第5話

 至って何も無い、

 はずだったけれど今は、もうそろそろ近づいている不穏に、私は辟易としている。

 パソコンの画面には、メールが一通。すごく重要で、ハッキングなんかされたらたまったものじゃないのに、私はもう隠す必要すら感じない。

 「また来てる。」

 何かを急かすように、何通も、立て続けにメールがありずっと未読のままだった。

 分かってる、小さいころからずっと、勉強をすることで私は救われていたから、アスリートの如く、脳の筋肉を酷使したのだから、こんな単純な事実、理解できないわけがない。

*私は知ってしまった。

 私の暮らす平穏は、消え失せるということを、誰よりも早く、知ってしまった。

 世界の平穏は、誰かの努力によって成り立っていて、ついに、崩れようとしている。

 近頃、ずっと不穏だった、これは世界の話であって、私は至って平和だったから。

 「お父さん、いる?」

 「いるよ。」

 「今日仕事長いね、大丈夫?お茶入れようか。」

 「ああ、ありがとう。頼む。」

 「分かった、待ってて。」

 娘が、最近家に帰ってきた。

 もう大きくなり独立した彼女は、子供を抱えて里帰りをしている。といってもまだ出産はしていない、一時的に母、つまり妻の世話になるためにやってきた。

 だというのに、なあ、知ってるか?

 もうじき私達は今までの価値観を失う。物価もなにも、経験したことがない事態に陥って、結局多くの人が死ぬ。

 だから、つまり。

 私達は切り離されてしまうらしい、世界の全てから、そういう通達が、やってきた。

 競争に負けたのだろうか、気が付けば私達は、居場所のないことになっていて、爪の跡すら残せない程、弱っていた。

*大学を出て、官僚として勤めていた。自分には向いている仕事だと思った。営業職のように神経をすり減らして成果を上げる友人を見ている中で、私はただ業務を全うにこなせば評価されたから、恵まれていると感じていた。

 年数を経て、昇進した。

 立場のある人間となって、部下を持つことになり、私は気付く。ああ、私が楽だと思っていたこの仕事に、向かない人間もいるのだと、むしろ彼らは別の仕事をすればもっと、成果を出せたのかもしれない。だが、この狭い世界にしがみつくことしか、頭の中に思い描けない。世界は広いのに、一向に、彼らは気付くことができない。馬鹿らしかったが、そう感じることができるのも、一見に私が充足しているからだった。私がそうであるならば、彼らは違う。彼らはきっとその分だけ、私を疎み、自らに絶望する。

 利人りひと、利人は賢い男だった。酒が好きで良く酔いつぶれていたが、私は5歳下の可愛い後輩を、いたく可愛がった。なのに、「先輩、今いいですか?」と言われ、

 「ああ、いいよ。何?」と何気なく返答をした。

 「僕、辞めます。」

 「え?」

 一体何のことだか分からなかった、確かに利人は賢いが要領が悪く、無駄に頭を使ってしまう所があった。だが、そんなのはその人間の特徴の一つにすぎず、利人は利人の良い所を最大限に発揮すれば、誰よりも輝ける男だった。

 「いや、待って。何の話だよ。悩みがあるなら私が聞くからさ、そうだ、今日飲みに行こう。」

 「…はい。」

 多少不満のあるような言い方だったが、何とか話をする機会を設けられて私安堵していた。利人は、弱い男だった。それは私が一番よく分かっていた。だけど、辞めるなんて、私は嫌だった。ずっと可愛がってきた後輩と、こんな形で離れることになることが、単純に嫌だった。

 だけなのに、利人は死んだ。

 利人は、相当悩んでいたらしい。結局、私達が話し合う前に、彼の訃報が先に入った。彼は孤独で、家族と呼べる存在がいなくて、思いつめてしまうことは分かっていた。だから、私は数いる後輩の中でも、特に可愛がっていた。気にかけて、面倒を見ていた。だからその分、死んでしまったことに対する後悔は、計り知れないものがあった。

*「本田さん、死んでしまったって。」

 「ああ、聞いた。あの人、ちょっと馴染めてなかったから、辞めるのかもって思ってだけど、まさか死ぬなんて、俺等が追い詰めたみたいで嫌だよな。」

 「本当だよ。」

 「なあ。」

 職場では、同僚の自殺という現実が、噂として消費されていく。

 私は、でも。

 利人はそんなことで死んだのではないのだ、と考えている。あいつは、実際に仕事を辞めるつもりでいたし、私にそう伝えていた、だからきっと、もっとあいつにしか分からないジジョウがあったんだと思っている。

 一番身近にいたのだから、分かるはずなのに、人間はどうやってもお互いを把握して理解することはできないのだと、小さな絶望が胸に燻る。


 そうやって、色々なことを飲み込んできた先が、これなのか。

 

 滅ぼされる、問答など無用に、私達は今までの生活を失うしかない。

 そして、それを知っているのは私だけなのだ。いや、正確には違うけれど、他の人には話せず、妻の前でも娘の前でも、私は笑うしかなかった。

*この仕事を長く続けていて、一番辛かったのが利人の死だ。あれはこたえた、できることならもう経験したくはない、だけどこれから、身近な人がどんどん死んでいくのだろう。弱くて力のない者から順に、強くて不遜な奴らが最後に、ああ、でもそうか。みんな死んでしまうのなら、仕方が無い。

 だけど、私は嘆いてはいられない。

 今までに積み重ねてきたことを、無駄にはできない。だから、もう打ち明けようと思うのだ。

 今、パソコンにメールを一通打ち込んでいる。私の部屋には監視カメラが設置されていて、外すと牢屋に入れられる。私が仕事で扱う物は機密で、つまり世間にばれるとどうしようもなく混乱が生じてしまう物ばかりで、妻も娘も私の部屋にそういう物がつけられていることを承知している。

 

 「ふう…。」

 椅子を離れる、もういいんだ。全部後は、おのれそれぞれで考えるべきことなのだから。

 「おい、コーヒー飲まないか?ケーキがあるんだ。おいしいやつだぞ?」

 「ホント?わーい。」

 「君も。」

 「あら、ありがとう。」

 妻と娘に囲まれて、今テレビのスイッチを点ける。


 「えー、先ほど政府から発表がありました。ああ、その前にですね、密告がありまして、テレビ局としてもどう扱えばいいのか分からなかったのですが、どうやら、事実であるということです。えっと、つまり私達は、今週中に国がはく奪されることになったということです。世界の大多数が賛同していて、もう確実な事実になっているということです。えー、どう受け止めればいいのか、正直分かりません。世界は、混乱していて、一体。」

 普段理知的に頭で情報を処理し、的確にアナウンスすることに長けているはずの彼らも、現実をどう受け止めていいものか、わからないのだ。

 「佐恵子、聞いたか?」

 「…うん、聞いたわ。」

 僕たちはすでに、もう打つ手はなく、ただひたひたと迫ってくる現実に追従しなくてはいけないらしい。こんな大事なことを、なぜ隠し通せると思ったのか、やっぱり僕には分からない。

 ずっと呼吸をし、生きていた。懸命に生きていただけなのに、なぜ?そんな思いが胸をかすめながらも、僕は妻の顔を見つめる。何かが起こった時には、いつもそうしていたから。娘が問題を起こした時も、妻がくずおれそうになった時も、僕たちはこうやって、生きてきた。

 今思うのは、一人じゃなくて良かったってこと、それに愛している家族がみんなで集まれるのだから、一人どころじゃない、その事実が幸せ過ぎて、それをかみしめることのありがたさを知ってしまって、泣いてしまった。

 普段泣かない僕が、こんなにうろたえていたのだから家族は困った顔を一瞬したが、その瞬間に僕もやらかした、と思っていたが、すぐに顔を綻ばせ僕の背中をさすってくれた。

 不安があるのは仕方が無い、この先にはきっと毎日のように頭を悩ませる現実がやってくるのだろう。そして、それは今までとはきっと比にならない。けれど、僕は。僕は、僕には、家族がいるからそれでいい。

 「ちょっと、京が帰って来たわよ。」

 「ああ、そうか。今行く。すぐ行く。」 

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家族の成り立ち @rabbit090

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