第7話 ちょっとした小話

 架空暦四八六年二月


 人間には必ず「裏の顔」があるものだが、ジークハルトのこの、ツェツィーリアとの逢瀬はまさしく「裏の顔」と呼ぶに相応しいだろう。


 フェリックスですら、ジークハルトは品行方正で、汚い部分などまるでなく、(多少の血の気の多さはともかく)いつも穏やかな笑みを湛えた、至ってノーマルな性嗜好をしていると思っていたのだ。


 品行方正だったり、汚い部分がないだののくだりは自分では分からないが、性嗜好に関してはツェツィーリアと出会うまでは至ってノーマルだと、ジークハルト自身も思っていた。だから、こうして、顔があまりにも可愛らしいことを除けばれっきとした男性であるツェツィーリア相手に性的興奮を覚えてしまっているのは、ジークハルトにとっては予想の範疇外であった。


 先月の事件が起きるまではフェリックスに嘘をついて外出するのは非常に心が痛んだものの、あの一件以来フェリックスにのみ隠す必要が無くなったのはある意味僥倖だろうか。少し気まずくなって出かける頻度が減ったのは、まだジークハルトが若く経験が足りないせいとしておく。


 さて、そんな「裏の顔」についてだが、ツェツィーリアはどうだろう。


 彼は、ジークハルトの前では非常に従順だった。


 喜怒哀楽の中の喜と楽をハッキリと態度に出して、万人に愛されるような人懐っこい笑顔を浮かべる、彼。


 フェリックスに向かって、バッサリと言い切るような発言をしていたくらいだから根は違うのだろうが、ジークハルト相手には比較的素直な反応を見せていた。


 美味しいものを食べれば少し大げさに驚いて見せ、ジークハルトに会えば嬉しさを隠しもしない。

 ただ、あれは作られた人格だろう、と、最近のジークハルトは分析している。


 あれは、なんでもない平日の夕方の話だ。


 ジークハルトとフェリックスが、仕事終わりに連れ立って街に繰り出した時だった。


 夫人ふたりが旅行に出掛けていた日で、今日のディナーはどこで食べようか、とあれこれ思案しながら歩いていると、前方で何やら言い争う男たちを見た。


 ひとりは大柄で、相手の男の腕を掴んでどこかに連れて行こうとしているところで、相手の男はそれを全身を使って拒否している光景だった。


 なんだ、と、見て、その全力で拒否している方の男を見た時、ジークハルトの身体は自然と動いてしまった。


 濃紺の髪に、細身の身体。右目の泣きぼくろ。ツェツィーリアである。


 またか、なんて溜息が横から聞こえたようにも思えたが、その時のジークハルトは気にする余裕がなかった。


 また、ツェツィーリアが連れていかれる。


 それだけを回避したかった。


 男とツェツィーリアの間に割って入り、少し睨みをきかせただけで、男はすぐさま何ごとか呪詛を吐きながら去っていく。

 一九〇センチの大柄な男に、遥か上空から睨まれるのだ。ジークハルトに果敢に挑んでくる人間はそうそういない。


 その時だった。


「チッ……腰抜けの租チン野郎め……」


 おそらく、無意識だったのだろう。それとも、心の中だけの声だと思っていたのだろうか。

 ジークハルトの背後から、聞き慣れた声で、聞き慣れない舌打ちと発言が聞こえた。


 驚いて振り返ると、キョトンとこちらを見上げてくるツェツィーリアと目があって、もしかして今のは聞き間違いだろうか、と頭が混乱する。


 ゆっくりと歩いてきたフェリックスに、今度は何をしでかしていたのか聞かれたツェツィーリアは、いつもの調子で「なんでもないよー」と言うばかり。


 申し訳なさそうに眉を下げ、ジークハルトに向かって「ありがとう、助けてくれて」なんてお礼を告げてくる。


「ツェツィーリア、怪我はない?」


「うん。大丈夫だよ、ヴェルト。ありがとう」


「で、さっきの男はいったいなんだ」


「んー、知らない人。お客さんでもないかな。歩いてたら肩がぶつかって、そこから因縁つけられたんだ」


 ほんと最悪、なんてフェリックスに向かって怒った様子を見せている。あの舌打ちは、あの棘のある言葉は、本当にツェツィーリアだったのだろうか。どうにも信じがたかった。


 その後の食事の場で、フェリックスにそのことを話すと、ワインを飲みながらフェリックスはクツクツと喉奥で笑った。


 そして一言、「あれの本性はそっちだろうな」と言った。


「前に言っただろう。あの男はただの男娼ではない、と。お前が思っているほど、俺にはあいつが弱々しいものには見えなかった」


 そうは言うが、立場上彼はフィジカルに頼れる部分は少ないように思う。


 触れた肌は、痩せていたが柔らかさがあったし、あまり筋肉が育っている風でもなかった。


 きっとあれが、ツェツィーリアの「素の表情」であり、ジークハルトからしたらあれが彼の「裏の顔」なのだろう。おそらく今後、あの刺々しさがジークハルトの前に出てくることはない。


 それは少し寂しいことではあるが、ツェツィーリアの処世術をこちらが崩す理由もない。だが、しっかり隠してきたはずのツェツィーリアがうっかり出してしまったという事実に、存外ワクワクしてしまっている。


 もう少し観察していよう、とジークハルトは心に留めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る