ガチ初恋。

 抱えきれない恋心は花束に似て、相手の都合など関係なしに押し付けていた。私からカノへ向ける好意を存分に吸い上げて育った恋心は、鮮やかな桃色の花を咲かせている。感情を丁寧に拾いあげて、ブーケを作るように束ねる。そして私は、カノへ投げキッスを飛ばした。

 姉の友達は、困ったように笑っている。

「そういうわけで再挑戦です」

「いや意味分かんないから」

「ちゅっ、ちゅっ」

「いや、投げキッスは連発するもんじゃないし」

 齢十六歳の私が全身全霊を込めた投げキッスは、カノが羽虫を払うように跳ねのけてしまった。その困り顔すら可愛いと感じてしまうから、私はカノに恋をしている。あぁ、はやく年の瀬になってくれないものか。十七歳になれば、私の投げキッスも魅力を増して、カノの心を撃ち抜けるはずなのだ。

 多分。

「よし、今度はカノの番ね」

「やらないよ、そんな恥ずかしいこと」

「えー、お姉ちゃんはやってくれるのに」

「姉妹でそういうことするんかい」

 笑ったカノが、大きく欠伸をする。今日もカノの家に遊びに来ていた。昼から遊んで、晩御飯を一緒に作って食べた。お風呂も入ったし、歯も磨いて、あとは寝るだけだった。あるいは夜更かしという手もあるが、カノは真面目だからなぁ。日付を跨いだら寝てしまうだろう。

「寝込みを襲うか……」

「やったら出禁にするから。あと、通報する」

「冗談じゃん。やらないよ」

 本当かぁ? とカノは眉を寄せた。

 ベッドに腰掛けるカノにもたれて、ふたりでテレビを見ていた。垂れ流すバラエティ番組では芸人がコントをしている。私が小学生だった頃には駆け出しの新人だった芸人が、今では立派な中堅として芸を披露していた。

 コマーシャルに入ったところで、カノに視線を向ける。彼女はスマホに目を落としていた。横から覗き込むと、私の姉と連絡を取っているようだ。何を思ったのか、カノは私にカメラを向けてくる。ピースを向けると、彼女は半ば吹き出しながら写真を撮って姉に送り付ける。

 頬を膨らませる鬼のスタンプが、姉から返ってきた。

「今日はありがと、カノ」

「ん? 急にどうしたよ」

「いや、追い返されるかも、って思っていたから」

「ナノ、たまに意味不明なほど卑屈になるよな……」

 この前は姉と一緒だったけど、今日は私ひとりで遊びに来たのだ。事前に約束をしているとはいえ、入室を拒否されないかと緊張した。好きが変質して、嫌われたくないという思いが膨れているのかもしれない。

「お姉ちゃんと比べられることも多いので」

「あー。それは分かるかも」

「でしょ? あの人、マジで才能の塊だから」

 姉は最強の名を冠するに相応しい武人だった。

 今日だって、姉がカノの元へ遊びに来なかった理由は空手絡みだ。

 姉は大学の空手部の強化合宿に参加している。全国大会の後に空手を辞めてしまったカノとは違い、姉は空手家として生涯食べていく気概があるようだ。道場でも次世代のリーダー候補に挙げられていて、彼女の才気には目を見張る。

「ま、私もそのうち追いつくので」

「自信満々じゃん。意外とナノも強いんだよねぇ……」

「この前、顔面パンチ貰ったのは油断してたからだよ」

「あれはナノが悪いの。謝んないからな」

 カノは頬を膨らませて抗議するが、そもそも私達の流派では故意に顔面を狙うのは禁止行為だ。人体は想像以上に脆く、競技として成立する武道には命を守るための厳格なルールがある。試合でカノと相対したなら、顔面に一撃もらっておしまい、なんて展開にはなっていなかっただろう。

「ねぇカノ。私と試合してみない?」

「ヤだよ。もう引退したし、復帰する気もないし」

「ふっふー、夜の試合の方なら受けてくれるよね」

「は? 冗談か?」

「……当たり前でしょ。カノは真面目だなぁ」

 嘘だけど。カノの視線が鋭くなった気がして、私は誤魔化すことにした。

 コマーシャル明けのテレビは違う番組になっていた。適当にチャンネルを回しながら、カノの様子を伺う。いつの間にか、彼女はスマホを枕元に伏せていた。もたれかかると彼女は僅かに背を反らして、私は重力に抗うことなく彼女の膝に倒れた。より好感触の場所を求めて、脚の根本へと頭の位置を動かす。

 天井を仰ぐ格好になると、後頭部を一瞬だけかすめたものが私の視界の中心に来た。私や、私の姉と比べて明確にサイズが上だった。気付けば私は手を伸ばしかけていて、覗き込むようなカノの視線が冷たい。しかも無表情だ。試合中の姉を思い出して、慌てて取り繕うことにした。

「ナノ。何をしようとした?」

「いや、背伸びをしようかと思って。嘘じゃないよ」

「ふーん、そっか」

 嘘じゃないんだよ、と赤裸々に嘘を吐くのは憚られた。

 顔を覆うように手を引っ込めて、カノの反応を窺う。彼女は今回の件を不問にしてくれるらしい。その優しさが眩しくて、好きなのだ。ぽんぽん、と私の頭を撫でて、彼女が問いかけてくる。

「……もう寝たら? 子守歌でも聞かせてあげようか」

「まだ日付も変わってないのに? 早すぎるよ」

「良い子は寝る時間だ。あんまり夜更かしすると健康に悪いんだぞ」

 私に膝枕をしてくれたのも眠りに誘うためらしい。横になった体勢で好きな人に頭を撫でられるのは、抗いがたいほどのリラックス効果を生む。最初は抵抗する気満々だった私も、すぐに眠くなって瞼が重くなってきた。

 そういう時ほど、心は緩む。

 ずっと思っていたけれど、口にしなかった言葉が唇から漏れた。

「私、カノの空手が好きだったよ」

「そりゃどうも。引退した選手には過ぎる誉め言葉だ」

「もう一度、空手を始める気はない?」

「ないよ」

「……カノ」

 頭を撫でる手が止まって、心配になった私は身体を起こす。反対に、カノは布団へと横になった。彼女の顔を覗き込むと、露骨に視線を逸らされる。ちょっと、むっとした。

 空手家としての鹿野カノは、私の姉を追いかけていた。その情熱を、私はよく知っている。カノの練習量と質は常人を凌駕して、凡人だった彼女を全国大会準優勝に導いた。天性の才を持った私の姉に、同世代で唯一比肩する空手家にまで成長したのだ。

 姉が才覚の天才ならば、カノは努力の天才だ。

 カノに憧れたから私も空手を始めた。姉に連れていかれただけの、武道に毛ほどの興味もなかった少女をこの道に引き入れたのは、他でもないカノなのだ。彼女がいなくなった道場は、伽藍洞だと感じてしまう。

 空手がカノのすべてなら、カノが私のすべてだった。

「空手を辞めた理由、教えて」

 カノに覆い被さるように、ぺたりと身体をくっつける。

 密着した身体に妙なことを考えないでもない。でも怒られるし、また距離を取られるのは嫌だからくっつくだけに留めた。待っていても返答がなくて、手持無沙汰になる。このくらいなら、と彼女の肩に頬をこすりつける。猫みたいだ、と端的な感想が飛んできた。その言葉にあやかるように、にゃぁと鳴いて彼女に甘える。

 そして、同じ質問を繰り返した。

「空手を辞めた理由、教えてよ」

「……っ」

「逃がさないよ、カノ」

 彼女の肩を押さえつけて、真上から瞳を覗き込む。

 ひたむきで真っ直ぐな彼女の拳は、それだけで私を救ってくれる気がした。二度と空手をやらないなら、その理由が知りたい。押さえつけて、跳ねのけられて、試合では到底考えられない幼稚な争いが続く。

 ぽてんと身体をひっくり返された。まるで柔道のような寝技だ。

 私に馬乗りしたカノは、見たことのない表情を浮かべていた。目を細めて、私の襟元を掴む手に力がこもる。拳か怒号が飛んでくるかも――と一瞬の妄想が脳裏に走る。だけどカノは、私の鎖骨へと頭を埋めて震えだした。伸ばした髪を留めていたヘアピンは、お風呂の時に外したままだ。彼女の髪に手を通すと、するりと指が流れていく。私はカノの目尻に触れた。

 そこは、少し濡れていた。

「私が、空手を辞めた理由? そんなの、分かっているだろ」

 一呼吸空けたカノの視線の先に、私はいない。

 そこにいるのは、私の姉だった。

「勝てないんだ。どれだけ頑張っても」

 ぽつり、ぽつりと彼女は努力の軌跡を語り始める。学校から帰るとすぐに道場へ向かって、練習に明け暮れる日々を送っていた。友人と遊びに出掛ける私の姉を横目に、カノは道場に入り浸っていた。カノの同級生達は、彼女の努力を知らない。付き合いの悪い奴だと、一言で切り捨てておしまいだ。

 凡人が天才と並ぶには、多大な犠牲が必要だった。

 カノは目尻に浮かべた涙を誤魔化すように首を横に振る。

「お前の姉貴が嫌いだ」

「……うん。知ってるよ」

「あいつは友達だけど、私が持っていないものを全部持っている」

 唇を噛んだカノは、瞳を黒く濁らせる。

 私の姉は天才だった。それも、天から二物を与えられている。空手を始めとしたスポーツ全般が得意だった。勉強も出来て成績がいい。友人も多くて、性格も良い方だ。姉が持っていないものを探す方が難しい。

 カノの手が襟から外れて、私の首元へと伸びる。それは私の頭を抱えるようにスライドして、潤んだ彼女の瞳が私を正面から覗き込んでくる。どこまでも生真面目な彼女の、真剣な瞳に貫かれるようだった。

「何やっても勝てなかったよ。私は、ずっと敗北者だ」

「勝ったら、何か残るの?」

「そりゃ、こう、トロフィーとか……」

 掴めなかった栄光の形代を求めて、カノの手が私の頬に謎の紋様を描く。くすぐったくて、私は笑いながらカノの手を退けた。代わりとばかりに、彼女の空っぽの手を握って指を絡める。最初は振り解こうとしてきたけど、すぐに諦めた。私の握力の方が強いのだから賢明な判断と言える。

 彼女と手を繋いだ状態で身体を起こす。膝の上にカノが乗っていて、私がこのまま身体を前に倒せば彼女の胸に顔を埋められる。怒られそうだから、しないけど。

「それじゃ、私がカノの戦利品だね」

「……は?」

「私は、お姉ちゃんとカノなら、カノを選ぶよ」

「意味わかんないけど」

 姉と違ってテストの成績が振るわない私は、適切な場面で格好の良い言葉を探し出す技術に欠けているようだ。メガ子にも禅問答が下手だと言われたし、大喜利みたいに頭の反射神経を使うものは苦手らしい。

 だけど、それでも伝えたい感情がある。

 カノの腰に手を回して、彼女を見上げる。そして言葉にした。

「私はカノが好きなの。カノが空手を好きだったことも知っているの。だから、カノが空手のことを嫌いになるのは、どうしてもイヤなの」

 お姉ちゃんのことが嫌いになったとしても、それはどうでもいい。だって、嫌いでも友達でいてくれるなら、それは親友の証だ。何も心配する必要はない。問題は、カノが空手から身を遠ざけてしまった理由。好きだったものから、目を背けてしまった理由だ。

「だから、教えて。カノが空手を辞めた理由」

 ふたつ年上の彼女は、私の真摯な言葉をどう受け止めたのだろう。ごくりと喉が動いて視線を逸らす。ひょっとすると私は、彼女を詰みに追いやったのかもしれない。カノは逃げ出すでもなく、抵抗のために暴れるでもなく、唇を微かに震わせている。

 カノが頬を染めているのは珍しいな、とか私は思っていた。

 魂ごと絞り出すように、彼女は言葉をひねり出す。

「……ナノのことが好きって、自覚したから」

「なるほど。そういうことね」

「ん。分かってくれたか」

「そりゃもち――」

 …………。

 ……。

 は? と脳が言葉を理解するまでに十秒かかった。カノへの好意が聴覚を狂わせたのかと恐怖でチビりそうだ。カノは頬を赤くしたまま、私の腰へと手を回してくる。背中を撫でてくれる手に、私は全身を震わせた。歓喜よりも困惑が強くて、感情のジェットコースターに酔い潰れそうだ。

「な、なんですとー!」

「驚き方が昭和。生きた化石かよ」

「いやっ、でも、そんな素振りは微塵もなかったじゃん」

「めちゃ甘やかしてあげたのに。お前の姉貴より、優しかっただろ?」

「あう。あれは、……ううう」

 少しずつ状況を理解してきた。片想いだと思っていたら、両想いだったらしい。カノが私に優しくしてくれるのだって、お姉ちゃんが妹を甘やかす程度の感情しかこもっていないと思っていた。

 思い返してみれば、血も繋がっていない相手を毎日のように抱きしめるのは普通じゃない。それは分かる。でも私達は疑似姉妹だ。幼い頃から仲が良いから、だから特別なのだと思っていた。

「でも、でも……」

 カノは真面目ちゃんだ。私が懐いていたから、返報性の理屈で愛情を返してくれていただけ。ずっと、そう思っていた。カノに顎を持ち上げられて、彼女の瞳に覗き込まれる。注ぐような熱い視線から伝わってくる感情は、彼女の本気を教えてくれた。

 あのな、とカノは短く前置きを残す。

「ナノは、憧れた相手の妹だぞ。私の、唯一の武器でも勝てない相手の妹だ。あいつの才能が憎くて嫉妬して、それなのにナノへの愛情は深くなっていくんだ」

「私を好きになるのが、嫌だったの?」

「違うよ、勘違いしないで。ナノを、トロフィーガールにしたくなかったんだ」

「トロフィーガール?」

「まぁ、厳密には誤用だけど」

 彼女の言葉に、必死に思考を回した。

 カノが姉に唯一勝るもの。それは、私から彼女へ向ける愛情の量だ。

 カノが私と親密になれば、姉の大切なものをひとつ、奪い取るような気がしたらしい。略奪愛でも、横恋慕でもない。ただの両想いで、それは否定のしようもない幸福の象徴である。だけどカノが私へ好意を注ぐとき、その背後には常に姉の影があったのだ。

 罪悪感を含んだ恋愛に、真面目ちゃんのカノは耐えられなくなった。そして、私との縁を繋いでいた空手とも距離を置いてしまったのだ。そんな彼女へ抱いた感想は、たったひとつ。

「おバカじゃん」

「あ? なんだよ、ナノ」

「カノは真面目なのに、おバカちゃんだ」

 恋心と執着心。そこに区別をつけるのは難しい。私の姉に追いつけないから、代替品として私の心を手に入れたくなったのかもしれない。それは嫌だからと、彼女の頬に手を当てる。確認、しておかなくちゃ。

「カノは、私のことが好きだったんだよね」

「まぁ……うん……」

「それじゃ、なんで私、チューしたときに殴られたの」

「吃驚するじゃん。一度は諦めた相手なのに」

 そっかー、と彼女の台詞を脳内で反芻する。

 私が抱いた感想は、たったひとつ。

「……照れ隠しなの?」

「うるせぇ」

 まじでぇ? と呆れて言葉も出ない。互いに気持ちを伝えあった今ならチャンスがあるのではと唇を寄せる。結構なチカラで抵抗を受けてへこんだ。見かねたカノが、仕方なしに頬を寄せてくれる。すりすりと私の頬に重なる彼女の頬は、燃えているのではと思うほどに熱かった。

 唇を重ねるのは恥ずかしいけど、頬を擦り合わせるのは良いらしい。こっちの方が恋仲っぽくないか? とは思うけど口にはしない。カノの頬は、すべすべしていた。

「でも、安心したよ。これでカノも空手、再開できるね」

「は? なんで今更」

「あなたのことが大好きな、私からのお願いだよ」

 試合や大会には出なくてもいい、勝利のためだけに努力する必要もない。

 でも、こう考えてくれないだろうか。

「空手を好きな気持ちに嘘を吐いてほしくない。たまにでもいいから、適度な遊びでもいいから、空手を続けて欲しいの。その方が、カノも幸せでしょ」

 本心からの言葉だ。だから、言い淀むことも悩むこともない。カノは少し躊躇ってから、私の耳元で約束の言葉を呟いてくれた。

「……分かったよ」

「ついでに、私をもっと好きになってくれてもいいよ」

 ニヤついて、真剣な雰囲気を誤魔化すように冗談を飛ばす。半分は本気だけど、カノは受け流してしまうだろう。彼女の腰に回していた手を、肩へと置いた。顎を上げて、唇を突き出してみる。絶対、彼女はキスをしてくれないだろうなと思いながら。

 カノが観念したように溜め息を吐いた。

 彼女の肩から力が抜けて、私の腕を取る。

「分かったよ、ナノ」

 真剣な眼差しは、ただ私だけを見つめていた。

 私の前髪を指で避けて、露わになったおでこにキスをする。真っ直ぐな瞳からは私に対する想いが伝わってきて、その真面目さに私はくらくらする。これが、私が好きになった人。私が、恋をした人なのだ。

「それじゃ、今日から本気だすから。ナノも、逃げるなよ」

「……うん」

 私は、火が出そうなほど真っ赤になった。

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