紫髪の男に見覚えがあったような気がしたが、気のせいかとフェリックスはまた壁の花に徹することにした。
それから何分経っただろうか。
そろそろ帰ろうと、グラスをボーイに渡してついでに外で待っている車を呼ぶよう言づけた時だった。
突然、広間の中央辺りが騒がしくなる。
なんだ、と見ると、一人の見すぼらしい男が何かを抱えてギャーギャー騒いでいた。
「エリーニュスはどこだ! エリーニュスを出せ! それとも何か! この俺には会う価値などないと言いたいのか!」
「ゲーラス公爵! 落ち着いてください!」
憲兵が止めに入るも、見すぼらしい男……ゲーラス公爵はとどまることを知らない。
ブンブン腕を振っては必死に持っている荷物を守っている。
「近づくな!」
「ゲーラス公爵、お持ちになっているものを置いてください」
「それはいったい?」
憲兵の一人が問うが、ゲーラスは聞く耳を持たず。
広間の中央はゲーラスを中心に輪が出来上がっていて、嫌な予感をビンビン感じているフェリックスは今すぐにでも帰りたかった。
だが、あの荷物が何か危険なものであったとしたら、フェリックスには民間人を守る義務がある。
部屋の内部を見回して、何が起きても最善を尽くせるよう頭を巡らせていると、ゲーラスの方が先に動いた。
「エリーニュス! 出てこい! 話がある!」
ゲーラスが声高に叫んでいるが、エリーニュスは出てくる気配がない。
彼の異常性に気づいて逃げたか、となぜかフェリックスが舌打ちをした。
ゲーラスもそれに気づいたのだろう。
やけくその塊のような叫びを挙げたかと思えば、手に持っていた荷物を高々と掲げた。
「せっかく準備したのに! あの男! こんなもの、こうしてやる!」
「や、やめなさい!」
憲兵の静止も空しく。
ゲーラスの持っていた荷物が床に叩きつけられる。
その瞬間、閃光が部屋中に走り、そして―――
ゲーラスが馬鹿でよかった、とはこの時ほど思ったことはなかった。
彼が持っていた荷物は爆弾で、確かに爆発はした。
爆発したものの、それは非常に最小限のもので、だがしかしゲーラスの命を落とすには十分だった。
本来なら、あの爆弾はエリーニュス侯爵を仕留めるために準備していたのだろう。残念ながら憎きエリーニュス侯爵は死なず、哀れな爆弾魔だけが命を落としたが。
「きゃあ!」
爆発が終わった途端に、広間に叫び声が次々と上がる。
なんの訓練も受けていない貴族たちが、我先にと玄関ホールへと走り出した。
二次被害三次被害が起きる可能性が跳ね上がる。
あぁ、これは本当に面倒なことになった。
ミュンヒハウゼン侯爵が帰った時、一緒に帰ればよかった。
「フェリックス様!」
「遅いぞ、ジークハルト」
皆が我先にと逃げ惑う中、それらを掻き分けてジークハルトが駆け寄ってくる。
まったく、と悪態をつくことはどうか許してほしい。
「この騒ぎはいったい……」
「ゲーラス公爵が爆弾を所持して、自殺した。本来の相手はエリーニュス侯爵だ」
「なんですって?」
「そんなことより、俺たちもすぐに逃げるぞ。こんなところに留まっていたら、何を言われるか分かったもんじゃない」
「はっ」
ジークハルトが、その持前の長身と巨体を活かして先導してくれる。
あぁ、本当に面倒な一日だった。
そう思わずにはいられなかった。
*****
「え? あの日そんなことが起きてたの?」
「あぁ、そうなんだ」
後日、ツェツィーリアを捕まえてひとまず腰を落ち着けたところで、ゲーラス公爵の爆弾事件について話すと、ツェツィーリアはジークハルトの横で目をまん丸に開いた。
驚きで声が出なかった様子のツェツィーリアは、ぱちくりと何度か瞬きを繰り返して、一言「大変だったね」と呟いた。
ツェツィーリアの顔にかかる前髪を指で払ってあげると、彼はくふくふとどこか嬉しそうに笑う。
「大変だったのは、事後処理の方かな」
「じご?」
「えっと、事件の後の処理のこと」
「ふーん」
ツェツィーリアは、本人曰く学が無い。ジークハルトが慌てて言い直すと、それでもピンと来ていないようで、首を傾げられた。
「どうしてそんな事件を起こしたのか、理由が分からなくてね。どうも昔は、ゲーラス公爵とエリーニュス侯爵の仲は悪くなかったらしいんだ。それがどういう訳か突然仲が悪くなって、今回のようなことが起きてしまった」
「ふーん」
ホテルのルームサービスで頼んだワインを飲みながら、ジークハルトは考える。さて、いったい彼らの間に何があったのだろうか。考えれば考えるほど、どつぼに嵌まっていってる気がする。
横でゆらゆらとグラスを揺らしていたツェツィーリアは、ふむと少し考えたあと、口を開いた。
「その人は、なんでそんな爆弾を持っていたの?」
「爆弾自体はどこかの業者から買ったみたいだよ」
「ふーん。そうなんだ」
こくりと、ワインを一口飲んだツェツィーリアの喉が動く。思わずそれをジッと見つめてしまうが、ツェツィーリアは気にしていないのか素知らぬ顔だ。
どうにかこちらを見ないものかと、彼の顎に指を這わせると、大きな紫の瞳がこちらを見上げてゆったりと細められた。
「そのゲーラスって人とエリーニュスって人の仲が悪くなった理由なんて、簡単だよ」
「え? そうかな」
「そうだよ。実に簡単。それは、」
「それは?」
「女を取り合ったんだ」
一瞬、ツェツィーリアの言った言葉が理解できず、「ん?」と聞き返してしまった。
「調べてみたら分かるよ。くだらない理由だって、みんな思うはず」
「まぁ、たしかに、そうかもしれないけど……でも、どうしてそう思ったの?」
驚きすぎて顎に這わせていた指が離れていくのを、ジッと見つめていたツェツィーリアの口角が上がった。
「さて。それは秘密」
「え?」
「こんな時間までお仕事お疲れ様、ヴェルト。俺が癒してあげるね」
そう言って、ツェツィーリアはジークハルトの手からグラスを取り上げてテーブルの上に置いてしまうと、さっさと膝に乗り上げてきた。
「ツェツィーリア、秘密って、どういう、んむ」
ジークハルトの首に腕を回してきたツェツィーリアを少し押し返して問うが、彼のしなやかな人差し指がジークハルトの唇に当てられた。黙っていろということだろうか。そうは言っても、秘密なんてあいまいに濁すことは出来そうにない。
「秘密は秘密。あんまりうるさいと、俺、帰っちゃうよ?」
そう言って、指が離れた代わりに柔らかな唇がジークハルトのそれと重なった。
ツェツィーリアの放つフェロモンなのか、彼の放つ甘い香りが脳を揺らしてくる。
軽いリップ音が部屋に響く中で、ジークハルトは一生懸命考えたが、どうにも頭の回転が鈍くなってきた。
「ほら、ヴェルト。そういうのは、後で考えよ」
「……うん」
「今日もいっぱい気持ちよくなろうね」
妖艶に笑うツェツィーリアに、抗えなかった。
翌日、ゲーラスの書斎から遺書が出てきたと報告が入った。
その遺書には、過去にゲーラスと婚約まで行った女性を、エリーニュスが奪ったことが綴られていて、昨晩のツェツィーリアの言葉を思い出す。
「……本当に、くだらない理由だったな」
どうして言い当てることができたのか。彼の人生経験がそう言わせたのだろう。
そう納得することにして、ジークハルトは報告書を丁寧にファイルにしまった。
そんなジークハルトの執務室の、天井の一角に取り付けられた小型カメラの向こうで、にたりと笑う紫髪の、右目下に泣きぼくろのある男がいた。
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