第10話 恋の前にある面倒ごと 1
その日、この度めでたくフィクティヴ帝国軍大佐に昇進したジークハルト・ワーグナーは、窮地に立たされていた。
架空歴四八六年五月
先日起きた爆弾事件について、嫌な進展があった。
自身の手で爆弾を起動し自殺という形で処理されてしまったゲーラス公爵の、かつてほどは残っていない領地を軍が管理することとなったのだが、それに反発した領民が巡回していた帝国軍人を嬲り殺してしまったのである。
また、それを示唆したとされるのが、侯爵の親戚と名乗る帝国軍人だというから始末に負えない。
「さて、どうしてくれようか」
執務室で唸るフェリックスの、なんと低い声だろうか。
触らぬ神にはなんとやらと言うものの、こちらも仕事なのでイライラ指数が天元突破しているフェリックスにジークハルトは小さく咳をして注意を促す。
「今回の事件ですが、」
「第二の犠牲者が出るかもしれない、だろう? 分かっている」
分かっているなら良い。
できるだけ冷静に、淡々と事務報告と今後の方針についての進言を行い、フェリックスから丁寧な嫌味と愚痴を賜って、ジークハルトは執務室を後にした。
なんとも、面倒なことになったものだ。
重ねて嫌なことに、正義感の強い若い将校が現状のおかしさに声を上げたものの、見せしめのように、領地統治のために派遣された上級大将に殺されたらしい。
誰もかれもが敵に見えてしまっていて、上級将官は精神が参ってしまったらしい。
このようなことは珍しく、元帥府内は異様な空気に包まれていた。
さて、この場合、ジークハルトはどうするべきか。
考え事をしながら元帥府内を歩いていると、目の前からあの下世話な先輩が歩いてきた。
先輩の名前はダニエル・フォン・ベッケンバウアー少佐。天使画のような透き通る金髪と、碧眼。帝国人には珍しい小さな体躯。体躯に見合った可愛らしい顔。まるで小動物のようなその彼が、てこてこ歩いてきたかと思えば、こちらを見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる。子犬の尻尾が見えるようだ。
「ベッケンバウアー先輩」
「こら、ワーグナー大佐。職務中ですよ」
そうは言いつつ、ダニエルはどこか嬉しそうで、ジークハルトの謝罪は流された。周囲を見渡して、彼はすぐに砕けた口調で話しかけてくる。
「何か思い詰めているみたいだけど、どうしたんだ?」
廊下で片手間に話せる内容ではないので、場所をカフェテリアに移動させることにした。
周囲にはジークハルトたちと同じく休憩している者、なぜかここで打ち合わせをしている者など様々だったが、どうも口にするのは憚られた。
どうせみんな聞き耳を立てているのだ。本当はここで話そうがどこで話そうがが変わりないが、フェリックスのことを考えると廊下では言いづらい。
ジークハルトがどう切り出そうかうんうん唸っていると、ダニエルはパッと顔を華やがせた。
「もしかして、
「違います」
残念ながら違う。
否定すると途端に不機嫌そうに顔を歪ませるものだから、「それもありますが」と付け加えた。
「例の、ゲーラス公爵の一件です」
「あぁ、あれか。正義感溢れる若者が精神の病んだ上官に撃ち殺されたっていう」
「えぇ」
間違ってはいないが、その表現はいかがなものか。
訂正している時間が惜しいので、スルーすることにした。
「その一件ですが、どうにも嫌な方向に進んでいきそうなのです」
「そうだろうなぁ。今だって緊張感に富んだ現場だろうよ」
「フェリックス様も頭を悩ませていますし、どうにか解決に導きたいのですが、彼らの主犯格が一向に分からないのです」
ゲーラス公爵の取り巻きだった、というのは分かっているが、なぜか相手の素性がまったく出てこないのだ。
現場に行けば分かるのかもしれないが、フェリックスが報告を上げろと言っても聞かないものだから、現場に行っても大した収穫はないだろう。そろそろフェリックスの頭の血管が切れそうだった。
「出兵命令が出たわけでもなかろうに」
「それはそうなんですけど……あんなフェリックス様は見ていられません」
「お前のそのビューロウ大将愛は相変わらずだな」
そんなことはない、と伝えても、ダニエルは意に介さない。これは学生時代の時からだ。
ジークハルト及びフェリックスの悩みを聞いたダニエルだったが、うーんと一つ悩んだあとパンと小さく手を合わせた。
「確かに、情報が出てこないのは気持ち悪い。しかも、軍の上層部も、うかつに手が出せないときている。それなら、こういうのはどうだ?」
「どういうのでしょう」
「『情報屋』に頼むんだ」
キラキラと、それはそれは嬉しそうに告げられた提案に、ジークハルトは溜め息で返すしかなかった。
「情報屋って……映画の世界じゃないんですし……」
「だが、お手上げ状態なんだろう? そういうのはプロに任せるべきだと、俺は思うけどなぁ」
「ですが、一般人を巻き込むわけには……」
しかも、これは軍の不祥事に他ならない。
そんなものに一般人を介入させたとしたら、いったいどんなバッシングを受けるか分かったものではなかった。
それだというのに、ダニエルは自信満々やる気満々だった。
「お前なぁ。世界はとてつもなく広いんだ。ああいう職業が映画に出てくるってことは、現実にも存在するって思わないか?」
そんな暴論がまかり通ってたまるか。
とはいえ、こうやって自信満々言ってくるのだから、きっと本当に実在するのだろう。
実在するのだとしたら、それこそ情報を扱う人間たちなのだから、こちらの不祥事を容易く披露することはできなかった。
「やはり、一般人にこれらを開示するのは良くないと思うのですが」
「まぁ、お前はそう言うだろうさ。だが、お前の上官はどうかな?」
「閣下が情報屋を?」
それこそありえない話である。
ダニエルだってそれは重々承知であろうに、ジークハルトにフェリックスとの面会を依頼してきた。本当に言う気なのだ。
「先輩。やめた方がいいと思いますよ」
「大丈夫だって。何事も言ってみなきゃ分からないだろう? 断られたらそれはそれ。まぁ、たぶん断られないよ」
本当だろうか。
相手が目上というのを忘れて、思わず顔を顰めてしまう。それをいなして、ダニエルはさっそく行こうと立ち上がった。こうなってしまうと、ジークハルトに拒否権は無いようなものだ。渋々着いていくことにした。
ダニエルを連れてフェリックスの執務室に向かうと、フェリックスは先ほどと変わらない体勢で、変わらぬ不機嫌度合いであった。
ジークハルトの後ろからひょこりと出てきたダニエルを見て、フェリックスはなぜか眉間にしわを寄せた。
「ほう。『情報屋』のおでましとは。耳が早いな」
「え?」
「いえいえ、小官の耳に入ってくる以前に、元帥府で瞬く間に広がっていましたよ」
驚いてダニエルを見ると、しぃと指で制された。
ダニエルが情報屋とは、どういう意味だ。
訳が分からないと首を傾げていると先に口を開いたのはフェリックスの方だった。
「俺の知る情報屋は、お前のようなちんけなゴシップ屋じゃないのだがな」
「あはは。ゴシップ屋だなんてそんな。小官は、『友人』から聞いた面白い話をしているだけですよ」
「友人だと?」
「はい。その友人からの話を面白おかしく同僚たちに話していたら、いつのまにか小官が情報屋だなんて呼ばれるようになっていたのです」
にっこりと、それはそれは楽しそうにダニエルは笑う。
「いかがでしょう。この動かぬ盤面、小官の友人に一手だけ託してみるというのは」
「その友人は帝国軍の中にいるのか?」
「いいえ。彼はれっきとした一般人です。少し制約はありますが」
ですが、とダニエルが続ける。
「今回の事件の真相について、取っ掛かりくらいにはなると思います。いかがでしょう、小官の友人は特別有能な奴ですよ」
ジークハルトはそっとフェリックスの動向を窺う。
こんなあやふやな、しかも一般人を巻き込むだなんて。あってはならないことだ。
しばしの間があって、フェリックスが考え込むポーズを解いた。そして、鼻で笑う。
「もし本当に有用な情報を持ってこられたら、考えてやる」
「承知いたしました。きっと閣下のご期待にそうことができましょう。ご期待ください」
随分と自信たっぷりだ。
フェリックスは鬱陶しそうに手を振ったあと、ジークハルトに向かって「お前が見定めて来い」と告げた。
「御意」
「もし何かしくじった場合は、お前の判断で行動して良い」
「かしこまりました」
敬礼によって命を受ける。横のダニエルは少し不服そうだったが、ここで口答えできるほどダニエルも図太くはない。
妙な縁が出来てしまった、と内心ジークハルトは苦く思った。
*****
ダニエルによると、その人物は太陽の橋の向こう側に住んでいるそうで、高価な服、高価な靴、高価な装飾品は身に着けないよう指示された。
更にダニエルは、不思議なことを言い出す。
「これから会う友人の素性は何も聞くな」
「素性、ですか」
ツェツィーリアにだってそのような失礼なことはしたことがない。ジークハルトが素直に了承すると、ダニエルは更に続けた。
「できれば、市井の、下級平民くらいの格好で来てほしい。難しそうなら、高価でなければ良い」
「分かりました」
「それじゃ、明日の朝七時に太陽の橋で待っているからな」
翌朝、ジークハルトの持つ中でも一番質素で安価な服を選び、ダニエルとの待ち合わせ場所に向かった。
ジークハルトが太陽の橋に行く時、いつも橋は人でごった返していた。
別称『ひっかけ橋』とも言われているこの橋は、安いホテルが多く乱立する場所に程近く、さらに周囲に防犯カメラが付いていないのを良いことに、客引きが多くたむろするような場所だ。
こんな場所でほとんど毎日足繫く通うジークハルトに、ここ最近は嫌なことに客引きたちに顔を知られてしまったようで、手を引かれることは無くなったが。
今日は珍しく朝。
橋の上には誰もおらず、こんな時もあるのだなと驚いた。
「おーい、ワーグナー。こっちだ」
「先輩。早いですね」
待ち合わせ場所にダニエルは既にいた。あまり金をかけている様子のないジャケットとシャツ、ダボダボなズボン、そしてヨレヨレの革靴という出立ちは、あまりにも「銀河帝国軍」に相応しいとは言えない。
行き慣れている、と感じた。
ダニエル曰く、ここに来るのはあくまでもその友人に会うためだけに来ているようで、店に金を落としたことはないらしい。
気まずくなってそっと視線を逸らす。
ダニエルには知られたくないレベルには、ジークハルトは既に相当額をツェツィーリアに支払っている自覚はある。
「じゃあ行こうか」
「はい」
朝の太陽の橋はこんなにも歩きやすいのか。だが、橋を渡った直後その考えを改める羽目になった。
道のあちらこちらに吐瀉物はあるわ、ゴミは散乱しているわ、薬でもキメたのか羅列の回っていない人間が転がっているわで、確かにこんな場所ではダニエルの格好の方が正解なのかもしれない。
非常に歩きにくい道だというのに、ダニエルはスイスイと進んでいく。着いていくのがやっとだった。
「ここだ」
いくつかの娼館とモーテルを通り過ぎて、細い路地を歩いていてすぐ、ダニエルがこちらに振り返った。ダニエルが立ち止まったのは、やはり立ち並ぶ娼館の中の一つで、しかも嫌なことにその娼館で売っているのは「男」だった。
ここで、冒頭に戻る。
ジークハルト・ワーグナーは、窮地に立たされていた。唖然としてしまったが、連れてきた張本人はお構いなしだ。
固く閉ざされた扉を殴るようにしてノックする。三回、間を空けて、さらに三回。
「……いないのではないですか?」
「いや、そんなことは……。おーい、開けてー!」
「ちょ、先輩! 朝ですよ!」
朝も早よから、ダニエルが突然声を張り上げたので、慌てて止めに入る。だがダニエルの方はむぅと膨れた程度で、悪びれた様子はなかった。
「仕方ないじゃないか。それに、こんな時間に声を張り上げて苦情を言うような人種はいないよ、ここには」
「そ、それは、そうかもしれないですけど……」
ここら一帯に住まう人間たちは、夜が主戦場だ。確かに気にする人間はいないかもしれないが、逆に考えれば朝から昼にかけて彼らは就寝するのではないだろうか。
いまだにドンドンと扉を叩くダニエルの背中を見ながら、どうしたものかと思案していると、ようやく扉の鍵が開く音がした。
「……ったく、喧しいぞ。まだ店終いだ。夜になったら来い」
ノソノソと不機嫌そうに出てきたのは、屈強な体付きをした男だった。ジークハルトと同じくらいの身長、ボサボサの髪に、タンクトップと半ズボン。サンダルを突っ掛けていて、いかにも寝起きそのものだ。言わんこっちゃない。
だがそこで屈しないのが、このダニエル・フォン・ベッケンバウアーだった。
「G.G.! おれ! ダニエル!」
G.G.……聞いたことのあるフレーズだ。
「あ〜……? って、なんだよ、お前か」
「おはよう、G.G.!」
「ったく、起きて損したぜ」
「えー、そんなこと言わないでよ。せっかく来たのにさ」
持ち前の明るさと人懐っこさを発揮して、寝起きの男とは裏腹に元気な挨拶をしたダニエルに、男……G.G.はますます顔を顰めた。
「それで、朝も早くなら何の用だ、ガキンチョ」
「今日ケビンいる?」
ケビン。
やはり、聞いたことがある。
おそらく、それがダニエルの『友人』なのだろう。
こんな娼館にいるとなると、ケビン某も男娼なのだろうか。
いったい、ケビン某はどんな人物なのだろう。
ジークハルトの記憶にある「ケビン」はたしかフルフェイスヘルメットを被っていて、服もライダースーツを着ていたものだから女性か男性かも分からない。
ツェツィーリアが女性名を名乗りつつ男性だったので、ケビンも男性ではなく女性の可能性が大であった。
娼館の主というより、どちらかというと迷惑客に圧をかける側といった雰囲気のG.G.は、少し考えたあと、ジークハルトを見て、深々とため息をついた。
「……入れ。まだ片づいちゃいないが、外にいるよかマシだ」
有難い。これ以上外にいたら吐瀉物の嫌な臭いが服に染み付いてしまいそうだ。
だが、娼館の中も酷い有様だった。
G.G.に着いていくダニエルに着いていくと、入ってすぐのところにカーテンが引かれていて、この小さな玄関口が受付だったらしい。カーテンのその奥にはソファが三つとローテーブル、そして大量の吸い殻が詰まった灰皿が置かれていた。
そこら中に空の酒瓶が転がり、タバコとアルコールと香水の臭いが充満している。鼻が曲がりそう、とまではいかないものの、これでは表の小道とどっこいである。
思わず顔を顰めてしまうのは、致し方ないだろう。
ウナギの寝床のような細長い建物は、廊下の途中に螺旋階段があり、どうやら地下階と二階、更に三階もあるようだ。
ジークハルトとG.G.が中に入るとそれだけで息が詰まりそうなほど狭い。
目算でソファの置かれたこの場所は二十平米強と言ったところだろうか。その奥に細く廊下があるとはいえ、大して窓もついていないせいで空気が澱んでいる。
ソファの一つには誰かが寝ていた。
「おら、シス、起きろ」
G.G.はどうやらジークハルトたちが座れるように整えてくれているらしい。
酒瓶と吸い殻をゴミ袋に一緒くたに集めている途中で、ソファに寝転がっていた人間に声をかけた。
ソファには、下着一枚だけをつけた、ほぼ裸の男が寝ていた。
髪は濃紺、肌は白く、ここにいる誰よりも細い。まさか、と愛しい人の顔が浮かんだ。
残念ながら男は何ら呻きながら寝返りを打ち、二度寝の姿勢である。
ダニエルはそんな光景は慣れているのか、空いているソファにさっさと腰を下ろしていた。こっちに来るよう手招きされたものの、ダニエルの方に行くにはG.G.のそばを通らねばならず、そうすると彼の身体を押し退けて行かなければならない。さすがに初対面でそれは憚られた。
「シス! おい、起きろ!」
やはりツェツィーリアなのだろうか、とぼんやり現実逃避をしていると、シスと呼ばれた男がまた呻いた。
「……んだよ、うるせぇな……」
「客が来たんだ。寝るなら部屋に戻れ」
「ええー……いいじゃん、別に。こっちはあのバカのせいで吐きそうだっつーのに」
「そこで寝られたら邪魔だって言ってんだ。オラ、起きろ。ほら」
「はー……ったく……しかたねぇな……」
そう言って、起き上がった男に、ジークハルトは思わず息を呑んでしまった。
長めの前髪から覗く紫の瞳は十代の少女のように大きく、右目の下についたほくろが特徴的だった。G.G.がガウンをかけてくれたその下は引き締まってはいるが身体の線は柔らかく、同じ男だと言うのにやけに色っぽい。こんな仕事をしているのだから当たり前ではあるが、仕草の一つひとつがどうにも身体の奥の熱を揺さぶってくるようで、堪らない、この男。
やはり、ツェツィーリアその人だった。
ツェツィーリアは、こちらの事などまったく気にかけず。気だるげな動作でタバコに火をつけ、そうして、一息ついたところでようやくこちらの存在に気が付いたらしい。
「うわっ、ヴェルト?!」
「お、おはよう、ツェツィーリア……」
挨拶がぎこちなくなってしまうのは致し方ない。
こちらの声に、ツェツィーリアは目をぱちくりと瞬かせたあと、首まで真っ赤に染めてガウンを抱え込んで唸り始めた。可愛い。ではなく。見てはいけない光景だったのだろうな、とツェツィーリアから視線を外した。
「だから言ってんだろ。分かったらさっさと部屋に戻れ」
「えー、G.G.が連れてってよ。俺もう歩くのやだ」
「お前なぁ。しょうがねぇやつだな……おい、ダニー。すまんが、勝手にやっててくれないか。ケビンは地下だ」
「わかったー」
軽々とタバコを吸ったままのツェツィーリアを橫抱きにしたG.G.が、螺旋階段を上っていく。それを見送ったあと、ダニエルは跳ねるように立ち上がって「さてと」と言った。
「こっちだ」
「……ここは、ツェツィーリアの店だったんですね」
「そうだよ。まぁ、店というか、住所登録先というか」
そういえばツェツィーリアとは店を介したやり取りはしたことが無かった。話には聞いていたものの、こんな店だったのか、と少しだけ店内に興味がわいた。
ツェツィーリア、ケビン、G.G.とくれば、どこかにあの「クイン」もいるのかもしれない。
G.G.たちが上がっていた螺旋階段は地下にも繋がっていて、そこを二人で降りていった。
「ケビンも、この店の人間なのですか?」
「いや。ケビンは違うよ」
一段降りたところで、ダニエルが振り返ってきた。なんだ、と身構えると、「覚えてるか?」と重ねてくる。
「覚えてる、とは?」
「これから会う友人には、制約があるって話」
確かに、そんなようなことを言っていた気がする。恐る恐る頷くと、ダニエルはニコリと笑ってまた歩を進めた。
階段を降りながら、ダニエルはその制約とやらを指折り話し始めた。
「まず、ケビンはこの店で働いているわけではない」
「間借りしている、ということですか?」
「そう。だから、ケビンには下ネタ禁止。絶対だぞ」
ダニエルには、ジークハルトが最低な下ネタを言うような男に見えるのだろうか。
「それから、ケビンの存在はどこの誰にも言わないこと」
「なぜ?」
「あと、ケビンの人となりを聞くのもダメ」
「……なぜでしょうか」
とん、とダニエルは地下階に降り立って、こちらを振り返った。
「見ればわかる」
その顔は、どこか悲しげに見えたのは、おそらく暗い照明のせいだろう。
地下は、上階に比べて非常に広くとられていた。いくつかの扉が並んでおり、どれも人の気配はない。その扉の一つを、ダニエルは躊躇いなく開けた。
「ケビン、おっはよー!」
そう言って入った先の、部屋。
まるで安ホテルの一室かのような、最低限の家具しか無い部屋にいたのは、若い男だった。
黒い髪、少し浅黒い肌、少年のように幼く、さっぱりとした顔つき。どう見ても帝国人とは思えない顔に、先ほどのダニエルの言葉が蘇った。
彼は、帝国人ではない。
人となりを聞くな、誰にも存在を教えるな、とは、そういう意味だと悟った。
おそらく不法滞在であろう彼がここにいることを、もしフェリックスに伝えてしまったら。ここに匿っているG.G.やツェツィーリアも、蔵匿罪で捕まってしまうかもしれない。ジークハルトの言葉次第で、彼の命運は分かたれてしまうのだ。
振り返ったケビンは、ダニエルに苦言を呈そうとしたのだろう。呆れたような、嫌そうな顔をしてこちらを見て、その後ろにいたジークハルトを見て、中途半端に開いた口のまま固まってしまった。それはそうだろう。見知らぬ帝国人に存在を知られてしまったのだから。
二人の間に、微妙な空気が流れた。
「な、んで、」
「お客さんだよ、ケビン!」
ニコニコと元気なダニエルだけが、この場に不釣り合いだった。
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