家族の成り立ち

@rabbit090

第1話

*嘘っぱちだって?

 そんなわけない。

 佐恵子さえこは早口で捲し立てる。

 「私が、何をしたっておっしゃるんです?あなたは、どうして私を責め立てるの?」

 目の前で小動物の用に縮こまり、怯えた目をしながら彼は呟く。

 「言ったじゃありませんか。何度も言っています。課長は間違っています。このままだと会社は潰れてしまいます。そしたら、みんなが路頭に迷うことになります。」

 だから、一体。

 ここは出版物の販売営業を担う部門で、会社の前線に立ち利益を挙げなければいけない。けれど、甘ったれている態度を見せるやつには活を入れないと、そう思ってきたから何人、この会社を、部署を去っても気にしなかった。

 それを、課長は営業トークと称して嘘ばかりつき、商品の価値を損なっている、と望田もちだは言った。

 何を勝手にって一瞬憤ったが、なぜか反論することができなかった。

 佐恵子が考えあぐねた末に絞り出した言葉はこれだけだった。

 呆れた顔で見上げられ、更に不快感はましていく。

 「あなた、私のことが怖いの?」

 そう言った途端目で頷かれ、佐恵子は二の句が継げなかった。そして、見渡せばフロアのみなが同意しているような雰囲気を纏っていて、反射的に逃げ出すように帰宅した。

 望田は、佐恵子より社歴も長く、人からよく慕われていた。けれど、外部との交渉事に強いわけではなく、昇進は見込めなかった。

 だから、だけど。

 佐恵子はそんな年上の社員も部下として接して、うまくまとめてきたつもりだった。

 だけど、何かがいけなかった。

 でも今の佐恵子にはそれが分からなかった。


*「あら、いたの?」

 余裕のほほえみを当たり前のように差し出しているこの女性は、世界で一番偉い女だった。

 だから何も口にしない、口にしてしまったらお終いだから、誰も、何も言わない。

 漁師町であるこの匙町さじまちは昔から極度の村社会だった。いや、今は町だから正確には村ではない、けれどほとんど村と言っていい状態で、ひどくさびれていた。そして肝心かなめの漁業も環境の変化のせいなのか昔ほど振るわず、みなじりじりと貧を詰めながら懸命に生きていた。

 そして、この町に嫁としてやってきたのは二年前の話だ。

 二年前、佐恵子はバリバリなキャリアウーマンとして働いていたにもかかわらず、会社での居場所をなくし退社を余儀なくされた。いや、正確には続けるという選択肢もあった、けれど周りを見回してもみんなが避けているということがはっきりと分かってしまったので、やめざるを得なかったのだ。

 今思えば、あの頃は全ては望田のせい、と決めつけていたが自分を省みることもせず周りをちゃんと分っていなかった自分が悪いのだと分かる。

 佐恵子はそのことを思い出すたびに恥ずかしいという思いに駆られる。未熟で、思慮が足りなかった自分、でもその時はそれで懸命に生きていたんだから悔やんではいない。悔やむなんて、馬鹿だ。

 「佐恵子さん、仕事全然はかどっていないじゃない。もう、困るわね。全くなんであなたみたいな人が直紀なおきのお嫁さんになったのよ。はあ、もう。嫌よ。」

 「すみません、ちゃんとやってるつもりなのですが、上手くできなくて。お母さんはすごいですね、魚、しっかりと捌けていて。」

 「…当たり前じゃない。何年漁師の妻、やってると思ってるのよ。」

 「すみません…。」

 「しっかりしてよ。」

 そう言い残してスタスタと歩きながら去って行った。彼女は佐恵子の夫の母親だ。夫は漁師ではなく会社員として設備の仕事に従事していて、全く漁師とは関わりがない。けれど、母親はこの漁師町で、しかもその主婦の間でギラギラと輝く権力の持ち主で、つまり言い留めると気の強い女だったのだ。みな彼女の意見に従って、彼女の機嫌を損ねない。それを無意識のうちに覚えていく。

 でも、言わせて欲しい。

 仮にでも、東京の会社で、女で課長を務めたことのある身として、はい、分かりましたと何でもかんでも考えずに承諾することはなかなか難しい。そんなことをすればむしろ怒られていた。だけど、だけど、この町ではそれが絶対で、でも佐恵子はうまく馴染めない。というか体が従わない。心も従わない。

 それが常日頃のストレスとなって、夫の直紀に爆発させた途端、一旦別々に暮らそうか、ということになりなぜか佐恵子が一番望まない義母との同居が始まってしまった。

 それには現実的な理由がまあちゃんとあって、夫の直紀は研修で東京の方へ行き、だから必然的に佐恵子は義母との同居を避けられなかったのだ。じゃあ、別れればいいじゃない、と思うのかもしれないが、それは無理だ。

 だって。

 佐恵子には身寄りがなく、家族すらいない。親族さえ一人も連絡先を知らない。つまり、直紀に捨てられたらお終いなのだ。人生、ゲームオーバー。

*「今日のお夕飯、何にします?」

 「何でも、あなたの好きにしなさいよ。」

 「はあ、分かりました。」

 「その返事、何?はっきりしなさいよ、面倒くさいわね。」

 「すみません。」

 義母は、ちゃんと拵えればまだ未熟だと憂い(というか癇癪を興し)、適当にやれば文句をつける、つまり。何をしても気に食わないのだ、右へ行けば左へ、左へ行けば右へ、全く、途方がない。

 とりあえずなるべく機嫌を損ねないように関わりを薄くすることに努める。

 だからきっと、関係が上手く行かないのは佐恵子のせいではなく、考え方がおかしい義母のせいなのだと思えている。

 東京で、狂ったように正常を失って働き続けていた時、周りからは佐恵子が甚だおかしく映っていたのだろう。

 昔からそうだった、客観性を失ってよくわからない価値基準に迎合して、いやとりすがって生きていた。

 とても、苦しい頃だった。けれど、それが最善だと思い突き進んでいたその頃の自分を否定するつもりはない。

 否定なんかしたって、変わるものはないから。

 何を肯定するか、なんて選んでいる奴らはきっと、さもしいはずだ、佐恵子はそう自分に言い聞かせて、義母が寝静まったタイミングを見計らい家を出た。


*「生き返る。」

 「大げさだろ?何だよそれ。」

 「息ができないんだ。ずっと呼吸が苦しいっていうか、うまくいかない。」

 「…そんなに追い詰められてるの?それ、ちょっとヤバいよ。」

 「そうだね。分かってるよ。」

 分かっている、もちろん分かっている。

 佐恵子はため息を吐きながら隣で笑う同級生を見ていた。

 有子なおこは小学生からの友達で、紗栄子にとっては特別な存在で、どう特別かって言えば有子も佐恵子も学校に通っていなかった。

 小学生なんて学校しか行き場がないのに、でも二人は家を出てすぐ街へ繰り出した。

 「またサボっちゃった。」

 「うん、でもアタシの親はもう気にしないんだけど、佐恵子は大丈夫?」

 「まあ、私も大丈夫かな。」

 「そっか、そうなんだ。」

 佐恵子は有子にそう言ったが、本当は佐恵子には自分を気にする存在なんていない。

 佐恵子の親は既に佐恵子を放棄して、祖母に佐恵子の世話を押し付けている。両親ともに健在だが、いや、多分健在なのだが、それが分からない程もう両親とは会っていない。

 2年は、経っていると思う。

 だが有子には言わなかった。自分の境遇も、大変さも。誰にも言わないで黙っている時間が私には必要だったし、その部分をさらけ出すことはだからいつもためらわれた。

*「昔から佐恵子って、変わってるなと思ってた。」

 「今更?私、東京に馴染めなくてこんな辺鄙な場所に行くしか無かった人間だもの、分かり切ってる。」

 「それ、その言い方もだよ。」

 今佐恵子たちは二人そろって、匙町の港でたむろっている。有子は都会に住んでいるけれど、とにかく車が好きで休みがあれば飛ばしてここまでやって来てくれる。今の佐恵子にとって、この時間だけが救いのようなものだった。

 「そろそろ行かなきゃ。」

 「え、もう?まだいてよ。出てきたばっかりなんだから。」

 このところ有子は早く帰宅の途につこうとするようになった。有子も、東京で色々なことがあるのだと思う。だけど詳しくは聞かなかった。彼女は、そういう節介を好まない人だったから。

 「分かった、じゃあ、また来てね。」

 「来るよ、ここ風が気持ちいいし、佐恵子もいるし、癒されるんだ。」

 そう言い残して有子は帰って行った。

 残された佐恵子はただ一人、呆然と海を見つめる。

 息苦しい、生き返る。

 これをあとなんべん繰り返せば死ねるのだろうかと、暗い波を見つめながら考えていた。


 「ねえ、直紀が帰ってくるって。」

 義母がいつも以上に興奮した様子で私の部屋の扉を叩くから、少しイラついた顔のまま何ですか?と尋ねた。

 「だから、直紀が帰ってくるのよ。何、あなたうれしくないの?夫よ、馬鹿みたい。」

 そう言い捨てて彼女は階下へと降りて行った。

 佐恵子は元々朝が好きだった。誰にも邪魔されず早く起きて、ゆっくりと過ごす。それだけで得をしたような気分になれるし、一日の中で一番好きな時間だった。

 けれど、この家に来てから佐恵子はそれらを一切失ってしまった。自分が起きようとする時間の前に義母がたたき起こしに来るからだ、やめて欲しい、と切に願ったが叶うことは無かった。だから毎朝、こうやって憂鬱な小学生のように瞼をこすりながら今まで寝ていた布団を恋しがる。

 「はあ。」

 誰にも聞こえないならいい、佐恵子はそう思いながら一つ息を吐いた。

 でも、直紀が帰ってくるって、ちょっと早くはないだろうか。何か関係がこじれて、ちょうどタイミングよくこういう話が合って、彼は出張という形で東京へ行ってしまったのだが、もちろん業務だからしっかりとこなして帰ってくるはずなのに、予定より3か月は早い。というかまだ、行ってから一か月しかたっていない。

 何か悪い予感を抱えながら、佐恵子は直紀が帰ってくる日を待った。

 来ないで欲しいと、心の片隅で願いながら。

 「…はあ。」

 また一つ、ため息をこぼしていた。


 「やあ、ただいま。」

 のんきな顔で直紀は敷居をまたいだ。

*あまりにものんきな態度だったから妙に苛ついて、ずっと義母との関係で苦慮していたことは知っているはずなのにこの家に置いておいて、色々な不満や鬱憤が確かにあって、でもそれが顔からこぼれないように気を張る。

 「お帰り。」

 ちゃんと言えていたかは分からない。ただ、夫の顔は一瞬曇ってそのすぐあとに苦笑いを浮かべることで落ち着いたようだった。

 「ねえ、早くない?」

 「何が?」

 「帰るのだよ、4ヶ月くらいはかかるって言ってたよね。」

 「…うん、言った。」

 少しの間が生じ始めたことに佐恵子は気づいた。

 悪い予感はずっとあって、でも次第にそれは膨らんでいく。

 「ごめんね、佐恵子。」

 何が、と言いかけたが夫は佐恵子の顔を見なかった。

 「会社、潰れたんだ。倒産した、ごめん。」

 佐恵子は一瞬何かを叫びそうになったが、堪えた。それは言葉にならないような、ただの強い感情だったから。

 「………。」

 「だから、離婚しよう。」

 何も言えない佐恵子を押すようにして夫は小さく呟いた。

 何で?と言いたかったが、彼の小さな背中を見ていると口に出すことはできなかった。

 分かっていたのだと思う、義母との関係も夫との生活も、うまくは行っていなかったという事実に、気付いていた。

 だから、だから佐恵子は何も言えなかったのだ。言うべき言葉が一つ見つかったが、「そう。」というただの了解を表す一言だった。

 夫は立ち上がり離婚届を用意していたらしく、すでに記入を終え、判を押していたそれを佐恵子に渡した。

 「じゃあ、また来る。」

 そう言い残して去る背中は、どこか見知らぬ他人のようだった。

 そして、時間を空けて佐恵子達が話をする内容を聞いていたらしい義母は、良かったのが悪かったのか、よく分からない曇った顔をしていた。


*短かった、だけどこれも人生の一部だと割り切って、歩みを進めることにした。

 今手にはキャリーバッグただ一つだけが引かれている。コロコロと音をたてながら歩いていく、このさびれた町の中ではやたら目立つ派手な格好をしていた。もう、どうせいなくなるのならば、と思いそうした。

 佐恵子は自分が沼の底に落ちていっているような錯覚を抱く。この事実を知っているのは有子だけで、でも有子にも軽く伝えたから大して心配はされないだろう。

 そうあって欲しかった、もう誰にも自分の存在を分かって欲しくなかった。

 見ないで、と思っていた。


 「都間地つまじさん、いる?」

 「います、何でしょう?」

 「そろそろね、出て行ってもらわなくてはいけないの。大丈夫?」

 「…分かりました。大丈夫です。いつ頃ですか、それを知っておかないと準備ができなくて。」

 「まあ、2、3日でいいかしら?ごめんね。」

 夫の直紀と別れ行く場所のなくなった佐恵子はネットで調べた女性が集まる簡易住居のような場所へと向かった。そこは貧しかったり事情があったりする女性が集まる場所で、でもそういう人が近ごろ増えているのか佐恵子の居場所はなかった。もう、満杯だったのだ。

 でも放ってはおけないとそこの運営者が、少しならと温情を見せてくれてその間に仕事と住居を探そうと決めていたのだが、なかなか見つからず退去しなくてはいけなくなった。

 匙町から持ってきたキャリーバッグは裏の倉庫にあって、それをまた手にし放浪する羽目になってしまった。

 いざとなればどこか警察にでも駆け込んで、助けてもらおうと思っていたが、未だにその機会は訪れない。

 たまにすれ違う女性が、子供の手を引いて歩いているところを見ると、胸が痛くなる。あの人たちには温まれる場所があって、自分にはない。その事実がただただ苦しかった。だから、そうだ。もうこんな状況になってしまったのだから、都会へは行かずにどこか、本当に自分が気に入る場所へと向かおう。そう決めたのだ。

 手持ちのお金はまだしばらく尽きそうにない。それに、直紀が悪いと思ったのかたまにお金を送金してくれるからまだ佐恵子は生きていられる。

 離れてみれば、直紀に対する感情はそんな軽いものだったのかと馬鹿らしくなってくる。

 「はは。」

 誰も聞いていないからこそ、佐恵子は一人馬鹿になって笑ってみようと思った。そうしていれば何も考えずに済むのかもしれない。だが空腹は佐恵子をのみこみ、思考をよりはっきりとさせるようになっていた。

*「どうしよう。」

 呟いてみたけれど答えは見つからなかった。


 「お母さん、お父さん。」

 反応がないことはわかっていた。けれど言わずにはいられなかった。

 今日、佐恵子は学校で罵られたのだ。

 悪徳野郎の子供だ、と。

 はっきりとした不快感と絶望が自分を包んでいることを自覚していた。同時に、でもこれは自分のことではないという無責任さも持ち合わせていた。

 でも、たしかにそうなのだ。

 佐恵子には関係がない、だけど彼らは自分の親だから、家族だから、無関係だと切り捨てることができない。周りも、自分も。

 だけど違った。佐恵子の父と母はおかしかったのだ。そんな佐恵子のことを、でも二人は切り捨てた。

 しばらくして祖母に預けられることになった。

 その時は不安だったが、でも生活を始めてみると今までの泥のような当たり前じゃない生活を自覚せざるを得なくて、普通の暮らしができることにひどく感謝してしまっていた。

 朝も昼も夜も、ほとんど何も食べずに生きていた自分が信じられないと思える程だった。

 しかしその祖母も佐恵子が高校生の頃に死んでしまい、それからは身寄りがない。

 孤独には慣れているつもりだったが、でも社会的にたった一人で身寄りがないことは、とてもつらい状況だった。

 高校を卒業するまではまだ、未来に展望を抱くことで耐えられていたが、それからは薄ぼんやりとした絶望だけが自分を包んでいることに気づいていた。


 漠然と不安だけを抱え、何も持たずにやってきたこの町は温暖な気候が特徴の、人口の少ない、でも町としての産業を成り立たせており、働き口の見込みもある山間の土地だった。

*たどり着いたのは偶然だった。行く当てが無くて、でも東京には戻りたくなくて、だから勢いで乗った列車が着いたのがこの土地だった。

 初めての印象は、きれいで澄んでいる。

 観光地のような感覚で駅から道沿いに歩いていた。

 しかし人はほとんどおらず、佐恵子は不安を抱えながらも何かを探し求めるかのように進んでいた。

 「ここ、誰もいない。」

 誰もいないからこそ口に出せるのだが、でも誰からの反応もないと虚しかった。ここ最近はずっと虚しくて、でもそれだって当然のことだ。誰とも関わらずに一人でいるのだから、抱えなくてはいけないことだと分かっていても苦しかった。

 抜け出したかった。

 けれど、「どちらさま?」

 少しなまったような声が佐恵子を呼んでいた。

 咄嗟のことだったから、へ?と間抜けな声を出してしまい相手を困らせてしまった。

 「いやさ、驚かしちゃって悪かったね。観光客なんている場所じゃないのに、あなたキャリーバッグを引いているし、いかにも旅行って感じじゃない。」

 「…あ、あの。ちょっと色々なところを回っていまして、それでたまたま辿り着いたのがここだったんです。」

 そう言ったら、佐恵子に声をかけてきた総白髪の昔綺麗だったんだろうなと思わせる目鼻立ちのはっきりとした農作業着姿の彼女は眉を寄せた。

 「何で?何でこんな所で降りたの?もうちょっと乗ってればもっと繁華街へ行けたのに、どうして?」

 返答に詰まる。だって特に理由は無いから、むしろずっと乗っていると変な所に連れて行かれると思っていて早く降りようと思ったタイミングがこの町だったのだ。

 「そう。」

 彼女は俯き、でも納得したような顔をしていた。

 「夜遅いけど、行く当てはあるの?列車はもうないわよ。」

 そうだ、もう夜になってしまった。どうしよう。

 「…分かったよ。泊って行けば、大丈夫。ウチは一人暮らしだから。」

 「え、いいんですか?」

 「いいわよ。」

 「…すみません、お邪魔します。」

 「はい。」

 仕方が無い、申し訳ないけれどでも、行く当てが本当になかったからお世話になることにした。

 

 「広い。」

 初めて出た言葉がそれだった。それ程、彼女の家は広かった。広くて、手入れがされていて、きれいだった。

 「お屋敷みたいでしょ?死んだ夫がね、くれたの。ちょっとした小金持ちで、こういう住宅に凝るのが趣味だったの。」

 「へえ。」

 ため息のような嘆息がこぼれてしまった。圧倒されて、恥ずかしい程だ。

 「じゃあ、食事にする?」

 「え、ありがとうございます。」

*「そんなに豪勢じゃない、っていうと謙遜になるくらい立派よ。私、食事だけは手を抜かないの。絶対にね。」

 「…ええ。」

 あまりにも強気な発言だったから、どこか気の抜けた返事を返していた。佐恵子は、元々極端な食生活をせざるを得なかったから、あの匙町での暮らしに至るまで、そこだけは削がないように努めていた。

 多分、佐恵子は誰よりも分かっていた。それがどれ程惨めかってことを、当たり前が当たり前である人よりはよく分かっているつもりだった。

 「すご。」

 「でしょ。もう毎日だから、手際も良いのよ。手を抜かない、誰に見られても良いように、そう思うのよね。」

 へえ、と思った。彼女は一人で暮らしていると言っていた。つまり食べてくれる人も見てくれる人もいないはずなのに、なぜ、と一瞬過ぎった疑問が消えてしまう程に、とても美味しく、感嘆した。

 「何か、長年作られてるんだなって思いました。すごいですね。」

 「すごい、すごい、すごいわよ。」

 「…すみません、すごいってよく使ってしまうんです。気に障りました?」

 「違うわ、可愛いのよ。私ずっと、心を砕く相手が料理っていう無機物だったから、人間相手にかまえるのが楽しくて仕方ないみたい。」

 笑った彼女の顔は寂し気で、でも佐恵子もほとんど同じようなものだったから、共感のような感情を抱いたし、何分雰囲気に呑まれていた。だから、言ってしまった。

 「あの、私も一人で、あの。行くところがなくて困ってるんです。」

 客観的に見れば何を言っているんだと思うが、その時の佐恵子は本当に行き詰まっていて、切羽づまっていた。

 「………。」

 彼女は目を丸くしてこちらを無言で見つめている。

*少し黙っていた。佐恵子も黙っていた。黙るしかなかった、仕方ない。

 どうなるのかな、と思いながら迷っていた。

 「…分かったわ、良いよ。おいで。」

 彼女は明るい顔でそう言った。

 「あの、申し訳ありません。私、ちょっとどうかしてるんです。」

 そうだ、どうかしている。どうかしてしまっている、どうしようもない。

 「そんなこと、気にしないで、どうかしてない人なんて、本当はいないのよ。だからあなたも私も大丈夫。ね?」

 何だか母親みたいだって思って泣けてきた。寒くて辛くて怯えるしかない毎日で、そのせいなのだろう。私は、悲しかった。そして、嬉しかった。

 「何か、ずっと上手く行かなくて、苦しくて、辛かったんです。」

 「そう、じゃあ甘えていいわよ。」

 「…そんな。ご迷惑でしょ?」

 「違うって、ああ。でも私も嬉しいわ。私もずっと一人で、夫が死んでからね、一人だったの。孤独って辛いわ、文字通り救いがなくて、嫌になる。だから、やっぱり気にしないで。お互い干渉しないで生きていればいいわよ。それで平気…?」

 佐恵子は顔をギュッと強く瞑った。

 「ありがとうございます。もう、感謝で言葉がないです。」

 「馬鹿ね、大げさよ。」

 そう言って、佐恵子は背中を撫でられた。


*「ここ、置いておきますね。」

 「ありがとう。」

 佐恵子は今、この麴町こうじちょうのスーパーで店員として勤務している。実は、すごく過疎っている土地なのかと思っていたが、近隣の大きな町のベッドタウンのような機能を果たしていて、わざわざ観光で降りる人は少ないが、でも住んでいる人自体は割と多いのだという。

 「疲れた…。」

 「あら、若いのに。でもそうよね、あそこのスーパー、人手が少ないから、一人に任される業務が多いのよ。ご苦労様。」

 「…はい。」

 「お夕飯作ってあるから、食べましょ。」

 「やった。」

 「若者ね、その言葉。」

 総白髪の彼女の名は、雪江ゆきえという。門倉雪江。とてもきれいな名前だなと初めて聞いた時に思った、けれど彼女にそれを伝えると、「私ね、この名前は気にっていないの。雪江って、暗いでしょ。もっと夏とか春とか、秋とか何か、きれいな感じにして欲しかったのに、雪って、きれいだけど虚しいじゃない。それが嫌なのよ。」と言っていた。

 佐恵子は、でもこんなに響きの良い名前はあまりないですよ、と伝えると彼女は笑顔を見せ、佐恵子の肩を叩いた。そして、「ありがとう。」と言ってくれた。

 雪江さんとのコミュニケーションは何か、同世代の人とは違って、こう体を触ったり、幼児を安心させるという様な、そんな感じがあって、人の優しさに飢えていた佐恵子にとってそれはとてもありがたいことだった。

 「あなた、だいぶ慣れてきたみたいね。私もさ、一緒に暮らせてよかったと思うの。何か、娘みたい。」

 「そんな、謙遜します。私なんてロクでもない人間だし、おいて頂いただけですごく感謝しているんです。」

 「ふふ、佐恵子さんはいつも引いているから、でもそれじゃストレスがたまるでしょ?駄目よ。それにね、私はこのままでいいんだけど、あなたは、まだ若いんだから。何をするのか、考える必要があると思うわ。」

 夕食を共にするとき、彼女はよくそのセリフを口にする、佐恵子は何となく言葉を濁していつもその場をやり過ごすのだが、こうやって安定した生活を送っていると、また東京で働きたいという思いが込み上げてきた。

 颯爽と、街を闊歩する。

 佐恵子はそのシチュエーションにいつも興奮を隠せない。そういう人間になりたかった、けれど今の自分は全く違う、都会で負けて結婚でも失敗して、何一つうまくいかない、そして身寄りがない絶望的な負け犬なのだと思っている。

 どうしよう、この先、どうしよう。

 考えても、答えは無かった。


 父と母は、本当に悪徳野郎だった。

 人様を傷付けて、それでご飯を食べていた。まあ、本人たちだけだったのだが、でもそれでも佐恵子は父と母を嫌いにはなれなかった。

 あんたたちのせいで自分は学校で罵られて、そして何の世話もしないのに親であって、そのせいで自分は壊れてしまったんだと呪っていた。けれど、世界は何一つ変わらなかった。

 変え方も分からないし、そもそも変えるという選択肢が浮かばなかったのだ。

 佐恵子はまだ、ただただ幼い子供だったから。

*佐恵子の両親は地元で名のある商家の娘と、婿だった。けれど母の実家には世話になりたくないと、つまり自由になりたいと家を出て、でも行く当てがなくて逃げた先で細々と暮らしていた。

 しかし余裕があったわけではなくて、暮らしを立てるために生活を犠牲にした。そのおかげか、段々安定し始め彼らは裕福になっていく。

 そして、事業を始めた。

 その事業は、よく言葉で説明することは難しいのだが、人の心を上手く先導して、操って商品を買わせるという手口だった。

 両親は、特に父は口が達者で見た目も器量良しと区分されるような人間だった。

 母は、だからそんな父がすることなすことを一切の批判も挟まず受け入れていた。

 「悪徳野郎。お前の親父のせいで俺の母は。」

 そう憤っていた彼は、父の会社から高額な商品を売りつけられ、母親と父親の関係が上手く回らなくなり離婚に至ってしまった人の子供だった。

 佐恵子はそう言われても何かを言うことはできなかったし、すべきではないと分かっていた。

 自分の親が間違ったことをしていることは理解していたし、だけどだからってどうすればよかったのだろう。その答えはいつになっても見つからない。


 山間の街だけど、川を下ると海に繋がっていて、佐恵子が勤めるスーパーには新鮮な魚介類が豊富に割安で揃えられていた。

*「すごく活きが良い魚、入ってますね。何かどっかの鮮魚店みたいな、市場みたいな雰囲気ですよ。」

 佐恵子が働くスーパーには常時店員が3、4人しかおらず、よくそれで回せているなと思う程、でも店内は広々とした空間だった。

 ここのスーパーは、生ものを買うのに最適だ、という評判がある。確かに、佐恵子もそれには同意する。競合他社として大手チェーン店のスーパーが近場にあるが、魚のラインナップだけは全く負けていない。というか、先方が手が届かない程豊かだった。

 「そうだよ、コネがあるからね。」

 そうなのだ、この人は親父から会社を受け継いで二代目としてこのスーパーを切り盛りしている。一応、社長という肩書を持つのだが、全く似つかわしくない程豪快な見た目をしていた。

 顔立ちは彫りが濃く、外国人の様で、でも話し方はしっかりとしていて生粋の日本人だった。何か不思議な感じがしてしまう程、人望の厚い人物だった。だから、佐恵子はこのスーパーに就職することができた。今では、社内の簡易的な事務なども担当するようになっていた。東京にいた頃に受けた研修もろともがこんな所で役に立つとは思わなかった。

 だからここでは、佐恵子は重宝がられる仕事のできる女でいられた。

 もう、いいや。ずっとここにいればいいや、とも思う。

 でも雪江さんはそれを認めない。

 良くないよ、あなたはもっと、何かを見つけないと。

 そう言ってくれたのは彼女だけだった。正直佐恵子にはどうすればいいのか、よく分からなかった。世間的に見ればもっと華やかな場所で働くべきなのかもしれない、けれどもうそういう所にはいきたいとあまり思えない。

 つまり佐恵子はとても疲れていたのだ。

 「お疲れさまです。店長、経理の仕事、進めておきましたから。後事務専任の大木さんに任せればいいですよね?」

 「うん、うん。ありがとう。いやさ、大木さんより都間地さんの方が働いてくれるから、というより知識が豊富だから手抜かりが少ないんだよね。東京の方でそういう仕事してたんだっけ?」

 「いや、私はあまり。でも研修とかいっぱい受けて、だいたいのことは把握しているつもりです。」

 「そっか、もっと自信もちなよ。それ、すごいことなんだから。」

 「…ありがとうございます。」

 「じゃあね、お疲れ様。」

 そう言い残して店長は帰って行った。本当に気づかいができるできた人なのだなと感嘆してしまう。

 でも佐恵子は、そういう人の存在を身近に感じると、自分が恥ずかしくなって、苦しくなる。

*店長は良い人だけど、やっぱり店を出て家へと向かう時間は、ホッとする。スーパーは店内が賑やかですごく疲れてしまうのだと最近気づいた。

 最初は特に思わなかったけど、しばらくすると東京で勤めていた頃とは違って、体と心の空気が抜けているような錯覚を覚える。

 まあ、錯覚じゃなくて事実だとは思うけど。

 「ただいま。」

 今は扉を開ければ雪江さんがいる、それだけで安心していられたはずなのに、まさかと思った。

 いつもより着崩した格好をして、だらしがなかった。雪江さんらしくない、そう思っていたら、

 「ごめんね、可愛そうだけど出ていってもらうわ。」

 そう言われた。

 だから、「何で?何でですか?」と言った佐恵子は非常に狼狽していて、多分物凄く見苦しかった。だからだろうか、雪江さんは少し顔をしかめた。

 やっと手に入れた、仮初めでもいい安定、それを理由もなく手放すことは今の佐恵子には難しかった。

 「あのね、ごめんね。私には娘がいて、その子と一緒に暮らせることになったの。そしたら、今まで張り詰めていたってことに気づいちゃった。きれいに着飾ってきちんと食べて、でもそれは嘘だったのね。私は本当は誰かからもらう温かさを求めていた。不可抗力だからって、諦めていただけなのよ。」

 「………。」

 言葉が無かった。

 唯一、「分かりました。」そうぼそりと囁くことで最低限の礼儀を守ろうとしていた。

 そして、逃げるように部屋へ戻り急いで荷物をまとめた。

 何で、自分だけ。

 それが心に浮かぶ呪いのようだと佐恵子はぼんやり思っていた。

*眠りにつけず、ここ最近はそんなことがなかったから苛立ってしまい勢いのまま外へ出た。

 どうせ追い出されるのならば、逃げてしまおうかとも思ったが、佐恵子は当分今の職場を辞めるつもりはない。

 さっき雪江さんが扉の前に来て、「あの、急にごめんね。仕事のこととか、困ったことがあると思うからゆっくりでいいの。それに、私は娘と遠くで暮らすから、いずればこの家、処分したいけどあなたがいるから、落ち着くまでは住んでいていいの。」

 そう言い残して去った。

 佐恵子は返事はしなかったが、話はしっかり聞いていた。

 そうだ、そもそもこの生活は雪江さんの温情で、当たり前なんかじゃなくて自分は、文句を言える立場ではないことは理解していた。

 でもなぜか、すごく悔しいような辛さを抱えていて、苦しかった。

 「ごめんね。」

 その後しばらくして彼女はそう呟いて、夜食のドーナツを置いてくれていた。

 佐恵子が雪江さんに美味しいと言ったお菓子で、やっぱりとても温かくてとても美味しくて、だから悲しくて泣いてしまった。


 「佐恵子。」

 舌っ足らずな口調で母は佐恵子を呼んだ。

 「なに?」

 5歳だった佐恵子は美人でおっとりとした母が嫌いだった。良く言えばおっとりとしている、でも実際は自らの意思が薄弱な弱い人だった。

 将来、自分がずっとこの母の面倒を見ることは明らかで、母もそれを期待していて、それがあまりにも当たり前で露骨だったから、佐恵子はただ母を無視していた。

 返事をしても1言、最悪だった。

*「佐恵子、おやつ食べる?」

 自分も一緒にお菓子を食べることを見込んで声をかけているのが分かっていたから佐恵子はただムカついていて、父が倹約というか、度の過ぎるケチ野郎だったから母はティータイムさえ作ることができなかった。

 でも、佐恵子のおやつだと言っておけばお許しが降りると知っているので毎日、お互いに会話をすることさえやめたい程憎み合っていたのに、母は執拗に声をかけ続けた。

 自分が歪んでいるのか、母が歪んでいるのか、でもきっとそんなことではない。人はもっと自由になれるはずで、そうあるべきなのに状況はいつも窮屈だったのだ。

 

 今日もいつも通り朝出勤し雑務をこなしていた。誰かがやらなくてはいけない仕事で、でも佐恵子がやってくれれば早く片付くとみんな分かっているから、人より早く出勤しこなしていた。

 でもそれでも良かった。

 職場の人は親切で、佐恵子が多く働いていることを知っているから、その分おやつを分けてくれたり、惣菜を手に持たせてくれたりした。

 自分にできないことを誰かにやってもらう、その代わりに面倒を見る、至って平和的で穏やかな理屈がまかり通る平和な場所だった。

 「店長。」

 仕事が早く終わり時間が余ることを見越して、佐恵子は店長のいる所へと向かった。

 話がある、話さなくてはいけない。

 「あの、私辞めます。」

 そう突然言ってしまったから、「えっ?」店長は素っ頓狂な言葉を発し佐恵子を見下ろした。

 身長が高く、自然にそうなってしまうのだが、今の佐恵子は何だかいたたまれない気持ちになっていた。

*「いや、あの。事情があって、すみません。住まわせてもらっていた方からちょっと事情ができてしまって、出て行って欲しいという話になってしまったので、そういうことなので。」

 激しく言葉を濁しながらしっかりと店長の目を見ることなく言い募った。

 言い募られた方はたまったものでは無いだろう、けれど佐恵子はそれ程動転していて、自分でも落ち着く場所が見当たらなかった。

 「…それで、どうするの?」

 穏やかな顔をして、店長はそう言った。

 佐恵子は懸命に答えようと言葉を探した、けれどどれも嘘になってしまいそうな程軽い言葉しか見当たらなくて、黙っていた。

 「すみません、今何も考えられないんです。でも、出て行かないといけないことは分かっていて、私には落ち着いていい場所が本当になくて、あの、身寄りがないから。」

 つい本音をこぼしてしまった。誰も佐恵子がそういう身の内にあることなど知らなかった。けれどつい、店長のほがらかな顔を見たら漏らさずにはいられなかった。

 「…そうか。」

 店長は真剣な顔でそう言ってくれた。やっぱりこの人はとてもいい人で、佐恵子は不安定な自分をひどく恥じていた。

 すみません、でももう解放してください。

 詰まった状況に音を上げそうで、必死に心の中で言葉を紡いだ。

 「都間地さん。聞いて。」

 「え?」

 「それなら大丈夫。ここは土地も安いからね、要らない部屋がある人はいっぱいいるんだ、だからそれを紹介できるんだけど。都間地さんは?どうしたいの?はっきり言って、あなたは優秀なんだよ。もっと、もっと広い場所で生きて行けるはずなんだ。そう思うけど、どうかな。」

 「…あの。」

 佐恵子はその言葉にうまく反応ができなかった。

 確かに、この場所にとどまっていられたらいいのかもしれない。でも、佐恵子の中ではまだ落ち着けない部分があって、なぜかとてももどかしかった。

 それを、上手く言葉にすることができない。目の前のこの温情に厚い素敵な人に向かって、でも言葉を、何か言葉を。

 「…悩んでるってことは、即決できないってことだよね。生活のことを考えたらすぐはいというはずなのに、君の中では違う何かがある。多分、君はもっと別の場所を見つけたいと望んでいるんだ。それなら、見送り会でもしようか?」

 おどけた笑顔で彼はそう言う。

 そういう所が、いつも憎らしいと思っていた。

 

 「じゃあね、都間地さん、元気でいてね。」

 パートのおばさんやお世話になって人が集まってくれて、近所の家で催しをしてくれた。近所の家と言っても店長の親せきの家で、広いから使いなよと言ってくれた。そして肝心な店長は自分の家族から、最近帰りが遅いから嫌、と言われ早々に退散してしまった。

 けれど、

 「都間地さん、これ。少ないけどもらって。」

 「…え、いや。」

 有無を言わさず、というかただにっこりと笑って花柄の封筒を差し出してくれた。中を確認すると30万円ほど入っていて、驚愕した。月の給料の何倍だ、そんなツッコミが頭の中で冴え渡る。

*「………。」

 何も言うことはできなかったが、もう何も言う必要はないというような気もしていて、店長の優しさをただ享受して町を出た。

 行く当てはなかった。

 ただこの間に稼いだお金がある。だから、行けるところまで佐恵子は行くつもりだった。


 「はい、じゃあこれ125ccね。」

 佐恵子は、会社員時代に取っていた免許で125ccのバイクを買った。

 住所とか、生活の基幹になるものは雪江さんのおかげであと3ヶ月は大丈夫だったから、とりあえずこの乗り物を駆使して、佐恵子は居場所を探すことにした。

 ずっと頭を使っている。前より、東京で働いていた時よりずっと、自分のために頭を動かし続けていた。

 「そろそろ休もうか。」

 今は誰とも連絡を取っていない。取るべき人はいるかもしれないが、有子にさえ一つも状況を伝えていない。

 なぜか、口を開けばまた泥沼に浸かるような錯覚があって、だから必死に抑えている。もう、本当の一人ぼっちだと思い込むことで、佐恵子は救われるのだと信じていた。


 ずっとバイクに乗ることはできず、ちょこちょこ停車しトイレを借りたりしていた。

 だけど時間を重ねるたびに研ぎ澄まされるような変な心地になっていて、だから体も心もある意味でひどく摩耗していた。

 今日はあれから一週間ほど経った所で、佐恵子はしばらくたどり着いた町に滞在することにした。

 理由は、そこがどこか既視感を感じさせるような場所だったからだ。

 町は海と山に囲まれ、人が集まる繁華街のような場所もあった。車がなくてはとてもじゃないが、どこかへ行くことはできない、広大な田園地帯だった。

*そんなところになぜ来たかって、スルスルと都会を避ける様に走っていたら急に市街に出てこの町に出くわした。

 変な所、と思った。佐恵子がずっと暮らしていた町とは似つかわない、生活環境の全く違う土地だったのに、なぜか懐かしく通り過ぎようと思ったが離れられなかったのだ。

 「私、ここが気に入ったのかしら。」

 一人呟いてみる。今バイクを停めているのはその町のスーパーだった。スーパーはトイレがあり、さらに食材が何でもそろっているから運転中の補給に最適なのだ。

 「いらっしゃいませ。」

 若い女性に声をかけられる。その店の店員の様で、雑貨店の店員のようなお洒落な制服を着ていた。

 へえ、と思いながら佐恵子が今まで勤めていたスーパーのあまりにもダサい制服を思い出し苦笑いを浮かべていた。

 ここはチェーン店で、都会にも店舗がいくつもある。だからか人は結構いて、ずっと孤独に走り続けていたから少し救われたような心地がした。

 何を買おうか、と思いながらとりあえずパン売り場へと行き、安いパンでも探そうと決めていた。パンは、食パンでもいいのだが何ぶんしばらくぶりの食事だったからお腹にたまるものを買おうと漠然と考えていたのだ。

 「あ。」

 安い、値下げの札が貼ってある。いつもちょっと贅沢な時にしか食べない蒸しパンが20%引きだったので、買うことにした。バイクだから駐輪場でそのまま食すわけにもいかず、地図を開いて近場の公園で食べることにした。

 さすが田舎、と思っていたけれどちゃんとしっかりとした公園が整備されていて、むしろ観光地としての側面も備えているような不思議な場所だった。

 不思議、不思議と連呼することで、佐恵子は気持ちを落ち着けた。一人ぼっちとは、こうも辛いものなのかと、とても、とても思っていた。

 昼飯を食べた後は、また走ることにして、でも少し本屋に立ち寄って求人を調べることにした。そりゃ、ネットで調べれば早いのかもしれないが、佐恵子は多くの情報を流し込めるほど、もう感情の容量が残っていなかった。

 そしてあまりない求人の中、少し目を引くものがあった。だからその店でその本を買いまたバイクを走らせた。

 じっくりと考えたかったので、今日はゆっくりとホテルに泊まることにした。

 「はあ…。」

 久しぶりのお風呂は、染み入るような心地だった。

 「あったまる、て最高だ。」

 バイクはとにかく冷えるから、佐恵子はそのありがたみがよく分かっている。それが分かってしまう程、自分が冷え切っていることにも気づいていた。

*とりあえず眠くなってきたから布団に入り、とっとと寝てしまおうと目論んでいた。


 「佐恵子。」

 何だろう、懐かしい。彼は、

 「勇太郎ゆうたろう。そうだ、彼の名前は勇太郎だった。」

 「何言ってんだよ。」

 「え、おかしかったかな。」

 「お前は本当に変なやつだな。」

 「そうかな…。」

 「そうだよ!」

 勇太郎、勇太郎。

 高校生の頃、好きだった人の名前だ。佐恵子はそれまで誰かに好意を寄せたことがなく、初めての感情に浮かれていた。周りより遅くやってきた春に、青春にのめり込んでいた。

 「でも夢か…。」

 そう思っていたら、

 「だけどな、別れることにしたから。」

 その言葉になんの意味があるのかは分からない。ただ、この論理の破綻した無茶苦茶な世界を今認識して、ああ夢だったのかと冷や汗が滲むようで、気付いたら、朝だった。

 「嫌な夢ね。」

 そう、確かにそう。

 だって佐恵子は確実に愛していた、勇太郎もそうだったのだと思う。けれど、現実はもっと浅はかだった。浅はかで、虚しくて、さもしい、そんなものでしかないと理解したのは、彼が自殺した翌日だった。

 死ぬ予兆なんて無かった。

 東京の偏差値の高い国立大学に受かり、ましてや理系なのだ。その専門性があればきっと、人生は豊かになれたはずなのに。

 彼は小説を愛していた。佐恵子には良さの一つすら理解できなかったのに、影が差す様な暗さを持って、毎日何かしらの物語にのめり込んでいた。

*「それ面白いの?」

 「え?」

 いやだって、タイトルが『白昼夢になる』だったから。白昼夢って、暗すぎるでしょ。何か悩んでるのかとその時は本気で心配していた。その時の彼は、やっぱり奇妙な歪さを孕んでいたから。

 「悩んでいるの?」

 だから出た言葉はそれだった。気になって仕方がなかった、佐恵子は彼を救いたかった。

 「…ありがとう。」

 彼は微笑んだ。

 勇太郎を心配するのは佐恵子だけで、佐恵子を心配するのも勇太郎だけで、二人はお互いに必要不可欠な存在として成り立っていた。

 「いいのよ。」

 その時はそれで良かった、はずだった。

 だけど勇太郎が死んだのはその翌日だった。

 突然過ぎて、状況がうまく飲み込めなくて、それを知った日には熱が出て眠り込んでいた。

 だからしっかりと現実を理解することができたのはその翌日だった。苦しくても何にも何にもなることができなくて、辛かった。

 とても辛かった。


 夢だ、これは夢だ。嫌な夢だ。何度も見るその現実のようなリアルさを持った不吉に佐恵子は幾度となく圧倒されていた。

*辛い、より先に立ったのは苦しい、という感情だった。苦しかった、消してしまいたかった、けれど何一つとして変わるものなどなかった。

 しばらくして勇太郎の死は、理由は分からないけれど思春期特有の悩みによるものだろう、と結論付けられた。そんな解釈で済ませてしまえる程、佐恵子と勇太郎の中は浅くは無かったのだから、ずっと考え続けている。なぜ、勇太郎は死んでしまったのか、いや何か思いつめたような感じは知っていた。なのになぜ救えなかったのか、なぜ自分はこんなにも苦しいのか、なぜ勇太郎は死ななくてはいけなかったのか、なぜ佐恵子を置いて死んでしまったのか、喉から手が出るほどに、佐恵子はただ知りたかった。

 「教えて。」

 

 いつも涙が溢れてしまいそうになる。けれどどうしようもないのだから、ただ耐えるしかない。寝覚めの後は、とにかく強く切なさが残ってしまうから、やる瀬なかった。この気持ちを、どう消化すればいいのかは、未だに分からない。

 「今日はどうしよう。」

 頭の中の沸々としたものが治まることを読み取って、佐恵子はホテルの備え付けのケトルでお湯を沸かし、お茶を飲んだ。

 朝は早く起きて、色々なことを済ます。これだけで一日が救われたように感じるのだから、自分の現金さに愛想が尽きそうだった。

 いやだ、いやだ。

 取り払っても呪いのように染みついている、勇太郎に残す気持ちを忘れることにして、また立ち上がる。起き上がる。

 今日はそうだ、昨日買った本に載っていた求人を申し込まねば、応募方法に持ち込みでも可能と記載してあったから、多分履歴書を作りその場所へ持参すれば何らかの対応をしてくれるのだろう、と踏んでいた。

 だから、今日一で支度を整えて、さっそく午後にその会社へ向かおうと思っている。

 「頑張らなきゃ。」

 自分に言い生かせるように、佐恵子は呟いた。

 「うん、頑張ろう。」


 「………。」

 受付の女性が呆れた顔でこちらを見ている。

 とても若い子だった、彼女から見れば佐恵子はただのおばさんなのだろう、それを思っているのがはっきりと顔から表れている。

 「おばさんが、何で?」

 と言いたげな顔がこちらに向かって笑顔を作り、言った。

 「申し訳ありません、当社は今人手が足りていまして、今回は採用を受け付けていないんです。」

 そしてそう言い切った。

 しかし、求人が掲載されたのは今週のはずで、そう簡単に決まるはずがない、分かっているけれど佐恵子は何も言い返せない。

 だって、自分はただの部外者なのだから。

*「…あの、一応募集が載っていたのが今週だったからまだ大丈夫なのかなと思っていたのですが。」

 でも佐恵子はせっぱ詰まっていた、それに捨てるような外聞も最早ない、だから意地汚く食い下がってしまった。

 受付の彼女は眉間にしわを寄せ、面倒くさそうな顔で言葉を紡ごうとしていた。

 「あ、この募集応募に来たんですけど。」

 と急に誰かの声がした。若い男の声だった。利発そうな健康そうな、そう。この書店員という職業にはツルッと向いている様な健全さを持った青年が隣で笑っていた。

 受付の彼女は更に顔をしかめ、でも諦めたようにため息をついて、言った。

 「分かりました、二人とも、ご案内します。」

 佐恵子は何だ、と内心理不尽に思いながらも案内されるままに歩を進めた。

 当の彼は、何もわかっていないかのような顔で後をついてくる。

 でも、間違ってはいない。今までの経験を考えれば当然のことばかり、佐恵子は十分に使える人材として採用されることを承知していた。そんな自分の自信と、隣の青年の健全さに恥じらいを覚えた。


 朝から在庫の整理だ。

 小さい書店ではなく、地元の大きなお店で、その地域の読書に対する関心の高さが測れるのだ。だからこの店はあの受付嬢がいた本社の中でも目を置かれているらしい。そして、そんな店を任されているのは何だか頼りない女性だった。

*「都間地さん、慣れた?」

 彼女は、古来こらいさんはいつも佐恵子を同世代だと思っているのか割と馴れ馴れしい口調で語りかけてくる。

 「はい、そうですね。」

 だから佐恵子は店長に対してだというのに気安い態度をとり続けている。何だか、厳しくなれないのだ。それは彼女も一緒なのか、「ねえ、今日仕事終わったら食事しない?」と言われ、気安く誘われ、「いいですよ。」と答える。

 古来さんはにこっと微笑み去って行った。

 こんなせっぱ詰まった状況で友達ができるとは思わなかった。けれどずっと一人きりでいたから話し相手ができてうれしかった。

 「良かった、じゃあいつものお店で待ってる。」と去り際に言われたから、佐恵子は店長の残務が終わるまで大人しくこの店で待っている。

 ここは、カフェだ。

 夜お酒が飲めるカフェ。最高じゃないか。

 「待った?」

 慌てた様子で眼鏡姿の彼女が駆け込んできた。

 この店のマスターは常連をしっかりと覚えているから、古来さんが滑り込むように店に入ってくると、「おかえり。」と声をかける。それに古来さんは、「うん、ただいま。」と答える。

 「遅かったね、私だけ先に帰っちゃってごめんね。」

 「いいのよ、だってこれは社員の仕事だから。私の方がいっぱいお給料もらってるのよ、だからいいの。」

 「そっか。」

 何か、古来さんとは気を使うという面倒くささから解放されて、ただただ親しくなれるから感動している。とても、居心地がいい。

 「今日は和食だって。」

 「えー、和食?オムレツ食べたかった。」

 「まあ食べてみなよ、すごくおいしいよ。」

 「…うん。」

 古来さんは子供のようなわがままを言い、出された食事に口をつけた。

 「うま。」

 「うん、おいしいよね。何か、煮凝りっていうの?寒天で固めた奴なんだって。」

 「へえー、ここのマスターって料理本当に上手よね。驚くわ。」

 「ね。」

 こんな感じで、佐恵子と古来さんはいつも仲良くなっていく。会えば会う程に、楽しい。

 

 帰り道、ぼんやりとしてしまった。

 酔いが回ったのだろうか、頭がグラグラと揺れる。

 「古来さん、何で私と親しくしてくれるの?私、だって変でしょ?」

 「そんなことない、私こそ店長なのに、こんなにラフな所見せちゃってごめんね。」

 「いいよ、いいよ。」

 「いいよね。」

 佐恵子と古来さんはもたれかかるようにして帰途へと着く。

 佐恵子の帰る家は、だって古来さんの家だったから。

 何か成り行きで、そうなってしまったのだった。

*「一緒に寝よう。」

 「うん。」

 古来さんは一人暮らしで、両親は彼女が21歳の時に死んでしまったのだという。

 両親が一気に?と思ったが、事故で死んでしまったから二人とも、と下を向きながら喋っていた。

 それからはずっと一人で、それが佐恵子の身の内とも重なってしまうから、お互い彼氏もいないし、佐恵子は家賃を払う必要がなくなるし、古来さんも二人で暮せば色々と安上がりよね、と言ってくれたので、甘えてしまった。

 だけど確かに女二人暮らしはとても充実している。特に古来さんとは気が合うから、めちゃくちゃ楽しい。

 「あれ、明日都間地は出勤なんだっけ?」

 「私は違うけど、店長は?」

 「私もオフよ。」

 「じゃあどこかに行こうか。」

 「え?」

 「ダメ?」

 「いいけど、私まだこの地域のこと、よく知らないから。」

 「そうだけど、そうだと思うから、私車出すよ。乗って。」

 「いいの?」

 「うん、期待してて。」

 そう話をつけて、明日に備えて早く寝ることにした。古来さんは準備があるからと言って少し遅くに寝ると言っていて、佐恵子はごめんねと伝えて眠り込んだ。


 「起きて。」

 佐恵子はぐっすりと眠っていて、かなり早く起きたらしい古来さんの呼びかけにびくりと体を起こした。

 すぐに支度をして外に出ることになり、まだ頭がぼうっと霞んでいる。

 「考えたんだけどさ、ピクニックがいいかなと思って、お弁当を作ったの。」

 「えぇ!?言ってくれれば手伝ったのに、本当にごめん。」

 「良いのよ、料理がすごく好きでね。例えば今のお店が不採算店舗にリストアップされて無職になったとしても、私が車で事故を起こして刑務所に入っても、でも料理だけは手を抜かないで、し続ける。そう決めてるの。」

*知らなかった。古来さんがそんなに料理に凝っているなんて、知らなかったから。

 「意外。」

 「はは、意外って。」

 そう言って笑った。だって普段から何も作らないし、何もしてない様子だったから…仕方がないと思っていた。そして、ではなぜ彼女は佐恵子の前では何もしなかったのか、分からない。

 教えて欲しい。

 「何で?私知らなかったよ。」

 「うん、言ってないし、見せてないもん。」

 「じゃあ…。」

 「うん、うん。あのね、両親が事故にあったのは、私が作ったお弁当のせいなのかもしれない。その日にね、私両親から電話もらったの。ちょっと体調悪くて早く帰ることにしたって。二人ともピクニックに行ってて、二人とも体調を崩したらしくて、本当のことは何も分からないんだけど、私はそう納得してしまったの。」

 「………。」

 佐恵子は口をつむぐ。

 違うよとも言いたかった。けれど、簡単に口にできるほど起こってしまった現実が単純じゃないから、黙るしかない。

 だけど、下を向きうつむく、少し寂しげな笑いを浮かべた彼女の体を包む。

 彼女は、震えていて、でも温かかった。

 

 「キレイだね。」

 「うん。」

 本当にキレイで切なかった。彼女が連れてきた場所は、山の中にある湖のほとりだった。海と違って穏やかで、静かでとてもひっそりとしていた。

*古来さんの両親は、つまり食中毒で亡くなったということなのだろうか。言葉をあまり発さない彼女を見ながら、ぼんやり考える。でも次第にそんなことはどうでも良くなってきて、パチリとした目をしばたたかせながら、眠そうにとろとろとしている彼女を見つめていた。

 佐恵子には親がいない。いや、多分生きているのかもしれないが、消息は知れない。だからいないも同然で、それまでの関係性から探したい、なんて思ったことすらなかった。けれど、古来さんのように娘にお弁当を持たされて二人そろってピクニックに行くような健全な家庭に、突然訪れた死。それはどんな衝撃を与えるのだろう、きっと底知れない。古来さんが、だからとても傷ついている。

 「ねえ、彼氏とか作らないの?古来さんなら収入もあるし、可愛いし、きっと穏やかで優しい人が見つかるんじゃないかな。」

 「馬鹿ね。私はモテないのよ。メガネでブスで、意地が悪いから。」

 ほがらかに笑いながらそう言うから、佐恵子は一瞬ひるんでしまった。

 なぜ、そんなにも卑屈なのだろう。大きな店の店長を任されて、彼女は立派な人だった。そんなに自分を貶める必要なんてないのに、なぜ。

 「どうして?私から見ても、誰から見ても古来さんは魅力的なのに、何で。」

 「はは、ありがとう。でもね、私中学生の頃にいじめられていたの。両親はね、優しかった。ずっとありがとうって思ってた。大好きだった。私の世界の中で唯一の味方で、切り離せない存在だったのに、ねえ、どうしてかな。」

 古来さんは誰に問いかけるという訳でもなく、ただ目の前に広がる湖に話しかけているようだった。

 青く、静かな波を称えていて、空からしっとりとした日差しが差し込む午後だった。


 「いらっしゃいませ。」

 「いらっしゃいませ。」

 だいぶ慣れてきた。最初は全然ダメだった、だって声が上手く出なくて、苦しんだ。けれど周りの人たちがとてもいい人ばかりで、佐恵子はあまり無理をせずに上達していくことができた。

 「お疲れ様。」

 「お疲れ様ー。」

 みな口々に別れのセリフを口にしている。もう店は閉店間際で、店じまいの担当を残して、早々と帰る支度をしていた。

 とても疲れた。やっぱり一日立ち仕事だと体にこたえる。けれど書店は穏やかで、佐恵子はこの空気が好きだった。

 「古来さん、私先帰るね。お疲れ様。」

 「あ、うん分かった。お疲れ様。」

 一応古来さんに声をかけて、佐恵子は出かけることにした。どこへ行くかは伝えていない。乗ってきたバイクにまたがり、目指す。

 

 「佐恵子。」

 「ひろさん。」

 突然、降ってきた。至宝のような存在だ、古来さんには伝えていない。佐恵子は、どう言えばいいのかが上手く分からなかった。けれど、

 「じゃあ、行こうか。」

 紘さんと二人で、町のハンバーガー屋へと向かう。いつもそこでデートをして、ただ喋る。それだけでこんなに楽しいだなんて、知らなかった。

*勇太郎が死んでから、誰かを好きになったことがない。

 多分、そういうことに疲れていたのかもしれない。と思えるのは自分が今、紘さんのことを好きになってしまったから。

 佐恵子は決めつけていた。紘さんに出会うまでは。

 勇太郎が世界の中でも唯一で、それがまず確実な運命で、もうありえないのだと信じ切っていて疑わなかった。もう、誰かを好きになることなんて、だからずっと一人ぼっちなんだって思ってた。

 一人ならそれでいい、それしか選択肢はないのだから。

 なのに、

 「待った?」

 「全然、待ってない。」 

 嘘だ。佐恵子は随分早く来て、仕事終わりの彼を待っていた。

 

 その日は朝番で、いつもより早く出勤しなくてはいけなかった。でも朝は人が少なく、静かだから佐恵子は何だかぼうっとしていた。

 「あの。」

 商品を棚に並べている時だった。

 突然声をかけられた。書店で声をかけてくるのはどちらかと言えば高齢の方が多く、感じからしてかなり若い男性の声であったから驚いた。

 だから微妙に機敏に反応することができず、妙な間が生まれてしまった。

 「…何でしょう?」

 接客業だから最大限愛想を保とうと努めた。できているだろうか、と思ったら、その人は困惑した様子で語りかけてきた。

 「探してる本があって、教えてもらえませんか?」

*「あ、分かりました。ちなみにどういったご本でしょうか?」

 言葉遣いがしどろもどろになりながら、佐恵子は聞いた。

 「あのですね、ちょっと古い本で、僕仕事が研究職で、ちょっと探してるんですけど。この町には本屋さんがここしかないから、ネットでもうまく見つけられなくて、もしかしたらそういう検索的なことをしてくれるのかもしれない、なんて思ってしまいまして。」

 照れながら紘さんはそう言った。

 研究職、この町で。ということは大学の職員なのかもしれない。穏やかそうで、しっとりとした人だった。まあ、言ってしまえばひょろっとしたもやしのよう、だろうか。

 「はい、大丈夫ですよ。ウチではそういう話も承っております。」

 「ああ良かった。ありがとうございます。いや、実は僕ネット疎くて。情報量が多すぎて、疲れてしまうんです。」

 「はは、そんなことあるんですね。」

 「あるんですよ。」

 何だか和やかに会話が流れて行って、単純に楽しかった。

 佐恵子が、変なことを言っても、紘さんが変なことを言っても、どちらも何も言わなかった。だって、それが空気だったから、否定するものなど無い、ただただ絶対的な肯定、受容が流れている空気に佐恵子はとろけそうだった。

 付き合うまでに、時間はかからなかった。

 紘さんは佐恵子を好きだと言ってくれた。すぐのことだった、出会ってすぐ、本当にすぐ。でもお互いに好きだということが分かり切っていて、これが運命かとさえ思っていた。

 佐恵子は、だけどくすぶる心を感じていた。自分には、勇太郎しかいないと思っていたから、急に視界が開けたようで、とても奇妙な心地を味わっていた。だから、勇太郎のことは紘さんには一切何も言っていない。言ってはいけないような、そんな気がしていたから。

 

 「何飲んでんの?」

 「今日はね、リンゴジュース。おいしいんだよ。」

 「へえ。」

 何気ないやり取りだった。いつも通りただ一緒に軽食を食べるだけ、でも違った。

 チラリと見ると、だって彼が急に黙り込んだから、気になって。

 とてもまじめな顔で佐恵子を見つめていた。

 何だろう、と胸がチクりと騒いだ。

 「なあ佐恵子。もしかして、何か考えてることとかある?僕さ、女の人とはあまり付き合ったこと無いから分からないんだけど、何か。佐恵子とは深く、何でも知っているという関係にはなれていない気がするんだ。言えないこと、あったりする?」

 ドキッとしたまま、佐恵子は固まった。

 紘さんには自分の生い立ちや、そういうもろもろな込み入った話はしているけれど、自分たちの関係において一番大事な、過去の恋人についての話は一度もしていない。佐恵子にとっては、簡単に言える話ではない、いや、言いたくない。自分の中で消化することができない、どうしてもできない。

 勇太郎。

*嫌な記憶はいつか薄れるものだと思っていた。

 けれどその記憶が複雑で、ナイフのように鋭く喉元に突きつけられたというものだったらきっと耐えられない。そのことを知ったのは、勇太郎が死んでからだった。


 「おばあちゃん、死なないで。」

 私を一人ぼっちにしないで。

 「………。」

 返事はない、分かってる。話せる状況にはもうないことは知っている。けれど、言わずにはいられない。

 「死なないで。」

 呪われたように取り巻く死、次々と重なっていくから悲しさをあまり感じなくなってしまった。

 現実感のない、重い現実。

 考えても無くなることなどないのに。


 電車に揺られている。

 町には観光用の路線が運行されていて、古来さんと二人で山に登ることにした。

 山と言ってもそれ程高くはなく、登山というよりピクニックと言った方が適切かもしれない。

 「何か最近予定が合わないから。都間地さんも町に慣れてきて知り合いも増えたんだろうし、でも寂しいから。」

 古来さんはそう言った。

 店長という身分からか、あまりパート・バイトの人達とは関わらず、いつも一人で飲むしかないのよ、と前愚痴っていた姿を思い出す。

 「ごめん、ちょっと知り合いができて。その人と会ってるの。」

 「そうなんだ、もしかして男の子?」

 「えっ、子ではないけど男性。何で分かったの?」

 佐恵子は焦った。急に親しくなった男なんてどう紹介すればいいのか見当もつかない。

 「あはは、違うのよ。女の子だったら嫉妬しちゃうから。男だったら喜ばしいことだし、良かったねってむしろ応援したいから。」

 「何だ、焦ったよ。」

*佐恵子はゆっくりと状況を説明したいと思っていた。だって、こんなにほがらかに自分のことを考えてくれている友人に、適当なことは言えない。

 「実はね、古来さんに言ってなかったの、彼のこと。紘さんっていうの。何か研究職らしくて、でもちょっと抜けてるのよね。偶然職場で知り合って、その後何度か会うようになって、一気に離れられなくなっちゃった。」

 「職場!?」

 「そう…ごめんね。」

 「いや、いいのよ。お客様とはいえ、別にそこで知り合って外で会うのは制限できないわ、私達は人間なんだから。いや、それより。私全然気づかなかった。むしろごめんね、何かちゃんと相談に乗ってあげればよかったね。」

 「違うの。違うの。」

 佐恵子は少し声を荒げた。瞬間、古来さんが少し顔をしかめた。というより困惑しているようだった。佐恵子は元々性格が強い人間で、でも古来さんの前ではそんな部分を出す必要が無くて、いつも穏やかでいられる。だから今、こうやっていきなり大きな声を出したことに彼女はとても驚いているようだった。

 「あ、ごめん。あのね、事情があってね。私昔付き合ってた人を亡くしてね、ちょっとそういうの。すごく慎重になってしまうの。」

 「…そうなんだ。それって。」

 古来さんは驚いたような顔をして、でもどう言葉を続ければいいのか迷っているようだった。けれど、佐恵子はもう何かを喋る気になれなかった。それ程、勇太郎のことは心の奥深くに押し込んでしまいたい記憶なのだと、いまさら気付いた。

 気付いてしまった。

 勇太郎。

 「ちょ、ごめん。そんなつもりじゃなかったの、どうしよ。」

 ポロポロと落ちる涙が止まらない。古来さんを困らせている。理由もよく分からず泣き始めた佐恵子を、彼女はただ抱きしめていた。

 

 お味噌汁とお魚、質素だけれど贅沢だ。

 佐恵子と古来さんはいつも納豆にお米、そして野菜というシンプルな食生活で一日をやり過ごしている。そして、休みの日になると二人で外食をするという感じで来ていたのだが、古来さんが最近料理をよくしてくれるようになって、魚や肉、そういったたんぱく質をよく摂るようになっていた。

 「おいしい。」

 「えへ、ありがとう。」

 はにかみ笑った古来さんの顔を見て、佐恵子はほっと胸をなでおろす。昨晩あれ程の醜態を見せたのに、彼女は気に留めないでいてくれるようだった。とてもありがたく、そして申し訳ない。

*お魚、とにかく魚料理は胃に持たれず気持ち的にも穏やかな感覚になるのだから、こう揺らいでいた気分の時にはすごく救われる。

 「でもさ、古来さんって本当に料理上手ね。」

 「…そう?」

 照れながら笑った彼女が微笑んだ。

 「いや、ここに来る前にね、私おばあさんと暮らしていたの。すごく親切にしてもらってありがたかった。最後は色々あったけど、あのね。古来さんと一緒で、私はその人にもすごく救われたの。」

 「照れるわ。」

 「照れなさいよ。」

 こうやって少しふざけあって、笑い合う。とても幸せで充足した心地を、これからも続けていきたい。今だけはそう祈る。


 「紘さん。」

 「やあ佐恵子。」

 別れずにずっと続けていける。二人の関係はどうしようもなく不安定なはずなのに、どうしようもなく穏やかで満たされていた。

 いつ終わりが来るのだろう、自分は歪んでいるのだろうか、ずっとはない、永遠はないと思うことに、もうすっかり慣れてしまっていた。

 

 仕事終わりの午後、家でゴロゴロしていようと思っていたのに、

 「ピンポーン。」

 玄関のチャイムが鳴らされる。誰だろう、訪ねてくる人がいるとすれば古来さんの知り合いかもしれない。失礼にならないように髪を整え上着を羽織った。

 「お久しぶりです。」

 「…え?」

 佐恵子は、黙った。

 目の前に立っている男は、望田だ。佐恵子が東京で会社にいられなくなったまあ、間接的な原因ではあるだろう男。

 今思い返せば、気が弱そうなフリをしてやたらと佐恵子に執着していたようにも思う。

 一体、なぜ?

 全く心当たりがなくて、いやむしろ佐恵子になど会いたくはないのだろうに、なぜ。

 疑問だけが渦巻き佐恵子は苦笑いを浮かべていた。それ以外に何かをすることが出来なかったのだ。

*「突然訪ねてしまってすみません。」

 「一体何…?」

 強がるしかない、それ以外に手段がない。

 「あの驚かせてしまってごめんなさい。会社の人に聞いたんです。居所を。」

 そうだ、どこに住んでいるかあまり親しくはないけれど親切にしてくれた年上のおばさまに佐恵子は住所だけを渡していた。

 「僕が詰め寄ったんです。そんなの教えられないわっていう沼野さんに教えてくれって。」

 でも沼野さんがそう簡単に個人情報を漏らすとは思えない。彼女は至ってまともな人だったから。

 「あはは、どうしてってことですよね。そうなんです。僕、あの申し訳ないって思っていて。」

 「何が?」

 強気にならなければ、いられない。佐恵子は自分が傷ついているということに今気付いた。

 体が強張って、逃げ出したくてたまらない。現実が追いかけてきて、呑まれるようなそんな絶望感を感じていた。

 「だから、悪いなって思ってるんです。みんな都間地さんがいなくなって、厳しい人がいなくなったからホッとしたはずなのに、課の成績は右肩下がりで、都間地さんが担っていたのはこういう厳しさだったのかって反省しています。自分勝手で本当に悪いと思っているし、申し訳なくてたまらないけど、戻ってきてくれませんか?お願いします。」

 そう言って望田は頭を下げた。

 佐恵子は一瞬頭が沸騰するような怒りを感じだが、震える、少し震えながら頭を垂れている彼を見たら全てが消え去った。

 その瞬間、言ってしまった。

 電気がぷつりと消えるように、頭の中は真っ白だ。

 「分かった。行く。」

 「…ありがとうございます。」

 佐恵子は知っていた。自分が担っていた業務が職責を超えていたことを、だから自分が抜けたら上手く行かなくなるということを、分かっていたのだ。

 仕返しのつもりだった。

 きっと上手く行かなくなるだろうと、呪っていた。

 悪魔のような自分が恥ずかしかった。それを突きつけられているようで、反論することさえできなかった。

 強く築いてきた城はもう崩れてしまったのだ。

 「ありがとうございます。」

 望田が二度目にそう言うから、佐恵子は黙って頷いた。

*エスカレートしてしまった会話は、そこで終わった。


 はあ、気が重い。

 「都間地さん、大丈夫ですか?」

 顔色を伺うような顔をしながら話しかけてくるこの男の薄ら笑いをはっ倒したくなっていた。

 「平気。」

 でも何も無かったかのような顔をして、また前を向く。

 でも、でも。本当に頭がグラグラする。生理、なのかもしれない。時期が近くなると体調が極端に悪くなって、前に勤めていた時もその頃は皆が何となく自分を避けていることが分かっていた。

 だけど、言いたくもないし言えるわけがない。

 「あの、本当に復帰してしまっていいんですか?何か都間地さんあの町ですごく幸せそうだったから、無理に連れてきてしまったみたいで心苦しいんです。」

 心苦しいと言いながら、この男は卑怯だった。

 いつも弱そうにしているくせに、やけに頭が小ズルく働いて、自分の利益になることを選んでいる。そういう所がいけ好かなかった。けれどだからって嫌いになっているわけじゃない、この人はそこが良い面でもあるし、だからこそ優柔不断で常時は人に厳しくできず、それで救われてる人もいるのだから。

 「いいのよ、私が雇用って決めたんだから。望田さんは関係ないわ。」

 「…そうですか。」

 なんだかんだ言って、佐恵子は望田とは会話のテンポが合うのだ。会話のテンポは合うが、話す内容がいつも望田に対する𠮟責ばかりで、だんだんと会話などしなくなっていた。必要最低限のコミュニケーションだけで、前勤めていた時は彼をいなしていた。今思えば失礼な挙動だったかもしれない、そう思うとやっぱり申し訳ないという気持ちに落ちて行った。

 どうしよう、今日初出勤なのに、東京に戻ってきてすぐなのに、体がいうことを効かない。

 チラリと望田の顔を見る。

 けれど彼は下を向いてぼんやりとしていた。

 言えない、どうしよう。

 限界に近かった。我慢はもう、できそうもない。

 

 目の前が真っ暗になった。

 のじゃなかったか、パチリと目を開けると私服姿の望田が心配そうな顔でのぞき込んでいる。

 「あ、目ぇ開けた。心配しました。体調悪かったんなら行ってくださいよ。ウチの会社女性の体調には結構気ぃ遣ってくれるんですよ。だってそういう商品も扱っているから。知ってますよね?」

 いつもより砕けた口調で彼はおどけたように笑った。あまりにも邪気が無く笑うものだから、なぜか全身の力が抜けてしまった。

 そして、

 「あ、こんばんは。あの、アタシ望田さんの彼女で、三平みひらといいます。」

 めちゃくちゃ可愛い女の子が、(しかもかなり若い)望田の近くに寄ってはにかんだ。

 状況が困惑しすぎて、佐恵子はふっと意識が遠くなるのを感じた。

 「待って、待って。寝ないでください。説明しますね。都間地さんが倒れて、僕の家に近かったのでとりあえず運んだんです。意識が無かったら救急車を呼ぶけど、覚えてないのかもしれませんが、都間地さん救急車は呼ばないでって言ってるの聞いたから。」

 そうだ、確かにそんなことを言ったような記憶がある。

 「え…。」

 言葉が続かない。恥ずかしくて、めまいがする。

*「ごめんなさい。」

 「そんな、謝らないで下さい。会社の人達、佐恵子さんに無理言って無理させたこと反省してるんです。ごめんなさい。」

 「いや、悪いのは私で、初出勤だったのにどうしようもないわね。」

 自嘲気味に笑った。笑うしかなかったしとても悔しかった。何が悔しいのかは分からない、ただ思い通りにならない現実に打ちのめされていた。


 望田の彼女はよく面倒を見てくれた。何か、前より明るくなって丸くなったなとは思っていたけれど、あの子のおかげなのかもしれない。

 「…ただいま。」

 さすがにもう古来さんの家には簡単に行けない、果てしなく遠い場所にあるから、仕方がない。でも、「また来てね。絶対。」と涙ぐみながら言ってくれた彼女を思い出して、胸が温かくなる。

 結果的には良かったのかもしれない。

 東京で悪いことがあって、バイクで色々なところを回って、離婚までしてしまった。

 この2年で経験したことが、今の佐恵子を揺らぎない物にしているのだと今思う。

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