遊びに行った。

 姉に連れられてカノのアパートへ遊びに来た。学校が休みの日、お昼過ぎのことである。私がインターホンを押すや否や、姉は遠慮なく玄関の扉を開け放った。

「やっほー、遊びに来たよー」

「……お姉ちゃん、いつか怒られると思うよ」

「そうかな? 鹿野は優しいから怒らないよ」

 優しくない人には怒られる自覚があるのだろうか。

 にこやかな挨拶とは縁遠く、姉には常識というものが欠けている。全開の玄関前で仁王立ちしているのが、その証拠だ。家主が出てくるまでは三和土へ踏み込まないのが、彼女なりの礼儀らしい。姉の礼節はどこか我流なところがあって、それを天然の一言で納得してもらえるのだから羨ましかった。

「まだかなー」

「まだでしょ」

「んもう。なのちゃん淡白だね」

 手持無沙汰になった姉に肩を揺すられながら、カノが現れるのを待つ。目が回ってふらついたところで姉が手を放して、私はその場にしゃがみこむ。ちょっと気持ち悪いかも。あとでカノに癒してもらわなくちゃ。

 姉は私に悪びれる様子もなく、部屋を覗き込もうとしていた。

「カノ、遅いね。まだ寝ているとか……?」

「鹿野ならねー、あり得る。いつものことだよ」

「試合の時も遅刻寸前に来るもんね」

「そうそう。仔猫を助けてた! とか言いながらねー」

「いつだっけ、本当に仔猫連れてきたことあったよね」

 ずぶ濡れの仔猫を前に、師範や兄弟子達が怒るに怒れなくなったのを思い出して笑う。

 姉と喋りながら、カノが出てくるのを待つ。招かれるまで家に入れないなんて、まるで吸血鬼にでもなった気分だ。この場合、獲物はカノ一人だ。空手で全国大会優勝を果たした姉と争奪戦をすることになるのか。……頑張ろう。

 ゆっくりと立ち上がって、両腕を前に出した。

「ん? 奈乃、どうして構えてんの」

「お姉ちゃんと戦う準備」

「いや、本当に意味分かんないよ」

 試しに左の拳を打ってみたら、無表情に止められた。続けざまの右拳も止められて、カウンターで伸びてきた手が私の鼻をつまむ。カノが出てくるまで、姉妹の不毛なじゃれあいは続くのだった。

「ごめん、片付けに手間取っ……げっ」

 ようやく部屋から顔を覗かせたカノが、私を見つけた瞬間に絶句した。態度が素直で隠し事が出来ないところ。そこも好きだった。踏み出す姉よりも早く飛び出して、カノの胸元へとダイブした。全身を投げ出したことでカノも避けるわけにはいかなくなったのか、私を正面でキャッチしてくれる。

 カノに受け止められたままの姿勢でぎゅっと抱きしめたら、彼女は警戒する仔犬のような唸り声を上げた。でも私は変なことしないし、ただ甘えるために抱き着いている。しばらくじっと動かずにいたら、諦めたように背中をぽんぽんと叩いてくれた。前回のキスの件を忘れてはいないだろう。だけど優しくしてくれる。

 やっぱり私は、カノのことが好きだった。

 遅れて入ってきた姉が、私を見下ろして頬を膨らませている。

「姉よりも姉の親友に懐くの、どうかと思うなぁ」

「カノには、お姉ちゃんからは得られない滋養があるの」

「なんぞそれ」

「喋ってないで離してくれよ。お前の妹、重いんだけど」

 なんて失礼な、と頬を膨らませる。姉には視線で放置するように嘆願したつもりだったが、甲斐なくカノから引き剥がされてしまう。そのまま姉に抱きしめられる。正直ウザいけど、抵抗は無意味なのでしない。

 腕力も武術も、姉には到底敵う気がしなかった。

「で、どうしてナノまで連れて来たんだ」

「鹿野と遊びたいって言ってたし。ダメだった?」

「いや……うーん……いいんだけどさ……」

 この前の一件が相当に尾を引いているらしい。カノは微妙な顔で私と姉とを見比べていた。今日は姉と一緒に、カノの住むアパートでお泊り会だ。大学生とは暇な人種らしく、高校生の頃よりも自由に使える時間がずっと多いらしい。

 私達を部屋へ案内した後、カノは玄関からすぐのキッチンへと向かった。お湯を沸かしているのを見るに、お茶の用意をしてくれるようだ。姉はといえば、ごろりとカノのベッドに寝転んで家主より自由にくつろいでいる。

 私はちょこんと部屋の隅に落ち着いて、カノが使っている猫柄のクッションを抱えた。なんかいい匂いがして、私は頬をこすりつける。猫にでもなった気分だ。

 ぼんやりしていたら、姉とカノとの会話が耳に入ってくる。

「鹿野は一人暮らし、順調?」

「まぁね。ママの手料理が恋しいけど」

「へぇ。私が作ってあげようか?」

「おう、助かる。……ってお前はママじゃないだろ」

 ケタケタと笑いながら、ふたりが喋っている。

 私の姉は柔和な笑顔と穏健な性格の持ち主で、趣味は料理とスポーツ観戦。学業の成績も優秀な、典型的優等生である。才能は多岐に渡り、人気者だった。対するカノは、空手一本しか武器がない。妙なところで生真面目だし、難儀な性格をしているから友達も少なかった。

 高校時代の鹿野カノを端的に説明すれば、ヤンキーの一言で事足りる。対照的なふたりが親友になったのも、空手での縁があるからだった。

「はい、お待たせ」

「お菓子は? 鹿野店はサービスが悪いナァ」

「ちょっとは自分で動けや。ゴロ寝星人め」

 珈琲の良い香りを漂わせながら、カノが部屋に戻ってくる。部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルを三人で囲うと、私の前にはココアが置かれた。口をつけると、ミルク多めで私好みの味だった。暖かくて、じんわりと身体に沁みていく。

 頼んでもいないのに、私に合わせて用意をしてくれる。それは彼女が私のことを期に掛けている証左だし、つまり私のことが好きなのでは――? とか言ってたら怒られそうなので黙っていることにした。

 私の姉は気遣い魔人のカノにも文句があるようだった。

「鹿野。私はアイス珈琲が良かったなぁ」

「えー。文句言うなら自分で淹れなよ」

「冷凍庫に氷とかある? ってか、マジでお菓子欲しいんだけど」

「取って来い。家主をこき使うな」

 ちぇー、と間延びした文句をこぼしつつ姉が台所へ向かった。

 カノと束の間の二人きりだ。だけど特に何をするでもない。彼女と親密な関係になるためには、ある程度の節度を持って近づく必要がある……というのが友人と話して得た結論だ。ハグは良くても、無理に唇を重ねようとか、それ以上のことを求めると本当に嫌われかねない。

 外掘りを埋めよう。何をすればいいか、よく分かんないけど。

 とりあえずは、普段通りに話しかけてみた。

「カノ。夜とか、一人で寂しくないの?」

「別に。ママと暮らしていた頃と、そう変わらないよ」

「残念。私で良ければ抱き枕になるけど」

「結構です。……いや、本当に要らないから。拗ねるなよ」

「拗ねてないもん。悲しいだけなの」

「はいはい。よしよし」

 言葉だけでは慰めが足りないから、カノの元へ近寄る。そっと頭を下げると、彼女の手が私の髪を梳いた。ふへへ、と妙な笑いが漏れる。彼女はもごもごと何かを呟いて、けれど頭を撫でる手は止めなかった。

 好き。そのまま抱きしめて欲しかった。

「一人暮らし、大変じゃない?」

「まー、多少は苦労するけどね。ナノ、自由は責任とのトレードオフなんだよ」

「ふーん。もし助けが必要なら、いつでも呼んでくれていいからね」

「はいはい。……目が真剣過ぎて怖いんだけど」

「今日からでも住み込みできます」

「たわけ。そこまでガチになるなよ」

 だって、本気だし。

 カノは大学生になってから、一人暮らしを始めた。単身赴任していた父親の元へ母親が引っ越していったのだ。元々の家は売り払われて、彼女の生活拠点はこのアパートに移っている。大学を卒業したら両親と同じ地方へ就職先を探すのか、それとも住み慣れたこの地へ残るのか。それは教えてくれなかった。

「おっ。奈乃を甘やかす会が開催中? 私も混ぜてよ」

「カノ成分を分けてもらう会だよ」

「どっちも違うぞ。姉妹揃ってキ……恐ろしい奴らだな」

 いま、なんか酷いことを言おうとしたな。

 氷を手に入れて戻ってきた姉を交えて、しばらく歓談した。

 窓から夕陽が差し込む頃合いになって、姉が晩御飯を作ってくれることになった。姉お得意のボロネーゼだ。必要な材料を買い出しに出掛けた姉を見送った後で、ふと思い出したようにカノが質問をぶつけてきた。

「あれ? ナノってトマト嫌いじゃなかったか」

「生が嫌なの。過熱してあればいいよ」

「うわ、贅沢な奴……」

「いいじゃん。お姉ちゃんのボロネーゼは美味しいんだよ」

「それもそうだけど。……ナノは手伝わないのか」

「カノだって知ってるじゃん。タリアテッレがどうとか、美味しく作るためにはソフリットが大切とか、雑学が多すぎて料理に集中できないの。もー、大変なんだよ?」

「あはっ、あいつ好きだもんなー、そういうの」

 珈琲を飲んだマグカップを洗って、晩御飯用の食器類を先に用意しておく。やることもなくなって、私はカノに甘えようと近寄った。また頭を撫でようととしたのか、カノが伸ばしてきた腕をするりと抜ける。懐へ潜り込んだ時には、彼女の警戒心は最大まで高まっていた。

 表情はやや引きつって、宙に浮いた右拳は固く握られている。

「変なことしないよ」

「って言うけど。前は……したじゃん」

「反省してます」

 だから許して、とは言わない。

 カノは夢見がちな少女だった。部屋の本棚には、囚われの姫君を王子様が迎えに来てくれるような小説ばかりが置いてある。小学生まではサンタを、中学生まではコウノトリを信じていた人だ。大人の階段を登るたび、子供の妄想は現実に塗りつぶされていく。それでも彼女なら、キスには特別な意味が込められているはずだ、と考えていても不思議ではなかった。

 カノは、本当にいい子ちゃんだから。

「好きだよ、カノ」

「…………」

 返事はない。ただ好意を受け止めるだけでも、彼女は躊躇するのだ。

 真っ直ぐだから不器用で、妥協と世渡りが下手な人だった。生真面目な性格が悪い方向へ作用して、友達の少ない人である。本当の彼女はすごく優しくて、実の姉よりも私を甘やかしてくれる人なのに。

 カノの胸元に飛びこんだ私の願いは、たったひとつ。

「ぎゅっとするだけ。するだけでいいから」

「眼が怖いんだよ。ちょっと、ナノ」

「ね、お願い」

 がばっ、と彼女に抱き着いた。

 放り出した猫柄のクッションが、誰もいないベッドの上に落ちる。

 カノの防衛本能に訴えたのか、それなりの力で叩かれる。背中と脇腹で受ける拳は、この前顔面に貰ったのと比べればたいしたことはない。それでも、流石に空手の経験者だ。彼女の拳は結構痛くて、奥歯を噛み締めて耐える。数発殴られたけど、カノにくっついたまま離れない。

 無抵抗な私を不審に思ったのか、彼女も殴る手を止めた。

「おい、ナノ」

「ぎゅっとして」

「本当に、その……妙な真似はするなよ」

「うん。約束する。指切りしようか?」

「……いらないよ。お前は、本当に……」

 警戒が解けたようだ。彼女の肩から徐々に力が抜けていく。

 大きく深呼吸をして、決意したカノが私の背中に手を回す。強めのハグだった。私の身体の奥で心臓が大きく跳ねる。耳元で彼女が溜め息をついただけで、春風にくすぐられたような感覚に襲われた。背筋がぞわぞわして、腰が浮く。

 子供を寝かしつけるように、カノは私の背中を優しく叩いた。ぽんぽんと軽い音を立てて彼女の手が私の背を跳ねている。ひたすら心地よくて眠ってしまいそうだ。

「好き。超好き」

「耳元で囁くな。バカ」

 どこか上ずったカノの声が鼓膜に響く。心から溢れ出る好意を言葉にしただけなのに怒られてしまった。仕方なく口を塞いで、彼女に体重を預けた。頬が彼女の肩に触れて、体温を直に感じる。

 首筋になら口付けをしても怒られないだろうか、と考えて踏みとどまった。

「もっと撫でてよ、カノ」

「ヤだよ。お前も高二だろ。子供みたいなお願いするなって」

「いいじゃん。チューしてくれてもいいんだよ」

「は?」

 ぐりぐりと頭を拳で擦られる。甘い拳だった。今回は流石に冗談だと理解してもらえたようだ。撫でられて、甘やかされて、たまに冗談を投げるとぽこぽことじゃれるような拳が飛んでくる。カノの胸に顔を埋めて、彼女の心臓の音を聞く。ただ、それだけで癒される。

 しあわせだった。

 夢見心地に揺蕩っていたら、玄関から誰かの声が聞こえてくる。のぼせた私は動けなくて、カノは何だか慌てふためいている。誰が来たのだろうと溶けた頭で考えていたら、私の姉が買い物から帰ってきたようだ。

 ただいま、と言ったポーズのまま部屋の入口で固まっている。

 蕩けるような幸福に浸りながら、姉に手を振った。

「おかえり、お姉ちゃん」

「……鹿野。ウチの妹と、本当に仲がいいのね」

「なっ、違う。これはナノが甘えてくるだけで」

「はいはーい。奈乃、変なことされたらお姉ちゃんに言うのよ」

「違うって。変なことをされたのはむしろ……」

 カノがこの前のことを口走りそうになった瞬間、部屋の温度が下がった気がした。水を掛けられた猫のような悲鳴を上げて、カノが私を引き剥がす。台所へ消えた姉を追いかけて、あれやこれやの弁明をしているのが聞こえる。

 三十分後、ようやく部屋へ戻ってきたカノは半泣きだった。

「ナノの姉貴、マジで怖いんだけど……」

「仕方ないよ。お姉ちゃん、私が好きだから」

「分かっているなら、もっと時と場所を選べって」

 泣き顔も可愛いカノを慰めながら、確かになぁ、と独り言ちる。我が姉は軽度のシスコンである。甘やかしてくれないけど、独占欲は強いのだ。今でも、一緒にお風呂入ることがあるし。

 ベッドに倒れ込んだカノと添い寝をするか悩む。なぜか台所へと続く扉越しに視線を感じて、ぺたりとその場に座り込む。部屋に置かれたテレビの電源を入れると、微塵も興味の湧かないニュース番組が流れ始めた。アナウンサーの声に隠れるようにして、カノと小声で喋る。

「ごめんね、カノ」

「もう。ナノのせいだぞ。どうして私に甘えるんだ」

「だって、カノのことが好きだもん」

 宣言して、背後を確認した上でカノの手を握る。手のひらを重ね合わせるだけで私の体温は上がっていく。彼女の爪は短く切り揃えられていた。その爪に薄くマニキュアが塗られているのを見て、私も真似しようかと思う。カノは、爪先まで可愛かった。

「どうして私が好きなんだよ」

「だって、カノだから。他に理由なんてないよ」

「……姉貴の前で、それ言うなよ」

 布団の下で指を絡ませる。彼女はどこか真剣な表情をしたけれど、私の告白に対する答えは返してこない。ひょっとすると、私の魅力が足りないから伝わらないのだろうか。高校時代よりも伸びたカノの髪に触れると、見知らぬヘアピンが付いていた。私も欲しいと言えばくれるだろうか。私の短い髪には、似合うか分からないけれど。

 でも、まずは。

 恋心を伝える方法を模索しようと考えた。

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