第4話
しがらみのない場所で、羽を伸ばすように手を挙げる。
その向かう先にはあの人がいる。
「おお、有子。」
あの人は、私のことを捨てたのだ。私は、とても大事な人に捨てられるという人生の中で一番経験したくない事柄を体験させられてしまった。全く、たまったもんじゃない、そう思っている。
何だか最近、いつもふわふわしたような心地になっていて、どこか淀んでいて、私の記憶は定かではない。でもなぜか、この場所にいる間は記憶が積み重なっていて、だからここだけは私が考えて生きていられる所なのだと思っている。
「富士雄吾。」
呟いてみる。彼は、一体どこにいるのだろう。私を捨てて、どこへ?あれ?捨てられたんだっけ?私は、救われたんだっけ。
記憶がまたあいまいになってくる。
もう私は、消えたかった。
ぼんやりと窓の外を眺める、彼女はいつもいつも同じことを繰り返している。
「そんなことをして、何になるの?」
問いかけてみたこともあるのだが、彼女には届かない。彼女の心はもう遠く離れた場所へ行ってしまっていて、俺が辿り着くことはできない。
*「今日さ、君の娘が来たんだよ。京が、来てくれたんだ。」
有子はほんやりとまた外を眺め、俺が呟いた音にだけ反応を示す。意味はきっと掴んでいない。そんなことは分かっている。
分かっているけど、「すごく美人になってた。君に似てクルッとした瞳が印象的な、でも利発そうでクールな面立ちが、何か俺達の子だなって思ったんだ。」
「………。」
そう言えば、あの子はもうしばらく来ていない。いつでもおいでって言ったけれど、最後に会った時にはちょっと表情が明るかった。
一度、お母さんに会ってみるか、と問いかけたけれど、「いい、もう平気だから。」と言われた。
それはそうだ、と俺は思う。今の有子の姿はあまり他人に見せられるものだとは思えない。身内ですら、少し躊躇われるだろう。
でも、それとは違って何かスッキリとした表情で、一旦佐恵子さんの家に帰ると言っていたから、だからもう来ないつもりなのかもしれない。
俺は、それでいいような気もするし、でも掻きむしるような寂しさを覚えることもある。
だけど、自業自得って言葉があって、俺はただそれを受け入れるしかなくて…。
そんなことを考えていると、また有子が叫びだした。仕方ない、病気だから。俺は一生彼女を手放さない。そうやって心を砕くことでしか、満たされないから。
「………ねえ。」
たまに視線を合わせて彼女は俺を見る。正気に戻ってくれたかと期待してしまう。けれどそれは無駄なことだと分かっている。分かっているけれど、その繰り返しに疲れ、でもその瞬間に癒やされる。
*「有子、愛してる。」
彼女はクスリと笑う。気のせいかもしれない、でも俺はその偶然かもしれない必然に、涙を流す。
娘は、京はもういない。
「あなた、瑞は?休みだって言ってなかった?」
いつもアルバイトに出かける時間なのだが、店側から一方的にシフトを減らされ、暇を持て余しているらしい。
「いや、今日は出勤だって。」
「ふーん。」
瑞は、最近甘えん坊で、勝ち気な子だとは思っていたが、実はこんなに寂しがりだったのか、と心底驚いている。
「ねえ、私達って瑞にさ、苦労させちゃったのかな。」
何気なく口にする。だが夫は目を見開き私の顔を見つめる。
「まあなあ…。」
はっきりとしない返事、でもそれは夫もそう感じているということだろう、私はそうやって物事を勝手に考える癖がある、でも。
「まあ僕達は京に手をかけてきたけど、でもさ。この四人でいたから、こんなに温かくて家族っていう空間を作れたんじゃないのかな。」
夫はそう言って少し茶を飲む。ズルズルとすするその姿が、私にとってはいつまでも可愛くて仕方がないのだと思う。
こんなに素敵な人が、私を好いてくれて、私も彼を好いていて、未だに幸せが抜け落ちないのだろうかと冷や汗をかく。
「お母さん、ただいま。」
小さい犬のようだ。瑞はふわふわとした服を身にまとい、笑う。私はその姿を見て折れそうになる。こんなに幸せで、いいのかって。
「お姉ちゃんからメール来たよ。元気だって、製菓の専門学校に行くらしいね。羨ましいよ。」
京は料理なんかしたことがなかったのに、してみたいと言いすぐに学校を決めた。丁度そういう時期だったし、進学先としてはもってこいなのかもしれない。
料理ができれば食うには困らない、それを仕事に出来る技術があれば、生きていける。
私は単純にそう思って、でも京には研究とか、そういう道を歩んで欲しかったと幼い頃から本が好きだった彼女を見て呟く夫を、私はたしなめた。
*「まあ、いいか。それはいいんだけど、全く。」
「呆れちゃうね。」
「まあね。」
佐恵子と親しくしている近所に住む冴島さん、彼は主夫をしていて平日のお昼間、その時間はとても暇そうにただぶらついている。
たまたまスーパーで出くわして知ってる人だったから声をかけ挨拶をしたら何だか知らないが仲良くなってしまった。
一応、男性だから夫には伝えていて、一度家に来冴島さんと親しそうにしているのを目撃したことがある。
冴島さんは、そう、とても人馴染みが良くて、だから主夫をしていられるのだと私は思っている。
「佐恵子さんから聞いた話、妻にもしてみたんだ。」
「へえ、何だって?」
「確実にそっちが悪いって、言ってた。」
「でしょでしょ?」
佐恵子は急ぎ気味に言う。みんなから批判されているのにこの人達は、私を責めない。
家族で手一杯だった頃から、私は余裕を持ち一段落した前職場を辞め、店を開いた。
昔から飲み物に凝っていて、でも素人の域を抜け出していないと自覚しているのに、むしろそういうハンドメイド感を出して売れば、と思いつき始めたら経営は思いの外軌道に乗った。
「…はあ。」
しかし店舗経営には課題が山積し、いつもいつもいつ抜け落ちるかわからない底の上で足を踏み鳴らしている感覚になっている。
*近所の寄り合いで、最近噂になっている。
不審者。
閑静過ぎるほど穏やかなこの住宅街に位置する公園に、住み着く浮浪者。
だけど私は知っている。あの人はこの街で生まれ育ち、誰も知らないわけではない、はずなのに、彼女を知る人は口を閉ざしている。だいたいは新しく移住してきた新参者の住人が文句を言っていて、早く排斥してくれとせがんでいる。
まあ、その気持ちも分からなくはない、だから元々古くから住んでいる住人は何も言えないのだから。
悪いとは思っているのだろう、彼女はこの街で傷付き、壊れてしまった。
とてもキレイな人で、元々は劇団で女優をやっていたらしい。収入は多くはないが、みなが羨むような優しい夫とともに広い家に住んでいた。
けれど、彼女の夫は殺された。
彼女をつけ狙う男によって。あまりにもキレイ過ぎることが罪であるかのように、彼女は周囲の人間から責められた。
夫を理不尽に殺され、挙げ句関係のない人間によって追い詰められる。
彼女の心中はボロボロだった。
だから、街の子供を叩いたのだ。
家の前で落ち葉を掃いていると、見ず知らずの子供に言葉をかけられた。
「魔女」、と。
魔女なんて、でも大人たちは彼女をそう呼び、敬遠した。きっと静かな街に似つかわない事件を恐れていたのだろう、けれど。
その時彼女の糸は切れ、目は色を失い、ただ泣きじゃくる子供を見つめていた。
叩かれた子供の母親は、激しく彼女を罵倒したのだと言う。
*なんて言う噂が流れている。誰がどう脚色したのか知らないが、馬鹿らしいと思って聞き流していたら、寄り合いのお婆さんに怒られてしまった。
やる気がない、人の話は聞きなさいって。顔を真っ赤にしてそう言う彼女はどこか苦しそうで、でも。
公園に住む他人を排斥したいとも、関わりたいとも思わない。だって、他人だから。
本当のことは知らない、けれどその浮浪者と呼ばれる女性は最近姿を見せない。もしかしたら、行政に保護されたのかもしれない、だけどそれならそれでいい。
「冴島さん。」
スーパーで野菜を睨みつけている冴島さんを私は見つける。目利きをしているのかやけに顔が近い。そしてそれを年が少し上を回っているであろう人が、迷惑そうな顔で見つめている。
「ああ、気づかなかった。」
「もう、集中し過ぎ。」
「悪い悪い。」
「そんなに吟味する必要あります?」
「あるんだよ、妻がさ。そういうの気にするから。」
「へえ。」
私は神経質そうな彼の妻を思い浮かべる、そして確かに言いそう、と思い少し笑ってしまった。
「あ、笑った。」
「すみません、おかしくて、仲が良さそうな二人を考えるとどうしても。」
そう言ったら彼は満足したような顔をして、去った。
本当によく出くわすのだ、スーパーで買い物をする時間が重なり、今では喋りはしてもさよならすら言わない、砕けすぎた関係になっている。
*「もう、冴島さんって分からない人だなあ…。」
私はただぼんやりと呟いて店を見て回る。
私には、冴島さん以外に親しくしている人間があまりいない。この住宅街にやってきたのが子供達が大きくなってからで、あまり地域との関係を築けていない。ママ友は、幼い時に出会えるもので、もう大きくなってしまった子供達には必要なく、そんなことをたまに考える。
夫は穏やかで優しく、私は彼を愛している。けれど、何か物足りない。何だろう。
最近過食に走っている、夫が帰ってくるのを待っていたり、たまに家族が揃ったりするのを待つ間に暇を持て余して際限が無くなる。
恐ろしい程その欲求は強く、私は少し持て余している。
品物が並ぶ店内を見回して、佐恵子は一人ため息を吐いた。
「おい、おい。起きろ。」
あれ、夫の声がする。何だろう、今日は休日だっていうのに慌ただしい。まだ眠りから覚めていない佐恵子の感情は、下手に刺激されてささくれだっている。
はずだったけれど、そんなことは言っていられなかった。
冴島さんが、捕まった。
呆然とした彼の妻に私は麦茶を持っていく。
「飲んでください、温めたので落ち着くと思います。」
私の気遣いにいちいち、怯えたようにかしこまる彼女に少し心が揺れてしまう。
内弁慶なのだろうか、冴島さんを介してしか会ったことがない彼女は、一人になった途端、萎縮したように縮こまっている。
*「…あの、大丈夫ですか?」
おそるおそる尋ねる、彼女の顔は憔悴しており、正直目が痛くなってしまう。
何が起こったのか、まだ理解できていない。はあ、全く。なんだって言うのかしら、冴島さんは昨日まで穏やかに笑っていたのに、酔っ払って人を殴ったのだという。
優しく、でも弱い人だとは思っていた。だって笑顔の陰に苦さが潜み、それが彼を苦しげに見せていたことを私は知っていた。けれど自分だってたいがい、まともな人生は歩めていない。他人の暗さに頓着して、退けようなどという発想は浮かばなかった。
「夫は…。」
「うん。」
まだ年若い彼女の絞り出すような声に、つい娘を重ねてしまって子供をあやすようになってしまう。
大人なんだから、失礼だったかもと思いながら私は彼女を見ている。
「それで、夫は。」
先が言いづらいらしく、淀みながら話す。
私はそれを、ただ待つことにした。
「夫は、前にも人を殴りました。だから、私が働いて彼は家にいるんです。会社の人にもうまく説明できなくて、彼を扶養に入れている理由が、言えないんです。」
*昨日はちょっと外に出ていて、飲みに出歩いていて、酒癖が悪いのは知っていたけれど、でも最近は穏やかだったから、甘く見ていました。
「私が甘かったんです。」
彼女は説明をしながら後悔をにじませる。冴島さんは訳アリで、でも普段の様子からはそれは分からない。だから近所中の冴島さんを知る人は、噂をすることを止めない。
きっとみんなも困ってる、どう扱えばいいのかは誰にもわからない。
事件は、深夜町の中で起こったのだという。
居酒屋で泥酔し、ずっと親しく話していた町内の男性と、殴り合いの喧嘩になったらしい。
殴り合いと言いながらも、病院送り、ボロボロにされた男性は、談笑の後、些細な意見の違いに顔を真っ赤にし狂ったように言葉を重ねる冴島さんに恐怖を抱いたのだと言う。
だからもう退散しようとしたら、「逃げるのか。」と低く呟かれ思い切り殴られた。
いきなりの事態に対処できず、またその理不尽さに憤りを覚え、彼も殴り返したらしいのだが、冴島さんは強く、強く、人でも殺してしまうのではという勢いで淀みがなかった。
そして、目を血走らせた冴島さんをよそに見ていた人達が警察を呼び逮捕されたのだと言う。
*「酒癖が悪い、何ていう物じゃないわよね。」
私はそう言った。彼女はだから、目を一瞬引きつらせて、でも頷いた。正直、憔悴している彼女にそんなことを言うのは良くないとも思ったけれど、でも私は知りたいのだ。そして、こんな話を私にしている彼女も、きっと誰かに話したくてたまらないのだと思う。莫大な不安が体の中に存在していて、吐き出さずにはいられない、それは今の状況では至極自然なことのように感じられる。
「
「大丈夫?」
「ああ、あの…。」
そりゃそうだとは思うんですけど、彼すごく動揺していて、でもだんだん諦めたのか笑い始めて、私もどうすればいいのか分からなかったから一緒に笑いました。
後で分かったんですけど、その時彼、仕事がすごく忙しくて、参っていたらしくて。でもみんなは先に帰ってしまって、でも一人じゃ終わらせられないって上手く伝えられなくて、私はこの人、不器用だなあって思ったんです。
「ゆり、僕と結婚してくれないか?」
「え?」
「頼む、好きなんだ。」
後で付き合うことになって、それで何かすぐプロポーズされて、ちょっと動揺したけど、でも私、高行のことが大好きで、他に選択肢が無かったんです。
知っていく内に分かっていました。お酒を飲むと暴力的になることも、とても弱い人で仕事もいつまで続けられるか分からないということも、でもその弱さが私の持っている弱さととても似ているということも、知っていました。
「…それは、じゃあこの事件は起こるかもしれないって分かっていたのね?」
「はい。」
目の前でうなだれる彼女は、何も見えていない。そんな感じを抱かせる。ただ、ぐったりとしたまま顔を上げず、ぽつりぽつりと思いをこぼしていく。
私は、今はただそれを聞いてあげることが最善で、だからお茶を継ぎ足しながら彼女の話に耳を傾ける。
「へえ、そうなんだ。」
夫は冴島さん夫婦の話を聞いて、そう言った。夫から聞いた事件だったが、冴島さんと直接親しかったのは私で、だから内実も私から伝え聞くことしか知らない。
私は、少し疲れてしまって、誰かに話していたかった。
「でもなあ、前話したときはすごくいい人だと思ったのに。殴るって、どうしてなんだろう。」
夫はそう呟くけれど、私は思う。
そんなの、人間なんて何も分かっていないからよ。分かることなんかできないのよ、制御できないものを制御しようとして心を砕く人間ほど、エネルギーを使い果たして壊れていく。
それだけを、私はちゃんと知っている。
*「まあ、色々あるみたい。」
「そうだね。」
もう町は平然としていて、当たり前のように日常をこなしている。
平気な顔をして、彼女も。
あれからしばらくは関わっていない、というか仕事が忙しいのか、毎朝早く出勤しているらしい彼女とは、これといって関わる機会がない。
「こんにちは。」
夜遅く彼はやってきた。
幸い、町内の揉め事だから穏便に済ませたいのか、不起訴ということで話はまとまったらしい。
けれど、これは噂でしか知らないのだが、被害者の家族が冴島さん夫婦にこの町から引っ越すことを求めているらしい。でも、そうだよな。
だって悪いのは多分冴島さんで、普通の感覚だったら、引っ越すはず。
でも、
「冴島さん。久しぶり。」
私はそう言って彼の方を見る。
「うん、夜遅くに訪ねてしまってすみません。」
「いや、大丈夫。」
でも内心は驚いていた。一体、何の用だろう。そもそも冴島さんと私の関係は何だっけ?
こんなに、近しいものだったのだろうか。
訝しみながら、彼の真意を掴めない、だから、とても緊張している自分に気付く。
「それで、いや。冴島さんは大丈夫なの?何か大変だったから、奥さんとか平気?私、あまり会えていないのよ。彼女、ちょっと弱いところがありそうで、心配なの。」
「ああ、まあ平気です。妻は弱いけど、潰れない人なので。いや僕がそう思っているだけで、違うのかもしれませんが、とにかく心配して頂いてありがとうございます。ご迷惑をおかけしたのに、すみません。」
*「いや、あの。」
私が返答に困っていると、彼がスッと立ち上がった。立ち上がった、というか玄関の段差を乗り越えて部屋へと入ってきた。
大丈夫、家には夫がいるんだから、平気。
特に何をされたわけでもないのに、心の中では自分を落ち着かせることで必死になっている。ああ、どうしよう。なんだか心がざわつく。冴島さんが悪い人じゃないって分かっているはずなのに、どうしようもなく怖い。
「じゃあ、お邪魔します。」
「…はい。」
入って良い、と入っていないはずだったけれど、そもそも冴島さんはこういう場面であまり気を使わない人だったなと思い出す。そういう所が、少し引っかかっていたことは否めないから。
「こんばんは。」
今で本を読んでいる夫に冴島さんは声をかけた。夫は少し驚いた顔をして、私の方を見る。見られても、困るのよ。追い出すわけにもいかないじゃない、という感情を何とか伝えようと試みたのだが、夫はなぜか屈託ない笑みを浮かべて冴島さんをダイニングテーブルに座らせた。
「お茶入れますね。」
「ありがとうございます。」
何だ、招き入れた私ではなく夫が、お茶を入れてくれるのだという、もしかしたら、助けてくれたのかもしれない。
私は冴島さんの正面に座って、もじもじと落ち着かない。
「突然訪ねてしまって、すみません。失礼かなと思ったのですが、用件があって。」
用件?
「用件?」
「はい。」
「あの、妻のことなんです。あの、言いにくいんですが、私が捕まった時に、だいぶお世話になったそうで、そのこともお礼を申し上げたくて、でも。あの、実は。」
「うん。」
「妻が参っていて、毎日家を出ることすら近所の人に見られたくないと言い張っていて、でも引っ越すわけにはいかなくて。ここ、僕の家は妻の親から借りているんです。だから、適当に出て行くわけにはいかなくて。妻の家族も僕が起こした事件のことは知っていて、でもそこしか行くところはないだろう、適当な所に行かれたら心配になるから、と言われてどうしようもなくて。」
何だ、そんな事情があったのか、そして。話してみればいつもの冴島さんで、だから私は聞きたかった。
「それなら仕方ないわよ。冴島さんの奥さんも、もし辛いんだったら私が話したりして、ちょっと気分転換させてあげる。でもさ、私はね。冴島さんが何で事件なんか起こしたのか、分からないの。一体何で?」
冴島さんは一瞬ホッとしたような表情になり、でも私の質問にぎょっとしていた。それはそうか、捕まった理由なんて、あまり話したくないんだろうし。普通はそうだ、そう思う。
「いや、実は。近所でちょっと飲み会があって、僕も誘われて行ってみたんです。会社に勤めている頃は、ストレスから逃げるためにお酒を飲んで、妻を殴りました。けど、今はそういうストレスから解放されていて、ただ家事に没頭していれば生きていけていて、穏やかだったんです。だから、大丈夫だと思ったんですけど。」
そう言って、彼は下を向いた。
「…それで?」
私は慎重に尋ねる、気分を害するようなことはしたくない。ただ、誰にも話さないよりは、私にでも話した方が、楽なんじゃないのかと思った。だって、冴島さんは理由なく何かをする人ではない、そう思ったから。
「ちょっと酔ってきて、で、みなさん。お勤めの後だったから、僕だけ仕事をしていない主夫で、揶揄されたんです。それだけ、なんです。」
「…うん。」
そうか、そんな理由だったのか。
「でも、そうやってすごく沸騰するような感情を抱いた時に、気付いたんです。僕は、妻を働かせて一人専業主夫でいることへの罪悪感を、しっかり持っているということに。そうして、何だか。壊れていって。」
*「そう、でも。」
私が顔をしかめたまま、言いかけると、先に彼の方が口を開く。
「僕は、理解してもらいたいなんて思いません。理解されないことは分かってるので。」
そんな、了承事項のように言われても、私は返答に窮する。この人、こんなに歪んでいたのか、でも本人も分かっているようだ。だから、その変えようのない不変さに、頑なさに、私は苛つきを感じる。
ただ、殴らなければいいんじゃない、なのに、何なのよ。この人は開き直っている。私はそう思うけど、考えても考えても、やっぱりどうしようもない。
もう分かり合えないことだけは、分かった。
今日は日がいい、朝から晴れていて心地よい。
バイクでぶっ飛ばすには丁度いい。
鬱屈した気持ちを抱えながら、私はエンジンを吹かす。
排気量が小さいので大量に吹かさないと公共の速度に乗れない。
だけど、安くどこにでも行けるから私は未だに手放していない。
家があるから車でもいいのだが、寒いし暑いし、でもそれを飼いならすのがいい。
苦心すればする程、いいような気がする。
*若い頃は夫を、後ろに乗せて走っていた。私は免許をグレードアップさせ、大型まで乗れるようになっていた。そして今所有しているのはそれなのに、ただのちっぽけなスクーター。マニュアル車もいいけれど、クラッチ操作など煩雑なことが多く、それで事故を起こすことが怖いので今はこの一台しか持っていない。案外、マニュアル車のシートは小さく、座って乗れるこのバイクの乗り心地の良さにしっくりとくるものを感じている。
「ああー、気持ちいい。」
部屋の中のこもって、鬱屈としてしまった時にはこうやって外へ出る。あまり友達も多くないから、このバイクが私を外へと連れだしてくれるのだと思っている。
本当に、優秀な乗り物だ。
「大丈夫?」
ハッとした。ぼんやりとベンチに座り海を眺めていたら寝ていた。そんな、馬鹿な。だって今までだって一度たりとも寝てしまったことなど無い。屋外の風にさらされていれば、人間はあまり眠りにつけない。それなのに、
「…え、ええ。」
若い女性だった。うろたえてしまった。だって彼女はあまりに美しかったから。何ていうか、日本人形を現代風にした感じ?というのだろうか、とにかく目鼻立ちが整い、でもつやのある黒髪に目がひきつけられてしまう。
「ああ、声をかけてくれたのね。ありがとう。」
年の功を使って、私の方が早口にまくしたてた。彼女は、ただじっと私を見ている。
「あの、それ。」
彼女の目は、もう寝ている私を見ていなかった。どうやら、聞きたいことがあったらしい。
「あ、これ?」
これは、私がツーリングで所持しているカメラだ。ツーリングに持って行って、記録を残す。何かを残せば、私は平気になる、若い時は色々な悩みがあったし、とにかくすがる様に何かをしていた。何かをして、自分を保っていた。
「古くて、すごくいい奴ですね。」
確かに、このカメラは当時そこそこの値段がし、今はプレミアがつくらしい。そして、年季も入っているからか風合いがあって私もすごく気に入っている。
けど、この子は?
見るからに若く、そして綺麗な子で、こんなおばさんにまで話しかけるなんて、相当なカメラっ子なのかもしれない。なんて思っていると、
「私、カメラには詳しくないんです。」
「え?」
「でも、兄がいて、兄がカメラをよくいじっていて、私は兄が好きだから、それで何となく知ってるって感じなんです。だから自分で撮影とかはあまりしないし、でも兄妹で同じ部屋を使っているからいっぱい置いてある雑誌とか、カメラの模型とか、否応なく知識が増えちゃって。それ、兄が欲しいって言っていたものなんです。だから、すみません。お休みの所申し訳ないのですが、とか思いながらも声をかけてしまいました。」
「いや、いいのよ。こんな年になってこんな場所で寝るなんて、恥ずかしいし起こしてくれて助かったわ。ありがとう。」
「いえいえ…。」
彼女は照れながらほほ笑む。その姿ですら可愛らしい。見ているだけで、役得だと思える程に。
*「分かったわ、って。でもあなた、ここ全然人通らないじゃない、何で来たの?」
そうだ、それはずっと疑問に思っていて、でも寝起きだったから上手く聞けなかった。けど、
「ここ、だって崖の先端だし、普通近寄らないわ。それに山を抜けないと来れないから乗り物でもなくちゃ、あなたは?だって見るからに歩いて来たんでしょ?」
「いや、乗せてもらったんです。さっき話した兄に。」
「それで、じゃあそろそろ迎えが来るのよね。そのお兄様が。」
私は不安に思って尋ねた。だっていくら何だって、妹をこんな場所に一人にするのだろうか、よく分からないけど、ざわつく。
「捨てられました。」
「え?」
「捨てられたんです、私。私は兄が好きだけど、兄はそれを鬱陶しく感じていて、置いていかれました。だから、すみません。助けて欲しくて、声をかけてしまいました。きっかけが掴めなくて、それに見たことのあるカメラだったから、つい。」
涙ぐんでしまった彼女を見て、私は唖然としてしまった。いや、だからこんな所に肉親を置いていける神経に、何か逆立つ物を感じていたから。
「とにかく、分かったわ。私のバイク、二人乗れるから、乗りなさい。」
「…すみません、ありがとうございます。」
話がまとまったからすぐ、私はエンジンを始動させた。もう眠気なんか吹っ飛んでしまった。どこへ行ってもハプニングばかり、そういう気質なのか、ほとほと呆れてしまう。
*道なりにずっと山を降り、でも案外彼女はバランス感覚が良く、久しぶりに二人乗りをして楽しかった。
長く乗って着いた頃には妙に親しくなっていて、何か怖い物なんて何もない、という興奮に身を包んでいた。
「歩ける?」
「はい。」
そう言って彼女はタンッと地面に着地した。さすが、若いだけあって身のこなしが著しく軽い。
「…えへへ。」
バイクを降りて向かい合ってみると、何だか恥ずかしくなりお互い笑った。だって、数時間ずっと密着していたのだから。
「大丈夫なら良かった。お互い、無事戻ってこれた。」
私達は山を降り、手近なファミレスに入った。
ドリンクバーとサラダ、彼女も私もお腹を空かせているのに、至って健康志向だった。
「ああ、コーヒーうまい。」
「うまいうまい。」
なぜだかこれだけの年の差を前に気が合うし、冷たくひえた体に熱い液体が染み渡り、二人はそれを共有している。
「ねえ、話してよ。」
「お兄さんって、奔放過ぎない?正直、ビビるわ。」
「はは、そうなんです。兄って頭がいいのか悪いのか、エンジニアで稼いでるけど馬鹿で、ヤンキーみたいに粗雑で、でも憎めなくて、私。」
「そう。」
彼女の顔からは、はっきりとした愛情が滲み出る。私は、その確かさに嫉妬する。
*「でも粗雑過ぎよ、ちょっと。少しは自重してもらわないと、あなたが困るじゃない。」
「まあ、いいんです。兄は昔からそうだったから、私とは正反対だし、なんだかんだ言って仲良しなのかも。だってこんな年齢で一緒に遠出するなんて、まずないと思うし。」
そういう彼女の見た目は、大学生?程に見えた。顔には幼さが残るが、話し方など少し大人っぽく高校生ではないだろう。
「うん、そう。あなた、一応聞くけど年いくつ?それくらい聞いてもいいわよね。」
「…えっと、社会人です。23歳。」
まさか、と一瞬疑った。それにしてはあまりにも、箱入り娘というか、初々し過ぎる。
この子、可愛すぎるから両親にも兄にも、ひどく可愛がられて、ちょっと成長が独特になってしまったんじゃ…なんて思っていた。
けど、
「見えないでしょ?よく言われます。コンプレックスっていうか、大人になりたくて、私。一人暮らしすることにしたんです。」
「良いじゃない、あなた心が強そうだから、多分平気よ。頑張って。」
「…はい、ありがとうございます。それで、今日すごく楽しくて、一緒にいて楽しくて、連絡先交換しませんか?」
「ああ、いいわよ。」
「嬉しいです。」
なんだか成り行きで、たどり着いたこの場所で若い友人を得てしまった。
冴島さんのことも、全部。ようやく飛ばせたような気持ちにやっとなれた。
「お帰り。」
「ただいま〜。」
*夫が笑いながら私を迎えてくれた。食卓にはシュークリームが置かれ、私はじゅるりと唾液を落としそうになった。
「ははは、すごくお腹空いてるんだね。君って極端だから、お腹がすくと食べ過ぎるし、でもそういう所が良いって思うし。」
恥ずかしすぎる私の状態に、彼はただコメントをつけるだけで、でも言わせてもらえば夫も、研究のことになると没頭し、お前やり過ぎだろうというくらい食事を抜いたりする。お腹、空かないの?と尋ねても返事はない。それを繰り返して、でも食べずとも死ぬほどではないと知ったから、放っておくことにした。
「ちょっとね。」
私は脱いでいるジャケットをハンガーラックにかけ、夫と向かい合う椅子に腰を掛ける。
そして今日一日であった出来事を、彼にとうとうと語る。
夫は、こういう話を面白そうに聞いてくれるとてもいい奴だった。
「へえ、その子良かったね。君がいなかったら大変だったじゃないか。」
「いや、多分そのうちお兄さんが来てくれたのよ。だって最後にね、その子と別れる時にお兄さんから連絡があって、ごめん急用が入って、渡してたお菓子でも食べて休んでてくれっていうのよ。」
「ははは、未成年の子どもに接するがごとく、でも彼女はもう大人なんだ。」
「そう、何か歪って思ったけど、そこには愛情がきちんとあって、何か、何か、憎めなかった。」
「そうだね、人はそれぞれだもんね、それって、君が一番よく知っていることだもんね。」
「…まあね。」
夫は年を取るとともに何だか格好つけ始め、イケてるおじさんを目指しているらしい。私からすれば、こいつキザ、と思うだけだけど特に好感度が上下することは無いのだが、周りからは受けがいいらしく、されに悪化の一途をたどっている。
その発露の一つとして、さっきのキザ、キザな物言い。知っているという感覚から、言葉を発する。でも、彼はそれでも悪い奴にはなれない、そういう人だった。
「うわ、うっわ。」
驚きすぎてたまげた。
「えへへ、恥ずかしい。」
いや、そうだけど。連絡先を交換して、あれ?案外近くに住んでいるじゃないか、ということに気付き、会いませんかと誘われたのでカフェでお茶をすることにした。
「可愛すぎる。」
そこには、程よく化粧をした血色の良い彼女がいて、この前はそうか、あそこで体力を消耗していて、しかも兄と一緒だったから化粧をしていなかったのか、と気付く。
「あなた、可愛すぎるわ。」
おばさんさまさまで、口から本音だけが零れ落ちた。最初、雰囲気だけでよく見ていなかったのだが、目の前に座ってみると、ぶったまげる。
肌つや、髪つや、目がぐるりと回る。
*母が美人で、比べたら私はブスで、よく家族からお前ブスって言われるから別に、とこの前言っていたけれど、「あなた、本当に綺麗よ。」とおだてるようなセリフを伝えたら、頬を染め恥ずかしそうに笑っていた。
「でもよくこんなおばさんに会いに来てくれたわね。」
そう、やっぱり疑問だった。
こんなに美しい女の子がなぜ?
不思議で仕方ない、と思っていたのだが、
「私今、仕事していなくて、前はアパレルで働いていたんですけど、体力的にも精神的にも、私ってこんなに弱かったんだって思いました。それで家族からも呆れられていて、兄だけが唯一、まだ味方でいてくれるんです。」
見るからに、華奢な体、細い声、でもバイクに乗っても平気で、そこまで弱くは見えない。むしろ、この萎縮した態度こそ、彼女を社会から遠ざけているように感じられる。
「だから、ちょっと勇気を出して、会いに来てしまいました。」
おどけて笑う顔は、少し子供のようで、でもあどけなさの中に巡る不穏が、私を不安にさせる。
せめて、彼女が望むなら、こんなおばさんが話を聞くくらい、わけない。
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