第3話

 まさか置いていかれるなんて思っていなかった。

 と、二十歳になった京は思う。

 「京、朝ごはん食べた?」

 「うん、適当に用意してね。」

 「そう、じゃあ気をつけて。」

 「うん。」

 お母さんは、いつも私に朝ごはんを食べたかどうかを尋ねる。朝は私達家族の間では自分で勝手に食べる、という習慣を持っている。どうせそれぞれ好みがあるのだから、もう自分それぞれで用意した方が堅実、という考え方らしい。

 だから私はいつもヨーグルトにはちみつをかけて、食パンにバターを載せて、頂く。

 妹は、何も食べない。  

 私から見ればあの子はいつも青ざめていて、温まることなんてないまま寒い冬空の下に体を滑り込ませているのだから、信じられない。

*「寒くないの?」

 と問いかけたらじろりと睨まれそのままだ。

 妹は、みずるは私のことを極端に嫌っている。でも、無理ないか。だって私はこの家の子どもではない。お母さんとお父さんの実の娘は瑞だけ。

 そりゃあ、私だってその立場だったらそう思っていたのかもしれない、お父さんもお母さんもいい人で、私は時折、消えたくなる。

 「紘、行ってらっしゃい。」

 「ああ、じゃあな。みんな。」

 「行ってらっしゃい。」

 母も瑞も私も、大好きな父をしっかりと送り出す。父は家で勤めているというか、研究職なので自宅でもできることもあるが、しばらく外に滞在しなくてはいけないこともあり、今はちょうどその時期だった。

 そして、父がいなくなってそれから、この家の空気はもう、耐えられない程に冷たくなる。

 「………。」

 母も、瑞も私も、一言も発さない。

 私は、母の親友の子どもなんだって聞かされていた。へえ、と思った。だからこんなに良くしてくれるのかって、その時はむしろ納得した。

 自分が実の子ではないと知ったのは、本当の母親からの手紙だった。

 そこには、「京のこと、ごめんよろしく。」と書かれていて、何だこの素っ気ない文章は、と当時3歳の私は憤っていた。もうその頃には漢字が読めるようになっていたし、まあ簡単な奴だけど、それはなぜかって。何か、変だと思っていたから。ちょうど私が3歳の頃に瑞と出会った。つまり、母と父の間に本当の子どもが誕生したのだ。そうしたら、母はどうやっても瑞のことだけを可愛がってしまうようで、その当時の日記に、京ごめんねと書かれているのを盗み読んだ。

 そう言われても、謝られてもどうしようもないことなのだと思ったし、だから私は家族を恨まなかった。そして暇な時間は本に没頭し、そのおかげで漢字をよく読めるようになっていたのだ。

 「京、偉いぞ。」

 父は本を読む私を愛した。元々子供が好きだって言っていて、確かにそんな感じはする、そういう穏やかな人だった。

 一方、母はいつも苦しんでいて、誰かが救い続けないといけないような弱さを持っていた。穏やかそうに見えても顔は曇っていて、苦しそうだった。

*「瑞。行くよ。」

 「うん。」 

 そう言って母と瑞は買い物へ出かける。私は、とりあえず置いていかれる。この表現が正しいのかよく分からないけれど、とにかく父がいなくなるとそれは当たり前になった。

 自分が大人になったら家族はいらない、そう思っていたのに、私は今、猛烈に人を愛していた。

 18歳になって初めて、人生の中で味方を見つけたように感じている。

 失えない、絶対に失うつもりなどない。


 「光汰。待った?」

 「待ってない。今来た。」

 鼻を赤くし、目を潤ませ明らかに一時間はそこにいたかのようなのに、彼は何も気配を残したくないのかそっぽを向く。

 そっぽを向いたってバレている。そういう、どうしようもないみっともなさが愛おしい。

 こんなにキザで馬鹿な男は初めて見た。私は、光汰に出会った時にそう感じた。

 どこか、頭のネジが多少なりとも歪んでいるのではないかと訝しんだ。

 彼は、書店で児童書を万引きしていた。その時の背格好は明らかに大人に近く、でも幼さもあったので私と同じ高校生くらいか、と思っていた。

 なのに、なぜ児童書を。

 タイトルは『にゃあの絵日記』。可愛らし過ぎるイラストにほのぼのとした文章。世界には幸せしか存在していないかのような朗らかさを持つそれは、私も幼い頃に読んでいた。

 しかも、見た目はヤンキーの如く、完全にキメていた。派手な色のジャンパーにトゲの付いたベルト、なのに、なぜ?

 いや、行っていることは万引きなのだからそりゃ、そうだけど、悪いことだけど。不自然な点が多く、納得が行かず、というかもはや気味が悪い。

*「見たよ。」

 何と言えばいいのか分からず、ただ見たままを口にしてしまった。ヤバい、万引きしてるってことはもしかしたらヤバい人なのかも、そう思ったけれどすでに遅かった。

 「………。」

 何も言わず無言で、彼はただこちらを見ていた。

 「何で…。」

 漏れたのはため息であり、鋭い舌打ちとともに顔を曇らせる。

 私の体は硬直して震えて、逃げ場をなくしていた。

 「万引き…?」

 彼は言葉の分からない子供のようにとぼけ始め、先程までの不躾さを抹消しようと目論んでいるようだった。

 「だから、見たって。」

 多分同い年くらいだし、ああ敬語なんていらないか、じゃあもういいや、と投げやりな気分になり、すっとぼけた彼を追求することにした。

 「………。」

 「………。」

 私達は睨み合う子供のように、このくだらない場面に緊張していた。

 そして、「分かった、負けたよ。…許してください。」

 彼は正気に戻ったような顔で謝り始めた。

 私は、「だから、まだ未遂でしょ。それ本棚に戻せば多分大丈夫よ。」彼にそう言った。

 もうカバンにしまっているのに、大丈夫だなんて無責任だけど、私達はそれくらい無責任でいられる年頃だったのだ。

 何も見えていないし、だから怖くない。

 光汰とはそれから頻繁に会うことになった。

*「大丈夫。平気なはず。」

 そう言って気詰まりなこの場から逃れたくて光汰の手を引いて外へ出た。

 光汰は叱られた子供のように背を丸め、でも華奢な体をヤンキー風衣装で身に包んだ彼はおかしくて、私は笑った顔を見せないように顔を背けニヤけていた。

 はあ、何て馬鹿なんだろう。

 はあ、何て人生はアホくさいんだろう。そう考えながら前を見る。

 遮るものは何もなかった。けれど私達はいつも何かに縛られている。

 「お前、はあ。疲れないの?」

 男のくせに体力がないのかすでに彼はバテていた。また、その見かけとのギャップに面白さが込み上げて、笑ってしまう。

 そして、「あなたって馬鹿みたい。」ただ思ったことを口にして、私はひどく満足していた。

 「うるさいな。」

 彼は恥ずかしそうに下を向き、そして少し笑った。

 帰りに立ち寄ったファミレスで、何であんな本盗もうとしたの?と聞いたら、「いやさ、家出されて、たまたま行くところがもう無くなってあの書店に入ったんだけど、そしたらさ。見つけたんだ、懐かしくて、金もなくてやけになってた。だから。」

 笑いながら話す、内容は軽くない、私達は高校生で行くあてもないことがどれ程苦しいことかよく分かってしまう。

 だって、彼はよく見たらジャンパーの下に制服を着ていて、隣の進学校のやつだった。それに、私だってそうだから。

 母と瑞のいない家は、もう1ヶ月は過ぎていた。

 きっと罪悪感なんて感じていない、それが当たり前で、それで当たり前だったのだから。

*光汰と知り合って、私は家に帰らなくなった。

 光汰といれば大丈夫、町で一人ぼっちで白い目で見られるということなんてないし、夜中には二人で寝袋に身をひそめ寝た。あまりの寒さに二人くっついて寝ていることに罪悪感を覚えることも無かったし、妙な緊張すらもちろん無かった。

 それから、ただぶらりと一日を過ごすことに疑問を持たなくなっていた。最初はこんなことずっと続けていられる訳が無い、なんて思っていたけれど過ぎてみれば誰も自分たちのことなど気にすらしていないのだということが分かってしまった。だって追いかけてくる人も、探す人も私達にはいなかった。

 追手のいない逃亡生活、何から逃げているのか全く分からない。けれど私達は誰かから身をひそめる様に寄り添って生きていた。

 ああ、すごく幸せだ。

 たまに光汰がいなくて、一人になった時に父のことを思い出す。そして母のこと、瑞のこと。みんな全く悪い人じゃなくて、私みたいな異物を受け入れてくれる優しい人たちで、だったら私はいったい何に不満があるんだろう。けれど、私はあの家にいる時に、幸せだと思ったことは一度もなく、確実に不幸だと信じていた。

 今は、自分の手で自分の生活を決め、そしてただ生きる。それだけを望んでいたのかもしれない、だって私は今すごく幸せだったから。

 

 「あのさ、話がある。」

 光汰がかしこまった顔で私にそう告げた。何だろう、と小首をかしげるしぐさをして見せ、私は至ってのんきだったのだと思う。

 「なあに?」

 話し始めないから強く言葉を放った。今日は生理で、頭が重くて体がだるくて、そしてこの外での生活が寒すぎて、普段の何倍も苦しくなる、でも乗り切れば解放されるのだから、私はその時期をただじっとこらえることにした。

 イラつく、そう思っていたから、「もう、何?」と催促すると、光汰は顔を歪めた。

 何だろう、本当に何だって言うんだろう。

 「ごめん、お前とこうやっているのも、もう終わりにしよう。お前には家があるだろう?俺には無いから、でも行く当てはあるんだ。覚えてるか?時間の感覚も俺たちあいまいだったもんな。もう高校を卒業する季節になっているんだ。」

 ああ、そう言えば。前より幾分か寒さが和らいでいるような気がしていた。

 それで、それで何でこの生活を終らせようっていうの?

 ねえ、私は光汰が好きなのよ。

 口から言葉が出ず、ただ光汰を見つめていた。

 その顔があまりにも呆気なかったのか、光汰は可哀そうな小動物を包むという様な顔をして、私を抱きしめた。

 「ねえ、ねえ。何で?私分からない。」

 「…お前はさ、悪くない。お前が辛いって感じてることは、本物だって俺は知ってる。だからさ、また。こんな見通しの立たない生活なんてやめて、もっと自立して、そしたらまた会おうぜ。」

 「ねえ。」

 だから分からないの、何で急にそんなことを言うの。私はもう全てを終らせようとしていたのよ、なのに、何で? 

 「もう決めたから、ごめんな。」

 そう言って体を離し、光汰は私を一瞥し、連絡先を書き残し、去って行った。

 そうだ、私達は連絡先すら知ろうとしなかった。そもそもの始まりがあまりにも現実的では無くて、現実に全く即していなくて、私は疑問にすら思っていなかった。

*薄汚れた姿で呆然と立ち尽くす私はさぞ憐れだっただろう。

 通りすがりのサラリーマンに避けられながら、私は歩きだした。


 「心配したのよ。」

 「………。」

 「本当に心配したんだ。」

 母と父は言葉を口にしたが、瑞は何も言わなかった。でも、それが素直で正しい反応なのだと、私は分かっている。

 家に帰って、風呂場で鏡を見たとき、私は愕然とした。髪も乱れ、服は茶色くなり、だけどそれに気付かず違和感すら持たなかった自分に、その自分がとても怖い。

 まともじゃなかったのだ、そしてそれに気付くことができなかった。

 一通り人間に戻るための儀式を行って、私は急いで自分の部屋へと戻る。

 「スマホ…。」

 持っていたスマホが上着のポケットの中で腐っていた。

 母が上着を洗うと言い、私は分かったと答えた。そしてあら、スマホが入ってると言い、私はそれをもらってズボンのポッケに突っ込んだ。

 そこで、気づいたのだ。

 そうだ、私はまともじゃなかったけれど、光汰は。光汰は実在していて、本物だから。

 消えない内に掴まなくちゃ、そう思いもらった連絡先にメールを送る。

ーーー帰ったよ。連絡下さい。

 それだけを送り、返事を待った。

 途絶えさせたくない一心で、祈りながら答えを待ち望む。

 けれど彼から、メールは来なかった。

 その絶望を、受け入れるまでには時間と、そして棘のように刺さり続ける何かがあって、気付いたら私はただボロボロになっていた。

*「光汰、まだ?」

 最近一人の部屋でよくそう呟いている。

 駄目だ、こんなことをしていては良くない。そんなことはちゃんと分っているのに、母と父は私を怖れるようになっていた。私が部屋にこもり、何もせず何も喋らず、ただ薄暗い部屋の中で籠った匂いを放ちながら生きていることが、怖くて仕方が無いようだった。

 けれど、瑞は違った。

 瑞が一番、私のことを嫌っていたはずなのに、ある日、ある夜。

 ぼうっと部屋の中で本を読んでいると瑞が現れた。

 「瑞、何?どうしたの?」

 私の様子ももちろん変だろうが、瑞の様子もかなり変だったので、私はおろおろしながら彼女に尋ねた。そうしたら、瑞はきっと目を強めて、私を見た。

 何だろう、思い当たる節が無い。けれど瑞は私に何か用があって、今ここにいるはずで、そんなことを考えていると、

 「馬鹿。」

 と言われ、そしてぶたれた。

 「馬鹿、お姉ちゃんの馬鹿。私はさ、別にお姉ちゃんのこと嫌いじゃないんだよ。仕方ないじゃん、実の子どもと友達の子どもと、同じように扱えるわけないじゃん。私には何でもかんでもしてくるのに、お母さんはお姉ちゃんにはある一線を敷いて強いことはしなかったり、お互いそれぞれの立場で生きてるんだよ?なのに…。」

 瑞はグズグズと泣きながらぶちまける。

 私はその姿があまりにも可哀そうで、持っているタオルで拭ってあげて、大丈夫大丈夫と抱きしめた。

 「…お姉ちゃん、ごめん。」

 瑞はそうやっている内に落ち着いたのか、冷静に戻って来たようでそう言った。しばらく誰かの世話にしかなっていなかったのに、こうやって幼い瑞をあやしていると何だか満たされたような気持になって、久しぶりに現実に戻ってきたようだった。

 「ごめん、お姉ちゃんが悪かったんだよね。ごめんね。」

 とにかく瑞を落ち着かせようと思って、色々なことを話した。

 「私、家出してたのはね、辛いとかじゃなくて、何か閉塞感みたいなものがあって、それでね。お母さんもお父さんも瑞も、優しすぎるくらいなんだよ。私はね、だからとても感謝しているの。瑞、ありがとう。」

 「…だから。」

 そう言ったら瑞は何かを言いかけた。

 「何?」

 「私は、お姉ちゃんが好きだったのに、色々思うことはあったけど、性格が好きなの、全部が好き。だけど、現実ってそう上手くはいかないじゃない?だから、私、すごく落ち込んでた。お姉ちゃんがいない間、家族みんな自分を責めていたのよ?お姉ちゃん、だから。」

 子供のようにそうしゃくりあげる瑞を、私はずっと撫でさすった。

 ごめんね、大丈夫。ごめんね、本当にごめんって。

*その夜はずっとそうやって、瑞と一緒に話していた。くだらないこと、本当にどうでもいいことばかり、でも楽しかった。それでいい。


 私は、一週間後、旅に出た。

 母も父も、そして瑞も、何だか安心したような顔をしていて、良かった。

 ただ、旅に出るとだけ告げて、後は何も言っていない。

 「…ふう。」

 しばらく歩いて、ひと息を吐く。

 どこへ行くかはもう決めている。母がいるところだ、母って、佐恵子さんではなく私の生みの親。有子のところへ。

 居所は分かっている、佐恵子さんは、母はよく手紙を書いていて、でも私には見られないようにしていたのを知っていた。

 もちろん相手は有子って人だろうと思ったけれど、違った。

 相手は、富士雄吾という男で、曖昧だが有子と関係のある男なのかもしれない。

 場所は把握している、その人はファミレスで調理をしているらしく、いつも同じ場所から手紙を差し出している。

 母は金庫に手紙を保管していて、中身は読めなかったけれど捨ててある封筒がシュレッダーにかけられる前に瑞が見たと言っていた。

 その母の徹底ぶりにも感心するが、それは私を大事にしているという証拠のようで、私はとてもくすぐったい。

 だから、決めたのだ。もう行こうって、だから今、コーヒーを片手に見上げるこのショッピングセンターの3階にその人はいるのだろう。

 私は少し震えながら寒さを凌ぐように手をポケットに突っ込み、マフラーを強く締めた。

*「いらっしゃいませ。」

 景気のいい挨拶が響く。

 私は少したじろぎながら席につき背を伸ばす。いわゆるフランチャイズ型のチェーン店で、奥に潜む店長が何やらせかせかとバイトに指示を出している様子が分かった。

 とても忙しいらしく、とりあえずメニューを見て頼もうと考えたオムライスは中々届かず。目的だった富士雄吾の様子も全く分からず、でもそれでもいい。

 私が、来たと知ったらきっとどこにも行くことはないだろう。だってずっと私の本当の母親、有子について佐恵子さんと手紙でのやり取りを繰り返していたのだから。

 瑞が見たのだという、母がいなくなった居間に、有子について書かれた密度の濃い手紙と、京の名前。それで確信したのだという。

 ああ、でも実際に会うとなると、怖い。何を話せばいいのか分からない。

 全く、でも。  

 旅の目的は彼だ、彼に合えばきっと何かが変わる。それだけを名分にして、私は来ないオムライスを待つ。はずだったのに、

 「どうぞ。」

 コトリと置かれたオムライスを見つめながら、私はだいぶ待たされたなと少し疲れていた。

 そして、中々去らないウェイターを見上げると、ちょっとイカついおじさんで、それにやたらと目を合わせられた。

 「………。」

 黙って彼を見つめ、ただ息を呑む。妙な緊張感に支配され私はたじろぐ。

 はあ、どうしよう。

 どうしようもない、面倒くさい。

 と思っていたけれど、あれ?

 よく、見れば。名札に富士とある。まさか、この人が?

 「…あの。」  

 何も言わない彼に代わり、口を開こうとしたら、言われてしまった。

 「あなた、京でしょ。」と。

*咄嗟にはそうだ、と言えなかった。だってすぐには言葉が出てこない、目の前にいる男は、やたらとデカくイカつい印象を否めなかった。ちょっと怖くて、余計たじろぐ。

 「あ…。」

 そんな風にボケっと喋ってしまったら、いきなり、彼に触られた。

 頭をポンポンと、撫でられた。

 「君、京だろ?写真で見てるから知ってるし、いきなりこんなこと言われても困るよな、ごめん。あと、そのマフラー、佐恵子さんからもらったんだろうけど、実は俺があげたんだ。着てくれてて感動した。」

 目の前の大男はそう言って、照れた。いや、私の方が照れてしまう、身構えていた割にはあっさりと、この人は私を受け入れていた。

 一体、何者なのだろう。

 頭に残る優しい掌の感触だけを確かめながら、ごめん仕事だからと言い残し、手に持っていたプリンをサービスだと言ってくれた。

 くすぐったくて、仕方が無かった。

 プリンは美味しく、そして甘かった。来て良かったと、今しっかりと感じている。


 「ごめんな、俺のシフトが終わるまで待たせちゃって。」

 「…いえ、いっぱいおごってもらったから。」

 「いいのよ、社員割もあるし、一応俺が作ってるんだ。美味い?」

 「すごくおいしかったです。ありがとうございます。」

 「はは、良かった。」

 ぶきっちょでしかめっ面なままだけど、私はこの人とやけに会話が合うなあとうれしくなっていた。

 不思議な人だ、そして知らないこんな大男と街をぶらぶら歩いていても、私はただ幸せなだけで違和感がない。本当に、この人は私とどういう関係なんだろう。まさか、生き別れの兄とか、いや、それにしては老けている。じゃあ、本当に何?

 「あの、聞いても良いですか?」

 「ああいいよ。」

 「………。」

 私が黙っていると、彼はにっこりと笑って言った。

 「何々?教えて。おじさん、君の話が聞きたいんだ。」

 ちょっと茶目っ気を出して、カラッと笑う。ああ、良い人なんだなあとその時思った。

 「おじさん、でいいですよね?」

 「うん、いいいい。」

 「あの、おじさんは私とどういう関係なんですか?」

 そう聞いたら一瞬彼はハッとした顔をして、「悪い、知らなかったんだ。てっきり知ってるものだと。」と言って、顔を曇らせた。

 だから私は余計強く、「教えてください。」と頼んだ。

 彼の顔が曇ったのはなぜなのか、ただ知りたい。

 「まあ、うん分かった。話すよ。」

 「はい。」

 「あのな、俺はおじさんじゃなくて、君の父親だよ。」

 「………え?」

 予想外の素っ頓狂な声が出た。意表を突かれ過ぎて相当阿呆な顔をしていたのだろう。富士雄吾は自分の着ているジャンパーを京に着せてぶるっと寒そうに一回震えた。

 「はは、驚いたよな。こんなろくでなしがさ、笑っちゃうよ。なあ。」

 彼は自嘲気味に下を向く。

 私は、何も言えなかった。

 だって、じゃあなぜ佐恵子さんと手紙のやり取りだけをしていて、私に会いに来なかったの?ねえ、何で?何で?

 分からないことしか無くて、でも目の前にいるこの男はとても人が好さそうで、私は上手く言葉を見つけられなかった。

*「分かってる。君がさ、あ、京って呼んでいい?」

 「いい…です。」

 「うん、京が混乱するのは当たり前で、悪いな、いきなり。」

 「いえ…。」

 途方に暮れていた。何が正解なのかもう分からない。父親に先に会ってしまった。母よりも先に、というか私は自分の父親なんて考えたことがなくて、ただ漠然と失踪しているとかロクでなしだったとか、そんな類の事情があって、そもそもいないのだと信じて疑わなかった。

 「まあ、だからな。とりあえず今日はどうする?俺家すぐだけど、こんな得体のしれない男といたくないだろ?だからさ、ホテル取るから、泊まってくれないか?」

 「………。」

 私は黙って考える。何が正解か、そんなことではなく。

 怖かった、けれど。

 「じゃあ、富士さんの家、泊まらせて下さい。」

 彼は目を見開いた。驚いている。けど、

 「…だってやっと見つけた肉親だから、私。」

 そう言いかけたら、

 「うん分かった。」

 とまた頭を撫でられた。

 思ったよりも強く、しっかりと頭に手を載せられて、そしてその手と彼の目が、少し困惑したような顔をしたのが気になった。

 そして、私はやっぱりどうかしていると、彼の部屋で靴を脱ぎながら思っていた。


 「部屋、広…。」

 最初に出た感想はそれで、彼は照れたように笑っていた。俺さ、体デカいから狭い部屋はダメで、ちょっと値は張るけど少し広い部屋にしてるんだ。

 とヘラヘラ笑いながら喋っていた。

 「じゃあご飯作るから、適当にくつろいどいて。」

 彼は手早く身支度をほどき、夕食を作り始め、私は何もすることがなかったので部屋の中でぼうっとした後風呂を借り湯を張り、シャワーを浴びた。

*じゃあっと優しく流れる水流が、妙に心地よい。

 部屋に入った時はあまり意識していなかったが、細部細部、生活の中で丁寧に生きていることがうかがえる。例えば、シンク周りは毎日自炊していることをうかがわせる生活感にあふれたものであるし、それに衣服などが散らばることも無く、規則正しい生活を匂わせる。父がこういう人間で良かったと、ちょっと思ってしまった。

 「本当の父親か…。」

 ぼんやりと湯船につかりながら呟く。

 何だか、実感が無かったが、だんだんと考えが深まってきて実感も深まってきて、すごく穏やかな気持ちになっていた。

 もう、溺れてしまってもいい。

 このぬるくとても心地よい、湯船の中に沈みながら、私は息が苦しくなってまた浮上した。

 「…おい、ご飯できたぞ。風呂長いけど生きてるか?」

 遠くから声がする。父の声だ、多分。

 だいぶ馴染んできた、父、だと名乗る男の存在に。

 「はーい。」

 家でそうしているように、アットホームな感じを意識して返事をした。

 私はまだ、どう振舞えばいいのかがいまいち掴めていない。


 「うわ、すご。」

 出てきた料理はフランス料理だった。

 「へへ、実は好きでさ。特に作るのが好きなんだ。俺、フランス料理食べた時、見た目はいろんなもの混ぜて本当にうまいのかって思ったけど、すごくうまくて。感動っていうか、作ってみたいって思って。まあ勤め先はファミレスだけど、そこでは色々な調理が案外学べるから、それにとっても忙しいから技術も上がる。料理が生きがいなのかもしれない。」

 父は少し神妙な顔をして語った。そもそも、この年齢の人間がアルバイトだなんて、まあ訳ありであることは何となく察せる。

 だが聞けない、今は父とただ仲良くなりたかった。本当に父親かどうかなんて、正直どうでも良くて、だって死んだと思っていた人間なのだから、あまり考えていなかった。

 はあ、でもいざそうだと思ってみると、とても自分が安定していることが分かる。

 このまま、母のことなんてもう探さなくてもいいか、なんて思っていると。

 「京、佐恵子さんに電話したから。後でメールするって言ってたぞ。確認しておけよ。」

 「え、お母さんに言ったの?」

 「…ああ。」

 そう言って彼は少し困った顔をした後、笑った。

 そうか、私が佐恵子さんのことをお母さんって呼んでいるからなのかもしれない。だって、この人はだれか違う別の人間、私が探している本当のお母さん、有子さんのことを意識しているはずなのだから。

 「有子さん、って。」

 そう思っていたらつい、口から言葉が滑り出た。

 しまった、やらかしたと思ったのは一瞬で、見ると父の顔は何とも言えない複雑な顔をしていた。

 触れちゃいけない話題だったのかも、と思い私は少し後悔する。

*「知ってるんだな、一応佐恵子さんと相談して隠してたんだけど、まああれだけ手紙を送っていれば分かるよな。でも、それでも隠したかったんだ。だって、お母さんは病気だから。」

 「え?」

 「あのな、お母さんはちょっと寝込んでて、もう起きられないんだ。若年性認知症っていうのかな、ともかくそんな状態で、体の世話も全部、俺がしている。今はな、もうこの家にはいなくて、施設に預けてるんだけど、でも頻繁に通って世話をしている。」

 「…そうなんだ。」

 意外な話だった、そもそも若年性の認知症なんて馴染みがないから上手く理解できないし、でもじゃあだから私を佐恵子さんに預けたのだろうか。

 「それで、あの。京のこと…。」

 父は言いにくそうに言葉を濁す。

 どう、なんだろう。でも私は知りたい。

 「京を佐恵子さんに預けたのは、お母さんが、いやお母さんに俺が酷いことをして、苦しめたから。だからいっぱいいっぱいになって仕方なく、そういうことなんだ。」

 父は下を向き、俯いた。

 でもまあそうだろうとは思っていた。人が子供を捨てる理由は、だいたい育てられないから、でもそんなことは社会規範として許されていない。

 何の助けも補助もなく、ただ受け入れるしかない。そしてその結果が捨てて逃げる、だったのならなお良くない。

 はずなのに、抱えきれない現実に結局は押しつぶされる。

 そんなことは分かっていた。だからもうそれが分かったのならそれ以上詳しく知りたいことなど何も無かった。

*「もういいよ。」

 私は言い捨てた。父はチラリと私の顔を見て、うなだれた。何だか思ったよりこの人は弱い人なのかもしれないと思ってしまった。子どもすら育てる余裕のない可哀そうな人、そう知ってしまったら何だか責める気にはなれなくて、親に対する執着のようなものも無くなっていて、何だかもう全部どうでもいいことのように思えてしまった。

 「分かったから、ご飯にしよう。」

 冷めかけていた夕飯を、私はほおばるようにして食べる。あまりにもおいしかったから、ここ最近の中で一番の笑顔を見せてはにかんだ。「おいしい。」と言ったら父はちょっと笑って、「ごめん。」とまた呟いた。

 私にとってはもうどうでも良かった。本当の親も、佐恵子さんも、私はもうすぐ大人になる。それならもういいのだ、私は誰かをけなしたりせず自立していけばいい。ああ、でもどうしようか。私のことを考えてくれる家族はいるけれど、私には友人がいない。学校をずっとサボっていたから、親しい人間が思い当たらない。

 ただ一人、光汰のことを思い浮かべてみたが、彼は友人ではない、外で見つけた家族、そう思っている。今は一旦、光汰のことは忘れたい。光汰がまた連絡をすると言っていたのだから、私は信じることにした。

 「どうしようかな。…でも自立しよう。」

 そう決めた、今からでも遅くはないはずだ。親しい人間を作り、人の輪の中にいて、もう一人でも生きていける、そんな人間になろうと、私は今決めてしまった。

 心許なかったが、このスッキリとした気持ちを得られただけで、全部が報われたような気がしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る