四、『最後の子供達』その2
白む世界に色が差す。
午兎はタイムトラベルが成功した事を確認すると、手にしたトーチをポケットに仕舞った。小脇には白い箱を抱え、彼の周囲には先日彼女と運んだ米袋を含めて無数の穀物類の袋が積み重なっている。
「あ、エノク。お帰り」
「ただいま。ひょっとして、待ってた?」
「うん。今日、エノクが帰って来る日だからね。でも、あんまり期待していなかったかな。エノクは時間通りには帰ってこないから」
タイムマシンなのにね、とリベカは笑った。
「最初に会ったのが君で良かった。イサクに出会ったら、間違いなく奪われる」
言うと、小脇に抱えた箱をリベカへ差し出した。
「え、何これ?」
「お土産。君に渡そうと思ってね」
「う、うん。ありがとう」
リベカは箱を受け取ると中身を確認する。開けた途端周囲に広がる、甘い香り。その未体験の香りに、リベカは酔いしれた。
「これは?」
「シフォンケーキって言うらしい。取り敢えず、僕が向こうで食べてみて〝美味しかった〟料理だ。だから安心して良い」
「分かった・・・・・・食べてみる」
頷き、リベカはシフォンケーキを毟って口に放り込んだ。じわりと口腔へ広がる複雑な甘み。噛むと溶ける感覚は経験した事がない。
「何・・・・・・これ、凄い」
「だろ? 彼女に言わせると、君の感情は〝美味しい〟って言うらしい」
「へぇ、美味しい・・・・・・か――」
リベカは無意識に箱に手を伸ばし、筋肉を強張らせて停止させた。
「でも、いけないんだよ? 私利私欲の為にあの時代から持ち帰るのは、
「お腹の中に入れば、分からないさ」
「もう!」
「僕じゃないよ」戯けて午兎は肩を竦める。「それ作った彼女が、そう言って僕に持たせてくれたのさ」
「彼女?」
箱と午兎へ交互に視線を動かしながら、リベカは問うた。
「越水・・・・・・じゃなかった、東風瑞 来良。訳あって、僕の正体を知っている」
「え、
「別に。一人ぐらいに正体を知られたぐらい、どうってことないさ。だって僕らは、ただ買い物をしているだけなんだから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
午兎の言葉に、リベカの胸がじわりと痛んだ。
まだ、罪の意識に苛まれている。どんなに苛まれたとしても、己の罪は消えないというのに。
「どうしたの? リベカ」
「ううん、何でもない。ちょっと、美味しくて驚いただけだから」
「成る程、僕もそうだった。彼女の作った料理は、大体美味しい。けれど、カレーは駄目だな。食べると、舌が痛くなる」
「え、火傷するの?」
「違う。何て言うのかな、痛いんだ。舌が全部痛くなってさ、食べるどころじゃあなくなる」
「それ、本当に食べる物なの・・・・・・?」
「多分、拷問道具だろう。彼女も僕を見て笑っていたし」
「彼女・・・・・・東風瑞 来良、さん、か――」
ぎこちなく笑い、リベカは言った。
「どんな人?」
「変人。浮いてる度合いでいったら、異物である僕より高い」
でも、と午兎は頬を緩める。その貌は、リベカが今まで見た事もない複雑なものであった。
「彼女が笑っていると、何だか落ち着く。もっと笑っていて欲しいと思うけれど、彼女は笑っているよりも怒っている時の方が不思議と多いんだ。しかしその貌も面白くてね、つい見たくて怒らせてしまう」
「そう――――」
リベカは目を伏せたが、午兎はそれに気付かず言葉を続ける。
「あと、匂い。そうだ、彼女はとても良い匂いがするんだ。でも怒っている時はしない。何でだろうね、不思議だ」
「さあ・・・・・・分かんないな」リベカは唇を噛みしめた。「ひょっとして、東風瑞 来良さんが好き、とか・・・・・・?」
「好き? それはひょっとして、好意を寄せているって事かい?」
「う、うん、そう。違っていたら、御免ね」
「ああ、多分そうかも知れないな」
「――――――――」
否定するであろうと思っていた言葉は、刹那の間を置かずに否定された。それは杭のように鋭く、リベカの胸中へ穿たれる。
「僕は今まで自分の世界だけで生きてきたから、他人の事なんて大して気にならなかった。でも彼女だけは、何故かとても気になるんだ。まあそれも、泡沫の夢ってヤツなんだろうけれど」
「どういう事?」
聞き慣れない言葉と見た事もない午兎の貌に、戸惑いながらリベカは問う。
「もう、あと何回もないんだろ? 僕らがあの時代へ行ける数は。だからもう、僕が彼女に会える数は僅かだろうね」
「――問題ない、事態は解決した」
背後から厭な気配を感じ、午兎は剣呑に振り返る。そこには帰還したばかりのエリアがスーツケースを片手に佇んでいた。
「電力の供給先が見付かった。お陰で、我々の首の皮は繋がったという事だ」
「・・・・・・供給先、ね」
敵意の迸る双眼を穿つように、午兎はエリアを見やる。
「あれだけの電力を賄えるとは思えないけれど、まだ使用出来る発電炉でも見付かったのかい?」
「う、うん。そうだよ、わたしがハイヴ内を探索していたら見付けてね――」
「僕の住んでいる街で、ちょっとした事件があってね」
リベカの言葉など耳にも入らず、午兎は続けた。
「僕らとそう年齢の変わらない少年少女が、立て続けに失踪しているんだ。それも大勢。一部はどうやら、僕らと一緒に資源を運んでいた男の仕業だったらしいけれど、彼が処分された今でもまだ失踪は続いている」
切っ先を突き付けるように、午兎は言う。
「君、なんじゃあないか? 犯人」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
能面の如き、エリアの貌。白い部屋に緊張感が満たされる。リベカは何かを言おうとしたが、水中のように全ての言葉は泡沫へ溶けていった。
「私はシアトルに居たんだぞ? 日本とアメリカがどれだけ離れているか、それを知らない君でもあるまい」
「アリバイ、というヤツだな。ドラマで見たよ」
静寂を切り裂いて紡がれたエリアの言葉に、午兎は口を歪めて嗤った。
「確かに、飛行機を使わなければ無理だ。でもそれは、向こうでの話だろう? 此所で座標を弄れば、簡単にアメリカから日本に行ける。君はシアトルに居る事になっているから、僕の街では幽霊も同然。僕やイサクにも気付かれず、簡単に目的を達せられる」
ほら、と午兎はエリアが脇に置いているスーツケースを指差した。
「そのスーツケース、大きくて頑丈だな」
「ちょっと、エノク――――」
慌てたリベカの制止を振り切り、靴音を小刻みに鳴らしながら午兎はエノクに近付いていく。
「丁度良い具合に、人が入りそうじゃあないか」
蹴り飛ばす。午兎は直ぐさま92FSを顕現させ、銃口を横倒しになったスーツケースに向けて
「入っているんだろう、この中に」午兎は、撃ち抜かれて鍵の壊れたスーツケースを強引に開ける。「何に使うか知らないけれど、誰かの屍体がさ」
しかし。中に入っていたのは、スーパーで購入したと思わしき大豆や小麦の袋であった。
「――丁度良いのさ」
狼狽する午兎の背中へ、エリアは言葉を穿つ。
「頑丈で丈夫だから、穀物を運ぶのに具合が良いんだ。流石にこれだけの量を抱えてくるのは、なかなかに骨が折れる作業でね」
凍て付いた双眼で午兎を睥睨したまま、エリアは肩を竦めた。
「まあ、君の立場もよく分かる。大方、件の男の件で
「悪かった、弁償するよ」
「弁償?」
エリアは愉しげに口元を吊り上げた。
「〝アリバイ〟という単語といい、弁償の概念といい、随分とあちらの世界に馴染んできているようだな。おまけに向こうで出来た協力者に恋慕の情を抱くとは。君、少し堕落したんじゃあないか?」
「っ――――――」
午兎は奥歯を軋ませ、エリアを睨み付ける。エリアはその表情を待っていたかのように声を上げて笑った。
「おいおい、しっかりしてくれよ。僕ら〝
それとも、とエリアの愉しげな眼が細められる。
「お父さんに慰めて貰うかい?
「エリア、それは――――」
「何を臆しているんだ、リベカ。彼は僕ら他の〝
「貴様――」
銃を手にしていた事に今更気付いたように、午兎はその銃口をエリアに向けた。一層、エリアは愉しげな表情を見せる。
「哀しむぞ、
銃声。
しかし銃弾はエリアを穿つ事なく、天井に小さな穴を空けるに留められた。
「――帰ってきた途端、剣呑な事になってるじゃあないか」
「!?」
驚愕する午兎の握る92FS。その
「お、それシフォンケーキじゃん。一口貰って良い?」
「う、うん。どうぞ」
事態を把握しきれないリベカは、怖ず怖ずとケーキの入った箱をイサクに差し出す。イサクは銃を掴んだ手を緩め、雑にケーキを
「旨いな、かなり。何処の店で買ったんだ? エノク」
「購入はしていない。向こうで知り合った少女に作って貰った物だ」
「羨ましいな、それ。お前、やっぱりモテるんだな。俺なんか、こんな美味しいケーキ貰った事ないぜ」
手に着いた滓を舐め取ると、イサクは午兎とエリアへ交互に視線を送る。
「何があったか知らないが、喧嘩はハイヴじゃあ御法度だぜ。それでなくても、俺達は〝
「そ、そうだよ。二人とも仲良く、ね?」
「・・・・・・興が冷めた」
エリアは短く告げると、踵を返して白い部屋を後にした。
「お前、アイツに嫌われるような事でもしたのか?」
「別に。ただ昔から、アイツはああやって僕に突っかかってくるんだ。何がしたいのか、全く分からない」
ああ、と手にした銃を霧散させながら午兎は気付く。
「彼女も、あの屋上でこういう気持ちだったのかもしれないな」
「お前、凄いな」
「何が?」
「人の気持ちを
「あ――――」
何気なくイサクが口にした〝成長〟という言葉に、午兎は思わず目を見張った。
「最近、本を読み始めたからかもしれない。だから、僕は成長できたんだ」
「はぁ? 何だ、それ」
疑問符を頭上に浮かべるイサクを尻目に、午兎は己の胸に手を当てる。
これが――――成長。
「・・・・・・なあ、イサク」午兎は徐にイサクへ問う。「僕らは、大人になれるだろうか? 残り数頁の世界に生きる、僕らでも」
「――――――――」
投げられた問いに対し、イサクの貌に影が差す。隣で箱を抱えたリベカも視線を落とした。
「済まない、余計な事を言って。少し、そういう気分になったんだ」
「ああ、気にすんなよ。俺も、よく思う」
イサクは髪を掻き上げ、白い部屋の出入り口から覗く窓に視線を向けた。
白い沙漠に、しんしんと降り積もる白い雪。
「あの世界で何度か寝起きするとさ、こっちのこういった風景を夢なんじゃあないかって思う。世界が終わる事なんてまやかしで、俺はクラスの連中と適当に遊んで勉強して、何処の大学に行くかって悩んでいるのが本当のように錯覚する。自分で言うのも馬鹿馬鹿しい事だけれどさ、〝大人になれない〟ってのがどうにも現実感がないんだよ、俺は」
「やっぱ俺、死にたくねぇな。まったくジジイ共も酷だぜ、自分達は散々延命して今もこうして生きているってのに、俺達には〝穏やかな死〟って理不尽にも程があるだろう」
「でも、それ以外にどうしろって言うんだ・・・・・・? もう世界は終わる。僕は、まやかしの希望を抱かせるよりはマシだと思う」
「分かってるし、知ってるよ。だからこそ、愚痴の一つでも言いたくなるのさ」
じゃあ、俺はこれでとイサクは手を挙げた。彼の横には、やはり大きなスーツケース。資源を運ぶのに使われるという話は、どうやら本当らしい。
「ああ、その子に旨かったって伝えてくれよ。出来ればもっと食いたかったけど、残りはリベカが全部食っちまった」
「えッ!? いや、その、手が勝手に・・・・・・」
耳まで紅潮させ、リベカは言った。
「でも、あっちの世界って良いな。こんな食べ物が沢山あって、色んな事が出来る。ちょっと、
リベカは慌てて口を押さえた。
この世界に、神は居ない。
「神様、か――」
「ごめん、深い意味はないの。ただ思わず、口から出てしまっただけで・・・・・・あれ? 何で、だろうな・・・・・・?」
「いや、別に僕も咎めるつもりで反応した訳じゃあないんだ」
しどろもどろに弁解するリベカに対し、午兎は軽く手を振った。
「最近本を読んでいるから、気になったんだ。何で、人は神様なんてものを想像したのかなって。僕らの時代にはもう居ないけれど、他の時代には千差万別の神様が居る。それがちょっと、引っ掛かったのさ」
「そりゃ、お前。簡単な話だよ」
出入り口付近まで歩いていたイサクが、足を止めて振り返る。
「常に悩んでいるんだ、人間は。今も昔も、大なり小なり問題が山積していて、その中には自分の手に負えない物だって沢山ある。だから万能の偶像を作り出して、問題を全部その偶像に押し付けるのさ。丁度、ジジイ共が俺達にしているようにな」
「成る程、筋は通る」
イサクの言葉に、午兎は同意した。
「でも、それだけかな。僕には何だか――」
午兎は自らを制し、言葉を
「いや、いい。流石に、想像が過ぎたようだ」
「何だよそれ、本を読むとそうなるのか?」
茶化したようにイサクは笑う。
「ひょっとして、本を読み始めたのはこのシフォンケーキの子の影響か?」
「だったら、どうだって言うんだ」
「別に。青春してるなって、羨ましくなっただけだよ」
「青春って何さ?」
「お前、本を読んでいるのに知らないのかよ」肩を竦めてイサクは答える。「青春ってのはな、子供の特権なんだ。悩んで足掻いて、意味もなく出鱈目に突っ走る。そうして歩き回った挙げ句、歪な答えを導き出すんだ。そして、それが間違っている」
「まるで滅茶苦茶だ」
「そうさ。青春というのは、滅茶苦茶なんだ。だから大人は赤面して青春出来ないのさ。理性というのが、邪魔するらしい」
「君も、青春しているのか?」
「あ?」
「青春の意味を知っていたからさ、君も青春しているのかなって思ったんだよ」
「そうだな――」
イサクはふと、リベカに視線を向ける。リベカは彼と視線が合うと俯いて、それから自分の右手で左腕を強く掴んだ。
「滅茶苦茶、という意味なら俺も青春しているのかもしれないな。答えが間違っている所とか、まさに青春まっただ中ってヤツだ」
「何の話だ?」
「何でもない。じゃあな、俺はこれから用事があるから」
手を軽く挙げると、イサクは白い部屋から消えていった。残像のように、スーツケースを引く音だけが白い部屋に響く。
「――戻ってくる度に、思うんだ」
再びリベカと二人きりになった白い部屋で、午兎は徐に口を開いた。
「壁、疎外感というのかな。僕が向こうで暮らして、その期間が長くなるに連れて、それが大きくなっていく気がする。エリアじゃあないけれど、僕はやっぱり異質なのかもしれないな」
「違うの、エノク。わたしもイサクも、別に貴方の事を――」
「分かっているよ、リベカ」午兎はリベカに笑い掛ける。「優しいな、君は」
イサクが去って行った出入り口を見つめ、午兎は低く独り言ちる。
「お陰で、覚悟は決まった。此所に、もう僕の居場所はない」
「――――――――」
午兎の横顔が怖いものになった事を、リベカは見逃さなかった。
リベカが一度も見た事のない、午兎の貌。
一切淀みのない刃紋のような双眼に、錠前の如く固く結ばれた口元。憎悪とも侮蔑とも違う真っ直ぐな表情は、静かではあるものの確かな怒りを帯びていた。
これは、敵意だ――――リベカは直感する。
話し合えば仲間になってくれる、そんな甘い考えは捨てなければならない。一瞬の躊躇が、永遠の敗北となるのだから。
――覚悟を決めるのは、わたしも同じ。
リベカは、左腕を掴む力をより一層強くした。そうしなければ感情に揺り動かされて、彼に全てを話してしまいそうになる。折角芽生えた覚悟が、音を立てて崩れてしまう。
結局、脆いのだ。
エリアのような冷徹さもなければ、イサクのような思い切りの良さもない。運良くコンフェッショナルを操作する技能に恵まれただけで、他は凡人の域を出ない只の人間だ。
だから、胸がとても痛くなる。目の前の少年が、一体誰の為に覚悟を決めたか手に取るように分かったから。
「コチミズ・・・・・・東風瑞 来良、さん」
空になった箱を握り締め、リベカは午兎に気付かれないような小さな声で呟いた。
東風瑞 来良、ね。
覚えておこう、この名前。
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