第2話

 有子は、一人机に突っ伏しながら呆けていた。

 怒涛のような忙しさの中で手に入れた安息、隣には小さな赤ちゃんが眠っている。

 誰にも話せない、小さな宝物。

 手放せない、手放さない、手放すつもりなど毛頭ない。

 でも、

 「リンリンリン…!!」

 けたたましい音が響く。朝からずっと鳴り止まない。

 「はあ、やんなる。」

 ため息と不快を形にして、有子は携帯を水に沈める。

 その瞬間、ふと火照っていた気持ちが唐突に鎮まり、冷静になれる。

 ヤバいことは承知のつもりだったけれど、もう極限まで来ていることが分かってしまった。

 だけど、逃げるつもりはない。

 逃げられないことは分かっているから。


*「よお。」

 有子は目を細める。

 今までにこんな気持ちになったことなどなかった。自分は気が強く、はっきりとした物言いをする方だと思っていたから、これ程ペースを乱される覚えはあまりない。

 「何ですか?何か用があるんですか?」

 「そんなに怒るなって、どうしたんだよ。お前ってもっと大人しい奴だろ?」

 自分を見て大人しいだなんて口にする人はいなかった。けれど、

 「はは、疲れたな。」

 一日の終わりに彼と会い、有子は何者でもない何かになった様な特別な感覚を抱く。なぜだろう、あまりの幸福に、胸がざわざわと落ち着かない。

 小学生の頃に、そうだ佐恵子と遊んでいた頃のような懐かしい記憶。そんな時代のほがらかで安定していて、そして最高に刺激的な一時期を取り戻したかのようだった。

 「知ってるか?俺が今日お前に会いに来たのは暇だったからなんだぜ?外仕事はさ、きついんだ。始めてみて分かったけれど、いくら食べても太れない。俺って代謝悪いんだって思ったよ。」

 彼は、富士雄吾ふじゆうごは有子と同じ会社に勤めていた元同僚だ。一緒に働いていたが、関わりはほとんどなかった。ただ同じフロアでたまにすれ違えば会釈をするくらいの感覚はあった。

 彼は何だか浮いていて、誰もあまり近寄らなかったし、彼自身もそれを感じていたのか誰とも積極的に関わることはしていなかった。

 はずなのに。

 「有子、って呼んでいいんだよな。」

 話してみればずいぶん不躾な奴で、正直すごくムカついた。なぜ話さなければならないのかと、それを強要した上司に嫌がらせをしてしまう程だった。

 まあ、嫌がらせと言っても足を蹴るくらいだったのだが。

 上司は、それくらいのことでは怒らない、フレンドリーで物わかりのいい人だった。

 新しい企画に携わるということで、彼が所属する課に交渉に行かなくてはいけなかった。携わるのは有子だけではなく、有子にこのことを押し付けた上司も含めて課の全員なのだが、有子がハキハキとして適材だ、と誰かが言いだしてこうなってしまったのだ。

 自分だって、本当は人と話すことなど避けたいし、声を出すことすら億劫な時だってある。だけど、頼まれてしまったら断れない。自分は、ただの一会社員なのだから。

 景気を付けるために一杯ブラックコーヒーを飲もうと思ってお湯を探しに行った。最近、経費削減などという名目で、給湯器が撤廃されたのだ。けれどお湯をこまめに沸かしている部署があって、そこに知り合いがいるからもらいに行くのだ。

*「はあ…。」

 温まる、寒さで手まで冷たくなった自分が情けなく感じられる。オフィスは空調が効きすぎていて暑く、かといってこうやって外に出てもすぐに冷えてしまう。

 名目を持って仕事をサボる、自分は学生の頃と変わらないあいまいさをもっただらしない人間なのだなと落ち込んでしまう。

 「よし。」

 気持ちが落ちる前に立ち上がる。これで大丈夫、そう言い聞かせて前へ進む。

 「すみません、お話していた件なのですが。」

 すごく畏まった雰囲気を作りながら有子はツカツカと足音を立てながら室内へと入る。

 同じフロアだけど、あまり関わりがなく知り合いもいない所だったから緊張しているのだ。

 緊張すると、有子はより一層尖ったハリネズミの様に攻撃的になる。

 傍から見れば怖い、と言われたことさえある。

 だけで、それは変えられない。それが自分なのだからと割り切っている。

 「…俺が担当です。よろしくお願いします。」

 濃かった、顔が非常に濃ゆい。有子は塩顔以外は受け付けたくない気質で、所見から相手を侮り差別していた。

 そんな自分が醜くて惨めで馬鹿らしくて、逆に笑ってしまう程だった。

 「何笑ってるの?」

 え?

 「だから、何かあなた、笑顔が変だよ。きっと変なこと考えていたんだろう、おもしろい奴だな。」

 咄嗟のことに反応に困る。

 何だ?顔に出ていたのか?それにしても、この人の態度はあまりにも不躾だったからそれ相応、「は?」という言葉とはっきりとした嫌悪を顔から、全身から示してしまう。

 「いや、だってさ。」

 有子はとりあえず話を進めなくてはというビジネスの所感で要件を切り出すことにした。

 「まあ、あのお話進めさせてください。」

*「いや、いいけど。話は無視?あなた、結構失礼だね。」

 そう言われてしまった。だけど腑に落ちない。自分は業務命令でここに来ているのだ。この人も仕事上のことなのだから、こんな不遜な態度をとることはそぐわないはず、頭の中では沸々と思いだけが巡っていて、形にならないそれらが沸騰し爆発しかけていた。

 「すみません、急に言われたことだったので上手く言葉が見つからなかったんです。気を悪くされたなら謝ります。ごめんなさい。」

 有子はこの空気が嫌だった。

 面倒くさい、早く終われ。

 祈りの代わりに強く拳を握りしめる。自分は乱暴で粗野でどうしようもない奴だと知っているから、だから必死で抑える。

 「…分かった。ごめんね、こちらこそ。」

 「はい。」

 強がる、相手も一応有子のことをビジネスの対象だと捉えてはいるらしい。そう思えば全部平気だ、何も怖がることなどない。

 「じゃあ続けますね。」

 「どうぞ。」

 「あの、今そちらの課で行われている業務に参加させて頂きたくて、こちらから何名か人員を送りたいんです。」

 「ああ、いいですよ。会社の方針ですもんね。俺、今日それを伝える役割だったんです。そんなに畏まらなくてもいいのにって課長、笑ってたなあ…。」

 「あ…。」

 有子は言葉に詰まる。会社には上下関係があって、富士雄吾の所属する部署は管理的な立場にあり、はっきりとはしていないが、みなの間では上、に位置することは分かり切っている。

 「分かった。承諾しました。これ、そちらの課長さんがそういう形にこだわる人だからってウチの課長が手配したんです。これ、この会議ね。」

 有子は言葉を失った。

 だってそれって、自分達の課は彼等の手の平の上で転がされていて、それってあり得ない。だってあまりにもじゃないだろうか、礼を失しているし、余計な時間を使わせて、馬鹿にしている。

 馬車馬の様に働く自分達と、優雅にコーヒを飲みながら物見遊山をしている彼等との隔たりに心が猛る。

 ふざけるな、

 そう思っているだけだったはずなのに、口から言葉はすでにこぼれ落ち、富士雄吾は目を見開いてコチラを見つめていた。

 有子は、やっちまったと思いながら一応謝り逃げるように部屋を出た。

 やっちまった、やってしまった。

 だけど、仕方ない。なるようにしかならないと捉えてもう一杯コーヒーをあおりに行った。


*「馬鹿だなあ。」

 一応、上司には事実を伝えた。

 そしたら、もっと怒って良いはずなのにぼんやりと言葉を紡ぐだけだった。

 「もっと怒ってください。怒って良いんです。だって悪いのは私だから。」

 泣きそうだった、こんな大の大人になってから、こんなに悲しく悲愴な気持ちになったのは初めてだった。

 「いや、あのね。全部分かってたから。みんなもだから責任感の強い君に全てを押し付けてしまったんだ。だから逆に、ごめんね。」

 課のみながチラリと有子の方を向き、少しだけ目くばせをした。その顔はどこか申し訳なさそうなあいまいな微笑みで、自分が間違っていなかったことを肯定されたようでこの時始めてホッとすることができた。

 そして自分のデスクに戻ると机の上にごめんねというメモ書きと、高いお菓子が一箱置かれていた。有子一人で食べるにはもちろん大きすぎたから、みんなに配って何となく和やかな空気が出来上がっていた。

 そしてしばらくして昼休みになって、有子はツカツカと靴音を立てながら社外へと向かった。

 息ができる、そう思った。

 ずっと煮詰まっていた体中の何かが、スルっと抜け出ていくことを感じた。

「はあ…。」

 近くの公園のベンチで作ってきたお弁当、と言っても昨夜のおかずの残りなのだが、を一生懸命ほおばる。とても、幸せで、ああ、一日はこの時間のためにあるのだなあ、なんて最近は思っている。

 「よお。」

 は?自分のこの時間にそぐわない、聞き覚えのある男の声がした。

 数時間前、自分を苦しめた男の声。

 振り返ると、いた。

 「…何?」

 咄嗟のことでため口が出てしまった。昼休みで社員という身分から少しだけ解放されているということもあるのかもしれない。

 「俺もお昼でさ、一緒に食べていい?」

 いいわけないじゃない、のどまで出かかっているが、呆れすぎて言葉にすることすらためらわれる。

 「そう睨まないでよ。ごめんね、隣座るよ。」

 でかい男だと思った。有子だって女性の中では割と身長が高く、そんなに小さくなどないのに、頭からつま先まで、彼の全てがデカ過ぎて隣に来ると威圧感がすごい。

 そもそも、富士雄吾だなんてたいそうな名前だ、第一印象でもそう思ったし、でもこの人の様子を見ているとその名前がとてもしっくり来ているようにも思える。

 「………。」

 呆気に取られていると、彼は買ってきたパン屋のドーナツをほおばり始めた。

 「うめぇ…。」

 あまりの馬鹿らしいセリフに、黙っていようと思っていた口から笑いがこぼれてしまった。

*「…あのさ、さっきはちょっと意地が悪かったわ。いやさ、あなたがすごく強気だっだから、からかってみたくなったんだ。知ってると思うけど、俺の所の課長は意地汚くてさ、なんだかんだ言ってややこしい人なんだ。だけどさ、俺課長に気に入られてて、飯奢ってくれたりしてさ、まあ俺にとっては悪い人じゃないから。初対面の相手だし、いいかと思って侮ってた。実はさ、課長からも何かあなたの部署から抗議があったらしくて怒られた。俺、馬鹿だろ?」

 馬鹿だよ。

 「馬鹿だよ。」

 「はは、素直だな。」

 そうだ、自分はもうすっかりリラックスしていて波立つ感情など無かった。

 「やるよ。」

 お詫びのつもりなのか、悪いと思って反省している子供のように不躾けに、買ってきたらしい可愛い猫の形をしたドーナツを有子に差し出す。

 「…ありがとうございます。」

 「ああ。」

 いつも一人きりで閉め切ったようなこの場所でご飯を食べている。けれど、たまにはこうやって誰かと食べるのもいいなと思いながらドーナツをかじる。


 「じゃあお願いします。」

 有子は今日、何日ぶりだろう。子供を預けて、町へ行く。

 佐恵子に会うのだ。

 今誰にも言えない状況だけど、何かそういう事情を聞かずに子供を預かってくれるシッターの様なサービスがあることを最近知った。

 身分証明書とか、証拠になるようなものは残したくない。

 バレたら、捕まるから。

 「久しぶり。」

 「久しぶり。」

 佐恵子は、近頃すごく大変そうで、でも彼女は昔から苦労を重ねていたことを知っているからあまり心配しなくても大丈夫だと言うことを知っている。

 心配な人というのは、大切な物が、捨てられない物が無い人のことを言うのだろう。

 それがあれば、人は揺らがない。

 だから佐恵子のことを心配する必要はないのだと思っている。

*「元気そうだね。」

 「うん。」

 佐恵子はまた東京へと戻って来た。しかし有子とは住む場所が離れていてあまり交友が無い。会いに行こうと思わなければ合うことができない距離に住んでいる。だけど、有子は佐恵子のバイクを見つめる。この都会で、自分はもうとっくに手放してしまった車を思い出すし、二人とも乗り物が好きだという点が大人になり一致していることに気付き、やっぱ私たち似た者同士なのかなあ、と言って笑い合ったことを思い出す。

 車には、乗っていたかった。けれどできない。

 佐恵子はそのあたりの事情を上手く逸らしながら話を続けてくれている。

 しかし、

 「有子、何かふっくらしたね。すごく痩せてるって感じだったのに、ふっくらしてるっていうか、尖ってない。」

 佐恵子の直感は鋭かった。まあ、そりゃそうだ。佐恵子も有子もほとんど姉妹のような感じで、つながっている。彼氏などでは無いのに、深く通じ合っている。

 だから一歩間違えば失礼だと捉えられかねないような言葉を平気で口にしあう。

 「…まあね。色々あるのよ。」

 有子はあえて言葉を濁す。誰にも言えない、佐恵子にすら話せない。いや、本当は話してしまっても構わないのかもしれない。けれどそれは奮闘している佐恵子の重りになるのかもしれないし、適当には扱えないことなのだ。

 そう、これは誰にも話してはいけない秘密。

 有子は、思う。

 「私は、富士雄吾を刺した。」

 罪悪感は無い、だって仕方が無かったから。

 そう言い聞かせて今日も娘のきょうの前で笑顔を作る。すやすやと寝息を立てる彼女は、有子と富士雄吾の子どもだ。

 ぜったに手放せない、必ず逃げ切ってやる。

 そう決心しながら布団に潜り込む、けれど最近は寝つきが悪くて、朝はスッキリと目覚めることができず、胃が何だか痛い。

 間違っていたのだろうか、これは何度も問いかける。自分に対する戒め。

 今日も、明日も。


 「どうしたの?」

 不意を突かれた。

 あ、彼だ。

 あれ以来休み時間にはよく休憩所で彼と会うようになっていた。休憩所は狭く、小さな水栓が一つあるだけだった。彼は毎度毎度、顔を洗いに来る。

 「そんなに顔洗って、平気なの?」

 本当に疑問を口にしたくなる程彼は一日に何度も顔を洗っている。

 「ああ、癖でさ。」

 端的に言葉を切り上げ、続きを聞くことをさえぎっているようだった。

 そして、必ずそうやって厳しい態度をとった後はニカリと笑顔を見せる。有子は、それが好きだった。

 「ふうん。」

 だからそれを悟られないように、ただただ素っ気なく言葉を返す。そうやって日々を重ねていくことが、とても幸せだった。

*はずだった。

 ぼんやりと幸せを謳歌し享受することは、自分の様な人間には向かないのかもしれない。

 だって、何で?

 気付いたら、富士雄吾は変わり果てていた。

 自分達は確実に愛し合っていたはずなのに、一緒にいるだけで幸せだったはずなのに、ぼんやりとした平和な日常がそのむせるくらい穏やかな温度が彼を飲み込んでしまった。

 他人であれば、人はきっと目が覚めている。けれどその関係が家族へと変化してしまえば、自らの歪さに目を向けることが無くなり、ぼやけていく。

 彼は、有子を殴った。

 最初は、驚いた。

 けれど、彼は何も分かっていない。だから、不幸なのだ。

 有子は誰もいない静かな部屋で懸命に考えた。

 彼は、なぜ分かってくれないのかって。でも無理だ。人は何かを自分で気付くことしかできない。

 だから、彼を歪ませた物は何かって、そればかりを思考していた。だって、何で?

 ちょっと歪んだ人だとは思っていた。けれどグニャリと曲がってしまっているなんて、知らなかった。

 そんなに苦しいのなら、自分が救ってあげたいと願っていたのに、有子は彼を捨てて一人になることを決めた。

 子供がいるから。

 気づいた時には嬉しかった。だからやっぱり自分は彼のことが好きなのだと理解した。そう、理解したから逃げることにした。

 彼のグニャリと曲げられた歪さは、彼をさらに苦しめ続けるはずで、なら自分はどこかへ行こう。

 それが最善だと、確信した。

*高揚している。誰にも見られない所にいるというのに、有子は今ひどく息を切らしていた。お腹の中には自分の子どもがいて、手の中には何もない。守ってくれる人も、構ってくれる人も、秘密を共有してくれる人も、いない。

 富士雄吾は、自分を追いかけてくるのだろうか。

 分からない、けれど仕方が無い。

 自分はこの地球上で愛するものを見つけて、今とても満たされている。

 それだけでいいのだ、そう言い聞かせることにした。


 「はい、女の子ですよ。」

 にこやかにそう告げながら彼女は微笑む。手の中にいる子供は、京という。

 決めていたのだ、娘の名前は京にしようと。ゴロが良いし、可愛い。自分はこういう言葉が好きなのだなと改めて思った。

 「京。」

 「………。」

 返事をしてはくれない、分かっている。生まれたばかりの京を、ものぐるしい目で見つめている。何だか、この世の全てが満たされてしまったような、そんな感覚を抱く。一人っきりでいるわけではない、そして、この子は自分と富士雄吾の子どもなのだと思うと気持ちが重さを持ち始める。

 こんなに好きになれる人がこの世の中にいるとは思わなかった。そんな人の子どもなんだから、手放さない。

 「京、おいで。」

 呼びかけると反応を示してくれるようになった。逃げる様に会社を辞めて富士雄吾との関係も絶っていた。

 順調に進んでいた日常が、きっと有子を安定の中に包み込んでしまって、現実をいきなり叩きつけられるには準備が足りていなかった。そうなのだと思う。

 「有子。」

 「…何で?」

 何で、今さら。

 何だかげっそりとした面持ちで、有子の今の職場に現れた。

 彼は目がどこか虚ろで、見ている人にもの悲しさを与えるような面持ちだった。

 飲まれるな、目を見るな。

 大好きだった人の存在を、見てしまったら終わりだ。

 彼のためには、富士雄吾のためには自分と京はいない方が良い。彼は分からないから、いくら待ってもきっと分かれない。自分が歪んでいることに、この人は気付かない。

 そう強く言い聞かせていると、目から涙がこぼれてきた。

 本当は。

 本当はずっと一緒にいたかったのに、彼はそれを許さない。いや、彼はそれができない、そういう対象にはなれない。京がいなかったら、きっと有子は富士雄吾の隣で殴られながら笑っていただろう。変わらないと思っていても、分かり切っていても、この哀れな男を捨てられない。

 好きだから。

 自分はきっととっても馬鹿で、どうしようもない。この時初めてそう思ったのを強く印象に残していた。

*救ってあげたい、そんな甘美な感情に浸れる程現実は甘くなく、穏やかに悪意を含んでいく。少なくとも、有子にとっては。

 

 静かな夕暮れ時、よく二人で遊んだことを思い出す。

 「ねえ。」

 有子は、彼の名前を口にしたことがない。というか何か名前で呼ばない関係が続いているうちに、恥ずかしくなって呼べないままになってしまった。

 本当は愛している、それも離れがたく苦しい程、毎日名前を思い出さない日はなくて、それが逆に有子を追い詰める。

 でも時折曖昧になって信じていいのか分からなくなる、だからそんな不確かな物に確かな存在を預ける訳にはいかない。

 だから、「もうこないで。」そう言って強気になって、「迷惑なの。」ただ言い放つ。

 間違っていない、すごく残念な顔で落ち込む彼の顔なんか知らない。もう見ない。

 それでいい。


 あれから彼には会っていない。もう会いに来てくれないらしい。そんな、残念な気持ちなどないはずなのに、苦しい。

 どうしてよ、どうしてなんだろう。

 ただ日常は穏やかで、だからこそ余計に考えが頭を巡る。自分の身勝手さに反吐が出る。

 でもそれで良かった。

*だけど、彼は、やってきた。

 「どうしたの?私の居場所、なんで分かったの。」

 有子は住む場所も住所も変えていた。

 変えなければいけないと思っていたわけではなく、自然とそうなっていた。働きたい場所はオフィスではなく飲食店だったし、住む場所は子供連れが多い広めの団地にした。

 「何でって…?理由なんている?俺とお前、うまく行ってただろ?だから理解できないんだ、教えてくれよ。知りたいんだ。」

 賢明な顔で切実だった。その顔を見たら胸が痛くなって、いたたまれない。けれど駄目だ。揺らぐ訳にはいかない。決して揺らぐつもりはない。

 だって彼の目に広がるのは変わらない色で、まだ醒めきっていない夢の中に閉じ込められている。どうやっても抜け出せないと思いこんでいる、憐れで、そしてとても愚かだ。

 後ろを向く。決別のサイン、伝わってくれるのだろうか。でも多分駄目、分かってる。

 だから逃げる、逃げよう。

 走ったまま声だけが耳をつんざく、獣の様だと震えた。静かな夜の街に広がる異常、でも誰も気付きはしない。

 見ないふりをして、平穏を取り戻す。

 自分も。


 それからは地獄の様で、目の前には壊れた彼がいた。

 「…ごめんね。」

 「………。」

 彼は何も言わないで目を逸らす。嫌だ、辛い。見たくないのに見なくちゃ、だって。

 だって自分が彼を刺したのだから。

 「…有子。」

 うずくまりながらその時、本当の意味で初めて名前を呼ばれた気がした。

*「有子、あのさ。」

 あのさって何よ、こんな状況でどうしたっていうの?ねえ、何?

 「あのさ、ごめんな。」

 「え?」

 「だからごめんなって…。痛ぇ…、腹刺したのか、お前結構やるな。」

 冗談めかした顔で彼は笑う。

 有子は、少しずつ冷静になり状況を飲み込み始めている。

 そうだ、彼が、富士雄吾が自分の部屋に上がり込んできて、泣いて喚くから、怖くなって刺してしまった。思えば、自分はとても不安定な感じでいて、それが爆発したのだと思う。ドアをガンガンと叩き、扉をこじ開ける。怖くて、嫌だった。

 気付いたら包丁を持っていて、「来ないで。」と何度も繰り返して泣いていたような気がする。顔には、今も涙の雫が付着している。

 でも、彼はどんどん近づいてきて、その度に興奮が強くなっていって、ある距離を超えた時にそうだ。刺したのだ、彼を。

 でも、そうだ。どうだったのだっけ?そうだ、彼は包丁を持って泣いている有子に「ごめん、大丈夫。」と何度も繰り返していたんだっけ?でも、聞く耳を持てなかった。怖くて、どうかしていた。

 そんなことをぼんやりと考えていると、彼が有子の手を掴んだ。

 「赤ん坊、いたんだな。多分、俺の娘だろ?可愛いなあ。」

 遠くですやすやと眠る京を見て、彼は言った。 

 どうしてよ、いまさら何でそんなに落ち着いているの?

 そう思っていたら、「俺さ、この部屋に入って赤ん坊を見つけて、何か充足しちゃったんだ。馬鹿だろ?こだわっていたどうでもいいことなんか捨ててしまって、お前を幸せにしたいって思ったよ。馬鹿だろ?なあ、有子。」

 はにかみながら呟く、彼の顔を見ながら有子は涙が止まらなかった。

 助けなきゃ、彼を。

 「救急車…。」

 「待て。呼んだらお前が捕まるから、最近の警察をなめない方が良いと思うぜ。俺はさ、知り合いに医者がいるから、このくらいならすぐには死なないから、安心しててな、それでいいんだ。」

 顔を歪めながら彼は一息に話す、といってももう息も絶え絶えで、一息ができていない。けれど懸命に有子の手を握ってくれている。

 「だからな、赤ん坊のこと、よろしく。」

 そう言って彼は傷ついた体を引きずりながら外へ消えた。

 有子は、動くことができずにただ突っ立っているしかなかった。


 「京。」

 最近、京は言葉を話すようになった。ままあ、と発音する。可愛くて、溶けてしまいそうで、でもその幼さの弱さに、また不安に突き落とされる。

 富士雄吾は、生きているのだろうか。

 有子は、もうどうすればいいのか分からなかった。

 そう思っていたら玄関ドアをノックする音が聞こえた。インターホンで押せばいいのに、と不審に思っているとよく通る声の若い女性の声が聞こえた。

 何だろうと思いながらも、そうっと扉を開ける。

 「こんにちは。」

 「こんにちは。」

 威勢よく挨拶をされたので、反射的に言葉を返してしまった。立っていたのはなかなかの美人で、利発そうな女性だった。こんな人が、なぜ有子の部屋に尋ねてくるのだろうか、思い当たる節が一ミリもなく、怖かった。

*「何ですか?」

 「はい、突然で申し訳ありません。」

 それは定型文で、多分申し訳ないなんて微塵も思ってなどいないのだろう。

 だから、「お話があるんです。」そう言って当たり前のように玄関に入り有子に歓迎を促した。有子は訳が分からず、でも疲れていて強く拒絶することすらできない。

 なぜか発散できないもどかしさを体に抱えながら、何かが燃えるような、いや燃えきれなかったような、不完全燃焼のままぼうっと突っ立っているしかなかった。

 「あのですね。」

 狭い部屋のダイニングテーブルに座り彼女は言った。

 「…はい。」

 「あ、すみません。名刺渡してなかった。これ。」

 名刺も渡さず名前も名乗らず、彼女が有子をぞんざいに扱っていい相手なのだと認識していることが透けて見える。そう思いながら手にした紙に目を落とす。

 見ると、大きな企業の名前が印字され、秘書という肩書が記してある。

 「秘書…。」

 意味もなく有子は呟いた。

 「はい。言伝というか、お伝えするべきことがありまして。」

 そう言ってなぜか有子から視線を外し、後ろの京を見つめている。

 何だ、この女はおかしい。だから、

 「何ですか?」

 敵意をむき出しにした不穏な声で応対する。

 「下さい。」

 「え?」

 「渡して下さい。」

 何を言っているのだろう、分からない。

 「その子、こちらで引き取りますから。」

 そう言われた。訳が分からなかった。とりあえず見知らぬその女を部屋から追い出して、「ふざけるな。」と罵っておいた。

 彼女はあれだけ不躾な態度を取っていたのに怯え、泣いてしまった。

 でも知るかと吐き捨てそのまま、遊んでいる京を抱えて外へ出た。

*何だっていうの?あの人は、一体誰なのだろう。名刺を手渡したということは、あの会社が何か関係があるのだろうか、不穏は頭の中をぐるぐると渦巻いていて、巻き戻しができないかのような、圧倒的な不快感だけを残している。

 今、富士雄吾を刺してしまったという身の上で、とても不安定で、さらに追い打ちをかける様に彼女が現れた。

 何が何だか分からない。ねえ、どうすればいいの?

 心の中で呟く、本当は彼に向けて、でも決して名前は思い浮かべない。思い浮かべてしまったら、終わりだから。


 とりあえず京を連れて佐恵子の所へと身を寄せた。

 仕事は有休がたまっていたので消化し、あとは休日をもらえることになりとても感謝した。働きぶりを評価して、あと事情があるようだからねと上司は笑ってくれた。

 女性で、自分よりちょっと年上でどちらかというと大人しいのに、案外気概がある人なのだと驚いた。

 そして、「え、佐恵子?」

 「有子。」

 久しぶりに会った佐恵子の隣にはすらっとした塩顔のイケメンが立っていて、「彼氏?」と尋ねたら「そうだよ、はは。」と笑われた。幸せの絶頂って感じで少し憎らしい程だった。

 「あれ、その子可愛いね。娘さん?」

 佐恵子の彼氏は人懐こそうな笑顔を浮かべ、京を見て笑った。

 ずっと放浪していた佐恵子に、春が来た。

 喜ばしいことのはずなのに、自分の今の状況があまりにもキツ過ぎて、素直におめでとうと口から言葉が出てこない。

 それを見たからか、佐恵子は少し慌てふためいたような感じで、「ごめんね、驚かせちゃったよね。」と取り繕った。

 違うの、そうじゃないの。

 言いたかったけれど、有子は余程疲れていたのか無言になってしまう。

 だけど佐恵子は有子のその様子を察してくれたようで、「休んで。」と言って家をあとにした。

 ゆったりとした柔らかい布団の中で、ぼんやりと有子はありがたさを感じる。佐恵子は、自分の友達だけど、最早家族のような存在で、家族がいない佐恵子にとってもそうだって、前に言ってくれたのを思い出す。

 京は二人が外へ連れて行って遊ばせてくれるらしい。

 佐恵子、子供いないけど大丈夫?無理しないでって言ったら、佐恵子の彼氏が「平気です。僕子供慣れてるので。」と言ってくれたので安心した。そして言葉通り京は二人に心を許してただ抱っこされていて、その姿が美しかったから何だか泣けてきた。

*ああ、でもどうしよう。

 うん、うん。

 何だか訳が分からないまま言葉を重ねる。

 決められない、決めようがない。

 そもそも一体なんだって言うのだ。分からない、分からないから不安ばかりが積み重なって、もはや答えが見つからない。

 そんなことを考えていると次第に眠くなってきた。

 まぶたはぼんやりと重くなり、ああそうか。久々に安堵しているのだ。自分では疲れていないと思っている時程、本当は疲れ切っていてだいたいは妙な興奮に支配されていて不健全だから、もうそこまで考えている内には眠りについていた。


 「…有子?」

 囁く様な声が聞こえた。

 意識が混乱していてここがどこなのか今がいつなのか分からない、そんな状態になっていた。

 「有子、大丈夫?」

 あ、佐恵子だ。

 そうだ、あれ?何をしているんだっけ?段々と覚醒してきた意識とは反比例し、この場所がどこだか見当がつかない。

 「病院だよ、有子。寝てるのかと思ったら真っ青で、二人で救急車を呼んだの。」

 目を動かし視線を彷徨わせると笑った顔の佐恵子の彼氏が立っていた。

 「ホント、心配しました。」

 端的に言葉を述べながら佐恵子と見つめ合い困った顔をしていた。

 そうか、そうだよな。

 急に訪ねて、子供を預けたままいきなり倒れて、馬鹿だ。

 今この瞬間全てが冷静になった様で、何だか悔しくて泣いてしまった。

 佐恵子はただ大丈夫だと背中をさすってくれたけど、話せない事情を抱えながら、そしてそれが誰にも完全には理解されない類のものであることが分かっているから、益々涙はこぼれ落ちた。

 きっとその姿は子供の様にみっともなかったのだと思う。

*「ごめんね。」

 「いいよ、ていうかさ、体調悪いなら言ってよ。すごく心配した。」

 「うん、ごめんね。」

 「分かってるなら平気。それよりさ、この子。結構疲れてるみたい。私は分からないけれど、あの、ああ。私の彼氏紘さんっていうの。でね、彼が言うには泣く泣き方がちょっとおかしいって、言うのね。それで、有子は倒れたし何か大丈夫かなって思って。今ね、私も紘さんも暇があってね、有子が嫌じゃなかったら少し子育て、手伝おうかなって思ったの。」

 有子はぼんやりと佐恵子を見つめた。

 そうだ、京は多分確実にストレスを感じている。母親の自分がこれ程、参っているのだから、多分そう。

 「じゃあ、ごめんね。しばらくお世話になってもいい?」

 そう言ったら、佐恵子は顔を緩ませ「うん、分かった。」と微笑んだ。

 仕事は、元の暮らしは、色々考えたけれどどれもしがみついたって何一つ上手く行かないことは分かりきっている。だったら、捨ててしまおう。

 その曖昧な決意とともに京を佐恵子に預け体調がある程度回復したので一度東京に戻り、身辺の整理を行った。

 今思えば、そんなことはしない方が良かったのかもしれない。

 だって、待っていたのは良くないことで、有子はスルスルと引きずり込まれるように、単純に足を絡め取られてしまったのだから。

*「有子。」

 懐かしい声、ずっと気がかりだった。富士雄吾の声だ。

 帰ったばかり、部屋で支度をしていると急に現れた。心臓が飛び出るかと思った。どうしよう、どうしようもない。けれど、

 「何で?う…良かった。すごく安心した。生きていてくれて、良かった。」

 有子は率直な感想を述べた。はずなのに富士雄吾の顔は曇っている。

 だから、「ねえ、どうしたの?何かあったの?すごい顔してるよ。」と問いかけると、富士雄吾は顔を曇らせながら、一言一言懸命に話す子供のようにして呟いた。

 「ごめん、俺たちの子。渡してくれないか。」

 え?

 一瞬、何のことだか分からなかった。

 急に、何?

 でも咄嗟に答えた。「嫌よ、何言ってるのよ。」

 「悪い、多分お前たちの所にも来たんだろ?あの女。」

 心当たりしかない、秘書と名乗る不可思議な女、そうなのか。富士雄吾と関係していたのか。

 有子の心はざわつき、口からは乱雑な暴言を吐きだしそうになっている。

 「嫌よ、嫌よ。何なのよ。」

 「………。」

 富士雄吾は黙り、ただ有子の手を握り締めた。

 そして、「実はな。俺がけがをした時、どうしようもなくて、でも死ねなくて実家に帰ったんだ。そうしたら、事情を調べ上げられて、俺は監禁された。女に手を挙げる馬鹿野郎は、外に出るなってさ。」

 へへ、と笑いながら彼は下を見て有子を見ていない。

 「それで?」

 怒りで声が震える。

 「それで、な。それで、ごめん。親父が、俺とお前のこと気に入っていないみたいで、孫だけ連れて来いって、変なこと言うんだぜ?」

 「何、それ。」

 訳が分からない、会ったことも無い人間に自分を判断され、深く探られ、決めつけられる。えぐられるように気味の悪さに頭が混乱していた。

 「じゃあ、それであの女が来たの?おかしい。あなたの家族、おかしいわよ。」

 そう言ってしまって、少し後悔した。不躾に家族を批判されたら、きっと誰だって心を濁すはずで、そう思いながら彼を見ると、何だか何も言えないといった顔で黙っていた。

 だから、「何か言ってよ。言ってくれなきゃわからないじゃない。」そう問い詰めて、そして彼はただごめん、とうなだれてしまった。

 「ごめんじゃ、分からない。とにかく、京は渡さない。それだけよ。」

 有子はそう言って、その場を去る。富士雄吾は追いかけることも無く、ただただ呆けていた。有子は、いつも強気な彼のそんな姿を見るのが初めてで、何だか心もとない気持ちになっていた。

*「………。」

 何も言えずにただ、二人とも沈黙していた。


 帰れない、帰ったらきっと京を奪われる。

 佐恵子達が面倒を見ている間は他人の目があるからきっと大丈夫、けれど自分が一人で連れ歩いていたら駄目、そう考えた。

 なら、もう置いて行ってしまおう。

 ふとそんな考えが過る。

 疲れていたのかもしれない、だからそんなこと。

 有子はリュックに荷物を積み込み、部屋をあとにした。

 

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