一、『疑惑だらけの転入生』その2
遡って、二ヶ月前。
三月下旬。東風瑞 来良は、春期講習帰りに繁華街で柄野久 午兎に出会った。
別に世間一般の不良学生の如く、予備校を口実に繁華街に繰り出した訳ではない。来良が通う予備校の立地が、繁華街とホテル街の先という少々リリカルな場所であった為である。とある講師が立地は最悪だが学習環境は最高という苦しい言い訳をしていたが、自習室まで響くパトカーと救急車のサイレンを鑑みるに、とてもではないが最高の学習環境とは言い難い。
罵声と怒声、そして少々の卑猥な言葉。歩く度に戸惑う、まさに異世界。年頃の娘にとって繁華街は些か刺激が強過ぎた。しかしそれも最初の一週間。今では慣れたもので、通りで殴り合っていても顔色一つ変えずに素通り出来る程度にまでになった。この間は発砲事件が起きたが、特に立ち止まる事もなくそのまま現場を立ち去った。
繁華街とはいえ、街である。多少騒がしく、歩道が吐瀉物と血溜まりで汚れていようとも、そこには人の営みが在り断じて魑魅魍魎が住まう伏魔殿ではない。僅かに湾曲してはいるが常識が介在し、薄氷の如き倫理が存在する。耳を削がれようが指を詰められようが、取り敢えず生存は確約されている。どんな最悪な事態になろうとも、命までは取られやしない。もしもの事態となっても、自己防衛手段はきちんと講じている。有り体に言って、東風瑞 来良はこの街に染まっていた為に、危機感が鈍化していたのであった。
そんな状況下。東風瑞 来良は興味を持ってしまったのだ、偶然擦れ違った柄野久 午兎に。このような掃き溜めみたいな繁華街で、カラオケやゲーセンで遊ぶでもなく予備校に通うでもなしに、あのような人並み外れた美貌の少年が何をしているのか、知りたくなったのだ。
ポケットを弄り、金属の感触を確かめる。うん、問題ない。
好奇心は猫を殺す――何かの本で読んだ言葉が、己の脳裏に響く警鐘だと気付いた時は、もう手遅れだった。白い外套を翻す少年を追って、一度も入った事のない路地裏の奥の奥へ這入り込んだ途端、後悔が濁流のように押し寄せてきた。
銃声。
血溜まり。
笑って死んだ、中年男性。
断続的で抽象的なイメージは、例えるならばスクラップ。
自慢ではないが、銃声を聞いたのは初めてではない。この予備校に通っていれば、たまにはあの乾いた音を耳にする。血溜まりも見慣れたものだ。三日に一度は、無数の靴跡と共にそこへ沈んでいる碌でなしの顔を拝むことになる。屍体らしきものも、一回見た。此所を寝床にしているホームレスが凍死したらしい。軽薄な男が警察官の制止を振り切り遺体を隠したブルーシートを剥がしたとき、丁度その青白い顔と目が合った。
しかし、人間が殺害されて死ぬ瞬間に立ち合ったのは、人生でその日が初めてであった。
今まで生きていた人間が、眼前で絶命する。それは想像の範疇を超えた激痛を伴い、東風瑞 来良の胸中と思考を深く抉り去っていった。自分とは全く関係ない太ったオッサンが死んだ――ただ、それだけなのに、力が抜けて動けない。
間違いなく、自分は目撃者。繁華街の往来を闊歩するチンピラとは違い、少年は動きに無駄がなく手慣れている。まさにプロの殺し屋の所業。合理的に判断して、目撃者である東風瑞
あれは悪い夢だったに違いない――自分に暗示を掛けるように何十回と言い聞かせ、来良は自然な態度を装って至極平静に勤めるようにした。幸い、あの日の事件は表沙汰にはなっていないようで、何処のメディアでも報道していない。お陰で普通に過ごせば過ごす程、あの異常事態が霞んでいった。
本当に夢だったように思えてきた新学期、東風瑞 来良にとって急転直下の事態となる。
転入生として、柄野久 午兎がクラスに編入してきたのだ。
陰謀?
口封じ?
血の気が引いた。終わったなわたしの人生、と天を仰いだ。配られた進路希望調査表など気にならないぐらいに、此所をどう切り抜けようかと考えが強制的に脳裏を駆け巡った。しかし何千回と思考してみたところで、想像出来るのはどれもこれも屍と化した己の姿のみ。無駄な時間を過ごしたと気付いた時は、すっかり放課後であった。
転入初日、特に襲撃されるような事はなかった。次の日も、また次の日も柄野久 午兎が東風瑞 来良に対して危害を加えるような素振りは微塵も見せなかった。それどころか、彼は来良に話し掛ける事は疎か眼を合わせる事さえさえない。ただの一度も。
ひょっとして人違い?
双子とか?
いやいや有り得ない。あんな美形、二人も居て堪るか。
となると――――もしかして、バレていない?
頬が緩むのがよく分かる。始まったぜわたしの人生、と握りこぶしを天に突き上げた。暗殺に怯え、布団被って眠れぬ夜を過ごした日々は、全部杞憂で無駄だったのだ。こうなったら無駄を取り戻さなければ帳尻が合わない。配られた進路希望調査表の存在など忘却の彼方に追いやる程、これからどうやって高校生活をエンジョイしてやろうか考えを巡らせた。しかし現実は常に非情なモノで、影キャ気味で部活にも入っていない帰宅部風情が、高校生活をエンジョイする方法など皆無である。一応毎週予備校には通っているが、あれはエンジョイとは対極、苦行の時間だ。
そもそも、高校生活エンジョイとはどんな事だ?
考えて考えて、考えて。考えを巡らせて、気付いた。気付かなければ良かったことに、不幸にも気付いてしまった。
どんなに友人と愉しく話していても、璃子のように都大会で好成績を残せても、あの一瞬、人間が死んで逝く瞬間を見てへなへなと必死で逃げた時よりも高揚する事はもうないだろう。亀のように遅かったが、全力だった。ナメクジのように這っていたが、本気だった。全身に張り巡らせた筋肉全てを使って、ただ己が生きる為だけに夢中で走ったあの日。尋常ではない恐怖が心臓を鷲掴みにしていたが、何故だか貌だけは愉しげに笑っていた。色々と間違ってはいるものの、あの日、あの時、間違いなく自分は世界で一番高校生活をエンジョイしていたように思う。
気付いてしまったのだ、東風瑞 来良は。自分が存在する世界が如何に陳腐な
しかしそれに気付いてしまったからといって、来良はどうこうする事などない。中二病を患うには些か歳を取り過ぎていたし、意識を高く持つには僅かに幼すぎた。彼女に出来たのは胸中に
こんな馬鹿げた事、誰に話しても鼻で笑われるだろう。璃子だって、マトモに取り合ってくれるかどうか分からない。だから自分で抱えるしかないのだ。
時々、授業中に前の席で板書を写す柄野久 午兎を視界に捉える事がある。取り分けて熱心でもなく、かといって気怠げでもなく、機械のように淡々と板書を写す彼の姿を見つめながら、東風瑞 来良は頬杖を突きながらぼんやりと思考する。
人殺しの彼の瞳には、この陳腐極まりない欺瞞に満ちた世界が果たしてどう映るっているのだろうか――と。
「――何か、悩みでもあんの?」
演奏停止。脈絡ない静寂に、東風瑞 来良は我に返った。
「さっきから上の空、って感じじゃん」
「そりゃ、我々高二ですよ? お子様だった去年に比べて指数関数的に悩みは増えていくモノでして・・・・・・」
「そういうのっていうより――」
モニターから流れるCMを背にして、璃子は腕を組む。
「どっちかっていうと、偶然殺人事件で犯人目撃した人間みたいな表情だよね、それ。思い詰め方が、切羽詰まっているよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
どうやら、
「まあ、冗談なんだけどさ」
「そうですね」
「そもそも殺人事件なんて、ドラマじゃないんだし目撃するなんて事は有り得ないよね」
「そうですねー」
「っていうかさ、そんなヤバい所目撃したら普通消されるよね、犯人に。何が何でも見つけ出してさ、ブッ殺されるって絶対」
「・・・・・・そうです、ね」
コイツ、一体何処まで知ってやがる。背筋に冷たいモノを感じながら、来良は上擦った声で答えた。
「で、実際何があった訳よ?」
「柄野久 午兎の事なのですが・・・・・・」
観念したように、東風瑞 来良は項垂れた。これ以上隠していても自分の心臓に悪いので、洗いざらい全部話してしまおう。結果、璃子にドン引きされる事になろうとも知ったことではない。とにかく自白して、早く楽になりたいのだ。
「春休みに彼とよく似た人に繁華街で出会いまして、ええと、その、ですね――」
「マジで!? あのイケメンと転校前に会ったの!?」
しどろもどろと事の経緯を説明する来良の両肩を強く掴み、璃子はやや興奮気味に迫った。
「いや・・・・・・会ったというか、わたしが追ったというか――」
「やるね、来良のくせに積極的じゃん。それで? 進級したらそのイケメンが自分のクラスに来た、と」
「うん・・・・・・大体、合ってる」
重要な所を省けば、の話だが。
「運命だよ、それ絶対にディスティニーだよ!!」
どちらかというと、ドゥームの類だ。
「成る程、それで恋が云々とか妄言吐いていた訳か。納得した」
ただの現実逃避です。他意はありません。
「応援する、あたし絶対にアンタを応援するわ!」
それはひょっとして、コロッセオのグラディエーターを観戦する市民の気分でしょうか。
「いやあ、良いね青春ってのは。だから彼の名前聞いて、ビクってした訳か。乙女じゃん。来良って常に斜に構えて斜めに生きているから、コイツ絶対にそういうのとは無縁の仄暗い人生歩んでいくんだろうなって思っていたけれど、いやあ良かったよ。うんうん」
「殴っていいか?」
最後の言葉は、思わず声に出た。しかし璃子は特に気にした様子もなく、他の連中よりもお年玉の額が多い親戚のおじさんのように笑いながら何度も背中を叩いた。
「そうと決まれば、話は早い。早速、柄野久 午兎のアドレスかID知ってる奴を探し出すよ! それもなるべく、餓えた獣共に悟られないようにね」
もうどうでも良くなった。勘違いしたままにさせておけ。
「・・・・・・念の為に言っておくけど、LINEとかツイッター使わないでよ? 辿られて吊し上げられるのは、わたしだから」
「あたしが、そんな迂闊な女だと思う?」
腹が立つ程に不敵な笑みを浮かべ、璃子は来良へ問うた。
「こういう事はね、蛇の道は蛇ってヤツよ。探偵雇って調べるのさ」
「探偵!?」
何言ってるんだ、コイツは。来良は開いた口を閉じる事を諦めたまま、まじまじと璃子の顔を見た。
「え、探偵雇うって・・・・・・わたし、そんなにお金ないよ?」
来良のその言葉を待っていたように、璃子は破顔しソファーの上に仁王立ちになる。
「探偵と言っても、ただの探偵じゃあないのよ。女子高生限定で格安で請け負ってくれる、我々か弱いJKの味方たる探偵なわけ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
危ねぇヤツじゃねぇか、それ。特に女子高生限定にしている辺り、その危険を微塵も隠す気もない本物だ。
「それ、絶対やめた方が良いと思う」
「大丈夫だって。陸部の後輩なんかも、ヤバい奴に付きまとわれていたのを追い払って貰ったって言っていたし、あたし自身も色々助けて貰ったからね。信頼度なら折り紙付きだよ」
「は、はあ・・・・・・」
璃子は財布から探偵の物と思わしき名刺を取り出し、来良へ差し出した。名刺には『韮崎 鎺』という名前と電話番号、そしてメールアドレスが印刷されている。
「ニラサキ・・・・・・名前これ、なんて読むの?」
「ハバキって読むらしいよ。漢検二級持ってるわたしも読めなかったけれど、それが普通なんだって。あ、これが本人ね」
語りながら、璃子はスマートフォンを操作する。ディスプレイに画像が表示されるとそれを来良へ見せた。
写っていたのは、強引に璃子に腕を組まされて写真を撮られた一人の男。歳は三十代前半、厳つい体躯と猛禽を思わせる鋭い目付きが特徴の男であった。柄野久 午兎には及ばないまでも整った顔立ちで、格安の依頼料を条件にいたいけな女子高生を手籠めにしている変態には到底思えない。
「ね、ヤバい奴じゃあなさそうでしょ?」
「顔だけならね。けど何で、女子高生限定なの?」
「よく分かんないけれど、昔その年頃の女の子に救われたんだってさ。恩人のその子はもう居ないけれど、代わりに恩返しとして同じ年頃の女の子を救っているんだってさ。ちょっとマンガみたいでロマンチックだよね」
やっぱ、ヤバい奴じゃねぇか。
「というか、救って貰ったって・・・・・・この人、元殺し屋とか?」
「そんな訳ないじゃん。行き倒れていた時にご飯でも食べさせて貰ったんじゃないの? この人、なんとなく犬っぽいし」
言われてみれば、確かに。見た目ではなく雰囲気が、どことなく大型犬を連想させた。
「とにかく、彼にメール送っておくよ。進展があったら、連絡する」
「う、うん・・・・・・」
勢いで頷いてしまった。
しかし、ある意味では
形振りを構ってはいられないのだ。
あの高揚感を、もう一度体験する為には。
「・・・・・・ところで、格安っていかほどなのでしょうか?」
「ジャスト五千円」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
思考が停止する。
東風瑞 来良の財布には、カラオケ代を除けば一千二百円弱しか残されていなかった。
「それ、格安じゃなくない?」
「いや、思いっきり格安よ。普通なら十万超えるからね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
十万円に比べれば五千円なんて端金だが、東風瑞 来良にとっては大金である。というか、世間一般の女子高生は五千円の依頼料をホイホイ払える程のブルジョアなのか。羨ましい。
「こちとら、月のお小遣い一万円だぞ・・・・・・」
「そりゃ、バイトしていないからでしょ。春休みだってイベントの仕事誘ったのに」
「わたしの春休みは、春期講習で全部潰えました・・・・・・」
来良の絶望を込めた声をマイクが拾い、情けなくエコーが掛かった。モニターでは相変わらずCMが流れ、アイドルがプラスチックな笑顔で愛想を振りまいている。
「で、どうする? 依頼料、前払いだから。なんだったらあたしが立て替えておくってのも出来るよ」
「うん、ありがとう。多分、平気。お年玉の残り、まだあったと思うから」
半笑いで答えると、来良はカルピスソーダを啜る。氷が溶けきり気が抜けたカルピスソーダは水っぽく、あまり美味しい物ではなかったが一気に流し込んだ。
馬鹿だ、わたしは。
つい先程まで柄野久 午兎の正体を曝くと意気込んでいたのに、五千円如きで尻込みしている自分が情けない。そういう所が子供じみていて、且つまだ自分が子供である事を突き付けられるようで、実にもどかしくなる。裏社会の片鱗を垣間見たからといって、世界の全てを知る訳ではないのだ。
分かっているよ、そんな事は。
理解しているから、苛立たしいんだ。
「よっしゃ、わたしも歌うぞ」
こうなれば、
喉を嗄らしながら熱唱し、東風瑞 来良は胸中で独り言ちる。
一刻も早く大人になれば、この煩わしい感情から解放されるのだろうか、と――
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