四、『最後の子供達』その4
「――久しぶりだな、此所も」
事務所をぐるりと見渡すと、午兎は視線を鎺へ向ける。彼の両隣には来良と璃子が居り、それぞれ落ち着かない様子で佇んでいた。
「用事って、何?」
「決まっているだろう」
出方を窺う午兎に対して鎺は組んだ腕を解き、机の上に乗ったクリアファイルを放る。
「未来人による誘拐の調査結果だ」
「分かったのか」
宙空で受け取ったクリアファイルから紙束を取り出し、午兎はそれの頁を捲る。僅か三頁でぴたりと手が止まり、表情が石のように歪に固まった。
「イサク――――」
「やはり、仲間だったようだな」
写真に捉えられた不鮮明なイサクを凝視する午兎に対し、鎺は口を歪めて嗤う。しかし、直ぐにその表情は普段と変わらぬものへと戻っていった。
「動じない・・・・・・か。その様子だと意外だとは思ってはいたが、覚悟はしていたようだな。少し、見くびっていたぜ」
「まあ――――
けど、と午兎は再び写真へ目を落とす。
「出来れば違っていて欲しかったな、とは思っていたけれど」
「そうか――」
鎺は呟き、やがて静かに深く息を吐いた。
「俺がお前にこのファイルを見せた意味、分かるよな?」
「まあ、何となくは」午兎は剣呑に鎺の顔を穿ち、肩を竦めた。「要は、どっちに付くかって事だろう?」
午兎は来良を一瞥する。彼女は喉を鳴らして頷き、自分の学生鞄から一冊の本を取り出した。
「
「知っていたなら、話が早い。内容は知っているか?」
「まあ、一通りは。身も蓋もない言い方をすれば、迷惑な神様達が好き勝手やる話だ。一番有名なのは〝
「僕はそれが真実だと考えている」
「は? もしアレが真実だとしたら、世界は三つに輪切りされておりヨルムンガンドが海で
鎺の脳裏に一つの仮説が浮かび上がり、言い淀む。それから歯を向き出して嗤い、午兎へ視線を合わせた。
「成る程、要するに元ネタか。神様ってのは、当時の人間が持つ知識の範疇で理解した未来人だと言いたいんだろう?」
「それだけじゃあない」午兎は自分の鞄から本を取り出す。「ギリシア神話にケルト神話、マハーヴァーラタとポポル・ブフもスマホで検索した。大体の神話は力ある者達が、その世界で暮らす人間に力を与えて自分達の支配下に置いている。つまり僕ら未来人はさ、タイムマシンが出来た頃から過去の世界を侵略していたんだよ。来る滅びから、逃れる為に」
「だろうな」
つまらなげに、鎺は言った。
「幾ら人間だろうとも、所詮は動物。動物の第一目的は生存だ。何が何でも生き残りたいと考えるのが、動物という存在の
鎺の双眼が、切っ先のように細められる。
「それでお前は、どちらに付く? この世界を支配下に置こうとしているお仲間か、そいつらを全員ブッ殺そうと考えている俺か」
「どちらに付く気もない」
午兎は即答した。
「他の〝
「・・・・・・中立、という事か?」
油断のない鎺の目付き。鉛のような空気が、毒を含みながら事務所内に沈殿していく。
「話は最後まで聞けよ、探偵。そんなんじゃあ、殺人事件の犯人を言い当てる事なんて出来ないぜ」
空気の重さなど物ともせず、午兎は言った。
「
「じゃあ、今すぐ未来へ帰って連中を殺してくれ。そうすれば、後々楽だ」
「それは無理だ。彼らの罪が確定していないという事もあるが、一番の理由はそう何度も僕らが二つの世界を行き来する事が出来ないという事だ。タイムマシンを起動するには、とてつもない電力を必要とする。何回分かは知らないが、往復する電力はそう残されていない。エリアは画期的な電力供給方法を思い付いたみたいだが、それは同時に電力を連中が支配下に置いている事を意味している。最悪、戻ったは良いがこの時代には帰れない事態も有り得る」
「帰れない、か――――」
思わず、来良は掠れた声で呟いていた。場違いなのは重々承知していたが、それでも呟かざるには居られない。
それだけ、東風瑞 来良は嬉しかったのだ。〝帰れない〟という彼の言葉が。この時代を己が帰る場所だと認識した、彼の心境の変化が。
動物的だと、胸中で自分を笑いながら。
「だから僕は、当分の間はこっちの世界に居る。全てが終わるまで、見届けるつもりだ」
「勝手に自己完結するなよ」
威圧感のある低い声で、鎺は言った。
「お前はそれで良いかもしれないが、俺はお前が連中に寝返る危険性をまだ払拭していない。お前は殺し屋だ。殺し屋の性質は蜂や蟻に近い。命令を忠実に実行する、感情なき機械。故に最初の命令には絶対に従う。自分の意志とは関係なく、な」
「僕は殺し屋じゃあない。お前と一緒にするな」鎺の威圧感を撥ね除けるように午兎は応える。「じゃあ、どうしたらお前に信頼されるんだ? 僕が連中の味方ではない、と」
「・・・・・・イサク、と言ったな。あの写真の少年」
鎺の切っ先のような双眼が、更に細められた。
「そいつを殺せ。そいつもまた、お前のようにこっちで資源を購入しているんだろう?」
「ちょっと待って!」
午兎が口を開き掛けた瞬間、来良が口を挟む。
「幾ら何でも酷すぎない? 友達というよりも兄弟に近い人を殺して来いって。そんなの、残酷を通り過ぎて悪趣味だよ」
「だからこそ、だ。近親者だからこそ、殺す意味がある。信頼の証しと成り得る。関係ない人間を殺したところで、意味はない」
それに、と視線を来良から午兎へ戻した。
「お前が情を抱いているソイツ、果たしてお前をどう思っているだろうな。お前の言葉が本当ならば、イサクという少年は躊躇なくお前の急所を穿ってくるぞ。その覚悟がなくて、大罪を犯す事などあり得ないからな」
「その口ぶり、経験者みたいな物言いね」
「事実、経験者だからな」
璃子の皮肉を鎺は涼しい貌で受け流す。
「誰に付いても良いがな、柄野久 午兎。コウモリってのは得てして真っ先に狩られる
「・・・・・・じゃあ、僕にどうしろと?」
「簡単だ。お前が持っている全てを捨てて、只の高校生としてこの世界で生きろ。てるてる坊主みたいな仮面や巫山戯たマント、そんなモノを一切合切全て焼き払って、進路に頭を抱えながら好きな女の事でも考えて悶々と生きろ。迷惑だ、傍観者など」
蔑むような鎺の眼差し。午兎は悔しさを滲ませて、奥歯を軋ませた。
「幸い、お前は金銭面に於いて問題はない。知り合いの業者からお前用の戸籍も買ってやる。それで日の当たる場所で幸せに暮らせ。もう、この世界には関わるな」
一瞬、鎺の視線が来良へ向く。彼女の視線が重なると同時、彼の双眼は午兎へ穿った。
「哀しませずに済むぞ、彼女を。これ以上進めばそこに待っているのは結末はどうであれ、お前にとっては地獄の光景だ」
「分かっている。そんな事は、初めから知っている。だから僕は今まで願わなかったんだ。ない物ねだりになってしまうから」
奥歯を磨り潰すように噛み締め、午兎はじっと鎺を見る。
「それでも僕は、このままであって欲しいと願ってしまう。この世界で彼女と少しでも一緒に暮らしていきたいんだ、僕があちらへ帰るその日まで。けれど連中が押し寄せてきたら、否が応でもこの望みは容易く潰えてしまう。だから僕は戦うんだ、僕の信念と矜持を曲げてでも。その覚悟を僕はハイヴで決めてきた」
午兎の双眼は真っ直ぐと鎺を穿つ。その若輩特有の真剣さに、鎺は失笑した。
「任務はどうした、未来人」貌を緩め鎺は肩を竦める。「お前やっぱ馬鹿だろう。そういう恥ずかしい事は、本人しか居ない時に言うものだ」
鎺はちらりと横目で来良を見る。当の来良は赤面したまま硬直し、とてもモノを言える状況ではなかった。
「まあ・・・・・・お前が、敵ではない事ぐらいは認めてやる。こんな馬鹿が、探偵である俺を出し抜ける筈はないからな」
嘆息し、雑に後頭部を掻き毟る。それから鎺はわざとらしく咳払いをし、改めて午兎へ照準を合わせるように視線を向けた。
「次の質問だ。誘拐されて未来へ連れ去れた人間達の共通点、それは連中が花粉症の検査を受け特定の耐性が出ていた事だった。何か、心当たりはあるか?」
「分からない。そもそも、花粉症というのが僕には分からない」
スマートフォンを取り出し、ブラウザを起動する。〝花粉症〟の検索結果を眺め、午兎はやがて口を開いた。
「やっぱり分からない」
「分からないのか!」
「そもそも、アレルゲンである花粉がハイヴ内には存在しないからな。僕らは花粉症に罹患する事はないんだよ」
硬直から復帰した来良の突っ込みを受け流し、午兎は言う。
「それに、僕らは体内にナノマシンを循環させている。それが作用するから、こういった症状は引き起こさない」
「思い当たる節はない、か・・・・・・まあ、大して期待はしていなかったから別に構わないが」
「ナノマシンだ」
「え?」
「だから、ナノマシン。ほら、わたしに貼ってくれたヤツ」
来良は自分の頬を指差し、午兎に言った。あの時派手に傷付けられた右頬は、傷一つなく完治している。
「ああ、医療用ナノパッチか。それがどうした?」
「アレルギーあるって言っていたじゃん、それだよきっと」
「でも、花粉じゃあないよ?」
「知らないよ、そんなの。でもCMでよく見るけど、花粉症って花粉を抗原だと免疫が勘違いして暴走するモノでしょ? なら、例えば花粉と同じ形をしたナノマシンがあって、それが拒絶反応を引き起こすのを阻止する為だとしたら?」
「つまり、誘拐した人間へナノマシンを投与するという事か。何の為に?」
「さあ? 何かの実験とか?」
「実験・・・・・・か――」
午兎はリベカを思い浮かべた。
最近の彼女は、何かを隠している。
「・・・・・・考えても仕方がない」
もう一つの質問だ、鎺は話題を切り替え午兎へ問う。
「お前の元仲間である〝
「総勢十七人。そこから
「十五人・・・・・・だと?」
予想外の答えに、鎺は目を丸くした。
「思った以上に少ないな。まあ、総人口が千人以下と考えれば仕方がないかもしれないが」鎺は視線鋭く午兎を穿つ。「足りないな、圧倒的に。その人数では、世界は疎かこの市内さえも支配下に置くのは難しいぞ」
「知っている。だからこそ、僕らはせせこましく資源を購入して元の世界に送っていたんだ」
「札束を積み重ねる事を〝せせこましい〟とは表現しない。少なくとも、わたしの持ってる広辞苑では」
「向こうも、それは重々知っている筈だ。僕がそうであるように、彼らもまたこの世界では学生の身分だ。当然、この世界の文化に触れていて時事も熟知している。たった十五人程度で刃向かうのが如何に無謀か、間違いなく理解している」
来良の突っ込みを流しながら、午兎はさらに続けた。
「これが紀元前とかであれば、話は違っただろうね。青銅文明に毛が生えた程度の文化レベルならば、十五人ぐらいでも僕らの技術を総動員すれば支配下に置ける。だが、この時代は違う。僕の暮らす世界以上にネットワークが発達していて、一人に一つ小型デバイスが普及している。戦力も、兵器の強さだけではない。兵士の熟練度は疎か戦略性のレベルも遥かに上だ。戦争出来る程人の居ない世界で暮らす僕らでは、最初の一撃を与える事が出来ても戦線を維持する事は不可能に近い」
「アイツ、絶対ディスカバリーチャンネル見たな」
「うん、間違いなく影響されちゃってる」
「黙って貰おうか、君達」
わざとらしく声を潜める鎺と来良に対し、引きつった貌で午兎は肩を振るわせる。
「とにかく、だ。この世界を支配下に置けない事は、向こうも良く知っている。それでも何か起こすという事は、」
「それに見合うだけの切り札がある、という事だ」
午兎の言葉を遮り、すかさず鎺は言った。
「そしてそれが、連中がせっせと人間を誘拐して自分達の世界に送っている理由だ。連中の切り札、どんなモノかは分からないが碌でもないモノである事は確かだろう。違うか?」
「僕の言いたかった事、全部言われてしまった」
鎺の問いに、午兎は肩を竦める。
「だがまあ、多分そうなんだろう。恐らく、連中はハイヴで切り札を見付けたんだ。そして僕に気付かれぬように、そいつを使えるよう密かに修理していた。その修理に使ったのが、誘拐された人間なんだと僕は思う」
「・・・・・・ねぇ、どうして柄野久君はそれを知らないの?」
単純な疑問を来良は口にした。
「仲間で、兄弟に近い間柄なんでしょ? それなのに何で、内情を知らないの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あ、ごめん。拙い事、聞いちゃったよね?」
「いや、別に平気だよ。そうだね、この際きちんと話しておこう」
午兎は少し困ったような貌で、来良に微笑み掛ける。
「僕は、他の〝
「――――――――――」
「僕はハイヴの指導者である
午兎は視線を落とし、不鮮明な写真に向けた。
「彼らは
或いは、と午兎は自嘲気味に肩を揺すった。
「兄弟みたいなものだと思っていたのは、多分僕だけだったんだと思う。事実、あの世界へ戻る度に僕らの間にある見えない壁は、どんどん厚さを増していたから」
午兎が言い終えると、じんわりとした空気が流れては沈殿していく。いつもより小さく見える午兎の背中に、来良は何か言葉を掛けようとした。しかし、適当な言葉が出て来ない。当然だ。今の彼に対する言葉など、自分は一つも持っていない。隣に居る璃子の気持ちだって、本人から打ち明けて貰うまで何一つ分からなかったのだから。
「――安心したぜ」
沈黙を真っ先に破ったのは、韮崎 鎺であった。
「お前も、そんな年相応の事で悩むなんてな」
「年相応?」
「そうだろう。瑣末な人間関係でうじうじ悩んでいるのは、子供である証拠だ。それはどうやら、未来でも変わらないらしい」
「そんな言い方って――」
「大人は悩まず、
鎺は肩を竦めた。
「お前が壁を感じていようがどうでもいい。何せ人の気持ちなど、本人でもブラックボックスだからな」鎺は午兎へ向き直る。「だが、それを理由に連中と敵対はするなよ。殺した直後は感情が高ぶっているから罪悪感は薄れているが、時が経つ毎に罪悪感は重くお前にのし掛かって来る。衝動的に殺すというのは、つまりはそういう事だ」
「殺し屋が言うんだから、そうなんだろうな」
嘆息し、午兎は髪を掻き上げた。
「さっきはイサクを殺せって言ったのに、勝手な話だ。お前、本当は僕にどうして欲しいんだよ?」
「関わらないでくれ、というのが本音だ。しかしそれは無理だ。お前は当事者だからな」
ちらりと鎺は来良を見やる。
「現状で一番ヤバいのはお前の処遇だ、東風瑞 来良。流石にこれ以上は洒落にならん。俺に〝柄野久 午兎は辛いものが苦手〟という情報をリークしてスパイごっこをしている場合じゃあない。俺達は殺し合うんだ。お前のナイフ使いとしてのスキルでは、到底太刀打ち出来ない出鱈目な奴らとな」
「君、そんな下らない事を報告していたのか」
「そ、それだけじゃあないよ!? エーテルの話とか、銃の作動原理もちゃんと話したよ!!」
「スパイがスパイ対象に報告してどうするんだ・・・・・・」
鎺は肩を落とし、嘆息した。
「とにかく、これ以上は関わるな。同盟の条件は東風瑞 来良の加入だが、今回は事態が事態だ。特例として見逃せ。お前だって、彼女に何かあったら困るだろう?」
暫し鎺の蛮刀のような双眼を凝視し、午兎は頷く。
「それもそうだな。悪いな、遠慮して貰おう」
「冗談じゃあない!!」
取り決められた事に対し、来良は吠える。
「此所まで来たのに、一番面白くなりそうなのに、ここから先は十八歳未満立ち入り禁止って、巫山戯るのも大概にしてよッ!!」
「でも、危険なんだ。君に危害が及ぶか、最悪死――」
「そんなの、まだ分からない!」午兎の言葉を遮り、来良は強い口調で言った。「だって十五人しか居ないんでしょ? そんな少ない人数で正面から力尽くで支配しようとは普通しない。きっとユーチューバーか何かになって、ジワジワと裏側から支配――」
「それは有り得ないよ」
優しく微笑み、午兎は首を振る。
「そんな回りくどい方法、僕らには取れない。前に言ったろ? 君達と違って僕らは最低限の教育しか受けていないんだ。読み書き計算、後は精々偽りの学生の身分で習得した僅かな知識。それを全て動員したところで、まともな作戦なんて立案できない。だから、連中は直接的な方法を取る。神話に出てくる傲慢な神様達のように」
午兎の言葉で、不意に来良の脳裏へ幼い日の記憶が蘇った。
どうして神様は、こんなに短気なんだろう。直ぐに怒って洪水でグチャグチャにしたり、折角皆で建てた高い塔を壊したり。幾ら何でも、人間が可哀想――――小さな頃、自分はそう言って周りの人々をよく困らせていた。大抵〝愚かな人間が悪い〟と一蹴されたが、東風瑞 来良はどうしても納得出来なかった。
全知全能の象徴である万能の神が、足下を這う矮小な人間の愚かで些末な行為に激高し天罰を下すなど有り得ない。しかし彼らが万能の神ではなく未熟な子供だったとしたら、話は大分変わってくる。
終わりかけた世界から来訪した、未熟な天使。来良はじっと午兎を見つめた。
「それでも・・・・・・構わない」
「危険なんだよ、とても。面白半分で首を突っ込んで良いような事じゃあない」
「覚悟なら、出来ているから」
「分かってないな、君――」
来良を非難しようと語気を強めた午兎に対し、璃子は右手を前に出して制する。
「分かっていないのは貴方の方だよ、柄野久君。まあ、あの子は分かりにくいから仕方がないんだけれど。察しろってのが、無茶な話だ」
嘆息すると同時、今度は来良へ視線を向けた。
「確かにきっかけは〝面白そうだから〟だったけれど、今はもう違うんでしょ? なのに、そうやって片意地張って。ツンデレが良しとされるのは虚構の世界で、現実ではただの面倒くさい人だからね。素直になりなさい、あたしから言えるのはそれだけ」
「そうやって、無駄にハードル上げないで欲しいな・・・・・・」
横目で璃子へぼやくと、来良は午兎の前へ一歩出る。
指を少し、動かしただけで触れてしまいそうな距離。自分の心音を聞かれているようで、来良は視線を落とした。
「・・・・・・離れたく、ないんだよね。わたしも、柄野久君と」
午兎の靴を見つめながら、来良は口を開く。
「
自分の唇を噛み、意を決したように来良は顔を上げた。
「わたしは、午兎君が好き。だから、離れたくない。せめて、この時代では」
「柄野久 午兎という名前は、偽名だ」深く息を吐いて、午兎は言った。「僕の本当の名前は、エノク。
来良の貌に影が差し、二つの目尻から泉のように涙が湧いた。しかし午兎は構わず続ける。
「でも、君に〝午兎君〟と呼ばれるのは悪くない。少しこそばゆいけれど、何故かそれが心地良いんだ」
人差し指で来良の涙を払う。
「僕は必ず、君を不幸にする。それでも、そんな僕でも、着いて来てくれるか? 来良」
「勿論、何処までも」
床を蹴って午兎の胸へ飛び込む。あの時はまるで気付かなかったが、その身体はあどけない少女のような顔に反し、肉の固い男のものであった。
「〝死が二人を別つまで〟ってか?」
無粋だとは思っていたが、限界であった。思い切り璃子に足を踏まれながら、やれやれと肩を
「世界が二人を別つまで、だよ」
言い終わると同時、来良は自分の唇を午兎の唇へ重ねる。璃子が高揚するに比例して、鎺の右足に掛かった力が上昇した。
「君、それ最初厭がっていたじゃあないか」
不意打ちに目を白黒させながら、午兎は言った。
「仕返しよ、仕返し。あの時の」
来良は笑いながら「それに」と付け加える。
「前金だよ、これは。事務所のバイト代なんかじゃ、全然足りない。これから割に合わない事、沢山するんだから」
呆気にとられる午兎。しかし、直ぐに失笑した。
「やっぱり君は面白いな、来良」
――だから僕は、君の事が好きなんだ。
柄野久 午兎の言葉は、声にならず世界に溶けていく。
通常、人は想いを言葉にしなければ、相手に伝える事は出来ない。
しかし今この瞬間だけは、敢えて言葉にせずとも自分の想いを伝える事が出来たような気がした。
錯覚かもしれない。自分だけがそう思っている危険性もある。脳裏でもう一人の自分が毒を含んで囁く。だが、そんな戯言は午兎の胸中で直ぐに引いていった。
彼女が、笑っているから。屈託なく、無垢な笑顔で。
この笑顔を見ているだけで、
「僕の背中、任せるからな」
「うん、任された」
これはきっと、世界で最後の恋。
僕は〝
彼女が笑って過ごす、この
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